少し見慣れない通過列車を見送って程無く、少し見慣れた感じの列車が現れた…
↓大阪難波駅を経て、阪神なんば線と直通している列車だ…阪神の車輌である…
↓通過列車が「何だったのか?」と思っていた間に、列車は直ぐに近鉄奈良駅に到着した…新大宮・近鉄奈良間は1駅間なので直ぐだ…
この阪神の<1609>は、阪神・近鉄の直通列車に対応する1000系電車の1輌である。大阪難波・近鉄奈良間でも見掛ける機会が多い…
↓近鉄奈良駅は「行止り式」の軌道で、こういうように車輌が美しい感じで眺められる…
↑近鉄奈良駅に着いた列車は。折返し運転で神戸三宮駅を目指すようだ…
こういう具合に「行きかう列車を眺める」というのも、出先に在る時の愉しい事の一つである…
桜…:姫路城総社門跡(2020.04.03)
往路は姫路駅の真正面の通を進んで姫路城に向かったが、復路は城の少し東寄りの公園の辺りから違う通を歩いて姫路駅を目指した。
↓途中で視掛けた桜が好かった…
↑何か、中途半端に城の石垣のようなモノ、石垣の一部を組み入れて整備したような感じになっている場所だ…
↓この桜を視掛けた辺りは、城の一部であった場所、<総社門>と呼ばれていたようだ…
各地に城が在って、城下町を起源とする街が在る。そして、現在は「普通の街の一部」となっている場所に、嘗ては城の何らかの構造物が在ったというような例も意外に多いのだ。この<総社門>もそういう例の一つということになる…
↓片側が城の石垣の一部を利用した構造物で、「やや広い歩道」という設えだが、辺りの人達にとっての「一寸した憩いの場」となるような感じに視えた。
姫路は「山陽道の要地」というようなことで大掛かりな城も登場し、江戸時代には譜代大名の知行地の中心となった城下町だった。そういう城下町の面影が、こういうような具合に見受けられるのが興味深い…
↓途中で視掛けた桜が好かった…
↑何か、中途半端に城の石垣のようなモノ、石垣の一部を組み入れて整備したような感じになっている場所だ…
↓この桜を視掛けた辺りは、城の一部であった場所、<総社門>と呼ばれていたようだ…
各地に城が在って、城下町を起源とする街が在る。そして、現在は「普通の街の一部」となっている場所に、嘗ては城の何らかの構造物が在ったというような例も意外に多いのだ。この<総社門>もそういう例の一つということになる…
↓片側が城の石垣の一部を利用した構造物で、「やや広い歩道」という設えだが、辺りの人達にとっての「一寸した憩いの場」となるような感じに視えた。
姫路は「山陽道の要地」というようなことで大掛かりな城も登場し、江戸時代には譜代大名の知行地の中心となった城下町だった。そういう城下町の面影が、こういうような具合に見受けられるのが興味深い…
稚内港北防波堤ドーム(2020.04.09)
少し気温が低下し、0℃を挟むような辺りになって、吹き抜ける風が冷たいような感じになっていた。
朝から天候が“下り坂”気味で雨が交じったが…やがて雪に切替わり…日中を通じてそれが断続し、夕刻に至っても降雪が続いた。
↓夕刻に一寸様子を視に出てみれば、こんな様子だった…
↓「一様に真っ白に…」という程の降り方でもないようではある…
今季は雪が少な目に推移し、積雪期は「終わってしまった?」という様相の中、多少強引に雪が還って来た感だ…
加えて、少し前に「桜が咲き誇る様」を眺めた経過が在ったので、雪との「落差…」に少々驚いている…
この雪も、何日かで直ぐに消えるとは思うが…呆れて驚く光景であると眺める他方、「当地らしい?」と納得で、何やら「愛憎、相半ばする光景」だと思った…
朝から天候が“下り坂”気味で雨が交じったが…やがて雪に切替わり…日中を通じてそれが断続し、夕刻に至っても降雪が続いた。
↓夕刻に一寸様子を視に出てみれば、こんな様子だった…
↓「一様に真っ白に…」という程の降り方でもないようではある…
