↓コルサコフでは少々知られているのかもしれない、「摂政宮の樺太行啓の折の御立寄り」という1925年の故事を有する高台に立寄ると、一寸「普通ではない?!」という眺めだった。
↑輝くような空の他方、画の左側上方、東寄りな方向が何やら深い霧に包まれている…
東寄りなオホーツク海寄りな海水は水温が低めだ…この日は好天で俄かに気温が上昇し続けた…そこで、気温と水温との温度差で霧が生じたのだ…
↓多少の望遠で視れば、丘陵状の地形や、丘陵の上に立っている建築まで霧に包まれている…或いは幻想的だ…
少しばかり「珍しい?」と思えるような雰囲気の光景に触れられた…全面的に霧で辺りが視えないというのは在りそうだが、こういうように「部分的に霧」というのは、少し面白い…
コルサコフ港の夕暮れ…(2017.07.30)
偶々「コルサコフに一泊」という日…「一日を通して好天」という状況に恵まれた…昼前には気温と海水温との差というモノで、霧が発生していた場所も在ったが、それでも夕刻には「西日が眩しい」という感のコルサコフであった…
↓何度も立寄っている、港が視られる高台へ…こういう「日没周辺な時間帯」にここへ上るのは初めてだ…夏には日没が午後9時台なので、「泊まる」のでもなければ、やや訪ね悪いという状況は在るが…
↑アルファベットの「n」のような型をした湾の、n字の頂点のやや右寄り、若干東に寄ったコルサコフ港である。港の手前の海の向こうに、サハリン島南西部の陸地が視える。この陸地の向こうが島の西側の日本海で、夕陽はその日本海の方に沈む…島の南西部の陸地の向こうに、沈みかかった夕陽が視える…そして空は海は、独特な“夕暮れ”の光だ…
この高台…駐車スペースやベンチが在って、地元の皆さんや来訪する人達が港の様子を眺めて楽しめる場所として、多少は知られている。例の「摂政宮行啓の折の御立寄り」の場所よりも、少しだけアクセスし易いような気がする場所だ…この光景を視た際にも、存外に「港を眺めに来た」という感じの方が見受けられた…
この日は、「色画用紙のような?」という雲が全くないような青空ではなく、「適当に雲が散る」感じだったので、日没辺りの光加減は面白いモノになった…
↓陽が沈んだ直後、やや北西側へ視点を転じた…方々に灯りが入り始めている…
これまで、こんな「夕暮れのコルサコフ港」をゆっくり眺めるようなことをする機会が設けられなかった…非常に幸運だった!!
↓何度も立寄っている、港が視られる高台へ…こういう「日没周辺な時間帯」にここへ上るのは初めてだ…夏には日没が午後9時台なので、「泊まる」のでもなければ、やや訪ね悪いという状況は在るが…
↑アルファベットの「n」のような型をした湾の、n字の頂点のやや右寄り、若干東に寄ったコルサコフ港である。港の手前の海の向こうに、サハリン島南西部の陸地が視える。この陸地の向こうが島の西側の日本海で、夕陽はその日本海の方に沈む…島の南西部の陸地の向こうに、沈みかかった夕陽が視える…そして空は海は、独特な“夕暮れ”の光だ…
この高台…駐車スペースやベンチが在って、地元の皆さんや来訪する人達が港の様子を眺めて楽しめる場所として、多少は知られている。例の「摂政宮行啓の折の御立寄り」の場所よりも、少しだけアクセスし易いような気がする場所だ…この光景を視た際にも、存外に「港を眺めに来た」という感じの方が見受けられた…
この日は、「色画用紙のような?」という雲が全くないような青空ではなく、「適当に雲が散る」感じだったので、日没辺りの光加減は面白いモノになった…
↓陽が沈んだ直後、やや北西側へ視点を転じた…方々に灯りが入り始めている…
これまで、こんな「夕暮れのコルサコフ港」をゆっくり眺めるようなことをする機会が設けられなかった…非常に幸運だった!!
