よく晴れているような感だった土曜日…
↓午後9時辺りの状況…
↑灯りが目立つようになっているであろう街の上空を、ユジノサハリンスク空港へ降りようとしているように視える飛行機が通過している…
何度もユジノサハリンスク空港に降りる飛行機には乗っているが…「恐らくレーニン像が在る周辺が窓から視える?」というコースでの飛行は未経験だ…
そんなことを想ったが、午後9時で「真っ暗でもない…」という感じに、何時の間にかなっている…こういう「日が長い…」という傾向が顕著になって来た昨今である…
19世紀後半から20世紀初頭と見受けられる煉瓦:<ウラジオストク要塞博物館>(2018.05.05)
現在のウラジオストクの地域に、「要塞」の遺構が方々に在るということなのだが、その一つで比較的街中から訪ね易い辺りに博物館が整備されている。
<ウラジオストク要塞博物館>ということで、色々な時代の兵器が置かれていて、それが何となく目立つ感の場所ではあるのだが…寧ろ「街の発展の経過」の一部を、少し判り易く伝えてくれているような性質も在ると思えた…
↓こういうモノが展示されていた…
↑後から彫り込む?製造時に型枠になっている?その辺はよく判らないが…色々な文字や記号の刻印が在る古い煉瓦だ…
ウラジオストクで様々な施設が建設されて行く過程の中、利用されていた煉瓦ということなのであろう…
こういうモノ…他所では視た記憶が無い…
<ウラジオストク要塞博物館>ということで、色々な時代の兵器が置かれていて、それが何となく目立つ感の場所ではあるのだが…寧ろ「街の発展の経過」の一部を、少し判り易く伝えてくれているような性質も在ると思えた…
↓こういうモノが展示されていた…
↑後から彫り込む?製造時に型枠になっている?その辺はよく判らないが…色々な文字や記号の刻印が在る古い煉瓦だ…
ウラジオストクで様々な施設が建設されて行く過程の中、利用されていた煉瓦ということなのであろう…
こういうモノ…他所では視た記憶が無い…
1869年のウラジオストクの地図:<ウラジオストク要塞博物館>(2018.05.05)
「要塞」というのは?「戦略上重要な地点を外敵から守る為に築かれた堅固な構築物」という程度の意味であろう…ウラジオストクというのは、その「要塞」という貌も持つ地域だ…
1860年に港と街とが拓かれて行くこととなるのだが、そうしたモノを護るべく「要塞」と呼ばれる防衛施設が整備されて行く…現在のウラジオストクの地域に、そういう「要塞」の遺構が方々に在るということなのだが、その一つで比較的街中から訪ね易い辺りに博物館が整備されている。
↓その博物館で視掛けた…旧い書体で「ウラジオストクのの図」と題が在る…その下辺りに「1869年」と小さく書き込まれている…今年、日本では「明治150年」等と言っているが、明治元年が1868年なので、1869年は明治2年ということだ…
↑この「1869年の地図」…やや地味な展示だったが、大変に興味深く眺めた!!
金角湾を囲むような陸地が描かれている。こういう図は上が北寄りというのが普通だ…図の左は西寄りに相当する筈であるが、「図に記される程度」の道路が整備され、「市街らしきモノが在った」と思われるのは「金角湾の北西側」だけである…
現在ではウラジオストク駅が在る辺り、<中央広場>になっている辺りは、この時期で市街化していたようだ。視ながら思い出したのは、1861年頃からウラジオストクに定住して「民間人として最初のウラジオストクの住民」と言われている企業家のヤコヴ・セミョーノフに関して、「1860年代から70年代に家が在ったと伝えられる場所」という小さな石碑を視たのも、<中央広場>の少し東に相当する辺りだったということだ…
こういう状態のウラジオストクが大きく発展して行ったのは、1890年代に鉄道建設が始まる後のようである…が、「街の歴史の黎明期」のようなこんな時期にも、既に「古くからの市街」とされる辺りは、現在も基礎が変わっていないと見受けられるような具合に街路が築かれていた訳だ…
<ウラジオストク要塞博物館>ということで、色々な時代の兵器が置かれていて、それが何となく目立つ感の場所ではあるのだが…寧ろ「街の発展の経過」の一部を、少し判り易く伝えてくれているような性質も在ると思えた…
こういう場所は貴重である…
1860年に港と街とが拓かれて行くこととなるのだが、そうしたモノを護るべく「要塞」と呼ばれる防衛施設が整備されて行く…現在のウラジオストクの地域に、そういう「要塞」の遺構が方々に在るということなのだが、その一つで比較的街中から訪ね易い辺りに博物館が整備されている。
↓その博物館で視掛けた…旧い書体で「ウラジオストクのの図」と題が在る…その下辺りに「1869年」と小さく書き込まれている…今年、日本では「明治150年」等と言っているが、明治元年が1868年なので、1869年は明治2年ということだ…
↑この「1869年の地図」…やや地味な展示だったが、大変に興味深く眺めた!!
