↓サハリンのベーカリーカフェのチェーン店で頂ける!甘過ぎないチーズケーキと珈琲の組み合わせ…2015年9月以来だったが…健在だった!
↑現在、この組み合わせで254ルーブルだった…以前から「“500円ワンコイン”の珈琲とケーキのセット」という感覚で愉しんでいたが、為替レートなどが変わっていても、そういう感覚に余り変わりは無い…
↓甘過ぎないチーズケーキに、チョコレートが飾られているのだが、味の組み合わせも秀逸だと思う!
↓このお店で朝の一寸した時間に頂いた…
↑レーニン通に面した辺りの店だ…今回は極短い時間居ただけだったが、入れ替わりに色々な人達が出入りしていた…
これから…立ち寄り機会が増えそうだ…
チェーホフによる『サハリン島』の事績を伝えるモニュメント(2017.04.18)
「雪が交る」との気象情報も在る肌寒いユジノサハリンスク…結局、日中は単に肌寒い曇天だったが、夕方近くになって雨が少し強く降り、やがて雪が交り始めた…
「雪が交る」ようになるずうっと以前の朝…滞在先の宿から、用事が在る辺りまでゆったりと歩いた。
ミール通とコムニスチーチェスキー通とが交差するような辺りは、<A.P.チェーホフ『サハリン島』文学記念館>(チェーホフ記念館)や<A.P.チェーホフ記念サハリン国際劇場センター>(チェーホフ劇場)が在り、辺りが都市公園のように整備されている。大きな通りが交差する辺りを「斜めに横切る」感じの「一寸だけ近道…」のようにも思える歩き易い場所だ。ここを通ってみた…
↓チェーホフ記念館の目の前…「こんなモノ?在ったか?」と思った…何時の間にか出来ていた代物である。
↑視たとおり“本”をイメージしたモニュメントだが、左側に『サハリン島』と在る。モニュメントの形状は「本を開いた様子」だが、『サハリン島』と在る左側の頁は、ロシアで視掛ける本の“表紙”風の体裁である。
チェーホフは1860年生まれで1904年に他界している。日本史で言えば、「桜田門外の変」の年に生まれ、「日露戦争」開戦の年に逝去したことになる。この彼が30歳であった1890年、彼はサハリンを訪ねている。
1890年のサハリンにやって来たチェーホフは約3ヶ月間滞在し、その様子を徹底的に調査した。それに依拠するルポルタージュ、ノンフィクションという感の作品を纏め、1895年に『サハリン島』として発表し、なかなかに話題になった経過が在る。
チェーホフは劇作家として、世界的に高名な文学者となって行く訳だが…その世界的に高名な、ロシアを代表する作家の一人でもある彼が「実際に訪ねている」という経過から、サハリンではチェーホフは敬愛されている感でもある。
↓右側の頁…「著名な劇作家」としてよく出て来る晩年近くの肖像ではなく、サハリンを訪ねて『サハリン島』に取組んでいた30歳代をイメージした画になっている…
↓このページに在る文章…拙訳であるが…
地方は未だ若い…
人々の仕事と過去に於ける献身は大なるものが在ったが、
それでもこれは未だ始りに過ぎず、
未来に在っては少なからぬ佳きもの、そして興味深い役目が在る筈だ…
A.P.チェーホフ(署名)
↑何か…「深い含蓄」を感じる…
チェーホフが足跡を記した頃…「流刑の地」で、“開拓”の途上のような感も漂う地域だった筈だ…そこに「一定の大きな達成」を視て、同時に「大きな可能性」をも観ている…
それにしても…何時でも「未だ始りに過ぎない」(это еще только начало)(エタ イェショ トリカ ナチャーラ)と言えるような感じ…何となく好いと思う…
或いはサハリンは、この時のチェーホフの観方を遥かに超える“可能性”を見出して「未来」へ向かおうとしているのかもしれない…
「雪が交る」ようになるずうっと以前の朝…滞在先の宿から、用事が在る辺りまでゆったりと歩いた。
ミール通とコムニスチーチェスキー通とが交差するような辺りは、<A.P.チェーホフ『サハリン島』文学記念館>(チェーホフ記念館)や<A.P.チェーホフ記念サハリン国際劇場センター>(チェーホフ劇場)が在り、辺りが都市公園のように整備されている。大きな通りが交差する辺りを「斜めに横切る」感じの「一寸だけ近道…」のようにも思える歩き易い場所だ。ここを通ってみた…
↓チェーホフ記念館の目の前…「こんなモノ?在ったか?」と思った…何時の間にか出来ていた代物である。
↑視たとおり“本”をイメージしたモニュメントだが、左側に『サハリン島』と在る。モニュメントの形状は「本を開いた様子」だが、『サハリン島』と在る左側の頁は、ロシアで視掛ける本の“表紙”風の体裁である。
チェーホフは1860年生まれで1904年に他界している。日本史で言えば、「桜田門外の変」の年に生まれ、「日露戦争」開戦の年に逝去したことになる。この彼が30歳であった1890年、彼はサハリンを訪ねている。
1890年のサハリンにやって来たチェーホフは約3ヶ月間滞在し、その様子を徹底的に調査した。それに依拠するルポルタージュ、ノンフィクションという感の作品を纏め、1895年に『サハリン島』として発表し、なかなかに話題になった経過が在る。
チェーホフは劇作家として、世界的に高名な文学者となって行く訳だが…その世界的に高名な、ロシアを代表する作家の一人でもある彼が「実際に訪ねている」という経過から、サハリンではチェーホフは敬愛されている感でもある。
↓右側の頁…「著名な劇作家」としてよく出て来る晩年近くの肖像ではなく、サハリンを訪ねて『サハリン島』に取組んでいた30歳代をイメージした画になっている…
↓このページに在る文章…拙訳であるが…
地方は未だ若い…
人々の仕事と過去に於ける献身は大なるものが在ったが、
それでもこれは未だ始りに過ぎず、
未来に在っては少なからぬ佳きもの、そして興味深い役目が在る筈だ…
A.P.チェーホフ(署名)
↑何か…「深い含蓄」を感じる…
チェーホフが足跡を記した頃…「流刑の地」で、“開拓”の途上のような感も漂う地域だった筈だ…そこに「一定の大きな達成」を視て、同時に「大きな可能性」をも観ている…
それにしても…何時でも「未だ始りに過ぎない」(это еще только начало)(エタ イェショ トリカ ナチャーラ)と言えるような感じ…何となく好いと思う…
或いはサハリンは、この時のチェーホフの観方を遥かに超える“可能性”を見出して「未来」へ向かおうとしているのかもしれない…