「街を見下ろす高台」とでも言えば、大概は一寸特別な感がしないでもないのだが…ウラジオストクに関しては、「街を見下ろす高台」に該当する箇所が非常に多い…
その数在る「街を見下ろす高台」の中、「代表的な場所」となるケーブルカーの上側の乗降場辺りから、「坂を下りながら、街を見下ろす型になる」というようなエリアを歩いて、極短いウラジオストク滞在の中で「何となく馴染みになったエリア」へ移動していた…
↓こういう銅像が立っている場所に行き当たった…
↓<X100F>ではやや画を纏め悪い高さに立つ像で、<P7700>の望遠を駆使した…
この像はニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵(Николай Николаевич Муравьёв-Амурский)(1809-1881)の像である。
本来の姓は「ムラヴィヨフ」なのだが、その功績によって「アムールスキー伯爵」という称号を贈られた。故に「ムラヴィヨフ=アムールスキー」として知られている。
軍人として経歴を重ね、1841年に陸軍少将となるが、1847年に38歳という異例の若さで東シベリア総督に任じられた。
東シベリア総督として、アムール川流域での権益の確立に努力を傾けた。サハリンを紹介したことで知られるネヴェリスコイは、このムラヴィヨフ総督の指示の下でサハリンや、その後のアムール川流域の調査を行っていることになる…
1860年に今日の沿海地方に相当する地域をロシア領とするに至り、ウラジオストクを拓くこととなった…そういう縁で、ウラジオストクに銅像が在る訳だ…
ムラヴィヨフ総督には、実は来日経過が在る…1859年に来日し、日露両国の話し合いが纏まらずに「雑居」という曖昧な型になっていたサハリンの領土権に関する事案で、江戸幕府に対して「ロシア領!」と申し入れたが、江戸幕府にその主張が退けられた…(この事案は、1875年に榎本武揚が代表として交渉を纏めた条約で解決が図られた…榎本武揚の名が出たが、サンクトペテルブルグでの役目を終えた彼はシベリアを陸路で横断し、ウラジオストクから船に乗って帰国している…)
その後、ムラヴィヨフ=アムールスキーは1861年に東シベリア総督を辞し、1868年にパリへ移住した。そして1881年にパリで他界している…
↓自身の号令の下に拓かれ始めた街を望む型で像が立っている訳だが…どんな想いが彼の中に?そんなことを考えながら、この像を眺めていた…
霧の立ち込むウラジオストク空港の早朝(2018.04.16)
ウラジオストク市章(2018.04.14)
↓ウラジオストクの市章のレリーフを見付けた…
↑1880年代から「虎」の市章が用いられているようである、背後に港を象徴する錨を組み合わせるモノや、そうではないモノ等、幾分のバリエーションは見受けられるようだ…
この市章は<軍事功労都市>という、2010年11月4日付の大統領令に関するモニュメントに貼り付いていたモノだ。何となく気に入ったので、写真に収めた…
古くは、虎が家畜を襲うようなことも在ったというが、虎は「地域のシンボル」とされている。所謂「アムールトラ」というモノである。「シベリアン・タイガー」というように呼ぶ場合もあるかもしれない。ロシア語では「ウスリースキー・ティーグル」(ウスリートラ)と呼ぶことが多いのだろうか…大きな雄の個体で、体長が3mで体重が300kgという次元になるという。トラの仲間では「世界最大級」であるそうだが、推定で500頭前後しか棲息していないのだという…
↑1880年代から「虎」の市章が用いられているようである、背後に港を象徴する錨を組み合わせるモノや、そうではないモノ等、幾分のバリエーションは見受けられるようだ…
この市章は<軍事功労都市>という、2010年11月4日付の大統領令に関するモニュメントに貼り付いていたモノだ。何となく気に入ったので、写真に収めた…
古くは、虎が家畜を襲うようなことも在ったというが、虎は「地域のシンボル」とされている。所謂「アムールトラ」というモノである。「シベリアン・タイガー」というように呼ぶ場合もあるかもしれない。ロシア語では「ウスリースキー・ティーグル」(ウスリートラ)と呼ぶことが多いのだろうか…大きな雄の個体で、体長が3mで体重が300kgという次元になるという。トラの仲間では「世界最大級」であるそうだが、推定で500頭前後しか棲息していないのだという…
“サリャンカ”=美味いロシアのスープ… (2017.04.15)
滞在2日目の「宿での休憩を挟み、朝、日中、夕方と3回で歩く」という展開の“3回目”…宿から<ポクロフスキー司教座聖堂>へ向かった後に坂道を下りて、「宿から然程遠くない辺りで適当に夕食を摂って…」という考えだった…
そして入ったのは、「1923年創業」を謳う、建物の地下に入っているロシア料理のレストランだった…
方々からの来訪者を多く迎えているウラジオストクに在って、店はウラジオストク駅と<中央広場>との間というような位置に在り、「ロシアの街の老舗でロシア料理」と外国人の来店も多いと見受けられる。英語や写真が色々と入ったメニュー表が備えられていた…
そういうメニュー表を何となく眺めて…「“ロシア料理”ということでコレが!しかも“老舗”というから…きっと美味い筈…」と考えて頼んだメニューが在る…
↓コレだ!
