↓巨大な橋梁や街が一望出来る辺りの建物の壁を視て、一寸驚いた…
↑大きなアムールヒョウのグラフィティーに目を奪われた…
ウラジオストクを中心とする沿海地方には、希少な存在となっている豹や虎が居るのだというが…グラフィティーは、そうした動物の保護に関する活動に携わる団体が掲出しているモノであるように見受けられた…
希少な動物が居るという地域の特徴を想い起すのだが…こういうグラフィティーというのが、何か都会的で面白いような感じもする…
“オリヴィエ・サラダ”(Салат Оливье)=「ロシア風サラダ」とも言われる定番… (2018.04.15)
サラダ等の前菜、スープ、メイン料理という具合に「順次、皿を出す…」という「コース料理」というような流儀は、ロシアの貴族の邸宅で始まった流儀という説が在るようだが…ロシアの料理店で食事を摂る場合、“コース”的に順次料理が運ばれて来るという感じが「普通」かもしれない…
ウラジオストクで、建物の地下に入っているロシア料理の老舗レストランで食事を愉しんだ際にも、サラダ、スープ、メイン料理という組み合わせにビールを1本加えるということにしたのだった…
↓直ぐに出て来たビールの後に登場したのは、こんなサラダである…
↑“オリヴィエ・サラダ”(Салат Оливье)と呼ばれる定番なモノだが、「蟹の身」が加えられている…
「蟹」と言えば、日本国内では「北海道?」かもしれない…或いは「北陸?」とか「山陰?」というイメージもあるだろうか…ロシアでは「蟹」と言えば「極東?」であるらしい…「極東の代表的都市」でもあるウラジオストクの老舗レストラン…「蟹が加わる」というのも「土地らしさ」の演出なのであろう…
“オリヴィエ・サラダ”は、ロシア国外で「ロシア風サラダ」と言われる場合も在るらしい。ロシアでは大変にポピュラーだ。極々身近なことを言えば、ユジノサハリンスクのスーパーに在る惣菜コーナーで、「サラダの類」が売られていれば、大概はこの“オリヴィエ”が在る…
“オリヴィエ”というのは人名である。これは19世紀後半にモスクワで大繁盛した高級フランス料理店の料理長だったベルギー人、リュシアン・オリヴィエの名に因むのだという。オリヴィエが創り出したサラダは大変な人気であったそうだ…
オリヴィエが創り出したサラダは大変な人気であったというが、彼が精確なレシピを特段に伝えていなかったため、何時の間にかこの料理は流行らなくなったようだが…ソ連時代にオリヴィエが居た店での勤務経験が在ると称する料理人が「“オリヴィエ・サラダ”はこういうモノだった」として“首都風サラダ”なるモノを売り出した。そういう契機が在って、“オリヴィエ・サラダ”は「ポピュラーなサラダ」になって現在に至っている…「19世紀後半の…」という起こりが語られることは在るが、実質的には「ソ連時代から一般化しているメニュー」という感でもある…
新旧様々なモノ、由来も色々なモノが入り交じった感のウラジオストクで、その発祥や普及に色々と謂れが在る他方で“定番化”している料理に、些かの「土地らしさ」の演出が加わったメニューを頂く…何か「特別なことをしている」感がして面白いものだ…
ウラジオストクで、建物の地下に入っているロシア料理の老舗レストランで食事を愉しんだ際にも、サラダ、スープ、メイン料理という組み合わせにビールを1本加えるということにしたのだった…
↓直ぐに出て来たビールの後に登場したのは、こんなサラダである…
↑“オリヴィエ・サラダ”(Салат Оливье)と呼ばれる定番なモノだが、「蟹の身」が加えられている…
「蟹」と言えば、日本国内では「北海道?」かもしれない…或いは「北陸?」とか「山陰?」というイメージもあるだろうか…ロシアでは「蟹」と言えば「極東?」であるらしい…「極東の代表的都市」でもあるウラジオストクの老舗レストラン…「蟹が加わる」というのも「土地らしさ」の演出なのであろう…
“オリヴィエ・サラダ”は、ロシア国外で「ロシア風サラダ」と言われる場合も在るらしい。ロシアでは大変にポピュラーだ。極々身近なことを言えば、ユジノサハリンスクのスーパーに在る惣菜コーナーで、「サラダの類」が売られていれば、大概はこの“オリヴィエ”が在る…
“オリヴィエ”というのは人名である。これは19世紀後半にモスクワで大繁盛した高級フランス料理店の料理長だったベルギー人、リュシアン・オリヴィエの名に因むのだという。オリヴィエが創り出したサラダは大変な人気であったそうだ…
オリヴィエが創り出したサラダは大変な人気であったというが、彼が精確なレシピを特段に伝えていなかったため、何時の間にかこの料理は流行らなくなったようだが…ソ連時代にオリヴィエが居た店での勤務経験が在ると称する料理人が「“オリヴィエ・サラダ”はこういうモノだった」として“首都風サラダ”なるモノを売り出した。そういう契機が在って、“オリヴィエ・サラダ”は「ポピュラーなサラダ」になって現在に至っている…「19世紀後半の…」という起こりが語られることは在るが、実質的には「ソ連時代から一般化しているメニュー」という感でもある…
新旧様々なモノ、由来も色々なモノが入り交じった感のウラジオストクで、その発祥や普及に色々と謂れが在る他方で“定番化”している料理に、些かの「土地らしさ」の演出が加わったメニューを頂く…何か「特別なことをしている」感がして面白いものだ…
<БУРГЕР КИНГ>(ブルゲル キング)(2018.04.14)
休日の早朝:プルカエフ通とレーニン通との交差点(2018.04.29)
早く眼を開け、多少気温が上がらずに0℃を挟むような気温であったが、少し戸外を散策した…雲が殆ど無いような状態であった…
↓「この場所」に至った…ライトアップの灯りが未だ残る他方で、空が明るくなり始めている…午前6時頃だ…
↑「西側から東側を視る」ような辺りからの画…
↓何時ものように「大きい…」と見上げるが…車輛の通行量は非常に少ない…「休日の早朝」ならではである…
↑普段は「ユジノサハリンスクの少し繁華な辺りに入り込む…」という感を抱く場所だが…静かだ…
↓廻り込んで、「東側から西側を視る」ような辺りに…
↑空の感じがかなり違う…
↓東側からここの交差点に向かって来る車輛の運転手から視える看板が画のやや右寄りに…