亜庭神社の石段の痕跡(2017.07.30)
↓コルサコフの地区行政府庁舎からも然程遠くない、警察署の敷地の斜め裏辺りに不思議な石段が…
↑これは街が“大泊”と呼ばれていた時代、街で最も格式が高い、南樺太全般でも「二番目の格式」と言われた亜庭神社の痕跡である…
石段を築いた際に積み上げられた石の一部が、何となく傾いて崩れてしまいそうな雰囲気もないではない…愛犬の散歩をしている方が石段を通ったのを偶々視たが、通行人も稀で、積まれた石の隙間から雑草が伸びている…時々ゴミも見えるが…
往時は人々に敬愛された街一番の社で、近くが“神楽岡公園”と呼ばれた住民の憩いの場でもあったとのことで、石段を多くの人達が行き交っていたのであろう…
↓こちらは、上の画の石段を上った先に更に在る石段である…
↑恐らく“社殿”が建っていたような場所へ通じていたように思えるが、辺りは「単なる空地」で、神社であった頃の面影が判る雰囲気は全く無い…
或る種の“廃墟”という感じになっている場所だ…
↑これは街が“大泊”と呼ばれていた時代、街で最も格式が高い、南樺太全般でも「二番目の格式」と言われた亜庭神社の痕跡である…
石段を築いた際に積み上げられた石の一部が、何となく傾いて崩れてしまいそうな雰囲気もないではない…愛犬の散歩をしている方が石段を通ったのを偶々視たが、通行人も稀で、積まれた石の隙間から雑草が伸びている…時々ゴミも見えるが…
往時は人々に敬愛された街一番の社で、近くが“神楽岡公園”と呼ばれた住民の憩いの場でもあったとのことで、石段を多くの人達が行き交っていたのであろう…
↓こちらは、上の画の石段を上った先に更に在る石段である…
↑恐らく“社殿”が建っていたような場所へ通じていたように思えるが、辺りは「単なる空地」で、神社であった頃の面影が判る雰囲気は全く無い…
或る種の“廃墟”という感じになっている場所だ…
ユジノサハリンスク空港に着いた市内とを結ぶ路線バス(2017.07.29)
↓運行系統#63…ユジノサハリンスク市内から空港へ向かうバス…
↑午後9時前…陽が傾いた中で空港に到着した…
未だ、この時間帯には市内との間を往来しているバスは存外に多い。場所にもよるが、順調であれば20分程度の移動だ。しかし、曜日や時間帯によっては道路が混雑し、30分以上を要する場合も見受けられる…
↓2年程前から登場したという、新しい車輛である。車体の長さは数種類在るようだが、この運行系統#63に投入されているバスは、沿道に大型商業施設の<シティーモール>というものも在って乗客が多目なので、ロングタイプの車輛が多いように見受けられる…
↑車体後方の窓に相当する部分に広告のフィルムが貼られている。社内からは「黒っぽい網戸」のように車外の様子を伺うことは可能だが、外からは広告の画や文字しか見えない…何時も「不思議?」と思う…
空港までは「結構な時間の乗車…」と思うが、“市内線一律料金”の適用区間なので、運賃は20ルーブルである…
↑午後9時前…陽が傾いた中で空港に到着した…
未だ、この時間帯には市内との間を往来しているバスは存外に多い。場所にもよるが、順調であれば20分程度の移動だ。しかし、曜日や時間帯によっては道路が混雑し、30分以上を要する場合も見受けられる…
↓2年程前から登場したという、新しい車輛である。車体の長さは数種類在るようだが、この運行系統#63に投入されているバスは、沿道に大型商業施設の<シティーモール>というものも在って乗客が多目なので、ロングタイプの車輛が多いように見受けられる…
↑車体後方の窓に相当する部分に広告のフィルムが貼られている。社内からは「黒っぽい網戸」のように車外の様子を伺うことは可能だが、外からは広告の画や文字しか見えない…何時も「不思議?」と思う…
空港までは「結構な時間の乗車…」と思うが、“市内線一律料金”の適用区間なので、運賃は20ルーブルである…
内装…(2017.07.26)
