アレクサンドロフスク・サハリンスキーのジョンキェル岬には1864年創建で、2013年に自然災害で壊れてしまった後に再建されたという古い灯台が在る…これが視たかった!
最初は、<三兄弟の岩>が視える海岸を進んで、流刑囚が掘ったというトンネルに至って、そこを抜けた辺りから上る場所も在ると聞き、海岸を歩いてみたが…海岸が狭隘になっていて、夥しい海藻が打ち上げられている中を進めば、トンネルへ通じる辺りは海水にスッカリ使って歩行可能な場所が途切れてしまっている…辿り着けない…着けたにしても戻りが不安だ…「残念ながら」と引揚げた…
そして「灯台が視える辺り」ということなら、タクシーをチャーターして辿り着くことも適うと判り…ホテルでタクシーをお願いした。やや離れた南隣のドゥエを往復する料金に準じて1000ルーブルということになった。
山の中のような未舗装道路を上り下りしながら、一般車輌では入り悪い感じの小路の脇に至った。その小道を進み、崖の上へ…
↓眼下にこういう光景が拡がる!!
↑古い灯台が崖の上に建っている…サハリンの北寄りの西海岸…タタール海峡の海が眼前に…
息を呑むような光景だが…やや風が強い崖の上…少々危なっかしい…
これが視られたということだけでも、アレクサンドロフスク・サハリンスキーに来て本当に好かった!!
アレクサンドロフスク・サハリンスキー:ジェルジンスカヤ通のの犬(2017.09.24)
廃船…:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.23)
川がタタール海峡に注ぐ辺り:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.23)
ユジノサハリンスクからの夜行列車でティモフスコエに着いて、直ぐにバスで移動してアレクサンドロフスク・サハリンスキーに着き、荷物をホテルに置いただけという、「その足」も同然で随分と元気に歩き回った…
訪ねてみたかったアレクサンドロフスク・サハリンスキーの街に在る資料館に寄った後、海の側を目指して歩いた。「街外れ」と言うのか、「近郊」と言うのか…或いは「何も無いような場所」と言うべきか?そんな道を進み、大きな船が停泊しているでもなく、そういう施設が見受けられるでもない港の周辺に至った…
↓少し遠くを視れば、湿地のようになっている場所を背景に街が視えている…美しい!そしてカモメの群れが湿地の辺りで乱舞するように宙を舞う…
何か…「遥かなアレクサンドロフスク・サハリンスキーに来てしまった…」という感慨が沸き起こるような光景だった…
訪ねてみたかったアレクサンドロフスク・サハリンスキーの街に在る資料館に寄った後、海の側を目指して歩いた。「街外れ」と言うのか、「近郊」と言うのか…或いは「何も無いような場所」と言うべきか?そんな道を進み、大きな船が停泊しているでもなく、そういう施設が見受けられるでもない港の周辺に至った…
↓少し遠くを視れば、湿地のようになっている場所を背景に街が視えている…美しい!そしてカモメの群れが湿地の辺りで乱舞するように宙を舞う…
何か…「遥かなアレクサンドロフスク・サハリンスキーに来てしまった…」という感慨が沸き起こるような光景だった…
アレクサンドロフスク・サハリンスキーで迎えた朝の空…(2017.09.24)
АВТОСТОЯНКА(アフトスタヤンカ)(2017.09.22)
朝の空気感…:<大祖国戦争勝利70年並びにキリスト生誕記念主教座大聖堂>(2017.09.22)
明るくなる頃に…:<大祖国戦争勝利70年並びにキリスト生誕記念主教座大聖堂>(2017.09.22)
「明るくなる頃」の様子を眺めるのが好きだ…
ユジノサハリンスクでは「一寸早過ぎる時間に明るくなる…」感じだったが、最近は午前6時頃が未だ暗く、午前7時頃に明るくなって行く感じで、そういう様子が「視易い」感じである…
住まいから20分強は歩くのだが、「明るくなる頃」の大聖堂の建物は見応えが在る…
↓6時半頃までは大聖堂のライトアップは点灯している…
↑白い壁と輝くクーポル(独特な丸い形状の屋根)が夜空に浮かんでいる感だ…
↓ライトアップが消灯となった少し後…
↑未だ点っている街灯の光に浮かび上がる感じである…
↓やがて街灯が消えた後…
↑刻々と変わる自然光に、刻々と表情を変える感の建物の感じは面白い…
もう少し粘ると、更に光の様子は変わるのであろうが…平日の朝にする散策は、多少の時間的制約も在る…
それでも、こういう素晴らしい光景に出会える朝の時間は非常に好い…
ユジノサハリンスクでは「一寸早過ぎる時間に明るくなる…」感じだったが、最近は午前6時頃が未だ暗く、午前7時頃に明るくなって行く感じで、そういう様子が「視易い」感じである…
住まいから20分強は歩くのだが、「明るくなる頃」の大聖堂の建物は見応えが在る…
↓6時半頃までは大聖堂のライトアップは点灯している…
↑白い壁と輝くクーポル(独特な丸い形状の屋根)が夜空に浮かんでいる感だ…
