「休日の朝」ということなら、特段に細かい予定は顧慮せずに「散策に出て景色を眺めて…」で差し支えないことになる…
朝にふらりと外に出て…大聖堂の周辺に至ったのは午前7時頃で、丁度、街灯の灯りが消灯になった辺りだった…
↓雲が複雑に拡がる感じの空の様子だ…
辺りで休日の催し―産品の即売会のようなことをやるような感じに視えた…―の準備が忙しそうだったが、何となく辺りに留まって。大聖堂と背後の空の感じを眺めていた…
↓光の感じが独特で、朝の時間帯にこういう景色を眺めるのは好い…
↑そして“新機材”の<X100F>は、こういう光の感じを巧く記録してくれるカメラだと思う…
ゆったりと景色を愉しみ、24時間営業の店に道草で朝食にボリューム感の在るサンドイッチを頂いて住まいに引揚げ、何となくゆったりと午前中を過ごし…ランチを兼ねてフラフラとまた戸外へ…好い休日だ…
夜へ…:レーニン通とプルカエフ通の交差するロータリー(2017.09.29)
古風な道標:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.23)
かのチェーホフがアレクサンドロフスク・サハリンスキーに滞在していたという1890年頃には、既に家屋が並んで村落が形成されていたというような地域に「チェーホフ通」という住所が在る。
↓そのチェーホフ通の一隅に塀で囲われている他方で、通用扉のようなモノは開き、出入を拒んでいるでもないような場所が見受けられた…覗き込むと、何やら不思議なモノが在って、吸い寄せられるように敷地内へ入った…
↑古式な道標である…
この道標…サンクトペテルブルグ、ウラジオストク、ニコラエフスク・ナ・アムーレというような地名が読める。地名は主にロシア革命以前に用いられた旧いアルファベットで綴られている。そして地名が在る各地への距離は、ヴェルスタ(верста)という、文学作品の翻訳に「露里」と訳出されている場合が在るロシアの旧い単位が用いられている。チェーホフが辺りを動き回っていた19世紀末辺りというような時代であれば「1ヴェルスタ=1066.8メートル」だったとのこと…目安になるモノが在るでもなく、初めて足を踏み入れた場所で方角は少々判り悪いものの、地名が出ている各地への距離は?ここに在る数字の感じで正しいと思われる…
これは3つの施設から成っている<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>の中の1つである施設の中だ。「スタンカ」と呼ばれていた、街と街とを結ぶために馬や馬車を交換するようなことをしていた場所を再現した場所であるという…交通拠点なので、とりあえず道標な訳だ…
一寸気に入ってしまったモノである…
↓そのチェーホフ通の一隅に塀で囲われている他方で、通用扉のようなモノは開き、出入を拒んでいるでもないような場所が見受けられた…覗き込むと、何やら不思議なモノが在って、吸い寄せられるように敷地内へ入った…
↑古式な道標である…
この道標…サンクトペテルブルグ、ウラジオストク、ニコラエフスク・ナ・アムーレというような地名が読める。地名は主にロシア革命以前に用いられた旧いアルファベットで綴られている。そして地名が在る各地への距離は、ヴェルスタ(верста)という、文学作品の翻訳に「露里」と訳出されている場合が在るロシアの旧い単位が用いられている。チェーホフが辺りを動き回っていた19世紀末辺りというような時代であれば「1ヴェルスタ=1066.8メートル」だったとのこと…目安になるモノが在るでもなく、初めて足を踏み入れた場所で方角は少々判り悪いものの、地名が出ている各地への距離は?ここに在る数字の感じで正しいと思われる…
これは3つの施設から成っている<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>の中の1つである施設の中だ。「スタンカ」と呼ばれていた、街と街とを結ぶために馬や馬車を交換するようなことをしていた場所を再現した場所であるという…交通拠点なので、とりあえず道標な訳だ…
