ユジノサハリンスクを発とうとした朝…住まいの近隣に在るポポヴィチ通に出て、朝食によく利用する店を目指した…
↓時季になると「あそこが…」と話題になる場所である…
↑集合住宅の傍に、然程背が高くない桜の木が在って、毎年花がなかなかに好い…
「5月18日」に至って、ユジノサハリンスクは漸く“エゾヤマザクラ”が開花という感じだ…
大坂城で来訪者の案内をしていたおばちゃん達と言葉を交わしたが…今季は梅、桜、藤、桃と大坂城公園の様々な花は何れも「早い?!」という時季に咲き、時々不意に「寒い?」が挨拶言葉になるような、「多少不安定?」な天候状況だそうだ…
日本国内の方々で似たような感じなのかもしれないが…ユジノサハリンスクは例年と然程変わらない…
大阪城天守閣:西の丸側から望む(2018.05.20)
千貫櫓:大坂城(2018.05.20)
大阪城では、江戸時代に徳川幕府が建築した状況のままに残っているモノ―「大坂城」だった頃のモノ―が幾分在り、色々なことを伝える貴重な存在となっているのだが…「明治150年」という今年、徳川幕府が瓦解して行った経過にも立ち会っている、そうしたモノを特に公開している…
日本で「城」と言えば…一般には「壮麗な天守閣」のイメージが強いのかもしれないが…実はそうでもない…
江戸時代に「城」が所領を経営する大名の居城ということになって以降は、「領主の公館」であって、来客が在った場合の「迎賓館」であって、家中の公式行事を催す「会館」であって、主だった家臣達が行政事務や会議を行う「政庁」でもあった<御殿>がより重要で、天守閣が在る場合でも「警備担当者」が些か居る程度だったらしい…天守閣に関しては、或いは「領主の権威の象徴」というような意味合いも色濃かったかもしれない…
江戸時代の初期や、もう少し前の時代に「城」が「本当に防衛拠点であった」という時代には、築かれた場所の地形や、時代が下ってからは石垣や堀で囲われた「攻めるに難く、護るに易い」ような工夫、地形や石垣による工夫を補完する「櫓」と呼び習わされた「将兵が詰める場所」が重要だった…
↓これは千貫櫓の中だ…
↑格子の窓や火縄銃を突き出す銃眼が幾つも据えられた防衛施設だ…
↓こういうように見える場所に建築されている構造物なのだ…
↑城を囲む軍勢と対峙する最前線という構造物である…
「千貫」というのは「多量の銭」を意味する…「非常に高い価値」という含意だ…
「大坂城」の場所が「石山本願寺」であった頃、激しい抗争を展開した織田信長が、攻めあぐねていた櫓に関して「千貫文を出してでも奪いたい…」(どんな大金を積んででも攻め落としたい)と言っていた場所に在る櫓なので「千貫櫓」と呼ばれているという説が在るのだという…
この建物…1620年に徳川幕府が大坂城を再建した頃からの建物ではあるようだが…何度か改修の手が入っている可能性も在るのだそうだ…
何か「浪漫溢れる」という存在感が在る場所だと思う…
日本で「城」と言えば…一般には「壮麗な天守閣」のイメージが強いのかもしれないが…実はそうでもない…
江戸時代に「城」が所領を経営する大名の居城ということになって以降は、「領主の公館」であって、来客が在った場合の「迎賓館」であって、家中の公式行事を催す「会館」であって、主だった家臣達が行政事務や会議を行う「政庁」でもあった<御殿>がより重要で、天守閣が在る場合でも「警備担当者」が些か居る程度だったらしい…天守閣に関しては、或いは「領主の権威の象徴」というような意味合いも色濃かったかもしれない…
江戸時代の初期や、もう少し前の時代に「城」が「本当に防衛拠点であった」という時代には、築かれた場所の地形や、時代が下ってからは石垣や堀で囲われた「攻めるに難く、護るに易い」ような工夫、地形や石垣による工夫を補完する「櫓」と呼び習わされた「将兵が詰める場所」が重要だった…
↓これは千貫櫓の中だ…
↑格子の窓や火縄銃を突き出す銃眼が幾つも据えられた防衛施設だ…
↓こういうように見える場所に建築されている構造物なのだ…
↑城を囲む軍勢と対峙する最前線という構造物である…
