乗込んだ飛行機が、離陸に向けて滑走を始める地点へゆっくりと移動を始めた。様々な光が夜の空港では眩しい…
↓窓から見えている飛行機も駐機場からの移動を開始したように見受けられる…
↓こちらは未だ駐機中であるようだ…
F2でISO3200にしてみたが…動く飛行機の窓にカメラを圧し付けるようにして撮った画…画としてはやや雑で「今一つ?」だが、この「宇宙!?」というような、夜の空港の風情…日中とは全然異なる様子が記憶に残る…
思い掛けない?:運行日誌(2020.03.29)
或る程度想定していたようでいて、想定を少々外れてしまい、「それはそれとして…」と何となく納得する場合…個人的な事に関してはそういう例は少なくない。自身で考えて、自身で行動する限り、どういうことであろうと納得は可能だ。何処かの他所の人間が、自身の関わる事について好き勝手を言っていて、そちらの言い分のとおりになる場合には納得どころか理解さえしない、出来ない、する気も無いということになってしまうように思うのだが…
振り返ると、人生の多くの場面について「そんなモノ…」というような感、言葉を換えると「なるようになるモノ…」というような物腰で臨んでいるということなのかもしれない…今日は、少し早めに「何時でも御休み頂いて結構です」という態勢に入った…
宿の大浴場を利用させて頂いていた間に日付も変わっていた…そうやって始まった1日だ…更に、日付が変わって以降に休んでいるのだが、眠りが深いのか、ダラダラと寝ているというのでもなく、普段「極々短い散策」に出ているような時間帯には目が開いてしまった。不思議なものだ…
前夜に成田に宿を求めたのは、着実に新千歳空港に着くことが叶うような夜の時間帯のフライトで、遅めに到着した時に便利だったからということが挙げられるが、実はそれだけではない。
成田の少し先に佐原(さわら)という場所が在る。江戸時代には幕府の御料(所謂“天領”)であったり旗本の知行地であったという経過が在る場所だという。そこはかの伊能忠敬に所縁が深い地域なのだ。
江戸時代である19世紀初めの方に、地図を作る仕事を伊能忠敬は、本格的に学問に勤しんで、その成果を活かすべく地図製作に向けた測量のようなことを手掛けたのは50歳以降である。それまでは婿養子に入った佐原の伊能家で醸造業、金融業、舟運というような事業を手掛けていて、その傍らで名主という“村長”とか“町長”という感じの役目を担っていた。江戸時代の地方では、こういうような代表者が任命されて色々な事をやる自治制度のようなものが存外に重要だったようだが…
その伊能忠敬の佐原だが、伊能忠敬が住んでいたという家を含めて、古い建物が江戸時代には舟運に利用されたであろう水路の辺りに残っていたりして面白そうだったのだ。
加えて、辺りには香取神宮という由緒在る立派な神社が鎮座することも知られている。
とりあえず「実質的なスタート地点」という感の成田から佐原を訪ね、そこから先は「なるようになるモノ…」というような物腰で臨んでいて、深く考えていなかった。或いは、色々と考え過ぎて「その時の気分と天気で決める!」ということにしてしまっていたのだった…
成田は雨交じりな早朝だった…そして雨は強弱が揺れていたが、成田駅から佐原駅の1つ向こうの香取駅へ向かった。香取神宮へは2㎞程度…概ね30分だ。その間、雨に濡れた…
香取神宮は18世紀頃の建物が伝わっているのだという。かの徳川綱吉が寄進したのだというが、そういう建物を時々修繕しながら大切に使っていて、また神職の皆さんの数も多い感じで、偶々人出が少ない朝早めな時間帯だったが「大社の風格」が感じられた…
その香取神宮から2㎞程度…伊能忠敬が住んでいたという家も在る佐原の旧い街並みの辺りまで更に歩いた。ここでも雨に濡れ続けた…やや冷たい雨で、時々強風が交じった…身体も冷えた…
旧い街並みの傍に<佐原町並み交流館>という案内所的な施設が在る。オープンしたところであるようで、硝子張りな扉から御手洗が視えたので拝借しようと中へ入った。
御手洗を拝借したが、<佐原町並み交流館>には街の歴史や伊能忠敬の事績を広く伝えようと様々な活動をしているグループの皆さんが居て、訪ねる人達に色々なことを伝えている。自身は、樺太探検の間宮林蔵が、伊能忠敬の地図製作に協力して北海道の測量史料を提供した経過を承知していて、地元の資料館で間宮林蔵等が携わった当時の地図製作という関係の展示を愉しく視ている。それで、当時の関係者の中心的人物でもあった伊能忠敬に関心を持った。
<佐原町並み交流館>の皆さんと少し話して面白かった。伊能忠敬の人生と事績を紹介するビデオが在るというので、それを拝見してずぶ濡れの身体を休めていた…
佐原に関しては、非常に好い感じだったが…風雨に動きを阻まれた…そして冷たい雨に濡れ続け、何か酷く低温の中を動き回る時以上に辛い感じさえした…