↑西寄りのホルムスクやアニワへ、南寄りのコルサコフや空港へ、そして北東寄りのドリンスクへと続く道が交わる辺りだ…
静かな朝だった…
↓「この場所」に至った…ライトアップの灯りが未だ残る他方で、空が明るくなり始めている…午前6時頃だ…
↑「西側から東側を視る」ような辺りからの画…
↓何時ものように「大きい…」と見上げるが…車輛の通行量は非常に少ない…「休日の早朝」ならではである…
↑普段は「ユジノサハリンスクの少し繁華な辺りに入り込む…」という感を抱く場所だが…静かだ…
↓廻り込んで、「東側から西側を視る」ような辺りに…
↑空の感じがかなり違う…
↓東側からここの交差点に向かって来る車輛の運転手から視える看板が画のやや右寄りに…
↑西寄りのホルムスクやアニワへ、南寄りのコルサコフや空港へ、そして北東寄りのドリンスクへと続く道が交わる辺りだ…
静かな朝だった…
ホルムスク港(2018.04.24)
「影の木」または「木の影」…(2018.04.26)
スケート靴とアイスホッケーのスティック(2018.04.22)
『犬を連れた奥さん』の像(2018.04.26)
陽射しが心地好く、気温以上に温かい感じがする朝、劇場の<チェーホフセンター>の辺りを歩いた…
<チェーホフセンター>の辺りは、周辺を歩く人達の“通り道”のようでもあるのだが、都市緑地として整備が行き届いており、「普通に通り過ぎる」というだけでも気持ちが好い場合が多い…
↓こんな女性の像が在る…
↑「鼻に触れると好いことが…」という話しになっていて、多くの人が触れているらしく、表面加工が剥げてしまっている…
↓女性の像は、こういう具合に佇んでいる…こうして、少し退いた視方をしても、“鼻”の表面加工が剥げていることが判る…
↑概ね等身大で、小型犬を連れている…
これはチェーホフの小説『犬を連れた奥さん』のヒロインをイメージしたモノだ…
↓連れられている犬…なかなか佳く出来ている感じがする…
サハリンでは、「実際に当地に足を踏み入れている超有名作家」ということで、チェーホフが殊更に敬愛されているように見えるが…その作品に着想を得た像が「街の人々のラッキーアイテム」のような扱いなのが面白い…
<チェーホフセンター>の辺りは、周辺を歩く人達の“通り道”のようでもあるのだが、都市緑地として整備が行き届いており、「普通に通り過ぎる」というだけでも気持ちが好い場合が多い…
↓こんな女性の像が在る…
↑「鼻に触れると好いことが…」という話しになっていて、多くの人が触れているらしく、表面加工が剥げてしまっている…
↓女性の像は、こういう具合に佇んでいる…こうして、少し退いた視方をしても、“鼻”の表面加工が剥げていることが判る…
↑概ね等身大で、小型犬を連れている…
これはチェーホフの小説『犬を連れた奥さん』のヒロインをイメージしたモノだ…
↓連れられている犬…なかなか佳く出来ている感じがする…
サハリンでは、「実際に当地に足を踏み入れている超有名作家」ということで、チェーホフが殊更に敬愛されているように見えるが…その作品に着想を得た像が「街の人々のラッキーアイテム」のような扱いなのが面白い…
新旧の海軍艦艇が視える海岸:ウラジオストク(2018.04.15)
ウラジオストクを訪ねたなら、海岸の緑地に展示された「ホンモノの第2次大戦期に稼働した潜水艦」というモノが視たかった。そんな願いを果たし、辺りをまた歩き始めた…
↓こういう光景に出くわす…
↑手前は“記念艦”…相当古い代物だ…そして画の右側に“現役”のロシア海軍艦艇が一塊になっている…
↓角度を変えると、<黄金橋>が背景になっている“記念艦”は…<クラースヌィー・ヴィンペル>(Красный Вымпел)という名で、1910年に進水した船で、「草創期の赤軍=ソ連軍」で運用されたような船だ…
↑残念ながら、中の見学はオープンしていなかった…
で…考えてみると…“記念艦”の背後の巨大な橋は、船とは「100歳余りの差」ということになる…
↓今度は“現役”の一群に眼を向けた…
↑“356”という番号の船の奥に、小型の船が脇に停泊している大きな艦が視える…「艦対艦ミサイル発射筒」が多数積載されて、何やら物々しい…
この物々しい艦…“011”という番号が視えたが…<ヴァリャーグ>(Варяг)という「ミサイル巡洋艦」であると見受けられる…全長が192mで、全幅が20mという大型の艦である…
<ヴァリャーグ>(Варяг)は1983年に進水し、1989年に竣工している。ソ連時代、この艦は<チルヴォーナ・ウクライーナ>(Червона Украина)という名だった。「赤いウクライナ」という意味ということだ…1990年代の情勢変化を踏まえ、1995年に現行の<ヴァリャーグ>(Варяг)に改名されている。因みに、日露戦争の時代にも同名の艦が在って、勇戦した経過が在る…
この<ヴァリャーグ>(Варяг)…ロシア海軍の太平洋艦隊の旗艦なのだそうだ…そんな訳で「司令本部に近い場所」に停泊している場合が多く、海岸を歩いていると視えることも在るという訳だ…
こういう具合に、「本当に新旧」な海軍艦艇が視えるウラジオストク…「海軍の街」という貌が覗く…
↓こういう光景に出くわす…
↑手前は“記念艦”…相当古い代物だ…そして画の右側に“現役”のロシア海軍艦艇が一塊になっている…
↓角度を変えると、<黄金橋>が背景になっている“記念艦”は…<クラースヌィー・ヴィンペル>(Красный Вымпел)という名で、1910年に進水した船で、「草創期の赤軍=ソ連軍」で運用されたような船だ…
↑残念ながら、中の見学はオープンしていなかった…
で…考えてみると…“記念艦”の背後の巨大な橋は、船とは「100歳余りの差」ということになる…
↓今度は“現役”の一群に眼を向けた…
↑“356”という番号の船の奥に、小型の船が脇に停泊している大きな艦が視える…「艦対艦ミサイル発射筒」が多数積載されて、何やら物々しい…
この物々しい艦…“011”という番号が視えたが…<ヴァリャーグ>(Варяг)という「ミサイル巡洋艦」であると見受けられる…全長が192mで、全幅が20mという大型の艦である…