家電チェーン店のキャラクター?(2017.07.26)
“↓”…(2017.07.26)
コルサコフ港に到着する<ペンギン33>(2017.07.27)
稚内港を発ち、海象も穏やかだった宗谷海峡を快走した快速艇<ペンギン33>は、コルサコフ港の域内に定刻より早目に到着し、暫し“待機”していた…
↓「あそこに停泊している船が<ペンギン33>か?」と少し視ていれば、船がゆっくりと動き始めて桟橋に近付いた…
↓停泊予定位置に精確に着けようと、船は少し大きく廻り込む…
↓甲板上から放られる繋留索の端を桟橋上の係員が掴み、繋留作業が行われる…
↓今日は非常に海が静かだ…
↑船の姿が海面に少し映っている…
↓入国手続きを行う場所へ乗客を運ぶバスが現れる…間も無く下船開始だ…
今季初だった6月2・3日の往復は荒天で欠航したが、それ以外は順調な運行が続いている<ペンギン33>である…
↓「あそこに停泊している船が<ペンギン33>か?」と少し視ていれば、船がゆっくりと動き始めて桟橋に近付いた…
↓停泊予定位置に精確に着けようと、船は少し大きく廻り込む…
↓甲板上から放られる繋留索の端を桟橋上の係員が掴み、繋留作業が行われる…
↓今日は非常に海が静かだ…
↑船の姿が海面に少し映っている…
↓入国手続きを行う場所へ乗客を運ぶバスが現れる…間も無く下船開始だ…
今季初だった6月2・3日の往復は荒天で欠航したが、それ以外は順調な運行が続いている<ペンギン33>である…
旧 北海道拓殖銀行豊原支店=サハリン州美術館(2017.07.26)
↓なかなかに典雅な建物だと思う…
↑日頃は車輛の通行が激しく、こういう具合に「建物の美しさが判り易い」感じの画を撮り難い…午後8時を過ぎたような、未だ明るさが残るような時間帯にチャンスを見出した…
建物は嘗て「北海道拓殖銀行豊原支店」であったモノだ。現在でも賑やかなレーニン通だが、豊原時代にも“大通”と呼ばれる繁華な通であったという。往時、この建物を建てた銀行は「地方の最有力銀行」であり、この“一等地”にランドマークになるような立派な支店の建物を築いた訳だ…
日本国内では、この種の「1930年代位までの、当時有力であった企業等が手掛けた典雅な建物」が然程残っているとも思えず、サハリンに残ったこの種のモノが殊更に貴重に思える…現在では美術館として建物が活用されている…
↑日頃は車輛の通行が激しく、こういう具合に「建物の美しさが判り易い」感じの画を撮り難い…午後8時を過ぎたような、未だ明るさが残るような時間帯にチャンスを見出した…
建物は嘗て「北海道拓殖銀行豊原支店」であったモノだ。現在でも賑やかなレーニン通だが、豊原時代にも“大通”と呼ばれる繁華な通であったという。往時、この建物を建てた銀行は「地方の最有力銀行」であり、この“一等地”にランドマークになるような立派な支店の建物を築いた訳だ…
日本国内では、この種の「1930年代位までの、当時有力であった企業等が手掛けた典雅な建物」が然程残っているとも思えず、サハリンに残ったこの種のモノが殊更に貴重に思える…現在では美術館として建物が活用されている…
燕が舞う空…(2017.07.26)
百貨店<サハリン>(2017.07.25)
工事中のチェーホフ通(2017.07.24)
↓ユジノサハリンスクは工事中の道路が「妙に多い」感じになっている…
↑この看板が在るのは、看板の左側ということになるコムニスチーチェスキー通で手前から奥に進むようになっている。すぐ手前のチェーホフ通は工事で通行止めになる。看板の右になるハバロフスカヤ通の側へ向かうには、もっと先のアムールスカヤ通を巡るということになる。
何やら方々にこういう通行止めが在る。道路の改修、補修ということだけではなく、地下に埋設されているモノの交換というような作業も行われている様子で、少々時間が掛ってしまっている箇所も見受けられる…
