大阪城では、江戸時代に徳川幕府が建築した状況のままに残っているモノ―「大坂城」だった頃のモノ―が幾分在り、色々なことを伝える貴重な存在となっているのだが…「明治150年」という今年、徳川幕府が瓦解して行った経過にも立ち会っている、そうしたモノを特に公開している…
日本で「城」と言えば…一般には「壮麗な天守閣」のイメージが強いのかもしれないが…実はそうでもない…
江戸時代に「城」が所領を経営する大名の居城ということになって以降は、「領主の公館」であって、来客が在った場合の「迎賓館」であって、家中の公式行事を催す「会館」であって、主だった家臣達が行政事務や会議を行う「政庁」でもあった<御殿>がより重要で、天守閣が在る場合でも「警備担当者」が些か居る程度だったらしい…天守閣に関しては、或いは「領主の権威の象徴」というような意味合いも色濃かったかもしれない…
江戸時代の初期や、もう少し前の時代に「城」が「本当に防衛拠点であった」という時代には、築かれた場所の地形や、時代が下ってからは石垣や堀で囲われた「攻めるに難く、護るに易い」ような工夫、地形や石垣による工夫を補完する「櫓」と呼び習わされた「将兵が詰める場所」が重要だった…
↓これは千貫櫓の中だ…

↑格子の窓や火縄銃を突き出す銃眼が幾つも据えられた防衛施設だ…
↓こういうように見える場所に建築されている構造物なのだ…

↑城を囲む軍勢と対峙する最前線という構造物である…
「千貫」というのは「多量の銭」を意味する…「非常に高い価値」という含意だ…
「大坂城」の場所が「石山本願寺」であった頃、激しい抗争を展開した織田信長が、攻めあぐねていた櫓に関して「千貫文を出してでも奪いたい…」(どんな大金を積んででも攻め落としたい)と言っていた場所に在る櫓なので「千貫櫓」と呼ばれているという説が在るのだという…
この建物…1620年に徳川幕府が大坂城を再建した頃からの建物ではあるようだが…何度か改修の手が入っている可能性も在るのだそうだ…
何か「浪漫溢れる」という存在感が在る場所だと思う…