<ヴァリャーグ>(Варяг)は1983年に進水し、1989年に竣工している。ソ連時代、この艦は<チルヴォーナ・ウクライーナ>(Червона Украина)という名だった。「赤いウクライナ」という意味ということだ…1990年代の情勢変化を踏まえ、1995年に現行の<ヴァリャーグ>(Варяг)に改名されている。因みに、日露戦争の時代にも同名の艦が在って、勇戦した経過が在る…
この<ヴァリャーグ>(Варяг)…ロシア海軍の太平洋艦隊の旗艦なのだそうだ…そんな訳で「司令本部に近い場所」に停泊している場合が多く、海岸を歩いていると視えることも在るという訳だ…
こういう具合に、「本当に新旧」な海軍艦艇が視えるウラジオストク…「海軍の街」という貌が覗く…
<PIRATE COFFEE>(パイレーツコーヒー)(2018.04.14)
壁の中の街…(2018.04.25)
A.S.プーシキン像:ウラジオストク(2018.04.14)
<軍事功労都市>のモニュメントから(2018.04.14)
早朝の海岸近辺:ウラジオストク(2018.04.15)
アレウツカヤ通:雨交じりな午後(2018.04.14)
旧「王子製紙眞岡工場」(2018.04.24)
硝子張りのビルと空と…(2018.04.22)
<サハリン州立美術館>=旧 北海道拓殖銀行豊原支店(2018.04.21)
ウラジオストク:GUM百貨店(ГУМ)の建物(2018.04.14)
雨も交じっていたような感じの中で街を歩いていた…
↓酷く巨大でもないのだが、重厚な感じがする古くからの建物だ…
↑これがGUM百貨店である。「GUM百貨店」と日本語では呼び習わすが、ロシア語の「ГУМ」(GUM)という表現自体が「国営百貨店」の略称である…
↓スヴェトランスカヤ通の反対側からこの建物を眺めていた…
ソ連時代に「ГУМ」(GUM)という名になって、現在はファッション系の小売業がテナントに入っている感じであるようで、他所の入ってみたい店で買物はしたが、ここにはとりあえず入らなかった…在るか否かも判らないが、機会が在れば是非寄ってはみたいが…
ソ連時代に「ГУМ」(GUM)という名になる以前、ここは「クンスト&アルバース」という店だったという。ドイツからやって来た交易商が起こした会社が在って、各種の小売り、卸売りの事業を展開していたということで、その会社が20世紀初頭に建てたのがこの建物であるようだ。「クンスト&アルバース」と言えば、かのエレオノラ・プレイが、会社を営んでいた後に領事館に勤めた夫が逝去した後に勤務した経過が在るようだ。そして1930年にこの店がこれまでどおりに運営出来なくなって閉鎖となり、それを契機にエレオノラ・プレイは永く住んだウラジオストクを去っている…
こういう、旧く豪華な建物が「無造作…」とばかりに、辺りで見受けられる街というのは面白い…
↓酷く巨大でもないのだが、重厚な感じがする古くからの建物だ…
↑これがGUM百貨店である。「GUM百貨店」と日本語では呼び習わすが、ロシア語の「ГУМ」(GUM)という表現自体が「国営百貨店」の略称である…
↓スヴェトランスカヤ通の反対側からこの建物を眺めていた…
ソ連時代に「ГУМ」(GUM)という名になって、現在はファッション系の小売業がテナントに入っている感じであるようで、他所の入ってみたい店で買物はしたが、ここにはとりあえず入らなかった…在るか否かも判らないが、機会が在れば是非寄ってはみたいが…
ソ連時代に「ГУМ」(GUM)という名になる以前、ここは「クンスト&アルバース」という店だったという。ドイツからやって来た交易商が起こした会社が在って、各種の小売り、卸売りの事業を展開していたということで、その会社が20世紀初頭に建てたのがこの建物であるようだ。「クンスト&アルバース」と言えば、かのエレオノラ・プレイが、会社を営んでいた後に領事館に勤めた夫が逝去した後に勤務した経過が在るようだ。そして1930年にこの店がこれまでどおりに運営出来なくなって閉鎖となり、それを契機にエレオノラ・プレイは永く住んだウラジオストクを去っている…
こういう、旧く豪華な建物が「無造作…」とばかりに、辺りで見受けられる街というのは面白い…
<Absolute Jazz Quartet>:夜の図書館にて…(2018.04.21)
気に入っているバンドの<Absolute Jazz Quartet>が演奏をすると聞き及んだが…「午後10時開演 会場は図書館のホール」という話しに「?!」ということになった…
ロシア国内各地で、文化発信基地である図書館の魅力を高めようと<Библионочь>(ビブリオノーチ)なる催しをやっている。催事名は「図書館ナイト」というような意味合いの造語だ…夜に図書館を開けて、講演会やコンサートや展示会等々を行おうという訳だ…
その一環として…近所の州立図書館では、「午後10時開演」で<Absolute Jazz Quartet>が演奏を行うということになった訳だ…
↓午後10時を前に…図書館は本当に煌々と灯りが点き、人の出入りも在った…
会場となるホールに入ってみれば、顔馴染みな<Absolute Jazz Quartet>のメンバーが演奏に備えて準備を行っていた。そして準備が済んで、彼らは静かに控室側に退いた…
飲食店等を会場に演奏する場合…「徐に演奏を始める…」という風なことが多いのだが、今回は図書館の職員と見受けられる司会者が出て、「始めます!」となってからメンバーが登場した…
↓ギター、ドラムス、ベース、そして楽器が大きいので演奏者が見え難いピアノ…4人編成だ…
↑ベースはメンバーが替った…
↓今回は…慣習が飲食をしているのでもない…純粋に「演奏会」的な雰囲気だ…
↑新旧の、彼らが気に入っている作品を彼らなりにアレンジした、なかなかに力の入った演奏が続く…
↓段々と熱が入って「ノリノリ」になるギターと…かなり派手なソロを入れる場面が在ったドラムスが好かった…
1時間余りの演奏だったが…あっという間に時間が過ぎた…
↓2曲やったアンコールの1曲を…思わず動画に撮ってしまった…
「一寸変わった?」という状況での演奏…なかなかに愉しめた!好い演奏を聴いて気分が高まり、「夜更かしな土曜日…」になってしまった…