金角湾を囲むような陸地が描かれている。こういう図は上が北寄りというのが普通だ…図の左は西寄りに相当する筈であるが、「図に記される程度」の道路が整備され、「市街らしきモノが在った」と思われるのは「金角湾の北西側」だけである…
現在ではウラジオストク駅が在る辺り、<中央広場>になっている辺りは、この時期で市街化していたようだ。視ながら思い出したのは、1861年頃からウラジオストクに定住して「民間人として最初のウラジオストクの住民」と言われている企業家のヤコヴ・セミョーノフに関して、「1860年代から70年代に家が在ったと伝えられる場所」という小さな石碑を視たのも、<中央広場>の少し東に相当する辺りだったということだ…
こういう状態のウラジオストクが大きく発展して行ったのは、1890年代に鉄道建設が始まる後のようである…が、「街の歴史の黎明期」のようなこんな時期にも、既に「古くからの市街」とされる辺りは、現在も基礎が変わっていないと見受けられるような具合に街路が築かれていた訳だ…
<ウラジオストク要塞博物館>ということで、色々な時代の兵器が置かれていて、それが何となく目立つ感の場所ではあるのだが…寧ろ「街の発展の経過」の一部を、少し判り易く伝えてくれているような性質も在ると思えた…
こういう場所は貴重である…
アレウツカヤ通の風情(2018.05.06)
↓ウラジオストクを去る前、駅の辺りへ向かってアレウツカヤ通を歩いていて、何気なく足を停めた…朝からの曇天が俄かに好転し、何となく眩しい感じにもなっていたのだったが…
↑上りや下りが複雑に入り乱れている坂道で構成されている街の、古くからの都心部の一隅を占めているアレウツカヤ通…やや凝った形の街灯が坂道に沿って並ぶ感じが好ましいと思った…右手に視える、少し年季が入った集合住宅らしい建物も味わいが在る…
偶々、4月も5月も駅の周辺から一寸上がった辺りの宿を利用した関係で、アレウツカヤ通は「到着直後から立ち去る直前まで」と随分多く歩く機会が在った…
確か…<アレウト>という船の乗員等が道路の整備に関わったという故事に因んで、<アレウト>が形容詞化して「アレウツカヤ通」と名付けられた…と聞いた…ソ連時代は、違う名前になっていたかもしれないが…最初に通を整備した人達は、この通が「車輛が溢れて渋滞する場面も見受けられる」ようになるとは想像もしなかったことであろう…
↑上りや下りが複雑に入り乱れている坂道で構成されている街の、古くからの都心部の一隅を占めているアレウツカヤ通…やや凝った形の街灯が坂道に沿って並ぶ感じが好ましいと思った…右手に視える、少し年季が入った集合住宅らしい建物も味わいが在る…
偶々、4月も5月も駅の周辺から一寸上がった辺りの宿を利用した関係で、アレウツカヤ通は「到着直後から立ち去る直前まで」と随分多く歩く機会が在った…
確か…<アレウト>という船の乗員等が道路の整備に関わったという故事に因んで、<アレウト>が形容詞化して「アレウツカヤ通」と名付けられた…と聞いた…ソ連時代は、違う名前になっていたかもしれないが…最初に通を整備した人達は、この通が「車輛が溢れて渋滞する場面も見受けられる」ようになるとは想像もしなかったことであろう…
搭乗待合所のカフェ:ウラジオストク空港(2018.05.06)
チキンとキノコのクリームパスタ(2018.05.09)
2年余り…(2018.05.11)
思い付いて2016年4月に始めたのが「何となく撮るようになっていたモノクロ画をランダムに展示」という主旨のブログだった。このブログである…
元来、「言葉数がやや多い…」性分なので、撮ったモノや撮影に出掛けた場所に関する蘊蓄めいた事柄や、撮影時の状況等も含めて「モノクロ画を入れた何やらの長文の話題」という記事も多いが、2年余りも続いて、記事件数も1700件以上に膨らんだ…
記事に関して、件数が少し増えれば“カテゴリ”を割り当てるような事は必要になる筈と考え、当初から設定していた。
何年間かで溜まったモノクロ画を使う記事を順次起こしていくとすれば、単純に「最も合理的」で「単純」と思えたのが、“撮影地”を基準にした分け方だった。
「北海道」に関しては、例えば「北海道/稚内」、「北海道/札幌」、「北海道/旭川」というように「道内での地域名」を加えたが、他は都府県名だ…この都府県名の“カテゴリ”は、何回か「〇〇県に足を踏み入れてモノクロ画を撮る機会が在った…」と増やすようにしている…例えば…ふざけて「出入禁止になっている…」と言っている「東京都」はやや御無沙汰で、つい最近加わったモノである…
当初は国内の都道府県の名を冠した“カテゴリ”だけであったが、そのうちに「サハリン州」が加わり、更に通過する機会が在ったことから「沿海地方」が加わるようになった…
何か「偶々」というように、自身で撮ったモノクロ画と、撮影時のことや、関心を寄せた事柄等を綴った記事を“撮影地”基準で“カテゴリ”に分けているのだが…結果的に「何処を訪ね、何をやって、何に関心を寄せたか…何を想ったか…」というようなことを、気に入った画と共に巧く記録出来ているようにも見える…
各々の“カテゴリ”を視ると…「稚内」や「サハリン州」は“地元”、または“地元同然”な状況で滞在という関係上、抜きん出て記事件数、掲載写真点数が多い。これは「例外」というモノだ…他に関しては、「居心地が好いので何度も立寄っている地域」または「立寄る機会が多く、そういう時に写真を撮る時間も少し設けている」とか…「“画になる!”と気に入って、訪ねた折りに相当な数の写真を撮ってしまっている」という場所の記事件数(≒写真点数)は多い…
「立寄る機会が多く、そういう時に写真を撮る時間も少し設けている」という例は…「札幌」が間違いなく該当する…
「居心地が好いので何度も立寄っている地域」という例は…「大阪府」がやや抜きん出ているが、「兵庫県」や「京都府」等の関西が該当するであろう…
「“画になる!”と気に入って、訪ねた折りに相当な数の写真を撮ってしまっている」という例は…ウラジオストクがスッカリと気に入ってしまい、関係写真をドンドン使って記事を起こしている「沿海地方」がそれに該当する…
このブログをやるようになって…何かモノクロ写真が益々愉しくなり、撮る機会が増えている。更に「伝統のフィルム的な感じの画」が出て来る<X100F>の“フィルムシミュレーション”を使うようになって、「モノクロ撮影頻度」は高まった…