一寸気に入ってしまったモノである…
A.P.チェーホフ像:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.23)
19世紀末の村落?―アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.23)
郵便局の建物:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.23)
アレクサンドロフスク・サハリンスキーのバスターミナルに到着し、予約してある宿も在る通の方向を目指そうと、辺りの緩やかな上り坂をゆっくりと歩き始めた…
↓アレクサンドロフスク・サハリンスキーの街中に出て、初めて眼に留めて、何となく写真に収めた建物である…
↑やや古い、木造とも見受けられるような建物なのだが、郵便局の看板が出ている。土曜日の朝なので、郵便局は開いていない様子ではあるが…
「森の中に街」というような感がしないでもないような、街路樹が存外に多いように思える中、葉の色が変わっていたり落葉が多少見受けられるような中、古めかしい郵便局の建物だ…
アレクサンドロフスク・サハリンスキーは、“古都”という程の特別な趣が感じられるという程でもないのだが、サハリンの中では古くからの経過が色々と在る街の一つである。この郵便局の建物に「特別な由緒」が在るとは聞かないが、何か好い…
↓アレクサンドロフスク・サハリンスキーの街中に出て、初めて眼に留めて、何となく写真に収めた建物である…
↑やや古い、木造とも見受けられるような建物なのだが、郵便局の看板が出ている。土曜日の朝なので、郵便局は開いていない様子ではあるが…
「森の中に街」というような感がしないでもないような、街路樹が存外に多いように思える中、葉の色が変わっていたり落葉が多少見受けられるような中、古めかしい郵便局の建物だ…
アレクサンドロフスク・サハリンスキーは、“古都”という程の特別な趣が感じられるという程でもないのだが、サハリンの中では古くからの経過が色々と在る街の一つである。この郵便局の建物に「特別な由緒」が在るとは聞かないが、何か好い…
「少年志願兵」のモニュメント(2017.09.23)
↓衣装が「少し昔風?」な感じで、何か「古き良き時代の少年達」という雰囲気の、少し惹かれる彫像を見付けた。
↑アレクサンドロフスク・サハリンスキーの<生神女寺院>の近くに在るモノだ。寺院の敷地内から「あちらに彫像らしきモノ?」と視える位置関係に在る像で、後から近寄って視たのだった。
↓像はこういう具合に「高台から海に注ぐ川が造る独特な地形と海を望む」と同時に「街並みが少し覗く」という場所に建っている。
像の下のプレートには人名が多数並んでいるが、その標題として「ЮНЫМ САХАЛИНЦАМ - ДОБРОВОЛЬЦАМ」(ユーヌィム サハリンツァム―ドブロヴォリツァム)と在る。これは「サハリンの少年志願兵に捧ぐ」という意味だ。
「ドブロヴォリツ」(добровольц)というのは、直訳すれば「善意の人」ということになるが、意味合いとしては「自発的な意志で行動する人」ということになる。「自発的な意志」ということで、ここでは「志願兵」と訳出すべきだ。
第2次大戦期、徴兵年齢に達していない少年達の中に、「自発的な意志」で前線に向けて旅立った「少年志願兵」が多く見受けられたという。当時のサハリン、アレクサンドロフスク・サハリンスキーを中心とする地域からもそうした「少年志願兵」が旅立った。そして、彼らの殆どは消息を絶ってしまったのだという。多数の戦死者や、戦禍で命を落とした夥しい人達の中で、彼らは命を落としてしまい、生還出来なかったものと推定される。
ソ連時代の終わり頃、1980年代の末に近い頃から“戦中秘話”とでもいうような「それまで余り伝えられなかった戦時下の色々な事」に関して、記録を残すべきであると生存者へのインタビューを基に綴ること等が始まり、それが公刊されたことを契機にそうした動きが拡がる、或いは古い未公開資料を精査するような研究が始まる等、色々な動きを受けて様々な事が伝えられるようになっている。