「千貫」というのは「多量の銭」を意味する…「非常に高い価値」という含意だ…
「大坂城」の場所が「石山本願寺」であった頃、激しい抗争を展開した織田信長が、攻めあぐねていた櫓に関して「千貫文を出してでも奪いたい…」(どんな大金を積んででも攻め落としたい)と言っていた場所に在る櫓なので「千貫櫓」と呼ばれているという説が在るのだという…
この建物…1620年に徳川幕府が大坂城を再建した頃からの建物ではあるようだが…何度か改修の手が入っている可能性も在るのだそうだ…
何か「浪漫溢れる」という存在感が在る場所だと思う…
大手口多門櫓:大坂城(2018.05.20)
大阪城では、江戸時代に徳川幕府が建築した状況のままに残っているモノ―「大坂城」だった頃のモノ―が幾分在り、色々なことを伝える貴重な存在となっているのだが…「明治150年」という今年、徳川幕府が瓦解して行った経過にも立ち会っている、そうしたモノを特に公開している…
↓「日本の城の建物内」という雰囲気が色濃い…
↑城の区画を囲う石垣の側に在って、城内を移動する際の通路になり、敵と対峙する将兵が詰めた場所…「多門櫓」と呼ばれる構造物である…
大阪城にもこの「多門櫓」と呼ばれた構造物は多々在ったらしいが、現存しているのは第2次大戦期の大阪空襲の被害を免れた、この大手口のモノだけである…
大手口多門櫓は1628年に建築され、1783年に落雷による火災で焼失し、1848年に再建されたのだという。幕末期に大阪城に入った14代将軍の徳川家茂、15代将軍の徳川慶喜もこの「大手口多門櫓」を通って本丸の御殿へ向かっていたらしい…
そんな話しを聞けば…幕末の<鳥羽伏見の戦い>の後、徳川慶喜が大坂城を抜け出して、半ば乗っ取るように乗り込んだ<開陽丸>で密かに江戸に引揚げてしまうという挿話が在るが…そういう場面で血相を変えて「大樹公は何処におわす!!」と口々に叫ぶ関係者が、絵の場所をドタドタと走り回っていたのかもしれないと想像してしまう…
↓大きな大坂城の構造物だけに、天井も高く、なかなかに立派だ…
「大阪城天守閣」は、「昭和の代」になったことを記念する事業という位置付で、「“大大阪”のシンボル」として築かれたモノなのだが…大阪の<大坂城>は、間違いなく「歴史の舞台」なのだ…そんな「当たり前」かもしれないことを改めて想った…
↓「日本の城の建物内」という雰囲気が色濃い…
↑城の区画を囲う石垣の側に在って、城内を移動する際の通路になり、敵と対峙する将兵が詰めた場所…「多門櫓」と呼ばれる構造物である…
大阪城にもこの「多門櫓」と呼ばれた構造物は多々在ったらしいが、現存しているのは第2次大戦期の大阪空襲の被害を免れた、この大手口のモノだけである…
大手口多門櫓は1628年に建築され、1783年に落雷による火災で焼失し、1848年に再建されたのだという。幕末期に大阪城に入った14代将軍の徳川家茂、15代将軍の徳川慶喜もこの「大手口多門櫓」を通って本丸の御殿へ向かっていたらしい…
そんな話しを聞けば…幕末の<鳥羽伏見の戦い>の後、徳川慶喜が大坂城を抜け出して、半ば乗っ取るように乗り込んだ<開陽丸>で密かに江戸に引揚げてしまうという挿話が在るが…そういう場面で血相を変えて「大樹公は何処におわす!!」と口々に叫ぶ関係者が、絵の場所をドタドタと走り回っていたのかもしれないと想像してしまう…
↓大きな大坂城の構造物だけに、天井も高く、なかなかに立派だ…
「大阪城天守閣」は、「昭和の代」になったことを記念する事業という位置付で、「“大大阪”のシンボル」として築かれたモノなのだが…大阪の<大坂城>は、間違いなく「歴史の舞台」なのだ…そんな「当たり前」かもしれないことを改めて想った…
煙硝蔵:大坂城(2018.05.20)
大阪城では、江戸時代に徳川幕府が建築した状況のままに残っているモノ―「大坂城」だった頃のモノ―が幾分在り、色々なことを伝える貴重な存在となっているのだが…「明治150年」という今年、徳川幕府が瓦解して行った経過にも立ち会っている、そうしたモノを特に公開している…
↓その一つがこれである…不思議な石の廊下のようだが?