↑ロシア語で、「スープを頂く」ことは「飲む」ではなく「食べる」である。その「食べるスープ」という表現が似合う一皿…“サリャンカ”である。
“サリャンカ”は、肉や野菜、殊にピクルスが入り、色々な調味料が入って少し濃い味がする…酸味、辛味、塩気と様々な味が混然となっていて、具材の肉や野菜を「ドンドン食べる」という感じになる…この店では「肉の“サリャンカ”」と「魚の“サリャンカ”」とが在ったが、私は「肉」を選んだのだった…
“サリャンカ”は、18世紀頃からロシアの貴族達の間で「ウクライナ由来の料理」が流行り始めた中で拡がったと考えられている料理らしい…「18世紀頃から」ということで、「比較的新しい」というように言われているようだ…
所謂「ロシア料理」と呼ばれる様々なモノの中…「殊更に美味いモノ」の一つとして「覚えておくべきモノ」ではないかと、私自身は考えている…と言っても、日本国内の所謂「ロシア料理の店」というような場所では「圧倒的な知名度」の故に「“ボルシチ”ばかりが売れる」というのも見受けられるらしいが…それはそれとして、“サリャンカ”は美味い!!
ここでは、脇に添えられたサワークリームを「少し多い?」とも思える程度に入れて、ガツガツと頂いた…たった一回頂いたに過ぎないのだが…何となく「忘れ難い味」という感だ…
そして入ったのは、「1923年創業」を謳う、建物の地下に入っているロシア料理のレストランだった…
方々からの来訪者を多く迎えているウラジオストクに在って、店はウラジオストク駅と<中央広場>との間というような位置に在り、「ロシアの街の老舗でロシア料理」と外国人の来店も多いと見受けられる。英語や写真が色々と入ったメニュー表が備えられていた…
そういうメニュー表を何となく眺めて…「“ロシア料理”ということでコレが!しかも“老舗”というから…きっと美味い筈…」と考えて頼んだメニューが在る…
↓コレだ!
↑ロシア語で、「スープを頂く」ことは「飲む」ではなく「食べる」である。その「食べるスープ」という表現が似合う一皿…“サリャンカ”である。
“サリャンカ”は、肉や野菜、殊にピクルスが入り、色々な調味料が入って少し濃い味がする…酸味、辛味、塩気と様々な味が混然となっていて、具材の肉や野菜を「ドンドン食べる」という感じになる…この店では「肉の“サリャンカ”」と「魚の“サリャンカ”」とが在ったが、私は「肉」を選んだのだった…
“サリャンカ”は、18世紀頃からロシアの貴族達の間で「ウクライナ由来の料理」が流行り始めた中で拡がったと考えられている料理らしい…「18世紀頃から」ということで、「比較的新しい」というように言われているようだ…
所謂「ロシア料理」と呼ばれる様々なモノの中…「殊更に美味いモノ」の一つとして「覚えておくべきモノ」ではないかと、私自身は考えている…と言っても、日本国内の所謂「ロシア料理の店」というような場所では「圧倒的な知名度」の故に「“ボルシチ”ばかりが売れる」というのも見受けられるらしいが…それはそれとして、“サリャンカ”は美味い!!
ここでは、脇に添えられたサワークリームを「少し多い?」とも思える程度に入れて、ガツガツと頂いた…たった一回頂いたに過ぎないのだが…何となく「忘れ難い味」という感だ…
<生神女昇天寺院>(2018.04.14)
ウラジオストクのスヴェトランスカヤ通を歩いた…「視える筈?」の巨大な橋が、深い霧や雨で視え悪い中、橋の方角へ進んでいた…
「随分近くに来たが…かなり視えない…」と「橋が視えずに少し残念…」という位に思っている時…鐘の音が聞こえた…「正教の教会?!」と思えば…
↓鐘楼を備えた教会が在った!