「自発的な意志」で前線に向けて旅立った「少年志願兵」の中には、どういう運命を辿ったのか仔細が不明なまま消息が判っていない人達も大勢居るようだ。そうした人達の中で氏名が判っている人達の名を挙げながらこうしたモニュメントを建て、理想に散った少年達を悼むと同時に「そういう時代が在った」ことを伝えようとしていることになる。
↓日が傾くような頃になると、西日に染まる空と海が視えるような位置に「少年志願兵」のモニュメントは佇んでいる。
↑或いはアレクサンドロフスク・サハリンスキーの「らしい感じ」な風景が視える場所に、生還出来なかった少年達をイメージした像が佇んでいると言えるであろう。
実物を見れば、コンクリートの台座に経年変化らしきものが見受けられないのが判るが、モニュメントが建ったのは近年のことであるらしい。近年の、古い未公開記録の研究の様なところから、こうしたモニュメントを設ける計画が持ち上がったのかもしれない。
単純に「少し惹かれる少年達の彫像」と眺めていたが、「平和の尊さ」に想いを巡らせることになった。
↑アレクサンドロフスク・サハリンスキーの<生神女寺院>の近くに在るモノだ。寺院の敷地内から「あちらに彫像らしきモノ?」と視える位置関係に在る像で、後から近寄って視たのだった。
↓像はこういう具合に「高台から海に注ぐ川が造る独特な地形と海を望む」と同時に「街並みが少し覗く」という場所に建っている。
像の下のプレートには人名が多数並んでいるが、その標題として「ЮНЫМ САХАЛИНЦАМ - ДОБРОВОЛЬЦАМ」(ユーヌィム サハリンツァム―ドブロヴォリツァム)と在る。これは「サハリンの少年志願兵に捧ぐ」という意味だ。
「ドブロヴォリツ」(добровольц)というのは、直訳すれば「善意の人」ということになるが、意味合いとしては「自発的な意志で行動する人」ということになる。「自発的な意志」ということで、ここでは「志願兵」と訳出すべきだ。
第2次大戦期、徴兵年齢に達していない少年達の中に、「自発的な意志」で前線に向けて旅立った「少年志願兵」が多く見受けられたという。当時のサハリン、アレクサンドロフスク・サハリンスキーを中心とする地域からもそうした「少年志願兵」が旅立った。そして、彼らの殆どは消息を絶ってしまったのだという。多数の戦死者や、戦禍で命を落とした夥しい人達の中で、彼らは命を落としてしまい、生還出来なかったものと推定される。
ソ連時代の終わり頃、1980年代の末に近い頃から“戦中秘話”とでもいうような「それまで余り伝えられなかった戦時下の色々な事」に関して、記録を残すべきであると生存者へのインタビューを基に綴ること等が始まり、それが公刊されたことを契機にそうした動きが拡がる、或いは古い未公開資料を精査するような研究が始まる等、色々な動きを受けて様々な事が伝えられるようになっている。
「自発的な意志」で前線に向けて旅立った「少年志願兵」の中には、どういう運命を辿ったのか仔細が不明なまま消息が判っていない人達も大勢居るようだ。そうした人達の中で氏名が判っている人達の名を挙げながらこうしたモニュメントを建て、理想に散った少年達を悼むと同時に「そういう時代が在った」ことを伝えようとしていることになる。
↓日が傾くような頃になると、西日に染まる空と海が視えるような位置に「少年志願兵」のモニュメントは佇んでいる。
↑或いはアレクサンドロフスク・サハリンスキーの「らしい感じ」な風景が視える場所に、生還出来なかった少年達をイメージした像が佇んでいると言えるであろう。
実物を見れば、コンクリートの台座に経年変化らしきものが見受けられないのが判るが、モニュメントが建ったのは近年のことであるらしい。近年の、古い未公開記録の研究の様なところから、こうしたモニュメントを設ける計画が持ち上がったのかもしれない。
単純に「少し惹かれる少年達の彫像」と眺めていたが、「平和の尊さ」に想いを巡らせることになった。