ロシア国内各地で、文化発信基地である図書館の魅力を高めようと<Библионочь>(ビブリオノーチ)なる催しをやっている。催事名は「図書館ナイト」というような意味合いの造語だ…夜に図書館を開けて、講演会やコンサートや展示会等々を行おうという訳だ…
その一環として…近所の州立図書館では、「午後10時開演」で<Absolute Jazz Quartet>が演奏を行うということになった訳だ…
↓午後10時を前に…図書館は本当に煌々と灯りが点き、人の出入りも在った…
会場となるホールに入ってみれば、顔馴染みな<Absolute Jazz Quartet>のメンバーが演奏に備えて準備を行っていた。そして準備が済んで、彼らは静かに控室側に退いた…
飲食店等を会場に演奏する場合…「徐に演奏を始める…」という風なことが多いのだが、今回は図書館の職員と見受けられる司会者が出て、「始めます!」となってからメンバーが登場した…
↓ギター、ドラムス、ベース、そして楽器が大きいので演奏者が見え難いピアノ…4人編成だ…
↑ベースはメンバーが替った…
↓今回は…慣習が飲食をしているのでもない…純粋に「演奏会」的な雰囲気だ…
↑新旧の、彼らが気に入っている作品を彼らなりにアレンジした、なかなかに力の入った演奏が続く…
↓段々と熱が入って「ノリノリ」になるギターと…かなり派手なソロを入れる場面が在ったドラムスが好かった…
1時間余りの演奏だったが…あっという間に時間が過ぎた…
↓2曲やったアンコールの1曲を…思わず動画に撮ってしまった…
「一寸変わった?」という状況での演奏…なかなかに愉しめた!好い演奏を聴いて気分が高まり、「夜更かしな土曜日…」になってしまった…
朝の<中央広場>:ウラジオストク (2018.04.15)
↓早朝の…殆ど人が居ない状態…この種の広場は、こんな時間帯に写真を撮るというのが、個人的には好きだ…
↑日中のウラジオストクに着いて歩き回り、正面に視える「社会主義政権下の藝術」という雰囲気が色濃く滲む銅像の一群を視て、「明日の早朝に…」と思い付いて本当に足を運んでしまったのだった…
中央の、かなり高い台座に載せられている、旗を手にした赤軍兵士の像が在る背後の坂道がオケアンスキー通なのだが…坂道の半ば辺りから上、視えている高層建築が霧に霞んでいる…前日の深い霧が「継続中」な感であった…
こういう様子に、「今日も遠景が視え悪い状態?」と思ったのだが、ここの後に辺りを半ば迷いながら歩き回って、宿で一息入れてから戸外に出ると霧は晴れ、時々陽射しが覗く場面も在る「散策には悪くない状況」となったのだった…
↑日中のウラジオストクに着いて歩き回り、正面に視える「社会主義政権下の藝術」という雰囲気が色濃く滲む銅像の一群を視て、「明日の早朝に…」と思い付いて本当に足を運んでしまったのだった…
中央の、かなり高い台座に載せられている、旗を手にした赤軍兵士の像が在る背後の坂道がオケアンスキー通なのだが…坂道の半ば辺りから上、視えている高層建築が霧に霞んでいる…前日の深い霧が「継続中」な感であった…
こういう様子に、「今日も遠景が視え悪い状態?」と思ったのだが、ここの後に辺りを半ば迷いながら歩き回って、宿で一息入れてから戸外に出ると霧は晴れ、時々陽射しが覗く場面も在る「散策には悪くない状況」となったのだった…
早春の遅めな黄昏:レーニン広場(2018.04.21)
エレオノラ・プレイの像(2018.04.14)
ウラジオストクのスヴェトランスカヤ通を歩き、伝統を誇る<GUM>(百貨店)の華麗な建物等が在る辺り…少し不思議な銅像が佇んでいる…
↓こんな具合に、階段の辺りで何かをしようとしているようなポーズで佇んでいる女性…
↑等身大よりはかなり大きい感じで、存外に目立つので足を停めて眺めた…
何となく思い浮かべたのは…幼少の頃から小学生位までに親しんだ、外国の児童文学に原案を求めたアニメ作品の“世界名作劇場”のようなモノに出て来る劇中人物…要は、それらの作品の原案の小説の背景になっている「19世紀後半から20世紀初め」というような時代の衣装を身に着けた、「良家の奥様」風な女性の像だということである…
↓「この女性は何者?」と思えば、確りと「Eleanor Lord Pray」とフルネームが記されている…
このエレオノラ・プレイは、1894年から1930年までウラジオストクに住み続けていて、その間に実家、親類、友人と方々に盛んに手紙を出していた女性で、その手紙が現在に伝えられているのだという。そのエレオノラ・プレイの像が、長く住んでいたウラジオストクに登場したということだが…その像を視ると、益々「この人物?」と気になる…
エレオノラ・プレイに関しては、「英語による情報」は存外に多く、色々なことが判った…
エレオノラ・ロード・プレイ(Eleanor Lord Pray)(1868-1954)…米国メイン州で産れている…
1894年、フレデリック・プレイと結婚した。シベリアで交易を手掛けた一族の出で、ウラジオストクで<アメリカンストア>という会社を営んでいたチャールズ・スミスという人物が在る。エレオノラの夫であるフレデリックは、このチャールズ・スミスの妻であるサラの弟だ。義兄の会社を手伝うことになり、ウラジオストクへ渡る際に妻のエレオノラを伴った。この時、彼らは太平洋を越えて横浜に至り、横浜からウラジオストクを目指したようだ…
義兄のチャールズ・スミスが1898年に逝去し、<アメリカンストア>という会社の権利は義姉のサラ・スミスが引き継ぐ…
1906年には娘のドロシーが産れている。1916年に、このドロシーを上海のアメリカンスクールで学ばせることにしたが、義姉のサラも上海に移っていた。
1918年には<アメリカンストア>は閉鎖を余儀なくされるが、夫のフレデリックは在ウラジオストク米国領事館の職員となり、ウラジオストクで勤務を続けた。エレオノラもウラジオストクに留まり続けた。
1923年、夫のフレデリックが逝去する。その後、エレオノラは<クンスト&アルバース>というデパートで働いていた…が、1930年にその<クンスト&アルバース>が閉鎖を余儀なくされると、エレオノラ・プレイはウラジオストクを離れた。そして上海で娘や義姉を合流した。
やがて帰国し、1954年にワシントンDCで他界したそうだ…