今季は雪が少な目に推移し、積雪期は「終わってしまった?」という様相の中、多少強引に雪が還って来た感だ…
加えて、少し前に「桜が咲き誇る様」を眺めた経過が在ったので、雪との「落差…」に少々驚いている…
この雪も、何日かで直ぐに消えるとは思うが…呆れて驚く光景であると眺める他方、「当地らしい?」と納得で、何やら「愛憎、相半ばする光景」だと思った…
姫路城:やや東寄りから望む…(2020.04.03)
関西を離れる前…神戸空港へ向かう三宮を通り越し、姫路へ足を延ばした。桜が麗しい時季である。姫路城辺りを少々散策したかったのだ…
↓やや東寄り、大天守閣の側面というような辺りから見上げた感じが、何となく気に入った…
↓石垣が濠に映り込むような感で、そこに大天守閣の側面が見えているという様子も好かった…
↓晴れた明るい天に、些かの雲が散るというような感じも美しかった…
今般、漫然と姫路城辺りを歩き回った。御結婚の記念写真を撮っていた人達を何組も視掛けた。巷は「事情」が色々と在る最中だが、それでも時季には桜は麗しく咲き誇り、それでも人々は人生の節目を迎えている。そんなことを思いながら、桜咲き乱れる姫路城辺りの光景を記憶に留めた…
↓やや東寄り、大天守閣の側面というような辺りから見上げた感じが、何となく気に入った…
↓石垣が濠に映り込むような感で、そこに大天守閣の側面が見えているという様子も好かった…
↓晴れた明るい天に、些かの雲が散るというような感じも美しかった…
今般、漫然と姫路城辺りを歩き回った。御結婚の記念写真を撮っていた人達を何組も視掛けた。巷は「事情」が色々と在る最中だが、それでも時季には桜は麗しく咲き誇り、それでも人々は人生の節目を迎えている。そんなことを思いながら、桜咲き乱れる姫路城辺りの光景を記憶に留めた…
氷室神社…(2020.04.01)
薬師寺を訪ねた辺りで雨が交じり、そのまま雨が続いた…そこからバスで東大寺に至り、雨が続く中で奈良の街を歩いた…
↓雨中の桜というのも美しい…
↓奈良県庁に近い氷室神社だ…
↓美しい桜は“ピーク”を少し過ぎたようだ…
実は…丁度1年前にも氷室神社に立ち寄っていたという経過が在った。あの時は桜が“ピーク”という感じだったので、少し趣は異なった…
↓桜は“ピーク”を過ぎれば、雨や風を受けて散り、やがて緑の葉が目立つようになって行く筈だ…
雨の中、着実に移ろう街中の自然に触れたような感だった…
↓雨中の桜というのも美しい…
↓奈良県庁に近い氷室神社だ…
↓美しい桜は“ピーク”を少し過ぎたようだ…
実は…丁度1年前にも氷室神社に立ち寄っていたという経過が在った。あの時は桜が“ピーク”という感じだったので、少し趣は異なった…
↓桜は“ピーク”を過ぎれば、雨や風を受けて散り、やがて緑の葉が目立つようになって行く筈だ…
雨の中、着実に移ろう街中の自然に触れたような感だった…
墨坂神社…(2020.04.02)
「日本最古の健康の神を祀る社」というモノ?そういう神社が、榛原駅から徒歩圏内に在ると聞いた…
宇太水分神社(うだのみくまりじんじゃ)辺りから「概ね1時間に1本」というバスで榛原駅に引揚げた後、この「日本最古の健康の神を祀る社」という墨坂神社を訪ねてみた…
駅前交番が在るような辺りに「周辺案内図」が在って、そこにも墨坂神社は載っていた。それを何となく覚えて、歩き始めると数分で「あれ?少し大きな神社?」という建物らしいモノが視えて来る…
↓墨坂神社にアッサリと至り着いた…
↓拝殿に入る辺りだ…
↓拝殿に近付いた…
墨坂神社は、第10代崇神天皇による疫病退散の祭祀に伴って創建されたと伝えられる社だ。その故事に因み、「日本最古の健康の神を祀る社」とされている訳だ。一群の御祭神を「墨坂大神」と総称しているという。これが「健康の神」だ…
↓奥の本殿が覗く…