↓ライトアップが消灯となった少し後…
↑未だ点っている街灯の光に浮かび上がる感じである…
↓やがて街灯が消えた後…
↑刻々と変わる自然光に、刻々と表情を変える感の建物の感じは面白い…
もう少し粘ると、更に光の様子は変わるのであろうが…平日の朝にする散策は、多少の時間的制約も在る…
それでも、こういう素晴らしい光景に出会える朝の時間は非常に好い…
夜明けの頃:「戦史博物館」(2017.09.22)
<ペンギン33>―2017シーズンの運航予定終了(2017.09.21)
「奥さんに連れられた犬」:『犬を連れた奥さん』の像(2017.09.21)
百貨店<サハリン>(2017.09.19)
相次いで洗濯した愛用のジーンズ(2017.09.19)
スーパーの“ショーウィンドー”(2017.09.18)
旧 北海道拓殖銀行豊原支店=サハリン州美術館(2017.09.19)
巨大なレーニン像(2017.09.19)
24時間営業のカフェ:荒天の夜が明けて…(2017.09.19)
<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>(2017.09.16)
レーニン通とパグラニチナヤ通とが交差する辺りのレーニン通側に、時々寄る「ピザとパスタの店」が在る。休日にその店に立寄って、パグラニチナヤ通を東へ進み、ミール通と交差する辺りで少し南へ動き、次の通を東へ進むとサウナが在る…
そういう経緯でパグラニチナヤ通という場所は時々動き回る場所なのだが、ここに「気になる」建物が在る。
通り掛かった土曜日の日中…敷地に出入りが可能な状態と見て近付いた…
↓こういうような屋根が視える建物だ…
↑綺麗な感じで、建物全般の外観を眺めて写真が撮れるような場所が思い当たらない…大学の関係と見受けられる、少し北の建物の上階から見下ろすのでもない限り、そういう画は望み悪いであろう…少し寄って、特徴的な屋根を見上げた…
丸みを帯びたドーム型の屋根が在って、頂上部に十字架が掲げられている。十字架の形状はロシア正教のモノだ…
↓間違いなくロシア正教の寺院であった…
↑真中辺りの「Храм」(フラム)以下がここの呼称だ…<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>と呼ばれるらしい…
↓中に入ることも出来た…
↑小さな聖堂だが、イコンの壁が形成されて「らしい!」感じのロシア正教の寺院である…
この場所について、或いは「モスクワ府主教・成聖者インノケンティ」について、リーフレットが配布されていて、あらましを知ることが出来た…何やらこの寺院の説明のようなリーフレットを見付けて、中の関係者の方に「頂いて差し支えないか?」と問えば、「勿論!」ということで「ありがとうございます」と頂いて「なるほど、こういうような…」とリーフレットを見ていると、その方が「ここの名になっているインノケンティの御紹介です」ともう一つのリーフレットも下さったという次第だった…こちらも有難く頂いた…
パグラニチナヤ通のレーニン通側からミール通側へ向けて進むと在るこの寺院の場所だが、1993年にロシア正教の活動拠点を設けようとしていて、当時在った古い建物を使用出来るということになり、建物の改修を施して1994年から利用することとなったのだという。そしてこれが<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>となるのである。
地道に活動を続け、10年が経った2004年頃から「新たな寺院を建設してはどうか?」ということになり、それを支持する2500名以上の市民の署名と共にユジノサハリンスク市に請願が為され、2007年にそれは容れられた。やがて現在の建物の設計が準備され、2009年に着工し、2012年9月に現在の建物が竣工して供用されるに至り、活動を始めた頃の旧い建物は撤去したのだという。
なるほど、この建物そのものは少し新しく見えたが、2012年から供用されているということなら納得だ。しかし1990年代にロシア正教の活動が盛んになり始めた頃からの経過が、この建物の背景には在る訳だ…
「モスクワ府主教・成聖者インノケンティ」という人物(1797-1879)だが、今年が生誕220年ということになる…
イルクーツクの神学校に学び、卒業後に同地で司祭となったが、1823年にアリューシャン列島のウナラスカに赴任する。(現地に到着出来たのは、翌年のことだったという…)
アリューシャン列島では現地住民のアレウト語を学び、当時は文字が無かったというアレウト語をアルファベットで表記する方法を工夫し、後にアレウト語で福音書を出版することまで成した…
1834年にはアラスカのシトカへ移り、そこでも宣教活動を続けている。やがてサンクトペテルブルグでアレウト語の福音書を出版する仕事に奔走する期間を挟み、アラスカ主教に選任されてアラスカに戻ることになる。