この2年で…普段過ごす時間が長い場所が遷った、新しいカメラ機材の<X100F>が加わったという「手近な、存外に大きいかもしれない変化」は在った…が、「何時の間にか好きになっていて相当な年数を経ている写真を撮るということを好む傾向…」は変わっていない…そして、「何となく力が入り始めた…」というモノクロ画を撮ることへの関心も衰えない…そうした中、「何処を訪ね、何をやって、何に関心を寄せたか…何を想ったか…」というようなことを綴るというのは続けてみたいように思う…
元来、「言葉数がやや多い…」性分なので、撮ったモノや撮影に出掛けた場所に関する蘊蓄めいた事柄や、撮影時の状況等も含めて「モノクロ画を入れた何やらの長文の話題」という記事も多いが、2年余りも続いて、記事件数も1700件以上に膨らんだ…
記事に関して、件数が少し増えれば“カテゴリ”を割り当てるような事は必要になる筈と考え、当初から設定していた。
何年間かで溜まったモノクロ画を使う記事を順次起こしていくとすれば、単純に「最も合理的」で「単純」と思えたのが、“撮影地”を基準にした分け方だった。
「北海道」に関しては、例えば「北海道/稚内」、「北海道/札幌」、「北海道/旭川」というように「道内での地域名」を加えたが、他は都府県名だ…この都府県名の“カテゴリ”は、何回か「〇〇県に足を踏み入れてモノクロ画を撮る機会が在った…」と増やすようにしている…例えば…ふざけて「出入禁止になっている…」と言っている「東京都」はやや御無沙汰で、つい最近加わったモノである…
当初は国内の都道府県の名を冠した“カテゴリ”だけであったが、そのうちに「サハリン州」が加わり、更に通過する機会が在ったことから「沿海地方」が加わるようになった…
何か「偶々」というように、自身で撮ったモノクロ画と、撮影時のことや、関心を寄せた事柄等を綴った記事を“撮影地”基準で“カテゴリ”に分けているのだが…結果的に「何処を訪ね、何をやって、何に関心を寄せたか…何を想ったか…」というようなことを、気に入った画と共に巧く記録出来ているようにも見える…
各々の“カテゴリ”を視ると…「稚内」や「サハリン州」は“地元”、または“地元同然”な状況で滞在という関係上、抜きん出て記事件数、掲載写真点数が多い。これは「例外」というモノだ…他に関しては、「居心地が好いので何度も立寄っている地域」または「立寄る機会が多く、そういう時に写真を撮る時間も少し設けている」とか…「“画になる!”と気に入って、訪ねた折りに相当な数の写真を撮ってしまっている」という場所の記事件数(≒写真点数)は多い…
「立寄る機会が多く、そういう時に写真を撮る時間も少し設けている」という例は…「札幌」が間違いなく該当する…
「居心地が好いので何度も立寄っている地域」という例は…「大阪府」がやや抜きん出ているが、「兵庫県」や「京都府」等の関西が該当するであろう…
「“画になる!”と気に入って、訪ねた折りに相当な数の写真を撮ってしまっている」という例は…ウラジオストクがスッカリと気に入ってしまい、関係写真をドンドン使って記事を起こしている「沿海地方」がそれに該当する…
このブログをやるようになって…何かモノクロ写真が益々愉しくなり、撮る機会が増えている。更に「伝統のフィルム的な感じの画」が出て来る<X100F>の“フィルムシミュレーション”を使うようになって、「モノクロ撮影頻度」は高まった…
この2年で…普段過ごす時間が長い場所が遷った、新しいカメラ機材の<X100F>が加わったという「手近な、存外に大きいかもしれない変化」は在った…が、「何時の間にか好きになっていて相当な年数を経ている写真を撮るということを好む傾向…」は変わっていない…そして、「何となく力が入り始めた…」というモノクロ画を撮ることへの関心も衰えない…そうした中、「何処を訪ね、何をやって、何に関心を寄せたか…何を想ったか…」というようなことを綴るというのは続けてみたいように思う…
<大祖国戦争勝利70年並びにキリスト生誕記念主教座大聖堂>の中…(2018.05.09)
ペリメニの店:ウラジオストク スヴェトランスカヤ通(2018.05.06)
夕刻のウラジオストクに着いた日に、高台で景色を楽しんでからペリメニの店に入った。
なかなかに感じも好く、肝心のペリメニが美味かったので、「滞在中にもう一度…」と思った。お店の方に訊ねれば、特段に店休日は無く、毎日のように昼食時間帯の前から夜まで営業しているということだった。「日曜日の昼?」と訊ねれば、「勿論営業。但し、日曜日は平日に提供中の“ランチ”は無い」という話しだった。それはそれで結構である…
↓そして日曜日の昼、ウラジオストクを発つ前に再訪してみた…
↑小麦粉を使って作るペリメニを提供する店…ということで、「小麦を育てて粉を作り…粉を使ってペリメニの生地を作る…」というイメージのディスプレイが店内に在る…
夜に寄った時にも気付いたが、他の来店客が多目だったので写真は遠慮していたが、今般は着席時点で多少空いていたので、ディスプレイの写真を撮っておいた。何となく「昔から在るような小麦粉の袋」が面白い…
↓黒ビールを頂きながら待っていれば、頼んだペリメニが運ばれて来た…
↓「おばあさんのレシピ」と称し、ガーリックが具材に交じっているモノが、なかなかに気に入った…
↑ペリメニは、「モチモチとした感じの生地」を使って、丁寧に具材を包み込んで作る。熱湯で加熱する「水餃子」風な作り方が主流のようだ…
↓「シベリア風」というスタンダードな代物は、「スープ入りに…」というようにオーダーしてみた。50ルーブル加算で出来るようになっている…
↓この<コンデューム>というモノは、19世紀の料理で廃れてしまっていたというが、歴史家が再現したレシピを参照し、この店で出すようになったという代物…
↑これも食べ易くで好かった…
ペリメニには何れも「スメタナ」(サワークリーム)が添えられる。他の調味料も、40ルーブル出すと添えられる。最初に寄った時には、全てのペリメニに「スメタナ」が添えられていることを知らなかったので、何となくマヨネーズを頼んだ…マヨネーズも好かったが…「スメタナ」を点けるのが妙に好い…
↓ペリメニの後、「ピラジョク」(ピロシキ)を「デザートの気分」で頼んでみた。
↑右がキャベツ入りで、左がジャガイモ入り…何れも美味かった!