大雑把に纏めると上記のような感じだが…1894年から1930年の35年間程…彼女自身の「人生の“ド真ん中”」で「人生の半分」をウラジオストクで過ごしている訳だが、「時代が畝っていた」という時期でもある…
1894年と言えば、皇帝ニコライ2世が即位した年だ。ニコライ2世は皇太子時代にウラジオストクへ立ち寄って、駅の起工式も在ったのだが、1890年代はウラジオストクが「新興都市」として大いに発展していたような時期でもある…そして日露戦争が在って、第1次大戦が在って、革命や内戦や外国の派兵というような出来事も在った…
こういう中、新たな土地での新しい暮らしに心弾ませる場面や、一定程度の熟し方が見受けられた社交生活も在って、他方に血腥い戦乱のニュースに気持ちを曇らせる場面や、第1次大戦期には「ドイツ系の姓」というだけで追い払われるようにウラジオストクを去る羽目になった知人達の行く末を案じるような場面も在った訳だ…
そういう揺れた時代の様々なことが活き活きと活写された彼女の手紙は、「大変に貴重な史料」であり、彼女の後裔にあたる人達も含めて多くの人達が参照しているようだ…
↓何気ない銅像なのだが…その背後になかなかに「凄い物語」が在るということになる…
↓こんな具合に、階段の辺りで何かをしようとしているようなポーズで佇んでいる女性…
↑等身大よりはかなり大きい感じで、存外に目立つので足を停めて眺めた…
何となく思い浮かべたのは…幼少の頃から小学生位までに親しんだ、外国の児童文学に原案を求めたアニメ作品の“世界名作劇場”のようなモノに出て来る劇中人物…要は、それらの作品の原案の小説の背景になっている「19世紀後半から20世紀初め」というような時代の衣装を身に着けた、「良家の奥様」風な女性の像だということである…
↓「この女性は何者?」と思えば、確りと「Eleanor Lord Pray」とフルネームが記されている…
このエレオノラ・プレイは、1894年から1930年までウラジオストクに住み続けていて、その間に実家、親類、友人と方々に盛んに手紙を出していた女性で、その手紙が現在に伝えられているのだという。そのエレオノラ・プレイの像が、長く住んでいたウラジオストクに登場したということだが…その像を視ると、益々「この人物?」と気になる…
エレオノラ・プレイに関しては、「英語による情報」は存外に多く、色々なことが判った…
エレオノラ・ロード・プレイ(Eleanor Lord Pray)(1868-1954)…米国メイン州で産れている…
1894年、フレデリック・プレイと結婚した。シベリアで交易を手掛けた一族の出で、ウラジオストクで<アメリカンストア>という会社を営んでいたチャールズ・スミスという人物が在る。エレオノラの夫であるフレデリックは、このチャールズ・スミスの妻であるサラの弟だ。義兄の会社を手伝うことになり、ウラジオストクへ渡る際に妻のエレオノラを伴った。この時、彼らは太平洋を越えて横浜に至り、横浜からウラジオストクを目指したようだ…
義兄のチャールズ・スミスが1898年に逝去し、<アメリカンストア>という会社の権利は義姉のサラ・スミスが引き継ぐ…
1906年には娘のドロシーが産れている。1916年に、このドロシーを上海のアメリカンスクールで学ばせることにしたが、義姉のサラも上海に移っていた。
1918年には<アメリカンストア>は閉鎖を余儀なくされるが、夫のフレデリックは在ウラジオストク米国領事館の職員となり、ウラジオストクで勤務を続けた。エレオノラもウラジオストクに留まり続けた。
1923年、夫のフレデリックが逝去する。その後、エレオノラは<クンスト&アルバース>というデパートで働いていた…が、1930年にその<クンスト&アルバース>が閉鎖を余儀なくされると、エレオノラ・プレイはウラジオストクを離れた。そして上海で娘や義姉を合流した。
やがて帰国し、1954年にワシントンDCで他界したそうだ…
大雑把に纏めると上記のような感じだが…1894年から1930年の35年間程…彼女自身の「人生の“ド真ん中”」で「人生の半分」をウラジオストクで過ごしている訳だが、「時代が畝っていた」という時期でもある…
1894年と言えば、皇帝ニコライ2世が即位した年だ。ニコライ2世は皇太子時代にウラジオストクへ立ち寄って、駅の起工式も在ったのだが、1890年代はウラジオストクが「新興都市」として大いに発展していたような時期でもある…そして日露戦争が在って、第1次大戦が在って、革命や内戦や外国の派兵というような出来事も在った…
こういう中、新たな土地での新しい暮らしに心弾ませる場面や、一定程度の熟し方が見受けられた社交生活も在って、他方に血腥い戦乱のニュースに気持ちを曇らせる場面や、第1次大戦期には「ドイツ系の姓」というだけで追い払われるようにウラジオストクを去る羽目になった知人達の行く末を案じるような場面も在った訳だ…
そういう揺れた時代の様々なことが活き活きと活写された彼女の手紙は、「大変に貴重な史料」であり、彼女の後裔にあたる人達も含めて多くの人達が参照しているようだ…
↓何気ない銅像なのだが…その背後になかなかに「凄い物語」が在るということになる…
霧の下の街…:ウラジオストク空港周辺(2018.04.16)
ウラジオストク空港の駐機場:機窓から…(2018.04.16)
深い霧に包まれていたウラジオストク空港で、予定どおりに搭乗の案内が在って、ボーディングブリッジから機内に入り、所定の座席に着いた…
離陸へ向けて、飛行機―S7航空のA320―はボーディングブリッジからゆっくりと離れ、駐機場脇の通路を動き始めた…
↓空港のビルも、待機中の飛行機も、深い霧に包まれている…
↑荷物を動かしているらしい車輛の灯りが妙に目立つ…しかも車輛は、ロシアの作業車輛に見受けられる「本来はトラクター?」という感じの型である…
↓尾翼にロシア国旗風なリボン…多分<アエロフロート>の少し大き目な飛行機だ…
↑モスクワ等との間を往来しているモノと想像したが…こんな距離で、この種の飛行機を視る機会は少ない…
↓大きな飛行機も、奥のビルも、本当に霧に包まれている…
↓ボーディングブリッジを使わない、小型の飛行機は、建物から少し離れた辺りに集められていた…
早朝は深い霧だったが…この日は後からなかなかの好天に恵まれたというようにも聞く…
