その数在る「街を見下ろす高台」の中、「代表的な場所」となるケーブルカーの上側の乗降場辺りから、「坂を下りながら、街を見下ろす型になる」というようなエリアを歩いて、極短いウラジオストク滞在の中で「何となく馴染みになったエリア」へ移動していた…
↓こういう銅像が立っている場所に行き当たった…

↓<X100F>ではやや画を纏め悪い高さに立つ像で、<P7700>の望遠を駆使した…

この像はニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵(Николай Николаевич Муравьёв-Амурский)(1809-1881)の像である。
本来の姓は「ムラヴィヨフ」なのだが、その功績によって「アムールスキー伯爵」という称号を贈られた。故に「ムラヴィヨフ=アムールスキー」として知られている。
軍人として経歴を重ね、1841年に陸軍少将となるが、1847年に38歳という異例の若さで東シベリア総督に任じられた。
東シベリア総督として、アムール川流域での権益の確立に努力を傾けた。サハリンを紹介したことで知られるネヴェリスコイは、このムラヴィヨフ総督の指示の下でサハリンや、その後のアムール川流域の調査を行っていることになる…
1860年に今日の沿海地方に相当する地域をロシア領とするに至り、ウラジオストクを拓くこととなった…そういう縁で、ウラジオストクに銅像が在る訳だ…
ムラヴィヨフ総督には、実は来日経過が在る…1859年に来日し、日露両国の話し合いが纏まらずに「雑居」という曖昧な型になっていたサハリンの領土権に関する事案で、江戸幕府に対して「ロシア領!」と申し入れたが、江戸幕府にその主張が退けられた…(この事案は、1875年に榎本武揚が代表として交渉を纏めた条約で解決が図られた…榎本武揚の名が出たが、サンクトペテルブルグでの役目を終えた彼はシベリアを陸路で横断し、ウラジオストクから船に乗って帰国している…)
その後、ムラヴィヨフ=アムールスキーは1861年に東シベリア総督を辞し、1868年にパリへ移住した。そして1881年にパリで他界している…
↓自身の号令の下に拓かれ始めた街を望む型で像が立っている訳だが…どんな想いが彼の中に?そんなことを考えながら、この像を眺めていた…