1850年から1860年にはシベリアからアムール河流域に至るまで、更にカムチャッカに至るまで広範な地域で伝道活動を行っている。1867年には、永い熱心な伝道活動への評価により、ロシア正教会では最高の地位であるモスクワ府主教に選任された。
ロシアではロシア正教会の最高位であるモスクワ府主教の地位に就いたということで、それを冠されて紹介されることが多い人物だが、「アラスカのインノケンティ」としても知られている。
19世紀後半に少数民族も含めて極東の諸民族にロシア正教の信仰が拡がっていたというが、それらはこのインノケンティの伝道活動の成果という側面が在る。サハリンでは「この地域に正教を普及させた偉人」という受け止め方なのだと思える。
彼を記念し、<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>と命名された場所は、ユジノサハリンスクのこの場所の他、クリル諸島のセベロクリリスクにも在るそうだ…
↓決して「大きく立派で見応えが在る」という感じではないのだが…本当に「地域に根差した、地元の皆さんが集まる教会」という雰囲気が色濃く滲む場所だ…
「気になる」と思った場所には、思い切って寄ってみると、色々と学ぶことが出来るものだ…という気がした…
そういう経緯でパグラニチナヤ通という場所は時々動き回る場所なのだが、ここに「気になる」建物が在る。
通り掛かった土曜日の日中…敷地に出入りが可能な状態と見て近付いた…
↓こういうような屋根が視える建物だ…
↑綺麗な感じで、建物全般の外観を眺めて写真が撮れるような場所が思い当たらない…大学の関係と見受けられる、少し北の建物の上階から見下ろすのでもない限り、そういう画は望み悪いであろう…少し寄って、特徴的な屋根を見上げた…
丸みを帯びたドーム型の屋根が在って、頂上部に十字架が掲げられている。十字架の形状はロシア正教のモノだ…
↓間違いなくロシア正教の寺院であった…
↑真中辺りの「Храм」(フラム)以下がここの呼称だ…<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>と呼ばれるらしい…
↓中に入ることも出来た…
↑小さな聖堂だが、イコンの壁が形成されて「らしい!」感じのロシア正教の寺院である…
この場所について、或いは「モスクワ府主教・成聖者インノケンティ」について、リーフレットが配布されていて、あらましを知ることが出来た…何やらこの寺院の説明のようなリーフレットを見付けて、中の関係者の方に「頂いて差し支えないか?」と問えば、「勿論!」ということで「ありがとうございます」と頂いて「なるほど、こういうような…」とリーフレットを見ていると、その方が「ここの名になっているインノケンティの御紹介です」ともう一つのリーフレットも下さったという次第だった…こちらも有難く頂いた…
パグラニチナヤ通のレーニン通側からミール通側へ向けて進むと在るこの寺院の場所だが、1993年にロシア正教の活動拠点を設けようとしていて、当時在った古い建物を使用出来るということになり、建物の改修を施して1994年から利用することとなったのだという。そしてこれが<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>となるのである。
地道に活動を続け、10年が経った2004年頃から「新たな寺院を建設してはどうか?」ということになり、それを支持する2500名以上の市民の署名と共にユジノサハリンスク市に請願が為され、2007年にそれは容れられた。やがて現在の建物の設計が準備され、2009年に着工し、2012年9月に現在の建物が竣工して供用されるに至り、活動を始めた頃の旧い建物は撤去したのだという。
なるほど、この建物そのものは少し新しく見えたが、2012年から供用されているということなら納得だ。しかし1990年代にロシア正教の活動が盛んになり始めた頃からの経過が、この建物の背景には在る訳だ…
「モスクワ府主教・成聖者インノケンティ」という人物(1797-1879)だが、今年が生誕220年ということになる…
イルクーツクの神学校に学び、卒業後に同地で司祭となったが、1823年にアリューシャン列島のウナラスカに赴任する。(現地に到着出来たのは、翌年のことだったという…)
アリューシャン列島では現地住民のアレウト語を学び、当時は文字が無かったというアレウト語をアルファベットで表記する方法を工夫し、後にアレウト語で福音書を出版することまで成した…
1834年にはアラスカのシトカへ移り、そこでも宣教活動を続けている。やがてサンクトペテルブルグでアレウト語の福音書を出版する仕事に奔走する期間を挟み、アラスカ主教に選任されてアラスカに戻ることになる。
1850年から1860年にはシベリアからアムール河流域に至るまで、更にカムチャッカに至るまで広範な地域で伝道活動を行っている。1867年には、永い熱心な伝道活動への評価により、ロシア正教会では最高の地位であるモスクワ府主教に選任された。