このペリメニの店…何となく「ウラジオストクの想い出の店」という感である…
>>Пельменная "Ложки-плошки", пельменная Владивосток(ウェブサイト-露語)
なかなかに感じも好く、肝心のペリメニが美味かったので、「滞在中にもう一度…」と思った。お店の方に訊ねれば、特段に店休日は無く、毎日のように昼食時間帯の前から夜まで営業しているということだった。「日曜日の昼?」と訊ねれば、「勿論営業。但し、日曜日は平日に提供中の“ランチ”は無い」という話しだった。それはそれで結構である…
↓そして日曜日の昼、ウラジオストクを発つ前に再訪してみた…
↑小麦粉を使って作るペリメニを提供する店…ということで、「小麦を育てて粉を作り…粉を使ってペリメニの生地を作る…」というイメージのディスプレイが店内に在る…
夜に寄った時にも気付いたが、他の来店客が多目だったので写真は遠慮していたが、今般は着席時点で多少空いていたので、ディスプレイの写真を撮っておいた。何となく「昔から在るような小麦粉の袋」が面白い…
↓黒ビールを頂きながら待っていれば、頼んだペリメニが運ばれて来た…
↓「おばあさんのレシピ」と称し、ガーリックが具材に交じっているモノが、なかなかに気に入った…
↑ペリメニは、「モチモチとした感じの生地」を使って、丁寧に具材を包み込んで作る。熱湯で加熱する「水餃子」風な作り方が主流のようだ…
↓「シベリア風」というスタンダードな代物は、「スープ入りに…」というようにオーダーしてみた。50ルーブル加算で出来るようになっている…
↓この<コンデューム>というモノは、19世紀の料理で廃れてしまっていたというが、歴史家が再現したレシピを参照し、この店で出すようになったという代物…
↑これも食べ易くで好かった…
ペリメニには何れも「スメタナ」(サワークリーム)が添えられる。他の調味料も、40ルーブル出すと添えられる。最初に寄った時には、全てのペリメニに「スメタナ」が添えられていることを知らなかったので、何となくマヨネーズを頼んだ…マヨネーズも好かったが…「スメタナ」を点けるのが妙に好い…
↓ペリメニの後、「ピラジョク」(ピロシキ)を「デザートの気分」で頼んでみた。
↑右がキャベツ入りで、左がジャガイモ入り…何れも美味かった!
このペリメニの店…何となく「ウラジオストクの想い出の店」という感である…
>>Пельменная "Ложки-плошки", пельменная Владивосток(ウェブサイト-露語)
<パベーダ>(ГАЗ-М20):アンティークカー&オートバイ館 <アフトモトスタリーナ>(2018.05.05)
ソ連時代のモノを中心とした古い自動車、更に各国の古いオートバイのコレクションが展示されている「アンティークカー&オートバイ館 <アフトモトスタリーナ>」のコレクションは何れも興味深い…
↓<パベーダ>とは「勝利」を意味する語だが、この車輛に付けられた名でもある…
↑1946年から1958年まで製造されたという車輛…第2次大戦後、「勝利」という意味の名が付けられた、言わば「戦後の国威発揚」というような存在感が在る代物である…
これは「外国のノウハウを入れる」ということでもなく、「完全なソ連の国産」で製造された車輛であり、「初の本格的なソ連の国産車」ということになる代物で、製造総数は23万台を数えるのだという…
この<パベーダ>…フォードのノウハウが入って製造された<GAZ-M1>に比べ、飛躍的な技術的進歩が見受けられ、同時代の他国の車輛と比べても遜色が無いという代物であったようだ…
こういうような…「何を造ってきたか?」を伝えること…意外に大切であるように思う…そして、こうして伝えられたモノを視るのは面白い…
↓<パベーダ>とは「勝利」を意味する語だが、この車輛に付けられた名でもある…
↑1946年から1958年まで製造されたという車輛…第2次大戦後、「勝利」という意味の名が付けられた、言わば「戦後の国威発揚」というような存在感が在る代物である…
これは「外国のノウハウを入れる」ということでもなく、「完全なソ連の国産」で製造された車輛であり、「初の本格的なソ連の国産車」ということになる代物で、製造総数は23万台を数えるのだという…
この<パベーダ>…フォードのノウハウが入って製造された<GAZ-M1>に比べ、飛躍的な技術的進歩が見受けられ、同時代の他国の車輛と比べても遜色が無いという代物であったようだ…
こういうような…「何を造ってきたか?」を伝えること…意外に大切であるように思う…そして、こうして伝えられたモノを視るのは面白い…
<GAZ-M1>(ГАЗ-М1):アンティークカー&オートバイ館 <アフトモトスタリーナ>(2018.05.05)
ソ連時代のモノを中心とした古い自動車、更に各国の古いオートバイのコレクションが展示されている「アンティークカー&オートバイ館 <アフトモトスタリーナ>」は「第2次大戦期辺りの車輛」も色々と在る…
↓この車輛!1936年から1943年に製造されたモノだという…
↑こういうような年代の車輛となると…“クラシックカー”という趣が濃くなる…