V.M.ゴロヴニーンの胸像(2017.09.28)
羽ペン型のゲート(2017.09.28)
V.M.ゴロヴニーン胸像が在る広場(2017.09.27)
雲…:<大祖国戦争勝利70年並びにキリスト生誕記念主教座大聖堂>(2017.09.27)
屋根:生神女寺院:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.24)
午後の生神女寺院:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.23)
生神女寺院:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.23)
「生神女」(しょうしんじょ)とは、正教で言う「神の母」という意味の用語だ。
アレクサンドロフスク・サハリンスキーに在るロシア正教の寺院は「Храм Покрова Божей Матери」(フラム ポクロワ ボージェイ マーチェリ)というが、“寺院”を意味する“Храм”(フラム)以下が「神の母」ということになる「生神女」という幾つか在るらしい言い方だ…
アレクサンドロフスク・サハリンスキーに到着し、押さえてあった宿に荷物を置くことを念頭に、宿の住所を探そうとする中、バスターミナルから緩やかな上り坂を進めば、直ぐに「少し凝った型?」の屋根が眼に留まった…
↓通の側から、こういうように視える…
土曜日の午前中で、こういう教会は開門中な時間で、少し近寄ってみた…
↓面白い型の屋根である…
この寺院だが、1993年から建設して現在に至っている。サハリン各地で見受けられるが、“ポストソ連”とでも呼ぶべき1990年代に入って暫く経った時期に起こった「教会を!」という動きの中でのことだったのであろう。
アレクサンドロフスク・サハリンスキーでは、この教会は「復興」と考えられているかもしれない。博物館等に古い写真が展示されているのだが、アレクサンドロフスク・サハリンスキーには1891年から1893年に建設された立派な教会が在った。これもまた<生神女寺院>と名付けられていたのだという。そして1930年に、教会の用地を他用途に振り向けるべく教会は取り壊された…そして1993年に現在の建物の建設ということになって行く。取り壊されてしまった教会は、現在の建物が在る場所に在ったのだという…
↓奥の方に廻り込むと、堂内に入場出来る扉を備えた入口が在る。
↓屋根の外観は変わっているが、内部はロシア正教の寺院として普通な感じがする…
↓天井の側の感じである…
↓屋根の上に輝く金色のクーポルは、やや年月を経て2010年に取り付けたという…
この変わった屋根の教会は、博物館の写真を視た限り想うことであるのだが、「色々と制約も在った1993年の状況下、往年の教会を“復興”という願いを込めて、可能な範囲で往年の建物の屋根形状を再現してみようと試みた」ようにも思える…
概ね四半世紀の“年季”が感じられるこの建物…興味深い感じがした…
アレクサンドロフスク・サハリンスキーに在るロシア正教の寺院は「Храм Покрова Божей Матери」(フラム ポクロワ ボージェイ マーチェリ)というが、“寺院”を意味する“Храм”(フラム)以下が「神の母」ということになる「生神女」という幾つか在るらしい言い方だ…
アレクサンドロフスク・サハリンスキーに到着し、押さえてあった宿に荷物を置くことを念頭に、宿の住所を探そうとする中、バスターミナルから緩やかな上り坂を進めば、直ぐに「少し凝った型?」の屋根が眼に留まった…
↓通の側から、こういうように視える…
土曜日の午前中で、こういう教会は開門中な時間で、少し近寄ってみた…
↓面白い型の屋根である…
この寺院だが、1993年から建設して現在に至っている。サハリン各地で見受けられるが、“ポストソ連”とでも呼ぶべき1990年代に入って暫く経った時期に起こった「教会を!」という動きの中でのことだったのであろう。