↓チェーホフ通はフェンスのようなモノで囲い込まれてしまっているが、様子が視える箇所が…
↑一寸驚いた…道路の真中が大きく掘り返されてしまっている…
何か、今年は「殊更に工事が多い」という感じのようだ…
↑この看板が在るのは、看板の左側ということになるコムニスチーチェスキー通で手前から奥に進むようになっている。すぐ手前のチェーホフ通は工事で通行止めになる。看板の右になるハバロフスカヤ通の側へ向かうには、もっと先のアムールスカヤ通を巡るということになる。
何やら方々にこういう通行止めが在る。道路の改修、補修ということだけではなく、地下に埋設されているモノの交換というような作業も行われている様子で、少々時間が掛ってしまっている箇所も見受けられる…
↓チェーホフ通はフェンスのようなモノで囲い込まれてしまっているが、様子が視える箇所が…
↑一寸驚いた…道路の真中が大きく掘り返されてしまっている…
何か、今年は「殊更に工事が多い」という感じのようだ…
栄光広場の犬達(2017.07.24)
雲が美しい…(2017.07.23)
「ウラジミロフカ村」の歴史を伝える記念碑(2017.07.23)
ユジノサハリンスクのレーニン通を少し北上し、サハリンスカヤ通と交差する辺りで西寄りに進む…歩けば20分前後、バスなら停留所が2つという辺り…
↓こういうモノが建っている…道路から近く、容易に見付かる…
↑何となく見上げる程度の大きさだ…
↓大きな石の真中に貼り付けられたプレートに注目…
↑「ここに1882年、ロシアの入植者がウラジミロフカという村落を起こし、ユジノサハリンスク市の礎となった」というような趣旨のことが書かれている…
これは、1882年に「ウラジミロフカ村」が起こったという経過を示す記念碑である。
街のことに明るい方の話しを聴く限り、「ウラジミロフカ村」の中心的な場所というのは、レーニン通とサハリンスカヤ通の交差する辺りを通り越した、もう少し北寄りな辺りと考えられるようだ。この記念碑が在る場所―現在、「ウラジミロフカ」と呼び習わされている辺り―は、村内の農場の一部であった場所のようだという…
史跡を示そうとすれば、色々な話しも出て来ようが、とりあえず現在のユジノサハリンスクで「街の起こり」と考えている「ウラジミロフカ村」のことを伝える場所というのは興味深い…
ウラジミロフカ村の経過は在るが、現在のユジノサハリンスクの都心部は、1907年頃から拓かれた豊原を基礎としていて、1946年以降にソ連化して現在に至っている。ウラジミロフカ村は、現在の都心部よりやや北西に寄った感じになる…
↓こういうモノが建っている…道路から近く、容易に見付かる…
↑何となく見上げる程度の大きさだ…
↓大きな石の真中に貼り付けられたプレートに注目…
↑「ここに1882年、ロシアの入植者がウラジミロフカという村落を起こし、ユジノサハリンスク市の礎となった」というような趣旨のことが書かれている…
これは、1882年に「ウラジミロフカ村」が起こったという経過を示す記念碑である。
街のことに明るい方の話しを聴く限り、「ウラジミロフカ村」の中心的な場所というのは、レーニン通とサハリンスカヤ通の交差する辺りを通り越した、もう少し北寄りな辺りと考えられるようだ。この記念碑が在る場所―現在、「ウラジミロフカ」と呼び習わされている辺り―は、村内の農場の一部であった場所のようだという…
史跡を示そうとすれば、色々な話しも出て来ようが、とりあえず現在のユジノサハリンスクで「街の起こり」と考えている「ウラジミロフカ村」のことを伝える場所というのは興味深い…
ウラジミロフカ村の経過は在るが、現在のユジノサハリンスクの都心部は、1907年頃から拓かれた豊原を基礎としていて、1946年以降にソ連化して現在に至っている。ウラジミロフカ村は、現在の都心部よりやや北西に寄った感じになる…
インスティテューツカヤ通の猫:見上げて…想う…(2017.07.22)