↑本殿は1864(文久元)年のモノであるという…
↓拝殿の脇に在った、こういう飾りが好い感じだ…
↓拝殿、本殿の脇に小さな一連の摂社が並んでいた…
この「日本最古の健康の神を祀る社」に臨み、自身が普通にここへ至り着いたことを感謝すると同時に、昨今の「事情」に鑑みて「疫病退散」を願わずには居られなかった…
辿り着いた時…「境内にクレーン?」と見受けられたが、訪ねた時には社務所の工事を行っているところであった。また機会が在れば、この「日本最古の健康の神を祀る社」こと墨坂神社を訪ねてみたいような気もする…
宇太水分神社(うだのみくまりじんじゃ)辺りから「概ね1時間に1本」というバスで榛原駅に引揚げた後、この「日本最古の健康の神を祀る社」という墨坂神社を訪ねてみた…
駅前交番が在るような辺りに「周辺案内図」が在って、そこにも墨坂神社は載っていた。それを何となく覚えて、歩き始めると数分で「あれ?少し大きな神社?」という建物らしいモノが視えて来る…
↓墨坂神社にアッサリと至り着いた…
↓拝殿に入る辺りだ…
↓拝殿に近付いた…
墨坂神社は、第10代崇神天皇による疫病退散の祭祀に伴って創建されたと伝えられる社だ。その故事に因み、「日本最古の健康の神を祀る社」とされている訳だ。一群の御祭神を「墨坂大神」と総称しているという。これが「健康の神」だ…
↓奥の本殿が覗く…
↑本殿は1864(文久元)年のモノであるという…
↓拝殿の脇に在った、こういう飾りが好い感じだ…
↓拝殿、本殿の脇に小さな一連の摂社が並んでいた…
この「日本最古の健康の神を祀る社」に臨み、自身が普通にここへ至り着いたことを感謝すると同時に、昨今の「事情」に鑑みて「疫病退散」を願わずには居られなかった…
辿り着いた時…「境内にクレーン?」と見受けられたが、訪ねた時には社務所の工事を行っているところであった。また機会が在れば、この「日本最古の健康の神を祀る社」こと墨坂神社を訪ねてみたいような気もする…
瓦店…:祇園白川(2020.03.29)
外で「少し面白い!」というモノを視掛ける場合が在るが、それらに関しては、多くの場合は製造や販売に携わっている会社や個人が在る筈だ。
↓「とりあえず京都に…」と、陣取った宿に近い祇園白川辺りを歩いて、こんなモノを視掛けた…
↑瓦を扱う店で、看板替わりに色々な種類の瓦を掲げていたのだ…
京都やその他の近県の街角で、屋根の隅に何かの像が付いた瓦が使用されている例を視掛ける場合が在る。通り掛かって視掛けた店では、そういう像が付いた瓦を色々と用意して販売しているということである。
こういうモノは「建物に関わる人々の幸せを祈って…」ということで据えられるのだと想像するが、瓦を商う店で掲げているモノは所謂“七福神”と見受けられる像が目立つ。
こんなモノに出くわし、眺めながら歩くのが愉しい…
↓「とりあえず京都に…」と、陣取った宿に近い祇園白川辺りを歩いて、こんなモノを視掛けた…
↑瓦を扱う店で、看板替わりに色々な種類の瓦を掲げていたのだ…
京都やその他の近県の街角で、屋根の隅に何かの像が付いた瓦が使用されている例を視掛ける場合が在る。通り掛かって視掛けた店では、そういう像が付いた瓦を色々と用意して販売しているということである。
こういうモノは「建物に関わる人々の幸せを祈って…」ということで据えられるのだと想像するが、瓦を商う店で掲げているモノは所謂“七福神”と見受けられる像が目立つ。
こんなモノに出くわし、眺めながら歩くのが愉しい…
<京都国立博物館>の門(と建物)を望む…(2020.03.30)
清水五条駅に近い<喫茶 ラ・ヴィータ>で小一時間も寛いだ後、<豊国神社>に立寄り、「以降は徒歩のみではなく、列車にも乗ろう…」と七条駅を目指した…
↓<豊国神社>から踏み出して程無く、こんなモノを眼にした…