アレクサンドロフスク・サハリンスキーでは、この教会は「復興」と考えられているかもしれない。博物館等に古い写真が展示されているのだが、アレクサンドロフスク・サハリンスキーには1891年から1893年に建設された立派な教会が在った。これもまた<生神女寺院>と名付けられていたのだという。そして1930年に、教会の用地を他用途に振り向けるべく教会は取り壊された…そして1993年に現在の建物の建設ということになって行く。取り壊されてしまった教会は、現在の建物が在る場所に在ったのだという…
↓奥の方に廻り込むと、堂内に入場出来る扉を備えた入口が在る。
↓屋根の外観は変わっているが、内部はロシア正教の寺院として普通な感じがする…
↓天井の側の感じである…
↓屋根の上に輝く金色のクーポルは、やや年月を経て2010年に取り付けたという…
この変わった屋根の教会は、博物館の写真を視た限り想うことであるのだが、「色々と制約も在った1993年の状況下、往年の教会を“復興”という願いを込めて、可能な範囲で往年の建物の屋根形状を再現してみようと試みた」ようにも思える…
概ね四半世紀の“年季”が感じられるこの建物…興味深い感じがした…
百貨店<サハリン>の看板と雲(2017.09.26)
A.P.チェーホフ像(2017.09.26)
ユジノサハリンスク都心部の州立図書館前にチェーホフの像が在る。
像のチェーホフは「旅の途中に座って一息…」という風情で、何となく好い…
不意に…この像に「会いたい…」という気分になった…
↓好天の夕刻…像の脇の木は、何か「秋が急速に…」ということを感じさせる…雲も「秋らしい」かもしれない…
チェーホフは、アレクサンドロフスク・サハリンスキーから海路でコルサコフに至り、現在のユジノサハリンスクに相当するような地域にも踏み入っている…私は列車とバスの陸路で、ユジノサハリンスクとアレクサンドロフスク・サハリンスキーを往復してみた。そしてチェーホフ自身も行き交ったという辺りに佇むこともしてみた…
何となくこの像に「会って」みて、「先生に所縁のアレクサンドロフスク・サハリンスキーを訪ねましたよ…」と一言報告したいような気分だったのだ…
像のチェーホフは「旅の途中に座って一息…」という風情で、何となく好い…
不意に…この像に「会いたい…」という気分になった…
↓好天の夕刻…像の脇の木は、何か「秋が急速に…」ということを感じさせる…雲も「秋らしい」かもしれない…
チェーホフは、アレクサンドロフスク・サハリンスキーから海路でコルサコフに至り、現在のユジノサハリンスクに相当するような地域にも踏み入っている…私は列車とバスの陸路で、ユジノサハリンスクとアレクサンドロフスク・サハリンスキーを往復してみた。そしてチェーホフ自身も行き交ったという辺りに佇むこともしてみた…
何となくこの像に「会って」みて、「先生に所縁のアレクサンドロフスク・サハリンスキーを訪ねましたよ…」と一言報告したいような気分だったのだ…
路上に目立ち始めた落葉(2017.09.26)
路上の落葉:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.24)
チェーホフ通の建物:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.23)
アレクサンドロフスク・サハリンスキーからティモフスコエまでのバス乗車券(2017.09.23)
アレクサンドロフスク・サハリンスキーに到着して最初にやった事…事前にユジノサハリンスクで入手出来なかった、復路のバス乗車券を入手することだった…
乗って来たバスが停まった辺りに在る建物の扉は開いていて、中のやや古風な窓口は開いていて営業中だった…
翌日の17時15分に発車するというティモフスコエへ向かうバスの乗車券を求めたい旨を窓口に申し出た…
↓「227ルーブルです」と出て来た券がこれである…
↑レシートのような代物ではない!印刷されている書式に、窓口の係員が手書きというタイプの乗車券!