スヴェトランスカヤ通は「海岸に沿って延びている大通」というイメージだが、そこと交差する道路の多くは丘陵状の地形に沿った坂道だ。この教会も少し小高くなった辺りに建っていて、スヴェトランスカヤ通から階段で敷地に上がるような感じになっている。
↓上がってみると、掲出された看板に「Храм Успения Божией Матери」 と教会の名前が読める…
↑とりあえず…<生神女昇天寺院>としたが…この教会のウェブサイトも在って、その伝統が紹介されている…
1861年6月、<ウスペンスキー聖堂>という教会が「ウラジオストクで初めてのロシア正教の教会」として開かれた…この<生神女昇天寺院>は、その「ウラジオストクで初めてのロシア正教の教会」の流れを汲むのだそうだ…
<ウスペンスキー聖堂>は正教の活動の拠点として発展して行くのだが、1938年に破壊されてしまった。
1997年頃から「再建」の動きが起こり、2001年に現在の<生神女昇天寺院>が登場しているようだ…
↓なかなかに趣きが在る感じだ…
↓建物の横に、少し人が集まることも出来るような広場的な場所が在り、そこから建物全景を眺めた…
↑「華やかで大きな…」ということでもない建物だ…様子を眺めていれば、存外に人の出入りは見受けられ、何か「地域の協会として親しまれている」という雰囲気も伺えた…
ウラジオストクはロシア艦隊の拠点となることが構想されたと同時に、「極東の富」を利用する交易港を擁する街として歩んだ…「最初の民間人住民」とされるような交易商が居を構え、「これからいろいろな人達が住み、往来するように…」という時期に、早速に教会が登場した…嘗てはそれが「当然」だったのかもしれない…例えば…「箱館のロシア領事館」が登場したのは、ウラジオストクが拓かれる少し前という時期だが、そこにもロシア正教の聖職者がやって来ている…少数の関係者のために「必要!!」とされた訳だ…(箱館に関しては、日本に正教がもたらされる切っ掛けになって行ったのだが…)
1990年代のロシアは「ポストソ連」とでも呼ぶべき「ゴチャゴチャした」感じであった…そういう状況から抜け出して新たな歩みを始める中、「街が歩み始めた原点へ…」と、「極東の富」を利用する交易港を擁する街が志向され、ソ連時代の「イデオロギー?」か何かで排されたような「ロシア人の伝統的な心の拠所」のようなモノの「復旧」が志向されたのかもしれない…
<ポクロフスキー司教座聖堂>の再建が志向された頃と、<ウスペンスキー聖堂>の再建が志向された頃とに大きな差は無い…が、後者は現在の<生神女昇天寺院>という形で「より早く登場」することが出来た訳だ…或いは、用地の都合等が在って、現在の形で計画したということなのかもしれないが…
それにしても、この教会の鐘の音…深い霧に煙る海岸部に、スヴェトランスカヤ通を行き交う車輛の走行音に負けじと鳴り響いていたが…何か強く心に残った…「旅行ガイド」的な情報では、余り取り上げられていない場所のようにも思うのだが…「古くからの人々の心の拠所を取り戻そう…」というような感で、「地区で最初の境界の流れ」を意図して建てられた、何となく親しみ易く、「正教関係の建物らしい」というような美しさが在る教会…記憶に残る…
「随分近くに来たが…かなり視えない…」と「橋が視えずに少し残念…」という位に思っている時…鐘の音が聞こえた…「正教の教会?!」と思えば…
↓鐘楼を備えた教会が在った!