<GAZ>という自動車メーカーは、現在では旧名に復して二―ジニーノブゴロドと呼ばれている街、ソ連時代のゴーリキーに立地している。「ゴーリキー・アフト・ザヴォ―ド」(ゴーリキー自動車工場)の頭文字で<GAZ>だ。米国のフォード社から様々な機器を入れて、それを利用しながらソ連流のアレンジを加えて自動車製造を始めた経過が在るようだ…この<M1>もそういう流れの車輛であるようだ…
こういう時代の、このような型の自動車…民間でも使用されていたと同時に、軍関係でも使用されていて、兵卒か下士官が運転手を務めて、一定以上の地位の士官が連絡車として半ば専用のように使っていた…そんなイメージだ…
↓この車輛!1936年から1943年に製造されたモノだという…
↑こういうような年代の車輛となると…“クラシックカー”という趣が濃くなる…
<GAZ>という自動車メーカーは、現在では旧名に復して二―ジニーノブゴロドと呼ばれている街、ソ連時代のゴーリキーに立地している。「ゴーリキー・アフト・ザヴォ―ド」(ゴーリキー自動車工場)の頭文字で<GAZ>だ。米国のフォード社から様々な機器を入れて、それを利用しながらソ連流のアレンジを加えて自動車製造を始めた経過が在るようだ…この<M1>もそういう流れの車輛であるようだ…
こういう時代の、このような型の自動車…民間でも使用されていたと同時に、軍関係でも使用されていて、兵卒か下士官が運転手を務めて、一定以上の地位の士官が連絡車として半ば専用のように使っていた…そんなイメージだ…
壁の中に金角湾…:ウラジオストク港(2018.05.06)
<ZIM>(ГАЗ-12 ЗИМ):アンティークカー&オートバイ館 <アフトモトスタリーナ>(2018.05.05)
<ヴォルガ>(ГАЗ-21М):アンティークカー&オートバイ館 <アフトモトスタリーナ>(2018.05.05)
地下通路:スヴェトランスカヤ通とオケアンスキー通との交差点(2018.05.06)
4月に初めてウラジオストクを訪ね、何箇所か「横断歩道は…何処?」と思った場所が在った。
そういう場所に関しては、地下通路が設けられていて、歩行者はそこを歩く…
今般のウラジオストク訪問でも、そんな場所は何箇所も何回も歩いたのだったが…
↓早朝に辺りを散策した時に、地下通路の写真を撮ってみた…
↑正しく、通常であれば横断歩道が設置される場所の真下に、確りした造りの地下通路が設えられている…
こんな地下通路…歩道橋を設えるより大掛かりな工事をしなければならないようにも思えるのだが…歩道橋は大型車輛の通行を慮って「十分な高さ」を取る関係上、階段が酷く長くなる場合も在るので、「短い階段の上り下りで済む」という地下通路は「より合理的」かもしれない…何度か歩いてみて、そんなことを考えた…
こういうモノは、色々な国や地域で見受けられるモノで、然程珍しくもないかもしれないが…ユジノサハリンスクや稚内では思い当たらない関係で、何となく注目してしまった…
早朝で非常に静かなのだが…通路の空いているスペースを利用して、小さな店が幾つも連なるような様相になっているのが面白い…通路そのものは年季が入っているが、店を入れるようになったのは、然程古いことでもないように見受けられる…
↓そして通路そのものよりも…こういうモノに注目した…意外に美しい…
↑「港町ウラジオストク」というイメージで、錨、羅針盤等、「船を想起するモノ」の装飾が施されている…
こういう「街のディーテール」とでもいうような「細かい事」に何となく気付くと、酷く愉しい気分になる…
そういう場所に関しては、地下通路が設けられていて、歩行者はそこを歩く…
今般のウラジオストク訪問でも、そんな場所は何箇所も何回も歩いたのだったが…
↓早朝に辺りを散策した時に、地下通路の写真を撮ってみた…
↑正しく、通常であれば横断歩道が設置される場所の真下に、確りした造りの地下通路が設えられている…
こんな地下通路…歩道橋を設えるより大掛かりな工事をしなければならないようにも思えるのだが…歩道橋は大型車輛の通行を慮って「十分な高さ」を取る関係上、階段が酷く長くなる場合も在るので、「短い階段の上り下りで済む」という地下通路は「より合理的」かもしれない…何度か歩いてみて、そんなことを考えた…
こういうモノは、色々な国や地域で見受けられるモノで、然程珍しくもないかもしれないが…ユジノサハリンスクや稚内では思い当たらない関係で、何となく注目してしまった…
早朝で非常に静かなのだが…通路の空いているスペースを利用して、小さな店が幾つも連なるような様相になっているのが面白い…通路そのものは年季が入っているが、店を入れるようになったのは、然程古いことでもないように見受けられる…
↓そして通路そのものよりも…こういうモノに注目した…意外に美しい…
↑「港町ウラジオストク」というイメージで、錨、羅針盤等、「船を想起するモノ」の装飾が施されている…
こういう「街のディーテール」とでもいうような「細かい事」に何となく気付くと、酷く愉しい気分になる…
「15番、17番、19番」である筈だが…「17番」は何処か!?(2018.05.05)
ロシアでの「住所表示」は「○○通XX番」というようなスタイルで、ユジノサハリンスクもウラジオストクも、或いは他の何処でも変わりはない…
何処かの建物を目指す場合、建物の住所である「○○通」をとりあえず探し、後は「XX番」に行き当たれば好いことになる。