何やら妙に嬉しくなって、辺りのベンチで「乗車券の記念写真」を撮るという妙なことを仕出かしてしまった…
当然ながら、これは大切にキープして、翌日はこれを使ってバスに乗車した…
乗って来たバスが停まった辺りに在る建物の扉は開いていて、中のやや古風な窓口は開いていて営業中だった…
翌日の17時15分に発車するというティモフスコエへ向かうバスの乗車券を求めたい旨を窓口に申し出た…
↓「227ルーブルです」と出て来た券がこれである…
↑レシートのような代物ではない!印刷されている書式に、窓口の係員が手書きというタイプの乗車券!
何やら妙に嬉しくなって、辺りのベンチで「乗車券の記念写真」を撮るという妙なことを仕出かしてしまった…
当然ながら、これは大切にキープして、翌日はこれを使ってバスに乗車した…
路線バス:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.23)
夜行列車が到着し、全く初めて下車した<ティモフスク駅>で、到着から10分以内にバスへ乗り継ぎ…何やら「大丈夫なのか?」とも思っていた…が、バスは直ぐに判り、何となく混み合っている中で無事に乗車し、山道のような道路を越えてアレクサンドロフスク・サハリンスキーに至った。とりあえず終点らしい風情のバスターミナルに着いた…“アフトスタンツィヤ”と呼び習わされているようだった…
前夜から移動し続けていて、何となく一息…
↓乗車して来たバスを眺めた…正面に、ティモフスコエとアレクサンドロフスク・サハリンスキーとを結ぶ運行系統である「503」という番号が掲出されている…
↑運転手さんはバスから離れて一息入れている様子だ…
このバスも含め、アレクサンドロフスク・サハリンスキーで運行されている路線バスは、専らこういう型の車輛だった。23名から25名程度が乗るようなタイプである。
地区の中心的な街であるアレクサンドロフスク・サハリンスキーで人口は1万人を切っているのだという。ということは…こういう規模のバスが、辺りの路線バスとしては好適なのかもしれない…
前夜から移動し続けていて、何となく一息…
↓乗車して来たバスを眺めた…正面に、ティモフスコエとアレクサンドロフスク・サハリンスキーとを結ぶ運行系統である「503」という番号が掲出されている…
↑運転手さんはバスから離れて一息入れている様子だ…
このバスも含め、アレクサンドロフスク・サハリンスキーで運行されている路線バスは、専らこういう型の車輛だった。23名から25名程度が乗るようなタイプである。
地区の中心的な街であるアレクサンドロフスク・サハリンスキーで人口は1万人を切っているのだという。ということは…こういう規模のバスが、辺りの路線バスとしては好適なのかもしれない…
レーニン像:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.24)
レーニン像:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.23)
「鳩の棲家」の様相を呈するレーニン広場脇の建物屋根:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.24)
ティモフスク駅に到着する<002Э>(2017.09.24)
サハリンの鉄道で、北の起点・終点はノグリキだが、ノグリキとユジノサハリンスクとの間には毎日2往復の列車が運行している。その2往復の1つ、列車番号の後に“Э”(エー)と付いている列車を利用した。
“Э”(エー)は、多分「Экспресс」(エクスプレス)なのだろう。サハリンでは、このノグリキとユジノサハリンスクの1往復だけが“Э”(エー)付きだ…特段に愛称が在るでもない様子だ…
ティモフスコエの街外れに在る駅は、どういう訳か「ティモフスク駅」という名称になっている。アレクサンドロフスク・サハリンスキーからバスで着いた後、少し間が在ったので街を散策し、駅でやや長めに列車待ちをしていた…
<002Э>は23時01分にティモフスコエ駅に着き、23時16分に発車するという…23時が近付けば、何やら乗客や見送りの人達が集まって賑わう…
外のホームで様子を伺っていると…女性の係員の声で「旅客002間も無く参ります。御注意願います」とアッサリしたアナウンスが響き、遠くから機関車の警笛が聞こえてきた…駅構内の照明のずっと向こうに動く光源…機関車だ!