スヴェトランスカヤ通は「海岸に沿って延びている大通」というイメージだが、そこと交差する道路の多くは丘陵状の地形に沿った坂道だ。この教会も少し小高くなった辺りに建っていて、スヴェトランスカヤ通から階段で敷地に上がるような感じになっている。
↓上がってみると、掲出された看板に「Храм Успения Божией Матери」 と教会の名前が読める…
↑とりあえず…<生神女昇天寺院>としたが…この教会のウェブサイトも在って、その伝統が紹介されている…
1861年6月、<ウスペンスキー聖堂>という教会が「ウラジオストクで初めてのロシア正教の教会」として開かれた…この<生神女昇天寺院>は、その「ウラジオストクで初めてのロシア正教の教会」の流れを汲むのだそうだ…
<ウスペンスキー聖堂>は正教の活動の拠点として発展して行くのだが、1938年に破壊されてしまった。
1997年頃から「再建」の動きが起こり、2001年に現在の<生神女昇天寺院>が登場しているようだ…
↓なかなかに趣きが在る感じだ…
↓建物の横に、少し人が集まることも出来るような広場的な場所が在り、そこから建物全景を眺めた…
↑「華やかで大きな…」ということでもない建物だ…様子を眺めていれば、存外に人の出入りは見受けられ、何か「地域の協会として親しまれている」という雰囲気も伺えた…
ウラジオストクはロシア艦隊の拠点となることが構想されたと同時に、「極東の富」を利用する交易港を擁する街として歩んだ…「最初の民間人住民」とされるような交易商が居を構え、「これからいろいろな人達が住み、往来するように…」という時期に、早速に教会が登場した…嘗てはそれが「当然」だったのかもしれない…例えば…「箱館のロシア領事館」が登場したのは、ウラジオストクが拓かれる少し前という時期だが、そこにもロシア正教の聖職者がやって来ている…少数の関係者のために「必要!!」とされた訳だ…(箱館に関しては、日本に正教がもたらされる切っ掛けになって行ったのだが…)
1990年代のロシアは「ポストソ連」とでも呼ぶべき「ゴチャゴチャした」感じであった…そういう状況から抜け出して新たな歩みを始める中、「街が歩み始めた原点へ…」と、「極東の富」を利用する交易港を擁する街が志向され、ソ連時代の「イデオロギー?」か何かで排されたような「ロシア人の伝統的な心の拠所」のようなモノの「復旧」が志向されたのかもしれない…
<ポクロフスキー司教座聖堂>の再建が志向された頃と、<ウスペンスキー聖堂>の再建が志向された頃とに大きな差は無い…が、後者は現在の<生神女昇天寺院>という形で「より早く登場」することが出来た訳だ…或いは、用地の都合等が在って、現在の形で計画したということなのかもしれないが…
それにしても、この教会の鐘の音…深い霧に煙る海岸部に、スヴェトランスカヤ通を行き交う車輛の走行音に負けじと鳴り響いていたが…何か強く心に残った…「旅行ガイド」的な情報では、余り取り上げられていない場所のようにも思うのだが…「古くからの人々の心の拠所を取り戻そう…」というような感で、「地区で最初の境界の流れ」を意図して建てられた、何となく親しみ易く、「正教関係の建物らしい」というような美しさが在る教会…記憶に残る…
<ポクロフスキー司教座聖堂>(2018.04.15)
ウラジオストク空港からウラジオストク駅へのバスによる移動の中、「酷く大きなロシア正教のモノと見受けられる教会」が視えて気になっていた…
滞在2日目の「宿での休憩を挟み、朝、日中、夕方と3回で歩く」という展開の“3回目”で、気になった大きな教会を目指した…
駅前のアレウツカヤ通を行き、スヴェトランスカヤ通に入り、<中央広場>が視える辺りのオケアンスキー通の上り坂を行く…坂の上に大きな教会が視える…
↓交通量が多目な辺りの道路に地下通路が設けられていて、そこを通り抜けて地上に出ると、大きな建物が間近に視えた…
↓入口辺りに、「2004年から2007年に再建」の旨が入ったプレートが在る…
↑<ポクロフスキー司教座聖堂>と呼び習わされている教会だ…破壊されてしまった経過が在るモノだが、見事に再建されたという訳だ…
↓“クーポル”を組み合わせた、独特な様式が面白い…
↓やや雲が多い中、輝く屋根が独特な存在感を示していた…
滞在2日目の「宿での休憩を挟み、朝、日中、夕方と3回で歩く」という展開の“3回目”で、気になった大きな教会を目指した…
