「要塞」というのは?「戦略上重要な地点を外敵から守る為に築かれた堅固な構築物」という程度の意味であろう…ウラジオストクというのは、その「要塞」という貌も持つ地域だ…
1860年に港と街とが拓かれて行くこととなるのだが、そうしたモノを護るべく「要塞」と呼ばれる防衛施設が整備されて行く…現在のウラジオストクの地域に、そういう「要塞」の遺構が方々に在るということなのだが、その一つで比較的街中から訪ね易い辺りに博物館が整備されている。
↓その博物館で視掛けた…旧い書体で「ウラジオストクのの図」と題が在る…その下辺りに「1869年」と小さく書き込まれている…今年、日本では「明治150年」等と言っているが、明治元年が1868年なので、1869年は明治2年ということだ…

↑この「1869年の地図」…やや地味な展示だったが、大変に興味深く眺めた!!
金角湾を囲むような陸地が描かれている。こういう図は上が北寄りというのが普通だ…図の左は西寄りに相当する筈であるが、「図に記される程度」の道路が整備され、「市街らしきモノが在った」と思われるのは「金角湾の北西側」だけである…
現在ではウラジオストク駅が在る辺り、<中央広場>になっている辺りは、この時期で市街化していたようだ。視ながら思い出したのは、1861年頃からウラジオストクに定住して
「民間人として最初のウラジオストクの住民」と言われている企業家のヤコヴ・セミョーノフに関して、「1860年代から70年代に家が在ったと伝えられる場所」という小さな石碑を視たのも、<中央広場>の少し東に相当する辺りだったということだ…
こういう状態のウラジオストクが大きく発展して行ったのは、1890年代に鉄道建設が始まる後のようである…が、「街の歴史の黎明期」のようなこんな時期にも、既に「古くからの市街」とされる辺りは、現在も基礎が変わっていないと見受けられるような具合に街路が築かれていた訳だ…
<ウラジオストク要塞博物館>ということで、色々な時代の兵器が置かれていて、それが何となく目立つ感の場所ではあるのだが…寧ろ「街の発展の経過」の一部を、少し判り易く伝えてくれているような性質も在ると思えた…
こういう場所は貴重である…