↓首から提げていた<X100F>で思わず1枚…
↓更に1枚…
やがて列車が停止し、乗客達が各々の客車を探す…私自身も探す…そして見付けて券を示して乗車した…
何か…酷く“風情”が在る列車だと思う…車内では寝るだけのことだが…
“Э”(エー)は、多分「Экспресс」(エクスプレス)なのだろう。サハリンでは、このノグリキとユジノサハリンスクの1往復だけが“Э”(エー)付きだ…特段に愛称が在るでもない様子だ…
ティモフスコエの街外れに在る駅は、どういう訳か「ティモフスク駅」という名称になっている。アレクサンドロフスク・サハリンスキーからバスで着いた後、少し間が在ったので街を散策し、駅でやや長めに列車待ちをしていた…
<002Э>は23時01分にティモフスコエ駅に着き、23時16分に発車するという…23時が近付けば、何やら乗客や見送りの人達が集まって賑わう…
外のホームで様子を伺っていると…女性の係員の声で「旅客002間も無く参ります。御注意願います」とアッサリしたアナウンスが響き、遠くから機関車の警笛が聞こえてきた…駅構内の照明のずっと向こうに動く光源…機関車だ!
↓首から提げていた<X100F>で思わず1枚…
↓更に1枚…
やがて列車が停止し、乗客達が各々の客車を探す…私自身も探す…そして見付けて券を示して乗車した…
何か…酷く“風情”が在る列車だと思う…車内では寝るだけのことだが…
打ち寄せる波の向こうに…―“Три Брата”(トリ ブラター)=<三兄弟>の岩:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.24)
アレクサンドロフスク・サハリンスキー:チェーホフ通の子犬達(2017.09.24)
アレクサンドロフスク・サハリンスキーの街は、河口部の湿地のような場所に形成された複雑な地形の場所に拓けたような感だ…坂道も多く、高低差も大きい…
「チェーホフ自身も立寄っている?」というような古い建物を活かした博物館が設けられている辺りは「チェーホフ通」と名付けられている…
チェーホフ通…地区行政府や教会が在る、高台のようになった感の場所から下ると在る通だが…博物館を通り過ぎて小さな川に橋が架かっていて、そこを越えて階段を上がると…上の方にチェーホフ通の「続き」が在る…
↓チェーホフ通の「高台」で街の側の景色を眺めていると、こんな様子に出くわした…
↑好天なので、近隣の方が何かを物干しに掛けていた周辺に4頭の子犬がチョロチョロしていた…
「見知らぬ来訪者」が周辺を歩くことも稀なのか、好奇心旺盛に近付く子犬も在れば、遠ざかる子犬も居た…4頭は兄弟のようにも視えた…
遠くに教会が在る街が視える様子が記憶に残るのだが、同じ位かそれ以上に、可愛らしい4頭の子犬を視掛けたことを想い起してしまう…何年か経てば?見知らぬ来訪者に向かって吠える猛犬の群れに??
「チェーホフ自身も立寄っている?」というような古い建物を活かした博物館が設けられている辺りは「チェーホフ通」と名付けられている…
チェーホフ通…地区行政府や教会が在る、高台のようになった感の場所から下ると在る通だが…博物館を通り過ぎて小さな川に橋が架かっていて、そこを越えて階段を上がると…上の方にチェーホフ通の「続き」が在る…
↓チェーホフ通の「高台」で街の側の景色を眺めていると、こんな様子に出くわした…
↑好天なので、近隣の方が何かを物干しに掛けていた周辺に4頭の子犬がチョロチョロしていた…
「見知らぬ来訪者」が周辺を歩くことも稀なのか、好奇心旺盛に近付く子犬も在れば、遠ざかる子犬も居た…4頭は兄弟のようにも視えた…
遠くに教会が在る街が視える様子が記憶に残るのだが、同じ位かそれ以上に、可愛らしい4頭の子犬を視掛けたことを想い起してしまう…何年か経てば?見知らぬ来訪者に向かって吠える猛犬の群れに??