駅前のアレウツカヤ通を行き、スヴェトランスカヤ通に入り、<中央広場>が視える辺りのオケアンスキー通の上り坂を行く…坂の上に大きな教会が視える…
↓交通量が多目な辺りの道路に地下通路が設けられていて、そこを通り抜けて地上に出ると、大きな建物が間近に視えた…
↓入口辺りに、「2004年から2007年に再建」の旨が入ったプレートが在る…
↑<ポクロフスキー司教座聖堂>と呼び習わされている教会だ…破壊されてしまった経過が在るモノだが、見事に再建されたという訳だ…
↓“クーポル”を組み合わせた、独特な様式が面白い…
↓やや雲が多い中、輝く屋根が独特な存在感を示していた…
蒸気機関車 <Еа3306>:早朝のウラジオストク駅にて… (2018.04.15)
前日は朝からユジノサハリンスク空港に向かって飛行機に乗り、昼過ぎに着いたウラジオストクでは、必ずしも「散策日和…」でもない中で歩き回り、何時の間にか宿で休んでいて、結局早起きしてしまった…
↓前日の「深い霧」のような状況が暗い早朝にも続いていた…ひっそりと静まった感のウラジオストク駅が視える…
↑後で判ったのだが、駅舎正面に掲げられている<ВЛАДИВОСТОК>(ウラジオストク)のサインは、本来は「光っている」のだが、既に消灯されていた…
駅舎の奥の方、船が発着するターミナルの看板は未だ灯りが入っている。更に奥の巨大な橋梁だが、暗さに加えて霧のために殆ど視えない。辛うじて橋梁上の街灯の灯りが「微かな点線」のように視えている…
盛んに列車が発着しているでもない早朝、恐らく確りと警備されているであろう駅舎に入ることは躊躇われ、アッサリ諦めたが、奥の客船のターミナル側へ通じる歩道橋は自由に出入り出来た。
↓その歩道橋から、貫録が在る蒸気機関車が広いホームに展示されている様子が視えた…
↓歩道橋からホームに降りることが出来た…大きな蒸気機関車を眺めた…
↓第2次大戦期の沿海地方に於ける鉄道関係者の功績を讃える意味を込め、往時の代表的な機関車を展示しているということのようだ…
↓ランプを点した状態での静態保存展示…なかなかに好い!
蒸気機関車は<Е>(イェー)と呼ばれる形式で、製造年次や仕様の違いで、<Е>の後に小さなアルファベットが付される。この車輛は<А>である。「小さな字」を手書き以外で巧く表記出来ないので、便宜的に<Еа>としたが…この機関車は3306号機だ…1943年頃のモノらしい…
↓「1520mm」と幅が広い軌道のソ連・ロシアの鉄道で使用する機関車…それも恐らくは様々な車輛を組み合わせた長大な編成の列車を牽引する機関車なので、非常に大きく迫力が在る…
↓「旅客列車の高速化」を意図した型に見受けられる巨大な動輪ではなく、「パワー重視」な動輪であると見受けられる…
↓辺りの「立入禁止」のテープが鬱陶しいが…こういうことでもしなければ、この運転台によじ登る人が絶えないことであろう…
↓一定の敬意を払われて、行き交う「後輩」の車輛や、興味深げに近付く旅客の目線を受け、ゆったりと余生を送っている感な蒸気機関車だ…
第2次大戦期には、ソ連の鉄道は兵員や物資の輸送でかなり重要な役目をになったのだというが、こういう型の機関車が各地を巡っていた訳だ…
↓前日の「深い霧」のような状況が暗い早朝にも続いていた…ひっそりと静まった感のウラジオストク駅が視える…
↑後で判ったのだが、駅舎正面に掲げられている<ВЛАДИВОСТОК>(ウラジオストク)のサインは、本来は「光っている」のだが、既に消灯されていた…
駅舎の奥の方、船が発着するターミナルの看板は未だ灯りが入っている。更に奥の巨大な橋梁だが、暗さに加えて霧のために殆ど視えない。辛うじて橋梁上の街灯の灯りが「微かな点線」のように視えている…
盛んに列車が発着しているでもない早朝、恐らく確りと警備されているであろう駅舎に入ることは躊躇われ、アッサリ諦めたが、奥の客船のターミナル側へ通じる歩道橋は自由に出入り出来た。
↓その歩道橋から、貫録が在る蒸気機関車が広いホームに展示されている様子が視えた…
↓歩道橋からホームに降りることが出来た…大きな蒸気機関車を眺めた…
↓第2次大戦期の沿海地方に於ける鉄道関係者の功績を讃える意味を込め、往時の代表的な機関車を展示しているということのようだ…
↓ランプを点した状態での静態保存展示…なかなかに好い!