これが<京都国立博物館>だ。最近の「事情」で休館中ではあるが、午前8時台なので、何れにしても開いてはいない…
<京都国立博物館>の、門の間から視えている建物は1892(明治25)年)着工で、1895(明治28)年に竣工したそうだ…
↓何か欧州の何処かの国の、王族に所縁の宮殿とか、国会議事堂やら大統領官邸というようなモノを想起させる建物だと思った。
そう言えば…この<京都国立博物館>も、「非常によく知られている」という場所で、直ぐ近くまで訪れた経過は在っても「どういう訳か立ち寄っていない…」というような場所となっていた…
「何時か…」と思いながら、七条駅の側へ歩を進めたのだった…
↓<豊国神社>から踏み出して程無く、こんなモノを眼にした…
これが<京都国立博物館>だ。最近の「事情」で休館中ではあるが、午前8時台なので、何れにしても開いてはいない…
<京都国立博物館>の、門の間から視えている建物は1892(明治25)年)着工で、1895(明治28)年に竣工したそうだ…
↓何か欧州の何処かの国の、王族に所縁の宮殿とか、国会議事堂やら大統領官邸というようなモノを想起させる建物だと思った。
そう言えば…この<京都国立博物館>も、「非常によく知られている」という場所で、直ぐ近くまで訪れた経過は在っても「どういう訳か立ち寄っていない…」というような場所となっていた…
「何時か…」と思いながら、七条駅の側へ歩を進めたのだった…
<奈良公園バスターミナル>の<スターバックスコーヒー>…(2020.04.01)
雨の中、東大寺南大門周辺から氷室神社辺りへ抜け、県庁周辺を通って三条通側へ進もうとしていた…
↓県庁の直ぐ横辺りで、方々で眼に馴染んでいる感の<スターバックスコーヒー>のマークを眼に停めた…
↑全国各地に出店している<スターバックスコーヒー>に関しては、様々な建物に入っている例が在るが…奈良の街のど真ん中のような場所で「随分と仰々しい建物の店?」と少し興味を覚えた…
↓何処かの公園に在るような、噴水や流水の演出でも何でもない…<スターバックスコーヒー>の看板が在る出入口前の階段で、降雨が流れていて、階段辺りの照明と相俟って「敢えて施している水の演出」というように見え、雨の中で見入ってしまった…
↓暫く見入ってしまった、降雨の水が流れていた階段だったが…何となく濡れてしまい、建物に入ることは可能であると見受けられたので、屋内で少し休むことにした…
入ってみれば…「随分と仰々しい建物の店?」と思った<スターバックスコーヒー>は、手前側の一画を占めるテナントという様子だった。
<スターバックスコーヒー>前を通れば、店員さん達が愛想良く「いらっしゃいませ!」と声を出す。「珈琲を頂こう…」と思い付いた…
<スターバックスコーヒー>では「本日の珈琲」と称して、何種類かの豆を日替わりローテーションで挽いて淹れているモノが在るので、それを御願いして、店内で頂いて一息入れることにした。
「“本日の珈琲”ですが<パイクプレイス・ロースト>といいます」と店員さんは言う。
「パイクプレイス?」と尋ねると「<スターバックスコーヒー>が起こった場所です」とのこと。「アメリカのシアトルだったね…」と応じれば「よく御存知で!」となる。
「御砂糖とミルクは…」と問われれば、「飲物は砂糖無しが好い…人生は甘い方が好いのかもしれないが…」と応じる。店員さんは笑いながら「ごゆっくりどうぞ…」と言う…
↓然程混んでいたでもない店内で、珈琲を頂いて少し寛いだ…
何やら大袈裟な建物であると思ったのだが、この<スターバックスコーヒー>の看板が目立った建物は<奈良公園バスターミナル>というのだそうだ。団体旅客等の貸切バスが発着する場所として設けられた施設であり、2019年4月にオープンしたものであるそうだ。この時は、団体旅客のような人達は見受けられないような感で、雨も降り続いた中、施設の館内は閑散としていた…