「○○通」が非常に長い場合に、目指す「XX番」になかなか着かないというような場合も在るかもしれないが…そういうことを避ける意味で「○○通が△△通と交差する辺り」というような言い方も多用されているように見受けられる…
で、目指す「XX番」に関して、これは場所によって色々な番号の振り方の方式が在るように見受けられるが…「よく在る方式」と思えるのは、例えば通の右側に「1番、3番、5番…」と奇数、左側に「2番、4番、6番…」と偶数というような感じだ。建物の大きさが異なる等、色々と在って、例えば「5番の直ぐ向かい側が6番」ということでもなく、番号がやや判り悪い場合も在る…
ウラジオストクを歩いたが、何か「或る場所へ行かなければならない切実な事情」という程のモノが在る筈も無い、「休日を過ごそうと、衝動的に…」ということであったのだったが…それでも「そう言えば、往路の“機内誌”で視たレストランがこの辺りで…確か“17番”だったような…」と、アレウツカヤ通を歩いていて思い出した。
アレウツカヤ通は何度も歩いて、何となく馴染んだ…スヴェトランスカヤ通と交差する辺りで、駅の方向へ向かう右側車線の歩道を行けば、建物の番号は奇数である。「15番、17番、19番」である筈だ…
直ぐに「15番」に行き当たり、「次が?」と思っていれば…次に現れたのは「19番」だった…不思議だ…「17番」は何処か!?
↓歩道から一段高い場所になるやや奥へ、階段またはスロープで上がった辺りに扉が視える建物…それが「17番」らしい…
丘陵状の複雑に入り組んだ地形の上に築かれたウラジオストク…こういう「不思議」が方々に見受けられるようだ…
因みに…この「アレウツカヤ通17番」のレストランは、なかなかに好かった!
何処かの建物を目指す場合、建物の住所である「○○通」をとりあえず探し、後は「XX番」に行き当たれば好いことになる。
「○○通」が非常に長い場合に、目指す「XX番」になかなか着かないというような場合も在るかもしれないが…そういうことを避ける意味で「○○通が△△通と交差する辺り」というような言い方も多用されているように見受けられる…
で、目指す「XX番」に関して、これは場所によって色々な番号の振り方の方式が在るように見受けられるが…「よく在る方式」と思えるのは、例えば通の右側に「1番、3番、5番…」と奇数、左側に「2番、4番、6番…」と偶数というような感じだ。建物の大きさが異なる等、色々と在って、例えば「5番の直ぐ向かい側が6番」ということでもなく、番号がやや判り悪い場合も在る…
ウラジオストクを歩いたが、何か「或る場所へ行かなければならない切実な事情」という程のモノが在る筈も無い、「休日を過ごそうと、衝動的に…」ということであったのだったが…それでも「そう言えば、往路の“機内誌”で視たレストランがこの辺りで…確か“17番”だったような…」と、アレウツカヤ通を歩いていて思い出した。
アレウツカヤ通は何度も歩いて、何となく馴染んだ…スヴェトランスカヤ通と交差する辺りで、駅の方向へ向かう右側車線の歩道を行けば、建物の番号は奇数である。「15番、17番、19番」である筈だ…
直ぐに「15番」に行き当たり、「次が?」と思っていれば…次に現れたのは「19番」だった…不思議だ…「17番」は何処か!?
↓歩道から一段高い場所になるやや奥へ、階段またはスロープで上がった辺りに扉が視える建物…それが「17番」らしい…
丘陵状の複雑に入り組んだ地形の上に築かれたウラジオストク…こういう「不思議」が方々に見受けられるようだ…
因みに…この「アレウツカヤ通17番」のレストランは、なかなかに好かった!
「カップの表面」に「ウラジオストク」…(2018.05.06)
早朝に散策し、宿へ引揚げる際に「24時間営業」の飲食店が通り道に在った。ピザ等の料理や飲物を売る店と見受けられた…
早朝であったが、扉は開いていて入ることが出来た。非常に空いてはいたが、奥のテーブルに来店客も見受けられた。寄ってみたのは、「或いは持ち帰りの珈琲?」と思ったからだったので店員さんに訪ねてみれば「在る」ことが判った。
↓そして求めたカプチーノを宿に持ち帰り、窓辺に何気なく置いた…
↑複雑な線がカップの表面に在ると思っていたが…こうやって置いて眺めると、単純に線というのではなく「線画」になっていた…
視えた線画…下の方…手前に灯台が在って、大きな橋梁らしきモノが見える…「或いは?!」と思った…
↓向きを少し変えてみると…下の方に「潜水艦」だ!
↑これは間違いなく、「ウラジオストクの景観」を図案化した線画だ!!
立寄った店が独自に用意したのか、地域の飲食店等に向けて或る程度広く販売されているモノなのかは判らない…が、こういう「地域への愛着の様なモノ」がさりげないモノに示されているというのは好いように思う…
早朝であったが、扉は開いていて入ることが出来た。非常に空いてはいたが、奥のテーブルに来店客も見受けられた。寄ってみたのは、「或いは持ち帰りの珈琲?」と思ったからだったので店員さんに訪ねてみれば「在る」ことが判った。
↓そして求めたカプチーノを宿に持ち帰り、窓辺に何気なく置いた…
↑複雑な線がカップの表面に在ると思っていたが…こうやって置いて眺めると、単純に線というのではなく「線画」になっていた…
視えた線画…下の方…手前に灯台が在って、大きな橋梁らしきモノが見える…「或いは?!」と思った…
↓向きを少し変えてみると…下の方に「潜水艦」だ!