蒸気機関車は<Е>(イェー)と呼ばれる形式で、製造年次や仕様の違いで、<Е>の後に小さなアルファベットが付される。この車輛は<А>である。「小さな字」を手書き以外で巧く表記出来ないので、便宜的に<Еа>としたが…この機関車は3306号機だ…1943年頃のモノらしい…
↓「1520mm」と幅が広い軌道のソ連・ロシアの鉄道で使用する機関車…それも恐らくは様々な車輛を組み合わせた長大な編成の列車を牽引する機関車なので、非常に大きく迫力が在る…
↓「旅客列車の高速化」を意図した型に見受けられる巨大な動輪ではなく、「パワー重視」な動輪であると見受けられる…
↓辺りの「立入禁止」のテープが鬱陶しいが…こういうことでもしなければ、この運転台によじ登る人が絶えないことであろう…
↓一定の敬意を払われて、行き交う「後輩」の車輛や、興味深げに近付く旅客の目線を受け、ゆったりと余生を送っている感な蒸気機関車だ…
第2次大戦期には、ソ連の鉄道は兵員や物資の輸送でかなり重要な役目をになったのだというが、こういう型の機関車が各地を巡っていた訳だ…
ウラジオストク都心部の案内標識(2018.04.15)
↓早朝に辺りを歩いた際に気付いて写真に収めてみた…
↑多分これは「歩行者向け」を意図した標識だと思った。掲出されている高さや文字の大きさからである…
上から…鉄道駅、マリーナ、博物館、客船ターミナル、アートギャラリーが記され、「↑」で方向が示されている。ロシア語と英語の文字…そして最も目立つのは“ピクトグラム”的なモノである…
ウラジオストクには色々な国や地域からの来訪者が入り込んでいる様子が、極短い滞在期間で歩き回っただけでも伺えたが…この種の案内はロシア語と英語とで、色々とゴチャゴチャ書いてはいない…好いと思った…
自身では全然使わないが…「↑」の横に「バーコード」が在る…これをスマートフォン等の端末に読み込ませると、ネットで当該箇所の情報でも出て来るのだろうか?こんなモノが入っていることから、比較的近年に設置された標識と想像出来る…
こういう「来訪者を迎える工夫」は何処の国や地域でも、各々に色々と取組んでいるようだ…
↑多分これは「歩行者向け」を意図した標識だと思った。掲出されている高さや文字の大きさからである…
上から…鉄道駅、マリーナ、博物館、客船ターミナル、アートギャラリーが記され、「↑」で方向が示されている。ロシア語と英語の文字…そして最も目立つのは“ピクトグラム”的なモノである…
ウラジオストクには色々な国や地域からの来訪者が入り込んでいる様子が、極短い滞在期間で歩き回っただけでも伺えたが…この種の案内はロシア語と英語とで、色々とゴチャゴチャ書いてはいない…好いと思った…
自身では全然使わないが…「↑」の横に「バーコード」が在る…これをスマートフォン等の端末に読み込ませると、ネットで当該箇所の情報でも出て来るのだろうか?こんなモノが入っていることから、比較的近年に設置された標識と想像出来る…
こういう「来訪者を迎える工夫」は何処の国や地域でも、各々に色々と取組んでいるようだ…
<Золотая Бочка>(ザラタヤ ボチカ)=ロシアのビール (2018.04.15)
ウラジオストクで、「1923年創業」を謳う、建物の地階に在るロシア料理店に入った。夕食を愉しんだ訳だ…存外に小さな、少し味わいのある店内だった…
席に案内され、料理を頼んだ際に「飲物?」ということになった…「ビールでも…」と言えば「ロシアのビール?」ということになり、「それが好い…」と応じると「<Золотая Бочка>(ザラタヤ ボチカ)は如何か?」となって「それを頼む!」ということになった…
↓適当に冷えた、好い状態のビールが出て来た!
↑色が薄い、日本国内で広く親しまれているタイプにやや近い感じのビールで飲み易かった…
<Золотая Бочка>(ザラタヤ ボチカ)という名だが…「黄金の樽」というような意味になる…が…「ビールの銘柄の固有名詞」ということで、「ザラタヤ ボチカ」と記憶したい感だ…
席に案内され、料理を頼んだ際に「飲物?」ということになった…「ビールでも…」と言えば「ロシアのビール?」ということになり、「それが好い…」と応じると「<Золотая Бочка>(ザラタヤ ボチカ)は如何か?」となって「それを頼む!」ということになった…
↓適当に冷えた、好い状態のビールが出て来た!
↑色が薄い、日本国内で広く親しまれているタイプにやや近い感じのビールで飲み易かった…
<Золотая Бочка>(ザラタヤ ボチカ)という名だが…「黄金の樽」というような意味になる…が…「ビールの銘柄の固有名詞」ということで、「ザラタヤ ボチカ」と記憶したい感だ…