黄昏のレーニン広場(2017.07.22)
インスティテューツカヤ通の猫達:花壇に潜むように…(2017.07.22)
燕が舞う夕空(2017.07.22)
<シャシュカ>を使った剣舞 ほか:<極東“サバントゥイ”>より(2017.07.22)
<サバントゥイ>(Сабантуй)という祭りが在る。
タタール文化圏で催されて来た伝統的な祭りに起源を有する催しで、古式なレスリングの<キョレシ>の大会や、古くから伝わる伝統的なゲームや、出店が出て賑々しいという按配だが、タタール文化圏の音楽や踊りが披露されるステージも、催事の時間でずうっとやっていた…
タタール文化圏の音楽や踊りが披露されるステージでは、タタールスタンを始め、方々から集まったアーティスト達が出演していたが、サハリンで活動するグループも登場していた。“生”で聴いて、観る歌や演奏、或いは踊りはなかなか楽しいと思ったのだが…
↓こういう様子に注目した。
↑音楽の途中で、背の高い若者が、剣を手にステージ中央に進み、歌ったり演奏をしていたメンバーが少し奥に退いた…
↓グループは、こういうような女性6人、男性3人という編成だった…
↑勇壮さの中に哀切が滲むような、そしてテンポは好い感じの楽曲をやっていて、「何となく好い…」と思いながら視ていた…剣の若者は、右端の方で余り目立っていなかったのだったが…
↓若者は手にした剣を振って、勇壮な舞を披露してくれた…
この剣…確か<シャシュカ>と呼ばれるモノで、コーカサスの部族が用いた武器を起源とするモノだ。サーベルと長剣の中間程度の大きさで、一突きで相手を戦闘不能に陥れる威力を有する剣だ。そして適度に湾曲している関係で、勢いよく振るうと相手の首も斬れたという…ロシアでは騎兵が使う武器として帝政期から用いられ、ソ連時代の1950年代最初に騎兵部隊が解散する頃まで「正式な装備」として扱われていたらしい…(以降、儀仗兵がセレモニーで用いる場合というのは在って、それは現在にも受け継がれているようだ…)
多分、刃を研いでいないモノを使うのであろうが、この<シャシュカ>を振るう剣舞は方々でやっているようだ。音楽関係のビデオクリップでも、やっているのを視た覚えが在るが…
↓音楽的には、このバヤンが鳴っていて、リズムパートの音が流される中で各メンバーが歌う感じだった…
非常によく晴れた休日の土曜日に、野外で音楽を聴いて、催事を眺めて…なかなかに好かった…
タタール文化圏で催されて来た伝統的な祭りに起源を有する催しで、古式なレスリングの<キョレシ>の大会や、古くから伝わる伝統的なゲームや、出店が出て賑々しいという按配だが、タタール文化圏の音楽や踊りが披露されるステージも、催事の時間でずうっとやっていた…
タタール文化圏の音楽や踊りが披露されるステージでは、タタールスタンを始め、方々から集まったアーティスト達が出演していたが、サハリンで活動するグループも登場していた。“生”で聴いて、観る歌や演奏、或いは踊りはなかなか楽しいと思ったのだが…
↓こういう様子に注目した。
↑音楽の途中で、背の高い若者が、剣を手にステージ中央に進み、歌ったり演奏をしていたメンバーが少し奥に退いた…
↓グループは、こういうような女性6人、男性3人という編成だった…
↑勇壮さの中に哀切が滲むような、そしてテンポは好い感じの楽曲をやっていて、「何となく好い…」と思いながら視ていた…剣の若者は、右端の方で余り目立っていなかったのだったが…
↓若者は手にした剣を振って、勇壮な舞を披露してくれた…
この剣…確か<シャシュカ>と呼ばれるモノで、コーカサスの部族が用いた武器を起源とするモノだ。サーベルと長剣の中間程度の大きさで、一突きで相手を戦闘不能に陥れる威力を有する剣だ。そして適度に湾曲している関係で、勢いよく振るうと相手の首も斬れたという…ロシアでは騎兵が使う武器として帝政期から用いられ、ソ連時代の1950年代最初に騎兵部隊が解散する頃まで「正式な装備」として扱われていたらしい…(以降、儀仗兵がセレモニーで用いる場合というのは在って、それは現在にも受け継がれているようだ…)
