↓京都鉄道博物館にずらりと並んだ蒸気機関車の中の1輛…<義経>である…「西部劇の蒸気機関車?」という雰囲気だが、正しく“西部劇”の物語が展開していたような時代に米国で製造された車輛である…
↑国鉄時代の形式番号としては<7100形>と言うが、北海道で鉄道を敷設した頃に米国から輸入したこの機関車と同型の何輛かには「親しみ易い愛称」というものが冠せられている。この機関車は、その愛称が<義経>なのだ…
↓こうやって、晩秋の陽射しを受けて、大きな車庫に置かれた<義経>の姿を、少し嬉しい想いで眺めていた…
私自身が小学生の頃で、かなり古い話しになるために精確な記録も残していないことだが…この<義経>が当時置かれていた神戸市内の工場から北海道に運び込まれて、小樽でデモンストレーション走行をした場面を視たことを覚えている…
あれは何を記念した行事だったか?<義経>は小樽にやって来て、源義経が愛した白拍子の名であるという<しづか>と名付けられた同型蒸気機関車の6号機とランデブーを果たしたのだった…(6号機の<しづか>は現在も小樽の博物館に在る。そして源義経の忠臣、ドラマなどでは永年苦楽を共にする同志、善き友のように描かれる場合もある武蔵坊弁慶の名を冠した2号機<弁慶>は大宮の鉄道博物館に在る…何れも静態保存だ…)
時代が下った、蒸気機関車の最盛期に長い編成の旅客列車や、数え切れない程の貨車を牽引していたモノに比べると、如何にも小柄な<義経>だが、蒸気機関車らしく白い蒸気を吐出して、呼吸をするようなリズムで動輪を動かして小樽の線路を動いていた…あの時は、生憎の曇天だったような気がする…
そういう遠い記憶を呼び覚ましてくれる、北海道の開拓で活躍した車輛と、こうして何時でも会える!!これを視て、凄く気持ちが弾んだ。
御手洗港の<かがやき2>号(2016.11.23)
↓瀬戸内海の“真中”のような位置に在る、大崎下島の御手洗に連絡船が着いたところ…
↑竹原から、大崎上島、大崎下島の港に寄りながら航行している高速艇だ。船内の掲示によると、32名定員ということだった…
竹原から大長(おおちょう)の航路は、概ね45分間程度の運航である。全体で1日に7往復が運航されているようだが、御手洗に関しては、午前中の1往復が寄港することになっているという。今般、早朝に竹原に移動し、最初の便で御手洗に入り、少し後の復路の便で竹原に引揚げた…
船の乗り心地…「多少状態が悪い道路を、中途半端な大きさの自動車で移動した時」の感触を思い出すような感じだった…
御手洗を発つ時、出入港関係の業務を請け負っているという風だった御夫妻のおばちゃんと言葉を交わした。乗船客が在る時には、合図の回転灯を点けて、船に見えるようにしておくのだという。実際、その合図が見えないらしい停泊地について、船は通過していた…
↓この後は大長に向かい、また竹原へ折り返す…
何かこの航路は…海上を駆ける小型高速艇でありながら、何処と無く「小さな町の路線バス」というような風情が漂っていた…
言葉を交わしたおばちゃんが、「“島だった”頃は、もっといろいろな船が出入りして賑やかじゃった…」と口にしていた。この辺の小さな島は、架橋が推進されていて、橋を経て本州等と往来がし易くなった。そうなると、島の側は賑わいが失われて行ったようだ…
大崎下島の辺りだが、行政管轄としては広島県呉市になるそうだ…
↑竹原から、大崎上島、大崎下島の港に寄りながら航行している高速艇だ。船内の掲示によると、32名定員ということだった…
竹原から大長(おおちょう)の航路は、概ね45分間程度の運航である。全体で1日に7往復が運航されているようだが、御手洗に関しては、午前中の1往復が寄港することになっているという。今般、早朝に竹原に移動し、最初の便で御手洗に入り、少し後の復路の便で竹原に引揚げた…
船の乗り心地…「多少状態が悪い道路を、中途半端な大きさの自動車で移動した時」の感触を思い出すような感じだった…
御手洗を発つ時、出入港関係の業務を請け負っているという風だった御夫妻のおばちゃんと言葉を交わした。乗船客が在る時には、合図の回転灯を点けて、船に見えるようにしておくのだという。実際、その合図が見えないらしい停泊地について、船は通過していた…
↓この後は大長に向かい、また竹原へ折り返す…
何かこの航路は…海上を駆ける小型高速艇でありながら、何処と無く「小さな町の路線バス」というような風情が漂っていた…
言葉を交わしたおばちゃんが、「“島だった”頃は、もっといろいろな船が出入りして賑やかじゃった…」と口にしていた。この辺の小さな島は、架橋が推進されていて、橋を経て本州等と往来がし易くなった。そうなると、島の側は賑わいが失われて行ったようだ…
大崎下島の辺りだが、行政管轄としては広島県呉市になるそうだ…