ロシアではロシア正教会の最高位であるモスクワ府主教の地位に就いたということで、それを冠されて紹介されることが多い人物だが、「アラスカのインノケンティ」としても知られている。
19世紀後半に少数民族も含めて極東の諸民族にロシア正教の信仰が拡がっていたというが、それらはこのインノケンティの伝道活動の成果という側面が在る。サハリンでは「この地域に正教を普及させた偉人」という受け止め方なのだと思える。
彼を記念し、<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>と命名された場所は、ユジノサハリンスクのこの場所の他、クリル諸島のセベロクリリスクにも在るそうだ…
↓決して「大きく立派で見応えが在る」という感じではないのだが…本当に「地域に根差した、地元の皆さんが集まる教会」という雰囲気が色濃く滲む場所だ…
「気になる」と思った場所には、思い切って寄ってみると、色々と学ぶことが出来るものだ…という気がした…
日没直後辺りのレーニン広場(2017.09.16)
煉瓦壁にペイント(2017.09.17)
夜明前のパベーダ通(2017.09.17)
地下連絡通路(2017.09.16)
ユジノサハリンスクの鉄道駅に、“跨線橋”の代わりに地下を通って乗場に出る仕組みになっている箇所が在る。その乗場への出口の先が、駅の反対側、線路等の鉄道施設の在る側の裏に通じる連絡通路になっている…
↓乗場へ出る場所までは通ったことが在ったが、その先は行ったことが無かったのを思い出し、一寸行ってみた…
↑存外にここを通る通行人は見受けられる…人影の見える辺りの乗場への出口の先は「未知の通路」だ…
↓どうということもない地下連絡通路だった…反対側に辿り着いた…
出口は、駅の反対側、西寄りの辺りに延びるジェレズニェダロージナヤ通の63番から少し奥に入った辺りだった…ジェレズニェダロージナヤ通の側からは「知らなければ、多分見付けられない」ような雰囲気である…実際、何度も歩いている辺りながら、通路を実際に使ってみるまで出口だと判らずに居たのだ…
マダマダ、こういうような「知っているつもりで知らない」は多々在るもので、そういうものを発見しながら過ごすのが存外に面白い…
↓乗場へ出る場所までは通ったことが在ったが、その先は行ったことが無かったのを思い出し、一寸行ってみた…
↑存外にここを通る通行人は見受けられる…人影の見える辺りの乗場への出口の先は「未知の通路」だ…
↓どうということもない地下連絡通路だった…反対側に辿り着いた…
出口は、駅の反対側、西寄りの辺りに延びるジェレズニェダロージナヤ通の63番から少し奥に入った辺りだった…ジェレズニェダロージナヤ通の側からは「知らなければ、多分見付けられない」ような雰囲気である…実際、何度も歩いている辺りながら、通路を実際に使ってみるまで出口だと判らずに居たのだ…
マダマダ、こういうような「知っているつもりで知らない」は多々在るもので、そういうものを発見しながら過ごすのが存外に面白い…
コルサコフ港鳥瞰(2017.09.16)
「コルサコフ港が鳥瞰出来る」という場所は2箇所知っている…
その2箇所の中の1つは、1925年の「摂政宮行啓の折に御立寄り」という歴史も在る場所で、往時は亜庭神社の後背に拡がっていた公園の一部でもあったらしい…
「上り方」を覚えたので特段に迷わず、「なかなかの好天!」と張り切って上がった…
↓こういう場所を見付けた…
↑このコルサコフ港が鳥瞰出来る場所というのが、非常に急峻な崖の頂上部であることが判る…そして、崖の真下のような場所に道路が在って、港の域内の色々なモノが「ミニチュア?」のように地面に貼り付いている…そして今日の雲は「油絵の絵具で丁寧に描いた?」ような感じだ…
多少馴染んだ場所も、訪ねる都度に表情が変わるのが面白い…
その2箇所の中の1つは、1925年の「摂政宮行啓の折に御立寄り」という歴史も在る場所で、往時は亜庭神社の後背に拡がっていた公園の一部でもあったらしい…
「上り方」を覚えたので特段に迷わず、「なかなかの好天!」と張り切って上がった…
↓こういう場所を見付けた…
↑このコルサコフ港が鳥瞰出来る場所というのが、非常に急峻な崖の頂上部であることが判る…そして、崖の真下のような場所に道路が在って、港の域内の色々なモノが「ミニチュア?」のように地面に貼り付いている…そして今日の雲は「油絵の絵具で丁寧に描いた?」ような感じだ…
多少馴染んだ場所も、訪ねる都度に表情が変わるのが面白い…
M.S.コルサコフ胸像(2017.09.16)
休日の土曜日の日中…何となくコルサコフへ足を運んでしまった…
↓コルサコフの街の広場にこんな胸像が在る…(像に焦点が合って、背後の空がボケる感じは、「レンズの絞り開放でも速いシャッター」ということが出来る<X100F>の御蔭だ!!)