↑煙硝蔵という代物だ…要するに「火薬庫」である…徳川幕府は、銃砲を色々と持っていた…江戸時代を通じて、火縄銃が主なモノだったが、幕末期にはかなり進んだ銃を使った…そして大砲も在った…それらの銃砲用の火薬を保管した場所だ…
この場所は2.5m程度の幅で、廊下のように細長い特殊倉庫ということになるが、壁の厚さも概ね2.5m程度も在り、一定の通気のために穴も開けられている…
↓出入口の扉も、金属製の堅牢なモノが用意されている…
明治期以降、大阪城の場所は陸軍が使用していた…昭和の初めの「古き善き時代」には、「“大大阪”の街のシンボル」として、現在の<大阪城天守閣>が出来た経過も在るが…この煙硝蔵は<帝国陸軍>(明治時代以降の軍)も使っていた経過が在るらしい…
見学に行けば、地元大阪のガイドのおばちゃんが居て、なかなかに愉しい。少しお話しを伺った…
↓その一つがこれである…不思議な石の廊下のようだが?
↑煙硝蔵という代物だ…要するに「火薬庫」である…徳川幕府は、銃砲を色々と持っていた…江戸時代を通じて、火縄銃が主なモノだったが、幕末期にはかなり進んだ銃を使った…そして大砲も在った…それらの銃砲用の火薬を保管した場所だ…
この場所は2.5m程度の幅で、廊下のように細長い特殊倉庫ということになるが、壁の厚さも概ね2.5m程度も在り、一定の通気のために穴も開けられている…
↓出入口の扉も、金属製の堅牢なモノが用意されている…
明治期以降、大阪城の場所は陸軍が使用していた…昭和の初めの「古き善き時代」には、「“大大阪”の街のシンボル」として、現在の<大阪城天守閣>が出来た経過も在るが…この煙硝蔵は<帝国陸軍>(明治時代以降の軍)も使っていた経過が在るらしい…
見学に行けば、地元大阪のガイドのおばちゃんが居て、なかなかに愉しい。少しお話しを伺った…
<HOOTERS BURGER>(フーターズバーガー)(2018.05.20)
午前中に買物…宿に引揚げて少々休憩…そして少しだけ遅いランチ…実質的な「朝食兼用」のような感じがしないでもないのだが…早朝に求めた地下鉄の「1日乗車券」で堺筋本町駅へ出向いた…
↓そして立ち寄った店で…こういう「アメリカン!!」な感じ…
↑「米国の流儀」というようなことで、最近は日本国内の方々に出店している様子のスポーツバー<HOOTERS>…
今日はプロ野球中継が流れていた店内…画像は流れているが、何となくノリが好い音楽が店内では鳴っている…
↓付け合わせのフライポテトに点けるマスタード…
↑こういう具合に皿に盛るというのが秀逸!
スタッフと少しお話しをしながら、ランチをゆったりと頂き、何となく想定したよりも長居をした…
↓そして立ち寄った店で…こういう「アメリカン!!」な感じ…
↑「米国の流儀」というようなことで、最近は日本国内の方々に出店している様子のスポーツバー<HOOTERS>…
今日はプロ野球中継が流れていた店内…画像は流れているが、何となくノリが好い音楽が店内では鳴っている…
↓付け合わせのフライポテトに点けるマスタード…
↑こういう具合に皿に盛るというのが秀逸!
スタッフと少しお話しをしながら、ランチをゆったりと頂き、何となく想定したよりも長居をした…
通天閣:<づぼらや>の側から…(2018.05.19)
通天閣:恵美須町駅側から…(2018.05.19)
エレオノラ・プレイの像:夜(2018.05.04)
↓日没辺りに高台で巨大な橋梁を眺めるなどした後、スヴェトランスカヤ通に下りて…この像を眺めた…
↓辺りが暗くなった後…少し独特な趣が漂う…
4月にこの像を視て、少し気になって調べた経過が在ったが…結局、彼女は「旧き善きウラジオストクを深く愛していた」のだと思えるが…彼女の眼に“現在”はどのように映じるであろうか?
↓辺りが暗くなった後…少し独特な趣が漂う…
4月にこの像を視て、少し気になって調べた経過が在ったが…結局、彼女は「旧き善きウラジオストクを深く愛していた」のだと思えるが…彼女の眼に“現在”はどのように映じるであろうか?