霧の空港に送り出されたが…またウラジオストクを訪ねてみたいものだ…
離陸へ向けて、飛行機―S7航空のA320―はボーディングブリッジからゆっくりと離れ、駐機場脇の通路を動き始めた…
↓空港のビルも、待機中の飛行機も、深い霧に包まれている…
↑荷物を動かしているらしい車輛の灯りが妙に目立つ…しかも車輛は、ロシアの作業車輛に見受けられる「本来はトラクター?」という感じの型である…
↓尾翼にロシア国旗風なリボン…多分<アエロフロート>の少し大き目な飛行機だ…
↑モスクワ等との間を往来しているモノと想像したが…こんな距離で、この種の飛行機を視る機会は少ない…
↓大きな飛行機も、奥のビルも、本当に霧に包まれている…
↓ボーディングブリッジを使わない、小型の飛行機は、建物から少し離れた辺りに集められていた…
早朝は深い霧だったが…この日は後からなかなかの好天に恵まれたというようにも聞く…
霧の空港に送り出されたが…またウラジオストクを訪ねてみたいものだ…
ニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵像(2018.04.15)
「街を見下ろす高台」とでも言えば、大概は一寸特別な感がしないでもないのだが…ウラジオストクに関しては、「街を見下ろす高台」に該当する箇所が非常に多い…
その数在る「街を見下ろす高台」の中、「代表的な場所」となるケーブルカーの上側の乗降場辺りから、「坂を下りながら、街を見下ろす型になる」というようなエリアを歩いて、極短いウラジオストク滞在の中で「何となく馴染みになったエリア」へ移動していた…
↓こういう銅像が立っている場所に行き当たった…
↓<X100F>ではやや画を纏め悪い高さに立つ像で、<P7700>の望遠を駆使した…
この像はニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵(Николай Николаевич Муравьёв-Амурский)(1809-1881)の像である。
本来の姓は「ムラヴィヨフ」なのだが、その功績によって「アムールスキー伯爵」という称号を贈られた。故に「ムラヴィヨフ=アムールスキー」として知られている。
軍人として経歴を重ね、1841年に陸軍少将となるが、1847年に38歳という異例の若さで東シベリア総督に任じられた。
東シベリア総督として、アムール川流域での権益の確立に努力を傾けた。サハリンを紹介したことで知られるネヴェリスコイは、このムラヴィヨフ総督の指示の下でサハリンや、その後のアムール川流域の調査を行っていることになる…
1860年に今日の沿海地方に相当する地域をロシア領とするに至り、ウラジオストクを拓くこととなった…そういう縁で、ウラジオストクに銅像が在る訳だ…
ムラヴィヨフ総督には、実は来日経過が在る…1859年に来日し、日露両国の話し合いが纏まらずに「雑居」という曖昧な型になっていたサハリンの領土権に関する事案で、江戸幕府に対して「ロシア領!」と申し入れたが、江戸幕府にその主張が退けられた…(この事案は、1875年に榎本武揚が代表として交渉を纏めた条約で解決が図られた…榎本武揚の名が出たが、サンクトペテルブルグでの役目を終えた彼はシベリアを陸路で横断し、ウラジオストクから船に乗って帰国している…)
その後、ムラヴィヨフ=アムールスキーは1861年に東シベリア総督を辞し、1868年にパリへ移住した。そして1881年にパリで他界している…
↓自身の号令の下に拓かれ始めた街を望む型で像が立っている訳だが…どんな想いが彼の中に?そんなことを考えながら、この像を眺めていた…
その数在る「街を見下ろす高台」の中、「代表的な場所」となるケーブルカーの上側の乗降場辺りから、「坂を下りながら、街を見下ろす型になる」というようなエリアを歩いて、極短いウラジオストク滞在の中で「何となく馴染みになったエリア」へ移動していた…
↓こういう銅像が立っている場所に行き当たった…
↓<X100F>ではやや画を纏め悪い高さに立つ像で、<P7700>の望遠を駆使した…
この像はニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵(Николай Николаевич Муравьёв-Амурский)(1809-1881)の像である。
本来の姓は「ムラヴィヨフ」なのだが、その功績によって「アムールスキー伯爵」という称号を贈られた。故に「ムラヴィヨフ=アムールスキー」として知られている。
軍人として経歴を重ね、1841年に陸軍少将となるが、1847年に38歳という異例の若さで東シベリア総督に任じられた。
東シベリア総督として、アムール川流域での権益の確立に努力を傾けた。サハリンを紹介したことで知られるネヴェリスコイは、このムラヴィヨフ総督の指示の下でサハリンや、その後のアムール川流域の調査を行っていることになる…
1860年に今日の沿海地方に相当する地域をロシア領とするに至り、ウラジオストクを拓くこととなった…そういう縁で、ウラジオストクに銅像が在る訳だ…
ムラヴィヨフ総督には、実は来日経過が在る…1859年に来日し、日露両国の話し合いが纏まらずに「雑居」という曖昧な型になっていたサハリンの領土権に関する事案で、江戸幕府に対して「ロシア領!」と申し入れたが、江戸幕府にその主張が退けられた…(この事案は、1875年に榎本武揚が代表として交渉を纏めた条約で解決が図られた…榎本武揚の名が出たが、サンクトペテルブルグでの役目を終えた彼はシベリアを陸路で横断し、ウラジオストクから船に乗って帰国している…)
その後、ムラヴィヨフ=アムールスキーは1861年に東シベリア総督を辞し、1868年にパリへ移住した。そして1881年にパリで他界している…
↓自身の号令の下に拓かれ始めた街を望む型で像が立っている訳だが…どんな想いが彼の中に?そんなことを考えながら、この像を眺めていた…
霧の立ち込むウラジオストク空港の早朝(2018.04.16)
ウラジオストク市章(2018.04.14)
↓ウラジオストクの市章のレリーフを見付けた…