団体旅客等の貸切バスに関して、個人的にはやや縁が薄い感だ…ここに関しては…「県庁の辺り…少し大袈裟に見える建物の硝子張り部分に在る<スターバックスコーヒー>」というように記憶してしまいそうである…
↓県庁の直ぐ横辺りで、方々で眼に馴染んでいる感の<スターバックスコーヒー>のマークを眼に停めた…
↑全国各地に出店している<スターバックスコーヒー>に関しては、様々な建物に入っている例が在るが…奈良の街のど真ん中のような場所で「随分と仰々しい建物の店?」と少し興味を覚えた…
↓何処かの公園に在るような、噴水や流水の演出でも何でもない…<スターバックスコーヒー>の看板が在る出入口前の階段で、降雨が流れていて、階段辺りの照明と相俟って「敢えて施している水の演出」というように見え、雨の中で見入ってしまった…
↓暫く見入ってしまった、降雨の水が流れていた階段だったが…何となく濡れてしまい、建物に入ることは可能であると見受けられたので、屋内で少し休むことにした…
入ってみれば…「随分と仰々しい建物の店?」と思った<スターバックスコーヒー>は、手前側の一画を占めるテナントという様子だった。
<スターバックスコーヒー>前を通れば、店員さん達が愛想良く「いらっしゃいませ!」と声を出す。「珈琲を頂こう…」と思い付いた…
<スターバックスコーヒー>では「本日の珈琲」と称して、何種類かの豆を日替わりローテーションで挽いて淹れているモノが在るので、それを御願いして、店内で頂いて一息入れることにした。
「“本日の珈琲”ですが<パイクプレイス・ロースト>といいます」と店員さんは言う。
「パイクプレイス?」と尋ねると「<スターバックスコーヒー>が起こった場所です」とのこと。「アメリカのシアトルだったね…」と応じれば「よく御存知で!」となる。
「御砂糖とミルクは…」と問われれば、「飲物は砂糖無しが好い…人生は甘い方が好いのかもしれないが…」と応じる。店員さんは笑いながら「ごゆっくりどうぞ…」と言う…
↓然程混んでいたでもない店内で、珈琲を頂いて少し寛いだ…
何やら大袈裟な建物であると思ったのだが、この<スターバックスコーヒー>の看板が目立った建物は<奈良公園バスターミナル>というのだそうだ。団体旅客等の貸切バスが発着する場所として設けられた施設であり、2019年4月にオープンしたものであるそうだ。この時は、団体旅客のような人達は見受けられないような感で、雨も降り続いた中、施設の館内は閑散としていた…
団体旅客等の貸切バスに関して、個人的にはやや縁が薄い感だ…ここに関しては…「県庁の辺り…少し大袈裟に見える建物の硝子張り部分に在る<スターバックスコーヒー>」というように記憶してしまいそうである…
宇太水分神社…(2020.04.02)
「宇太水分神社」と各々の文字は平易ながら、一寸読み難い…これは「うだのみくまりじんじゃ」と読む。
「水分神社」(みくまりじんじゃ)と称するモノは、現在の奈良県に相当する大和国で古くから祀られている神社で、東西南北に4つの主要な水分神社が鎮座していて、この宇太水分神社は「東」を占めるモノなのだそうだ…
近鉄の大阪と名古屋とを結ぶ路線の中、奈良県の東寄りな地域の榛原駅が在る辺りが奈良県宇陀市だ。榛原駅からバスに乗ると、なかなか興味深い場所を訪ねることが出来る。昨年は<又兵衛桜>という銘木に出会い、宇陀松山の街を散策し、清酒を醸す酒造会社にも立ち寄った。そういうことで愉しい想い出が出来ると、宇陀市で視られる様々なモノに興味を覚えるようになる。そして宇陀松山とは少し方角が違う辺りに、面白い場所が在るということを知るようになったのだ。
↓そういうことで、榛原駅前からバスに乗り、宇太水分神社へやって来た…
↓社号が刻まれた石柱…趣が在る…