多分、刃を研いでいないモノを使うのであろうが、この<シャシュカ>を振るう剣舞は方々でやっているようだ。音楽関係のビデオクリップでも、やっているのを視た覚えが在るが…
↓音楽的には、このバヤンが鳴っていて、リズムパートの音が流される中で各メンバーが歌う感じだった…
非常によく晴れた休日の土曜日に、野外で音楽を聴いて、催事を眺めて…なかなかに好かった…
プーシキン広場(2017.07.22)
<キョレシ>=タタールの古式なレスリング:<極東“サバントゥイ”>より(2017.07.22)
<サバントゥイ>(Сабантуй)という祭りが在る。
タタール文化圏で催されて来た歴史を有する祭りで、本来は春の農繁期が落ち着いた夏季に行われた農民達の催事であったという。タタールの主要な宗教であるイスラム教等が入って来る以前からの伝統を有するという。
現在では、タタール文化圏限定でもなく、ロシアや旧ソ連で広く催され、農村に限らず都市部でも行われているという。
サハリンに在って、この<サバントゥイ>(Сабантуй)という祭りはタタール文化圏に縁が在る人達を中心に催されて来た経過が在るようだが、今年は<極東“サバントゥイ”>と銘打って、本場のタタールスタンやその他極東管区の方々からタタールに所縁の人達や公職に在る来賓も招いて大々的な催しとして<スパルターク・スタジアム>を会場として行うことになった…地元テレビのASTVで“コマーシャル”まで流していたのだ…
特段に「どうしてもしなければならない…」を抱えるでもない、「久し振りに普通な休日」という展開で、加えて「久し振りに朝から好天」という気持ちの好い感じなので、<極東“サバントゥイ”>が催される<スパルターク・スタジアム>に足を運んだ…
“オープニング”というものが、「直ぐに終わるだろう…」と思っていれば、夥しい数の来賓祝辞が延々と続き、殆ど丸一時間近くやっていたが…漸く始まった催事を愉しく観ることになった。
↓こういう格闘技の大会が、この祭りの呼び物の一つだ…
↑タタールの古式なレスリングで<キョレシ>と呼ばれる。
2人の選手は各々の片方の手首に、長めなタオルの片方を巻く。そして上の画のように組み合って、タオルを相手の背中側、腰の辺りに廻し、タオルの端を空いていた方の手首に廻す。
↓そういう状態から、審判員の合図で闘い始める。力比べをする感で、相手を投げるようにして押し倒すとポイントである。
↑柔道のように「立った姿勢で組み合う」のでもない。相撲で“水入り”となった後に、行事が両力士を慎重に組ませて取組を再開する場面を思い出した。或いは足を掛けるようなことをしない“グレコローマンスタイル”のレスリングを想起する…
↓大変に好天な中、「1試合3分間」ということでドンドン対戦が続けられた。
↑出場者数が紹介されたり、対戦表が掲出されるというようなことは無かったが、方々の選手が出場するトーナメントだ。
3分間で圧したり、引いたりで相手をマット上に倒し、ポイントを重ねて審判員が勝敗を判定する。中には「Чистая победа!」(チースタヤ・パビェーダ!)と宣せられる「一本勝ち!」も在る。(序でに、エントリーした選手が現れないので“不戦勝”というのも視て、苦笑いもしたが…)
始まって間もなくの1回戦を視ていると…日本国内で例えるなら「大学の体育会の柔道部や相撲部の道場に居そうな感じの…」という、堂々たる体躯の「如何にも強そう…」な選手が登場した。この<キョレシ>は、オリンピック種目のレスリングのように体重別ではなく、“無差別級”なので、堂々たる体躯の「如何にも強そう…」な選手の相手になったのは体重差が少し大きい感じの選手だった。その対戦で「Чистая победа!」(チースタヤ・パビェーダ!)と宣せられる場面を初めて視たのだが…「開始7秒 一本勝ち」というような感じで、瞬時に決着で驚いた…