↑1880年代から「虎」の市章が用いられているようである、背後に港を象徴する錨を組み合わせるモノや、そうではないモノ等、幾分のバリエーションは見受けられるようだ…
この市章は<軍事功労都市>という、2010年11月4日付の大統領令に関するモニュメントに貼り付いていたモノだ。何となく気に入ったので、写真に収めた…
古くは、虎が家畜を襲うようなことも在ったというが、虎は「地域のシンボル」とされている。所謂「アムールトラ」というモノである。「シベリアン・タイガー」というように呼ぶ場合もあるかもしれない。ロシア語では「ウスリースキー・ティーグル」(ウスリートラ)と呼ぶことが多いのだろうか…大きな雄の個体で、体長が3mで体重が300kgという次元になるという。トラの仲間では「世界最大級」であるそうだが、推定で500頭前後しか棲息していないのだという…
↑1880年代から「虎」の市章が用いられているようである、背後に港を象徴する錨を組み合わせるモノや、そうではないモノ等、幾分のバリエーションは見受けられるようだ…
この市章は<軍事功労都市>という、2010年11月4日付の大統領令に関するモニュメントに貼り付いていたモノだ。何となく気に入ったので、写真に収めた…
古くは、虎が家畜を襲うようなことも在ったというが、虎は「地域のシンボル」とされている。所謂「アムールトラ」というモノである。「シベリアン・タイガー」というように呼ぶ場合もあるかもしれない。ロシア語では「ウスリースキー・ティーグル」(ウスリートラ)と呼ぶことが多いのだろうか…大きな雄の個体で、体長が3mで体重が300kgという次元になるという。トラの仲間では「世界最大級」であるそうだが、推定で500頭前後しか棲息していないのだという…
“サリャンカ”=美味いロシアのスープ… (2017.04.15)
滞在2日目の「宿での休憩を挟み、朝、日中、夕方と3回で歩く」という展開の“3回目”…宿から<ポクロフスキー司教座聖堂>へ向かった後に坂道を下りて、「宿から然程遠くない辺りで適当に夕食を摂って…」という考えだった…
そして入ったのは、「1923年創業」を謳う、建物の地下に入っているロシア料理のレストランだった…
方々からの来訪者を多く迎えているウラジオストクに在って、店はウラジオストク駅と<中央広場>との間というような位置に在り、「ロシアの街の老舗でロシア料理」と外国人の来店も多いと見受けられる。英語や写真が色々と入ったメニュー表が備えられていた…
そういうメニュー表を何となく眺めて…「“ロシア料理”ということでコレが!しかも“老舗”というから…きっと美味い筈…」と考えて頼んだメニューが在る…
↓コレだ!
↑ロシア語で、「スープを頂く」ことは「飲む」ではなく「食べる」である。その「食べるスープ」という表現が似合う一皿…“サリャンカ”である。
“サリャンカ”は、肉や野菜、殊にピクルスが入り、色々な調味料が入って少し濃い味がする…酸味、辛味、塩気と様々な味が混然となっていて、具材の肉や野菜を「ドンドン食べる」という感じになる…この店では「肉の“サリャンカ”」と「魚の“サリャンカ”」とが在ったが、私は「肉」を選んだのだった…
“サリャンカ”は、18世紀頃からロシアの貴族達の間で「ウクライナ由来の料理」が流行り始めた中で拡がったと考えられている料理らしい…「18世紀頃から」ということで、「比較的新しい」というように言われているようだ…
所謂「ロシア料理」と呼ばれる様々なモノの中…「殊更に美味いモノ」の一つとして「覚えておくべきモノ」ではないかと、私自身は考えている…と言っても、日本国内の所謂「ロシア料理の店」というような場所では「圧倒的な知名度」の故に「“ボルシチ”ばかりが売れる」というのも見受けられるらしいが…それはそれとして、“サリャンカ”は美味い!!
ここでは、脇に添えられたサワークリームを「少し多い?」とも思える程度に入れて、ガツガツと頂いた…たった一回頂いたに過ぎないのだが…何となく「忘れ難い味」という感だ…
そして入ったのは、「1923年創業」を謳う、建物の地下に入っているロシア料理のレストランだった…
方々からの来訪者を多く迎えているウラジオストクに在って、店はウラジオストク駅と<中央広場>との間というような位置に在り、「ロシアの街の老舗でロシア料理」と外国人の来店も多いと見受けられる。英語や写真が色々と入ったメニュー表が備えられていた…
そういうメニュー表を何となく眺めて…「“ロシア料理”ということでコレが!しかも“老舗”というから…きっと美味い筈…」と考えて頼んだメニューが在る…
↓コレだ!
↑ロシア語で、「スープを頂く」ことは「飲む」ではなく「食べる」である。その「食べるスープ」という表現が似合う一皿…“サリャンカ”である。
“サリャンカ”は、肉や野菜、殊にピクルスが入り、色々な調味料が入って少し濃い味がする…酸味、辛味、塩気と様々な味が混然となっていて、具材の肉や野菜を「ドンドン食べる」という感じになる…この店では「肉の“サリャンカ”」と「魚の“サリャンカ”」とが在ったが、私は「肉」を選んだのだった…
“サリャンカ”は、18世紀頃からロシアの貴族達の間で「ウクライナ由来の料理」が流行り始めた中で拡がったと考えられている料理らしい…「18世紀頃から」ということで、「比較的新しい」というように言われているようだ…
所謂「ロシア料理」と呼ばれる様々なモノの中…「殊更に美味いモノ」の一つとして「覚えておくべきモノ」ではないかと、私自身は考えている…と言っても、日本国内の所謂「ロシア料理の店」というような場所では「圧倒的な知名度」の故に「“ボルシチ”ばかりが売れる」というのも見受けられるらしいが…それはそれとして、“サリャンカ”は美味い!!
ここでは、脇に添えられたサワークリームを「少し多い?」とも思える程度に入れて、ガツガツと頂いた…たった一回頂いたに過ぎないのだが…何となく「忘れ難い味」という感だ…
<生神女昇天寺院>(2018.04.14)
ウラジオストクのスヴェトランスカヤ通を歩いた…「視える筈?」の巨大な橋が、深い霧や雨で視え悪い中、橋の方角へ進んでいた…
「随分近くに来たが…かなり視えない…」と「橋が視えずに少し残念…」という位に思っている時…鐘の音が聞こえた…「正教の教会?!」と思えば…
↓鐘楼を備えた教会が在った!