実を言えば、成田に上陸後に本州を少し西へ進んで、そのまま空路で北海道へ“帰国”という考えだった。色々な経路で西へ進むことも思い描いたが…とりあえず、やや列車本数が少ない佐原駅で乗車出来た千葉行の列車に乗っていれば…続いていた雨は、真昼間に雪に変わり、雨で冷えた箇所に些か積もるというような…この時季の首都圏では「珍しい!?」状態になった。
何か…半ば力尽きたような感となり…「この雪から逃げよう」ということにした。京都の祇園に宿―少し前まで「空いていない…」ばかりで、空いていても「高過ぎ…」という感であった場所…―を求め、東京駅から新幹線で京都駅に向かってしまったのだった…
東京は少々御無沙汰で、少しばかり何かを視ようと思わないでもなかったが…何やら「また素通り…」ということになった。御無沙汰な状況を捉えて「東京には出入禁止を食らっている…」と冗談を言うことが在るのだが…
そして深い考えも無く京都にやって来て…朝の6時台に出発して、11時頃に佐原を発つまで濡れながら歩いて少々弱っているので、休もうとしていたが…宿の比較的近くにかの<祇園枝垂桜>が在ることを思い出し、折良く「時季!!」な状況を視て来た…
<祇園枝垂桜>というクラスのモノは、流石に些か多目な見物者が見受けられた。京都は、少し以前のような「異様な人出」は免れている。これは東京も同じだ…佐原は、多分平素から比較的静かなのだと想像する。しかし「例の問題」に関して、千葉県内で「由々しき…」が発生したので危機意識は高くなったようだ…
京都の祇園の宿で…とりあえず悪条件下で動いた身体を休めている。折角居る京都でどうするか?何をするでもなく、漫然と過ごせば善い筈だが…「何時でも御休み頂いて結構です」という態勢で何となくゆっくりする…
振り返ると、人生の多くの場面について「そんなモノ…」というような感、言葉を換えると「なるようになるモノ…」というような物腰で臨んでいるということなのかもしれない…今日は、少し早めに「何時でも御休み頂いて結構です」という態勢に入った…
宿の大浴場を利用させて頂いていた間に日付も変わっていた…そうやって始まった1日だ…更に、日付が変わって以降に休んでいるのだが、眠りが深いのか、ダラダラと寝ているというのでもなく、普段「極々短い散策」に出ているような時間帯には目が開いてしまった。不思議なものだ…
前夜に成田に宿を求めたのは、着実に新千歳空港に着くことが叶うような夜の時間帯のフライトで、遅めに到着した時に便利だったからということが挙げられるが、実はそれだけではない。
成田の少し先に佐原(さわら)という場所が在る。江戸時代には幕府の御料(所謂“天領”)であったり旗本の知行地であったという経過が在る場所だという。そこはかの伊能忠敬に所縁が深い地域なのだ。
江戸時代である19世紀初めの方に、地図を作る仕事を伊能忠敬は、本格的に学問に勤しんで、その成果を活かすべく地図製作に向けた測量のようなことを手掛けたのは50歳以降である。それまでは婿養子に入った佐原の伊能家で醸造業、金融業、舟運というような事業を手掛けていて、その傍らで名主という“村長”とか“町長”という感じの役目を担っていた。江戸時代の地方では、こういうような代表者が任命されて色々な事をやる自治制度のようなものが存外に重要だったようだが…
その伊能忠敬の佐原だが、伊能忠敬が住んでいたという家を含めて、古い建物が江戸時代には舟運に利用されたであろう水路の辺りに残っていたりして面白そうだったのだ。
加えて、辺りには香取神宮という由緒在る立派な神社が鎮座することも知られている。
とりあえず「実質的なスタート地点」という感の成田から佐原を訪ね、そこから先は「なるようになるモノ…」というような物腰で臨んでいて、深く考えていなかった。或いは、色々と考え過ぎて「その時の気分と天気で決める!」ということにしてしまっていたのだった…
成田は雨交じりな早朝だった…そして雨は強弱が揺れていたが、成田駅から佐原駅の1つ向こうの香取駅へ向かった。香取神宮へは2㎞程度…概ね30分だ。その間、雨に濡れた…
香取神宮は18世紀頃の建物が伝わっているのだという。かの徳川綱吉が寄進したのだというが、そういう建物を時々修繕しながら大切に使っていて、また神職の皆さんの数も多い感じで、偶々人出が少ない朝早めな時間帯だったが「大社の風格」が感じられた…
その香取神宮から2㎞程度…伊能忠敬が住んでいたという家も在る佐原の旧い街並みの辺りまで更に歩いた。ここでも雨に濡れ続けた…やや冷たい雨で、時々強風が交じった…身体も冷えた…
旧い街並みの傍に<佐原町並み交流館>という案内所的な施設が在る。オープンしたところであるようで、硝子張りな扉から御手洗が視えたので拝借しようと中へ入った。