↑これは間違いなく、「ウラジオストクの景観」を図案化した線画だ!!
立寄った店が独自に用意したのか、地域の飲食店等に向けて或る程度広く販売されているモノなのかは判らない…が、こういう「地域への愛着の様なモノ」がさりげないモノに示されているというのは好いように思う…
戦車…:「5月9日」向けの展示準備(2018.05.08)
近所のカフェで軽食を摂ろうと外に出て…「夕焼けの光が何となく好い…」とレーニン広場側を通ろうとしたのだが…
↓戦車だ…
↑何れも現役の車輛と見受けられる…
明日、「5月9日」は対独戦終戦の日であり、パレードが行われる他に軍関係の展示等も催される…その準備が進められていた訳だ…
通り掛かる人達も、「明日の催事?」と眺めていた…そして記念写真を撮る人も多く見受けられた…私も何となく戦車を写真に収めた…
「画になる!」と思ったのは…
↓主力戦車と…
↓対空戦車だった…
↓そのうち、陽が落ちてしまった少し後に灯りが点いた…
↑何となく不思議な光景だ…
この後、カフェで軽食を摂った後に再度近くを通ったが…恐らく、よじ登るとか、その他不埒な振舞いに及ぶ人が出た場合に制止するためと思われるが、関係者と見受けられる人達が何人か辺りに佇んで様子を見守っていた…その脇で、何やら記念写真を撮る人達も見受けられた…
街の中にこんなモノが並ぶ…「この時季のロシア」という感の光景だ…
↓戦車だ…
↑何れも現役の車輛と見受けられる…
明日、「5月9日」は対独戦終戦の日であり、パレードが行われる他に軍関係の展示等も催される…その準備が進められていた訳だ…
通り掛かる人達も、「明日の催事?」と眺めていた…そして記念写真を撮る人も多く見受けられた…私も何となく戦車を写真に収めた…
「画になる!」と思ったのは…
↓主力戦車と…
↓対空戦車だった…
↓そのうち、陽が落ちてしまった少し後に灯りが点いた…
↑何となく不思議な光景だ…
この後、カフェで軽食を摂った後に再度近くを通ったが…恐らく、よじ登るとか、その他不埒な振舞いに及ぶ人が出た場合に制止するためと思われるが、関係者と見受けられる人達が何人か辺りに佇んで様子を見守っていた…その脇で、何やら記念写真を撮る人達も見受けられた…
街の中にこんなモノが並ぶ…「この時季のロシア」という感の光景だ…
<カチューシャ>を搭載した<ZiS 151>:アンティークカー&オートバイ館 <アフトモトスタリーナ>(2018.05.05)
ウラジオストクに「サハリンスカヤ通」という場所が在る。ウラジオストクの鉄道駅辺りから、運行系統31番のバスに乗車して二十数分という場所である…
この「サハリンスカヤ通」…何となく親しみが沸く通の名ではあるものの、特別な場所という程のことも無いようだ…しかし!!ウラジオストクで唯一残っている路面電車の起点・終点になっているということが在る…それに加えて…古い車輛の展示館が在る…
↓その展示館の入口で、いきなりこういうモノに出くわす…
↑第2次大戦期のソ連軍が用いた<カチューシャ>と呼び習わされた、ロケット弾発射器を搭載したトラックである…
第2次大戦期にソ連軍が用いたロケット弾発射器は大きく2種類在って、ここで展示されているのは<BM-13>という、より大きなロケットを載せて打ち出すモノである。トラックにこの発射器を載せ、ロケット弾を装填して“目標”に撃ち込む…“目標”と言っても、精確に狙いを定めるのでもない代物だ…敵軍の将兵等が集結している場所等の「辺り」に大量に撃ち込むというのが専らだったという…
第2次大戦の何年か後まで、第2次大戦期に用いた<カチューシャ>はソ連軍の装備だったようだ…トラックは1951年の車輛らしい…
展示館は<アフトモトスタリーナ>と称している。館名の英訳等も参照して、とりあえず「アンティークカー&オートバイ館 <アフトモトスタリーナ>」とでも呼ぶこととしたい…色々と、興味深い車輛が展示されている場所である…
この「サハリンスカヤ通」…何となく親しみが沸く通の名ではあるものの、特別な場所という程のことも無いようだ…しかし!!ウラジオストクで唯一残っている路面電車の起点・終点になっているということが在る…それに加えて…古い車輛の展示館が在る…
↓その展示館の入口で、いきなりこういうモノに出くわす…
↑第2次大戦期のソ連軍が用いた<カチューシャ>と呼び習わされた、ロケット弾発射器を搭載したトラックである…
第2次大戦期にソ連軍が用いたロケット弾発射器は大きく2種類在って、ここで展示されているのは<BM-13>という、より大きなロケットを載せて打ち出すモノである。トラックにこの発射器を載せ、ロケット弾を装填して“目標”に撃ち込む…“目標”と言っても、精確に狙いを定めるのでもない代物だ…敵軍の将兵等が集結している場所等の「辺り」に大量に撃ち込むというのが専らだったという…
第2次大戦の何年か後まで、第2次大戦期に用いた<カチューシャ>はソ連軍の装備だったようだ…トラックは1951年の車輛らしい…
展示館は<アフトモトスタリーナ>と称している。館名の英訳等も参照して、とりあえず「アンティークカー&オートバイ館 <アフトモトスタリーナ>」とでも呼ぶこととしたい…色々と、興味深い車輛が展示されている場所である…