スヴェトランスカヤ通は「海岸に沿って延びている大通」というイメージだが、そこと交差する道路の多くは丘陵状の地形に沿った坂道だ。この教会も少し小高くなった辺りに建っていて、スヴェトランスカヤ通から階段で敷地に上がるような感じになっている。
↓上がってみると、掲出された看板に「Храм Успения Божией Матери」 と教会の名前が読める…
↑とりあえず…<生神女昇天寺院>としたが…この教会のウェブサイトも在って、その伝統が紹介されている…
1861年6月、<ウスペンスキー聖堂>という教会が「ウラジオストクで初めてのロシア正教の教会」として開かれた…この<生神女昇天寺院>は、その「ウラジオストクで初めてのロシア正教の教会」の流れを汲むのだそうだ…
<ウスペンスキー聖堂>は正教の活動の拠点として発展して行くのだが、1938年に破壊されてしまった。
1997年頃から「再建」の動きが起こり、2001年に現在の<生神女昇天寺院>が登場しているようだ…
↓なかなかに趣きが在る感じだ…
↓建物の横に、少し人が集まることも出来るような広場的な場所が在り、そこから建物全景を眺めた…
↑「華やかで大きな…」ということでもない建物だ…様子を眺めていれば、存外に人の出入りは見受けられ、何か「地域の協会として親しまれている」という雰囲気も伺えた…
ウラジオストクはロシア艦隊の拠点となることが構想されたと同時に、「極東の富」を利用する交易港を擁する街として歩んだ…「最初の民間人住民」とされるような交易商が居を構え、「これからいろいろな人達が住み、往来するように…」という時期に、早速に教会が登場した…嘗てはそれが「当然」だったのかもしれない…例えば…「箱館のロシア領事館」が登場したのは、ウラジオストクが拓かれる少し前という時期だが、そこにもロシア正教の聖職者がやって来ている…少数の関係者のために「必要!!」とされた訳だ…(箱館に関しては、日本に正教がもたらされる切っ掛けになって行ったのだが…)
1990年代のロシアは「ポストソ連」とでも呼ぶべき「ゴチャゴチャした」感じであった…そういう状況から抜け出して新たな歩みを始める中、「街が歩み始めた原点へ…」と、「極東の富」を利用する交易港を擁する街が志向され、ソ連時代の「イデオロギー?」か何かで排されたような「ロシア人の伝統的な心の拠所」のようなモノの「復旧」が志向されたのかもしれない…
<ポクロフスキー司教座聖堂>の再建が志向された頃と、<ウスペンスキー聖堂>の再建が志向された頃とに大きな差は無い…が、後者は現在の<生神女昇天寺院>という形で「より早く登場」することが出来た訳だ…或いは、用地の都合等が在って、現在の形で計画したということなのかもしれないが…
それにしても、この教会の鐘の音…深い霧に煙る海岸部に、スヴェトランスカヤ通を行き交う車輛の走行音に負けじと鳴り響いていたが…何か強く心に残った…「旅行ガイド」的な情報では、余り取り上げられていない場所のようにも思うのだが…「古くからの人々の心の拠所を取り戻そう…」というような感で、「地区で最初の境界の流れ」を意図して建てられた、何となく親しみ易く、「正教関係の建物らしい」というような美しさが在る教会…記憶に残る…
「随分近くに来たが…かなり視えない…」と「橋が視えずに少し残念…」という位に思っている時…鐘の音が聞こえた…「正教の教会?!」と思えば…
↓鐘楼を備えた教会が在った!
スヴェトランスカヤ通は「海岸に沿って延びている大通」というイメージだが、そこと交差する道路の多くは丘陵状の地形に沿った坂道だ。この教会も少し小高くなった辺りに建っていて、スヴェトランスカヤ通から階段で敷地に上がるような感じになっている。
↓上がってみると、掲出された看板に「Храм Успения Божией Матери」 と教会の名前が読める…
↑とりあえず…<生神女昇天寺院>としたが…この教会のウェブサイトも在って、その伝統が紹介されている…
1861年6月、<ウスペンスキー聖堂>という教会が「ウラジオストクで初めてのロシア正教の教会」として開かれた…この<生神女昇天寺院>は、その「ウラジオストクで初めてのロシア正教の教会」の流れを汲むのだそうだ…
<ウスペンスキー聖堂>は正教の活動の拠点として発展して行くのだが、1938年に破壊されてしまった。
1997年頃から「再建」の動きが起こり、2001年に現在の<生神女昇天寺院>が登場しているようだ…
↓なかなかに趣きが在る感じだ…
↓建物の横に、少し人が集まることも出来るような広場的な場所が在り、そこから建物全景を眺めた…
↑「華やかで大きな…」ということでもない建物だ…様子を眺めていれば、存外に人の出入りは見受けられ、何か「地域の協会として親しまれている」という雰囲気も伺えた…
ウラジオストクはロシア艦隊の拠点となることが構想されたと同時に、「極東の富」を利用する交易港を擁する街として歩んだ…「最初の民間人住民」とされるような交易商が居を構え、「これからいろいろな人達が住み、往来するように…」という時期に、早速に教会が登場した…嘗てはそれが「当然」だったのかもしれない…例えば…「箱館のロシア領事館」が登場したのは、ウラジオストクが拓かれる少し前という時期だが、そこにもロシア正教の聖職者がやって来ている…少数の関係者のために「必要!!」とされた訳だ…(箱館に関しては、日本に正教がもたらされる切っ掛けになって行ったのだが…)
1990年代のロシアは「ポストソ連」とでも呼ぶべき「ゴチャゴチャした」感じであった…そういう状況から抜け出して新たな歩みを始める中、「街が歩み始めた原点へ…」と、「極東の富」を利用する交易港を擁する街が志向され、ソ連時代の「イデオロギー?」か何かで排されたような「ロシア人の伝統的な心の拠所」のようなモノの「復旧」が志向されたのかもしれない…
<ポクロフスキー司教座聖堂>の再建が志向された頃と、<ウスペンスキー聖堂>の再建が志向された頃とに大きな差は無い…が、後者は現在の<生神女昇天寺院>という形で「より早く登場」することが出来た訳だ…或いは、用地の都合等が在って、現在の形で計画したということなのかもしれないが…
それにしても、この教会の鐘の音…深い霧に煙る海岸部に、スヴェトランスカヤ通を行き交う車輛の走行音に負けじと鳴り響いていたが…何か強く心に残った…「旅行ガイド」的な情報では、余り取り上げられていない場所のようにも思うのだが…「古くからの人々の心の拠所を取り戻そう…」というような感で、「地区で最初の境界の流れ」を意図して建てられた、何となく親しみ易く、「正教関係の建物らしい」というような美しさが在る教会…記憶に残る…