御手洗を拝借したが、<佐原町並み交流館>には街の歴史や伊能忠敬の事績を広く伝えようと様々な活動をしているグループの皆さんが居て、訪ねる人達に色々なことを伝えている。自身は、樺太探検の間宮林蔵が、伊能忠敬の地図製作に協力して北海道の測量史料を提供した経過を承知していて、地元の資料館で間宮林蔵等が携わった当時の地図製作という関係の展示を愉しく視ている。それで、当時の関係者の中心的人物でもあった伊能忠敬に関心を持った。
<佐原町並み交流館>の皆さんと少し話して面白かった。伊能忠敬の人生と事績を紹介するビデオが在るというので、それを拝見してずぶ濡れの身体を休めていた…
佐原に関しては、非常に好い感じだったが…風雨に動きを阻まれた…そして冷たい雨に濡れ続け、何か酷く低温の中を動き回る時以上に辛い感じさえした…
実を言えば、成田に上陸後に本州を少し西へ進んで、そのまま空路で北海道へ“帰国”という考えだった。色々な経路で西へ進むことも思い描いたが…とりあえず、やや列車本数が少ない佐原駅で乗車出来た千葉行の列車に乗っていれば…続いていた雨は、真昼間に雪に変わり、雨で冷えた箇所に些か積もるというような…この時季の首都圏では「珍しい!?」状態になった。
何か…半ば力尽きたような感となり…「この雪から逃げよう」ということにした。京都の祇園に宿―少し前まで「空いていない…」ばかりで、空いていても「高過ぎ…」という感であった場所…―を求め、東京駅から新幹線で京都駅に向かってしまったのだった…
東京は少々御無沙汰で、少しばかり何かを視ようと思わないでもなかったが…何やら「また素通り…」ということになった。御無沙汰な状況を捉えて「東京には出入禁止を食らっている…」と冗談を言うことが在るのだが…
そして深い考えも無く京都にやって来て…朝の6時台に出発して、11時頃に佐原を発つまで濡れながら歩いて少々弱っているので、休もうとしていたが…宿の比較的近くにかの<祇園枝垂桜>が在ることを思い出し、折良く「時季!!」な状況を視て来た…
<祇園枝垂桜>というクラスのモノは、流石に些か多目な見物者が見受けられた。京都は、少し以前のような「異様な人出」は免れている。これは東京も同じだ…佐原は、多分平素から比較的静かなのだと想像する。しかし「例の問題」に関して、千葉県内で「由々しき…」が発生したので危機意識は高くなったようだ…
京都の祇園の宿で…とりあえず悪条件下で動いた身体を休めている。折角居る京都でどうするか?何をするでもなく、漫然と過ごせば善い筈だが…「何時でも御休み頂いて結構です」という態勢で何となくゆっくりする…
<3548>:京成3500形:京成成田駅(2020.03.28)
成田空港の<第3ターミナル>という場所に空路到着した…空港の地下からJRや京成電鉄の列車が利用出来るが、乗場の在る<第2ターミナル>は遠い…上り下りも在る道程を延々と歩く。20分やそこらは要するような感じだ。<第3ターミナル>は所謂「LCC」を中心とした国内線の着く場所のようだ…
そうやって<第2ターミナル>の駅に着き、成田の街へ出るには、京成電鉄の列車が早く出るようだった…ICOCAを使って乗車した…
↓第2ターミナルを出て、次の駅が京成成田駅だ…雨が交じり始めていた中で列車は走っていた…
↑京成成田駅に着くと、何かが正面に付いてしまったようで、洗剤を点けて雨の故に動いているワイパーで汚れを拭うようなことをしていた…
↓既に列車本数が控え目になっている、やや遅めな夜だ…この列車は各駅に停車しながら、京成本線を進んで京成上野駅を目指すのだという…
↓ステンレスの車体が雨に湿っている感じが、駅の照明に浮かび上がる感じで、風情が好かった…
1972(昭和47)年から1982(昭和57)年に製造された3500形という電車だ。6輛編成のモノと4輛編成のモノが在るそうだが、乗車したのは6輛編成だった…
「長い一日」と慨嘆するような移動をした…「見慣れぬ路」に入り込んだが、出会う様々なモノへの期待を膨らませながら、好い風情の見慣れぬ車輛を少し眺めてから宿に入った。
そうやって<第2ターミナル>の駅に着き、成田の街へ出るには、京成電鉄の列車が早く出るようだった…ICOCAを使って乗車した…
↓第2ターミナルを出て、次の駅が京成成田駅だ…雨が交じり始めていた中で列車は走っていた…
↑京成成田駅に着くと、何かが正面に付いてしまったようで、洗剤を点けて雨の故に動いているワイパーで汚れを拭うようなことをしていた…
↓既に列車本数が控え目になっている、やや遅めな夜だ…この列車は各駅に停車しながら、京成本線を進んで京成上野駅を目指すのだという…
↓ステンレスの車体が雨に湿っている感じが、駅の照明に浮かび上がる感じで、風情が好かった…
1972(昭和47)年から1982(昭和57)年に製造された3500形という電車だ。6輛編成のモノと4輛編成のモノが在るそうだが、乗車したのは6輛編成だった…
「長い一日」と慨嘆するような移動をした…「見慣れぬ路」に入り込んだが、出会う様々なモノへの期待を膨らませながら、好い風情の見慣れぬ車輛を少し眺めてから宿に入った。