↓対戦が重ねられ、3位決定戦、決勝戦となって行く…
↑出場選手を呼び出す係のマイクを手にした人は、「もっと声援を!」とか「〇〇選手は〇〇出身だ!」と集まっている観衆にアピールをし、何か場が盛り上がる。
結局、審判員が時間一杯闘った両者のポイントを判定する以外に「一本勝ち」も在ることを示してくれた、堂々たる体躯の「如何にも強そう…」な選手が優勝した。サハリンで“グレコローマンスタイル”のレスリングをやっていて、重量級で活躍している選手のようだ。コーチや仲間達が「彼なら、方々の猛者達を捻じ伏せてくれる…」と期待された“サハリン代表”だったようだ。
↓そしてこれが表彰式…右端が3位の選手、その左は2位の選手、催事の実行委員長である女性を挟んで優勝した選手…2位、3位の選手達はキルギスタン出身だったようだ…
↑伝統的に、<キョレシ>の大会で優勝した“勇者”には「生きた羊」を贈ることになっているのだそうだ。流石に力自慢で、羊も40㎏前後は在るらしいが、ガッチリと脚を押さえて抱え上げて見せてくれた。これも“勇者”の伝統的なポーズらしい…他方、この上位3人には提供を受けたテレビセット等の商品や賞金も授与された…
これまで「生で観る機会」など無かった催しを観ることが出来た!何か嬉しい感じである…
タタール文化圏で催されて来た歴史を有する祭りで、本来は春の農繁期が落ち着いた夏季に行われた農民達の催事であったという。タタールの主要な宗教であるイスラム教等が入って来る以前からの伝統を有するという。
現在では、タタール文化圏限定でもなく、ロシアや旧ソ連で広く催され、農村に限らず都市部でも行われているという。
サハリンに在って、この<サバントゥイ>(Сабантуй)という祭りはタタール文化圏に縁が在る人達を中心に催されて来た経過が在るようだが、今年は<極東“サバントゥイ”>と銘打って、本場のタタールスタンやその他極東管区の方々からタタールに所縁の人達や公職に在る来賓も招いて大々的な催しとして<スパルターク・スタジアム>を会場として行うことになった…地元テレビのASTVで“コマーシャル”まで流していたのだ…
特段に「どうしてもしなければならない…」を抱えるでもない、「久し振りに普通な休日」という展開で、加えて「久し振りに朝から好天」という気持ちの好い感じなので、<極東“サバントゥイ”>が催される<スパルターク・スタジアム>に足を運んだ…
“オープニング”というものが、「直ぐに終わるだろう…」と思っていれば、夥しい数の来賓祝辞が延々と続き、殆ど丸一時間近くやっていたが…漸く始まった催事を愉しく観ることになった。
↓こういう格闘技の大会が、この祭りの呼び物の一つだ…
↑タタールの古式なレスリングで<キョレシ>と呼ばれる。
2人の選手は各々の片方の手首に、長めなタオルの片方を巻く。そして上の画のように組み合って、タオルを相手の背中側、腰の辺りに廻し、タオルの端を空いていた方の手首に廻す。
↓そういう状態から、審判員の合図で闘い始める。力比べをする感で、相手を投げるようにして押し倒すとポイントである。
↑柔道のように「立った姿勢で組み合う」のでもない。相撲で“水入り”となった後に、行事が両力士を慎重に組ませて取組を再開する場面を思い出した。或いは足を掛けるようなことをしない“グレコローマンスタイル”のレスリングを想起する…
↓大変に好天な中、「1試合3分間」ということでドンドン対戦が続けられた。
↑出場者数が紹介されたり、対戦表が掲出されるというようなことは無かったが、方々の選手が出場するトーナメントだ。
3分間で圧したり、引いたりで相手をマット上に倒し、ポイントを重ねて審判員が勝敗を判定する。中には「Чистая победа!」(チースタヤ・パビェーダ!)と宣せられる「一本勝ち!」も在る。(序でに、エントリーした選手が現れないので“不戦勝”というのも視て、苦笑いもしたが…)