↑ミハイル・セミョノヴィチ・コルサコフ(Корсаков, Михаил Семёнович)(1826 - 1871)という人物の胸像である…
コルサコフでは、1853年のムラヴィヨフスキー哨所の開設という故事を建都と位置付けている。ムラヴィヨフスキー哨所は、クリミア戦争等の事由で運営出来なくなり、1854年に一旦は休止してしまう。そして1869年に活動を再開することとなった。その際、当時の東シベリア総督であったミハイル・セミョノヴィチ・コルサコフに因んで“コルサコフスキー哨所”と改めて命名した。
この「コルサコフスキー」から「コルサコフ」という通称が起こり、辺りの地名として定着し、日露戦争後に日本領となるまでコルサコフとして知られていた…1946年以降のソ連化以降、日露戦争前のコルサコフが地域の地名として採用されている…
↓この胸像は、1993年に「建都140年」ということで登場したモノということである…
ハッキリ言えば…このミハイル・セミョノヴィチ・コルサコフ総督自身は、地域との縁が然程深いのでもないのだと思えるが…「街の名の由来になっている」ということで、立派な胸像が1993年に設けられている…以来、この胸像はそれなりに大切にされていると見受けられる…
コルサコフに立寄ると、この胸像の前を通って「来ましたよ!」と報告してみたい気分になる…
↓コルサコフの街の広場にこんな胸像が在る…(像に焦点が合って、背後の空がボケる感じは、「レンズの絞り開放でも速いシャッター」ということが出来る<X100F>の御蔭だ!!)
↑ミハイル・セミョノヴィチ・コルサコフ(Корсаков, Михаил Семёнович)(1826 - 1871)という人物の胸像である…
コルサコフでは、1853年のムラヴィヨフスキー哨所の開設という故事を建都と位置付けている。ムラヴィヨフスキー哨所は、クリミア戦争等の事由で運営出来なくなり、1854年に一旦は休止してしまう。そして1869年に活動を再開することとなった。その際、当時の東シベリア総督であったミハイル・セミョノヴィチ・コルサコフに因んで“コルサコフスキー哨所”と改めて命名した。
この「コルサコフスキー」から「コルサコフ」という通称が起こり、辺りの地名として定着し、日露戦争後に日本領となるまでコルサコフとして知られていた…1946年以降のソ連化以降、日露戦争前のコルサコフが地域の地名として採用されている…
↓この胸像は、1993年に「建都140年」ということで登場したモノということである…
ハッキリ言えば…このミハイル・セミョノヴィチ・コルサコフ総督自身は、地域との縁が然程深いのでもないのだと思えるが…「街の名の由来になっている」ということで、立派な胸像が1993年に設けられている…以来、この胸像はそれなりに大切にされていると見受けられる…
コルサコフに立寄ると、この胸像の前を通って「来ましたよ!」と報告してみたい気分になる…
コルサコフ:G.I.ネヴェリスコイ提督銅像(2017.09.16)
黄昏:レーニン通とプルカエフ通の交差するロータリー(2017.09.15)
ユジノサハリンスク都心部のレーニン通を南下する…コルサコフの側、空港の側から街へ向かって北上する場合に「ユジノサハリンスクの繁華な辺りへ入って行く…」という感じがする辺りへ至る…そこは、大きなオベリスクが聳え立っているロータリーが設けられたプルカエフ通との交差点である…
↓傾く西日と、流れていて複雑に様子を変えている雲が、何か独特な空気感を醸し出している…
↑車輛の交通量も多目な場所で、歩道で多少注意しながら様子を眺め、写真を撮った…
↓複雑に流れながら拡がる雲の形状が、こういうような縦位置の画では判り易い…
