DHC-8-Q400:テイクオフ!:ウラジオストク空港(2018.05.06)

ウラジオストク空港で飛行機に搭乗…ユジノサハリンスク空港を目指すこととなる…

窓側の席が当たっていて、通路側に他の乗客は無い…酷く居心地は好いのだが…

↓窓から、着陸脚と滑走路の路面しか視えなかった…
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↑飛行機は胴体の上に翼が在って、そこに機関部を提げている型で。機関部の下の着陸脚が出入りする仕掛けだ…天候が好転して光が強く、路面に機体の影がハッキリと視える…

こういう状況では…景色を愉しみ悪い…と些か不満を感じながら、ぼんやりと窓を眺めていた…

↓ゆったりと滑走路に入った機体は、離陸のために速度を上げ始めた…
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↓機体が浮いた…
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↓着陸脚が機体に収められて行く…
'S7 4613' on 06-05-2018 (8)

こうして…私が乗った、S7航空とアエロフロート航空のコードシェアであり、アエロフロート航空とオーロラ航空のコードシェアでもあって、オーロラ航空の機材と乗員によって運航されているという、「些かややこしい?!」体裁の便はユジノサハリンスク空港を目指し始めた訳だ…

頭上の飛行機…暗くなり悪い感…:レーニン広場(2018.05.12)

よく晴れているような感だった土曜日…

↓午後9時辺りの状況…
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↑灯りが目立つようになっているであろう街の上空を、ユジノサハリンスク空港へ降りようとしているように視える飛行機が通過している…

何度もユジノサハリンスク空港に降りる飛行機には乗っているが…「恐らくレーニン像が在る周辺が窓から視える?」というコースでの飛行は未経験だ…

そんなことを想ったが、午後9時で「真っ暗でもない…」という感じに、何時の間にかなっている…こういう「日が長い…」という傾向が顕著になって来た昨今である…

19世紀後半から20世紀初頭と見受けられる煉瓦:<ウラジオストク要塞博物館>(2018.05.05)

現在のウラジオストクの地域に、「要塞」の遺構が方々に在るということなのだが、その一つで比較的街中から訪ね易い辺りに博物館が整備されている。

<ウラジオストク要塞博物館>ということで、色々な時代の兵器が置かれていて、それが何となく目立つ感の場所ではあるのだが…寧ろ「街の発展の経過」の一部を、少し判り易く伝えてくれているような性質も在ると思えた…

↓こういうモノが展示されていた…
Vladivostok on 05-05-2018 vol02 (15)
↑後から彫り込む?製造時に型枠になっている?その辺はよく判らないが…色々な文字や記号の刻印が在る古い煉瓦だ…

ウラジオストクで様々な施設が建設されて行く過程の中、利用されていた煉瓦ということなのであろう…

こういうモノ…他所では視た記憶が無い…

1869年のウラジオストクの地図:<ウラジオストク要塞博物館>(2018.05.05)

「要塞」というのは?「戦略上重要な地点を外敵から守る為に築かれた堅固な構築物」という程度の意味であろう…ウラジオストクというのは、その「要塞」という貌も持つ地域だ…

1860年に港と街とが拓かれて行くこととなるのだが、そうしたモノを護るべく「要塞」と呼ばれる防衛施設が整備されて行く…現在のウラジオストクの地域に、そういう「要塞」の遺構が方々に在るということなのだが、その一つで比較的街中から訪ね易い辺りに博物館が整備されている。

↓その博物館で視掛けた…旧い書体で「ウラジオストクのの図」と題が在る…その下辺りに「1869年」と小さく書き込まれている…今年、日本では「明治150年」等と言っているが、明治元年が1868年なので、1869年は明治2年ということだ…
Vladivostok on 05-05-2018 vol02 (17)
↑この「1869年の地図」…やや地味な展示だったが、大変に興味深く眺めた!!

金角湾を囲むような陸地が描かれている。こういう図は上が北寄りというのが普通だ…図の左は西寄りに相当する筈であるが、「図に記される程度」の道路が整備され、「市街らしきモノが在った」と思われるのは「金角湾の北西側」だけである…

現在ではウラジオストク駅が在る辺り、<中央広場>になっている辺りは、この時期で市街化していたようだ。視ながら思い出したのは、1861年頃からウラジオストクに定住して「民間人として最初のウラジオストクの住民」と言われている企業家のヤコヴ・セミョーノフに関して、「1860年代から70年代に家が在ったと伝えられる場所」という小さな石碑を視たのも、<中央広場>の少し東に相当する辺りだったということだ…

こういう状態のウラジオストクが大きく発展して行ったのは、1890年代に鉄道建設が始まる後のようである…が、「街の歴史の黎明期」のようなこんな時期にも、既に「古くからの市街」とされる辺りは、現在も基礎が変わっていないと見受けられるような具合に街路が築かれていた訳だ…

<ウラジオストク要塞博物館>ということで、色々な時代の兵器が置かれていて、それが何となく目立つ感の場所ではあるのだが…寧ろ「街の発展の経過」の一部を、少し判り易く伝えてくれているような性質も在ると思えた…

こういう場所は貴重である…

アレウツカヤ通の風情(2018.05.06)

↓ウラジオストクを去る前、駅の辺りへ向かってアレウツカヤ通を歩いていて、何気なく足を停めた…朝からの曇天が俄かに好転し、何となく眩しい感じにもなっていたのだったが…
Vladivostok on 06-05-2018 (22)
↑上りや下りが複雑に入り乱れている坂道で構成されている街の、古くからの都心部の一隅を占めているアレウツカヤ通…やや凝った形の街灯が坂道に沿って並ぶ感じが好ましいと思った…右手に視える、少し年季が入った集合住宅らしい建物も味わいが在る…

偶々、4月も5月も駅の周辺から一寸上がった辺りの宿を利用した関係で、アレウツカヤ通は「到着直後から立ち去る直前まで」と随分多く歩く機会が在った…

確か…<アレウト>という船の乗員等が道路の整備に関わったという故事に因んで、<アレウト>が形容詞化して「アレウツカヤ通」と名付けられた…と聞いた…ソ連時代は、違う名前になっていたかもしれないが…最初に通を整備した人達は、この通が「車輛が溢れて渋滞する場面も見受けられる」ようになるとは想像もしなかったことであろう…