始まって間もなくの1回戦を視ていると…日本国内で例えるなら「大学の体育会の柔道部や相撲部の道場に居そうな感じの…」という、堂々たる体躯の「如何にも強そう…」な選手が登場した。この<キョレシ>は、オリンピック種目のレスリングのように体重別ではなく、“無差別級”なので、堂々たる体躯の「如何にも強そう…」な選手の相手になったのは体重差が少し大きい感じの選手だった。その対戦で「Чистая победа!」(チースタヤ・パビェーダ!)と宣せられる場面を初めて視たのだが…「開始7秒 一本勝ち」というような感じで、瞬時に決着で驚いた…
↓対戦が重ねられ、3位決定戦、決勝戦となって行く…
↑出場選手を呼び出す係のマイクを手にした人は、「もっと声援を!」とか「〇〇選手は〇〇出身だ!」と集まっている観衆にアピールをし、何か場が盛り上がる。
結局、審判員が時間一杯闘った両者のポイントを判定する以外に「一本勝ち」も在ることを示してくれた、堂々たる体躯の「如何にも強そう…」な選手が優勝した。サハリンで“グレコローマンスタイル”のレスリングをやっていて、重量級で活躍している選手のようだ。コーチや仲間達が「彼なら、方々の猛者達を捻じ伏せてくれる…」と期待された“サハリン代表”だったようだ。
↓そしてこれが表彰式…右端が3位の選手、その左は2位の選手、催事の実行委員長である女性を挟んで優勝した選手…2位、3位の選手達はキルギスタン出身だったようだ…
↑伝統的に、<キョレシ>の大会で優勝した“勇者”には「生きた羊」を贈ることになっているのだそうだ。流石に力自慢で、羊も40㎏前後は在るらしいが、ガッチリと脚を押さえて抱え上げて見せてくれた。これも“勇者”の伝統的なポーズらしい…他方、この上位3人には提供を受けたテレビセット等の商品や賞金も授与された…
これまで「生で観る機会」など無かった催しを観ることが出来た!何か嬉しい感じである…
レーニン通の犬達(2017.07.21)
雨の日のアムールスカヤ通(2017.07.21)
雨中のチェーホフ像(2017.07.21)
やや強めな雨の日に…(2017.07.21)
アムールスカヤ通の猫達(2017.07.20)
インスティテューツカヤ通の猫:「見返り」…(2017.07.18)
インスティテューツカヤ通の猫:少し変わった毛並み(2017.07.18)
ユジノサハリンスク市内の散水車(2017.07.17)
↓“夕刻”と言うより“夜”というべきか?午後9時台の日没の少し前のユジノサハリンスクのレーニン通に、こういう車輛が登場した…
↑乾いた道路に水を撒いている…
最近は「局地的な大雨」という“ゲリラ豪雨”という現象も伝えられるが…ユジノサハリンスク市内を動き回ると、「雨が降ったような感は無いが…何故この道路は派手に濡れている??」という場面に出くわす…その“正体”が、こういう散水車の存在だ…
↓散水車が通過した辺りは、本当に「やや強い雨の後」という雰囲気になる…
↑華々しく撒いている水は、歩道の辺りまで飛沫が散っている…珍しがってこの車輛を眺める場合、多少注意した方が善いかもしれない…
夏から秋には、この散水車が存外な頻度で登場しているように見受けられる…
↑乾いた道路に水を撒いている…
最近は「局地的な大雨」という“ゲリラ豪雨”という現象も伝えられるが…ユジノサハリンスク市内を動き回ると、「雨が降ったような感は無いが…何故この道路は派手に濡れている??」という場面に出くわす…その“正体”が、こういう散水車の存在だ…
↓散水車が通過した辺りは、本当に「やや強い雨の後」という雰囲気になる…
↑華々しく撒いている水は、歩道の辺りまで飛沫が散っている…珍しがってこの車輛を眺める場合、多少注意した方が善いかもしれない…
夏から秋には、この散水車が存外な頻度で登場しているように見受けられる…