↑更にその複雑な形状が、刻々と変わる光に照らされる様は面白い…
手近に在る「面白い」を見出す、または確かめるのが、手軽に近所で写真を撮る愉しさであるように思う…
↓傾く西日と、流れていて複雑に様子を変えている雲が、何か独特な空気感を醸し出している…
↑車輛の交通量も多目な場所で、歩道で多少注意しながら様子を眺め、写真を撮った…
↓複雑に流れながら拡がる雲の形状が、こういうような縦位置の画では判り易い…
↑更にその複雑な形状が、刻々と変わる光に照らされる様は面白い…
手近に在る「面白い」を見出す、または確かめるのが、手軽に近所で写真を撮る愉しさであるように思う…
駆逐された「夜の残滓」:<大祖国戦争勝利70年並びにキリスト生誕記念主教座大聖堂>(2017.09.15)
暁闇の空に浮かぶような…:<大祖国戦争勝利70年並びにキリスト生誕記念主教座大聖堂>(2017.09.15)
夜明前の濡れた路面:<大祖国戦争勝利70年並びにキリスト生誕記念主教座大聖堂>(2017.09.15)
麗しき寫眞機―X100F(2017.09.14)
カメラのようなモノについて、「気に入ったモノを買い求めて、直ちに持ち帰って試用」ということをしてみたければ、地元の稚内では用事が足りない…札幌辺りへ出るのが、確度が高い…
そう思い、とりあえず旭川に宿泊先を確保し、「旭川へ普通列車で出て、札幌を往復して…」程度の方法で“買物ツアー”を思い描いた…実際には「倒木処理のため列車が発車出来ません」という話しが発生して、数少ない列車の運行が乱れてしまったので、音威子府以南は特急列車に乗って旭川に出た。そしてバスで札幌に出て、そこから特急列車で旭川に引揚げ、更に翌朝の特急列車で稚内へ引揚げた…
↓そういう経過で入手した“新機材”…<X100F>である!!
↑写真は使い慣れた<P7700>で撮影している…
この<X100F>を持っていて、知人に出くわせば「“ライカ”でも買ってしまった?!」とか「“昔のカメラ”そのもののような…」という話しも出る…何か「麗しき寫眞機」とでも呼びたくなる…
↓こういう按配に、使わない場面ではレンズの辺りにキャップが被る…
↓持ち歩きの際に都合が好いと考え、純正のケースも仕入れた…
↓右側に寄せられたダイヤル等で操作する…新鋭の電子装置が組み込まれたモノでありながら、操作時の感覚は「古くからの機械式一眼レフカメラ」に寧ろ近い…
とりあえず…現在はサハリンでこの<X100F>を使い始めている…
そう思い、とりあえず旭川に宿泊先を確保し、「旭川へ普通列車で出て、札幌を往復して…」程度の方法で“買物ツアー”を思い描いた…実際には「倒木処理のため列車が発車出来ません」という話しが発生して、数少ない列車の運行が乱れてしまったので、音威子府以南は特急列車に乗って旭川に出た。そしてバスで札幌に出て、そこから特急列車で旭川に引揚げ、更に翌朝の特急列車で稚内へ引揚げた…
↓そういう経過で入手した“新機材”…<X100F>である!!
↑写真は使い慣れた<P7700>で撮影している…
この<X100F>を持っていて、知人に出くわせば「“ライカ”でも買ってしまった?!」とか「“昔のカメラ”そのもののような…」という話しも出る…何か「麗しき寫眞機」とでも呼びたくなる…
↓こういう按配に、使わない場面ではレンズの辺りにキャップが被る…
↓持ち歩きの際に都合が好いと考え、純正のケースも仕入れた…
↓右側に寄せられたダイヤル等で操作する…新鋭の電子装置が組み込まれたモノでありながら、操作時の感覚は「古くからの機械式一眼レフカメラ」に寧ろ近い…
とりあえず…現在はサハリンでこの<X100F>を使い始めている…