灯りに輝く…:<黄金橋>(Золотой мост)(ザラトイ モスト)(2018.05.04)
灯り…:<黄金橋>(Золотой мост)(ザラトイ モスト)(2018.05.04)
夕陽の光に輝く…:<黄金橋>(Золотой мост)(ザラトイ モスト)(2018.05.04)
雨上がりの夕空に…:<黄金橋>(Золотой мост)(ザラトイ モスト)(2018.05.04)
夕べ:ウラジオストク港客船ターミナル周辺(2018.05.05)
「5月9日」の予行演習:ウラジオストク(2018.05.04)
ウラジオストクに到着後、直ぐに高台に上がって眺望を愉しみ、暗くなる中でゆっくりと下りてスヴェトランスカヤ通に至った…
スヴェトランスカヤ通の交通量が不自然に少なく、何やら若干の警察車輛と警察官、そして海軍の若い兵士―「海軍」というのが、<太平洋艦隊>の本拠地で、海軍関係者が多く居るウラジオストクらしい…―が沿道に概ね等間隔で並んでいる…歩道は普通に人々が行き交っているが…
そういう様子を視て「何かの催しが、中途半端な夜の時間帯に?!」と思いながら、アレウツカヤ通との交差点辺りに至った…
↓パトカーに先導されて、軍用車輛の一群が現れて待機である…
↓何やら「非常事態?!」と思えなくもないが…至って平和で、軍用車輛を背景にスマートフォンで写真を撮るような人達も大勢居た…そういう人達に紛れて撮った画だ…
「5月9日」に行うパレードの予行演習だったのだ…色々なモノを動かすタイミングを測り、必要が在れば修正を行うようなことのために「本番と全く同じ場所」での予行演習を行うようになっているのであろう…ユジノサハリンスクでも昨年視た事例だ…
スヴェトランスカヤ通の交通量が不自然に少なく、何やら若干の警察車輛と警察官、そして海軍の若い兵士―「海軍」というのが、<太平洋艦隊>の本拠地で、海軍関係者が多く居るウラジオストクらしい…―が沿道に概ね等間隔で並んでいる…歩道は普通に人々が行き交っているが…
そういう様子を視て「何かの催しが、中途半端な夜の時間帯に?!」と思いながら、アレウツカヤ通との交差点辺りに至った…
↓パトカーに先導されて、軍用車輛の一群が現れて待機である…
↓何やら「非常事態?!」と思えなくもないが…至って平和で、軍用車輛を背景にスマートフォンで写真を撮るような人達も大勢居た…そういう人達に紛れて撮った画だ…
「5月9日」に行うパレードの予行演習だったのだ…色々なモノを動かすタイミングを測り、必要が在れば修正を行うようなことのために「本番と全く同じ場所」での予行演習を行うようになっているのであろう…ユジノサハリンスクでも昨年視た事例だ…
「5月9日」の懸垂幕(2018.05.06)
“229”:ルガボエ広場:ウラジオストクの路面電車(2018.05.05)
「路面電車の様子を眺めるのに好適で、方々へ向かうバスも発着しているから、何となく馴染んだスヴェトランスカヤ通辺りに引揚げるにも都合が好さそうだ…」とルガボエ広場で少し過ごした…
↓こんな電車が姿を現した…
↑暫し停車していた…
これを視て「おっ?!」と思った…もう四半世紀も前になってしまったが…数回だけ視た記憶が在る「モスクワの路面電車」が、こういうような形だったと微かに覚えていたのだ…随分と旧い記憶だが、「年季が入った車輛…」と何となく思ったものだ…「眼の前のモノ」は、「更に年季が?」ということにもなるかもしれない…恐らく…ソ連全土の様々な都市で運用されていた、或いは現在も運用されている路面電車は、製造年次が違うと外観や一部の装備に違いが在っても「同じ基本構造で製造され続けていた」のであろう…故に、方々で永く運用出来ることになるのだ…
↓何となく眺めていると、路面電車が走り始め、辺りの建物の硝子張り部分に姿を映しながら去って行った…
↑画の左寄り、路面電車の後尾側に運転台が設えられていないのが判る…「飽くまで一方通行で“折り返し”はしない」という方式であることが判る…
ウラジオストクの路面電車…何となく「ソ連時代の感じ?」を想像させる独特なムードも在る代物だ…
↓こんな電車が姿を現した…
↑暫し停車していた…
これを視て「おっ?!」と思った…もう四半世紀も前になってしまったが…数回だけ視た記憶が在る「モスクワの路面電車」が、こういうような形だったと微かに覚えていたのだ…随分と旧い記憶だが、「年季が入った車輛…」と何となく思ったものだ…「眼の前のモノ」は、「更に年季が?」ということにもなるかもしれない…恐らく…ソ連全土の様々な都市で運用されていた、或いは現在も運用されている路面電車は、製造年次が違うと外観や一部の装備に違いが在っても「同じ基本構造で製造され続けていた」のであろう…故に、方々で永く運用出来ることになるのだ…
↓何となく眺めていると、路面電車が走り始め、辺りの建物の硝子張り部分に姿を映しながら去って行った…
↑画の左寄り、路面電車の後尾側に運転台が設えられていないのが判る…「飽くまで一方通行で“折り返し”はしない」という方式であることが判る…
ウラジオストクの路面電車…何となく「ソ連時代の感じ?」を想像させる独特なムードも在る代物だ…