宇太水分神社の社号に「式内大社」と冠せられている。これは?927(延長5)年に纏められたという『延喜式』の中で「官社」と指定されていた「式の内に載っている社」というのが「式内社」で、それであることを示しているのだと想像出来る…
「式内社」とされるモノの中に格付けが在り、官幣大社、国幣大社、官幣小社、国幣小社となっている。「官幣」は畿内の社で、「国幣」はそれ以外の各地に在る社であるのだという。宇太水分神社は「大社」に列せられていたということで「式内大社」と石柱に刻まれているのであろう。
尚、神社の社号を記したモノの中には「旧社格」という呼称を冠している場合も見受けられる。これは『延喜式』のような感じで、明治期以降に各地の神社を格付けしたものである。この「旧社格」は、1945(昭和20)年まで広く用いられていた…
話題が逸れそうになったが、宇太水分神社へ戻る…
↓境内へ進めば、酷く貫禄が在る手水場が姿を見せる…
↓そして拝殿が在り、奥に並ぶ本殿の神々に参拝をするようになっている…
↓拝殿の脇から本殿等が視えるが…中央の3棟が組み合わさるような本殿が全て「国宝」の指定を受けていて、脇の2棟の摂社が全て「重要文化財」の指定を受けている…
↑何れも鎌倉時代や室町時代の建築であるようだ…
↓本殿の辺りに少し近付いたが…なかなかに貫禄が在る…
↓少し角度を変えると、この種の建築に特徴的な屋根の感じが判り易いかもしれない…
宇太水分神社は「崇神天皇の時代の創建」と伝えられている。崇神天皇は第10代天皇とされている。疫病退散の祭祀を執り行ったことなどが伝えられているようだが、半ば伝説のような時代の天皇ということになるように思う。そんな遥か昔から、地域と人々の平穏を祈る場が受け継がれ、永い年月の中には様々な困難が生じていたことであろうが、「国宝」や「重要文化財」という指定を受けるような文化財が大切に受継がれているのである。
何か「遥かな時間を超えて受継がれる人々の願い」というようなモノを感じ、ここに立ち寄ることが叶って本当に善かったと思った。
そして…バスの本数が少な目で動き悪いので、少し慌ただしく榛原駅へ引揚げたのだった…
「水分神社」(みくまりじんじゃ)と称するモノは、現在の奈良県に相当する大和国で古くから祀られている神社で、東西南北に4つの主要な水分神社が鎮座していて、この宇太水分神社は「東」を占めるモノなのだそうだ…
近鉄の大阪と名古屋とを結ぶ路線の中、奈良県の東寄りな地域の榛原駅が在る辺りが奈良県宇陀市だ。榛原駅からバスに乗ると、なかなか興味深い場所を訪ねることが出来る。昨年は<又兵衛桜>という銘木に出会い、宇陀松山の街を散策し、清酒を醸す酒造会社にも立ち寄った。そういうことで愉しい想い出が出来ると、宇陀市で視られる様々なモノに興味を覚えるようになる。そして宇陀松山とは少し方角が違う辺りに、面白い場所が在るということを知るようになったのだ。
↓そういうことで、榛原駅前からバスに乗り、宇太水分神社へやって来た…
↓社号が刻まれた石柱…趣が在る…
宇太水分神社の社号に「式内大社」と冠せられている。これは?927(延長5)年に纏められたという『延喜式』の中で「官社」と指定されていた「式の内に載っている社」というのが「式内社」で、それであることを示しているのだと想像出来る…
「式内社」とされるモノの中に格付けが在り、官幣大社、国幣大社、官幣小社、国幣小社となっている。「官幣」は畿内の社で、「国幣」はそれ以外の各地に在る社であるのだという。宇太水分神社は「大社」に列せられていたということで「式内大社」と石柱に刻まれているのであろう。
尚、神社の社号を記したモノの中には「旧社格」という呼称を冠している場合も見受けられる。これは『延喜式』のような感じで、明治期以降に各地の神社を格付けしたものである。この「旧社格」は、1945(昭和20)年まで広く用いられていた…
話題が逸れそうになったが、宇太水分神社へ戻る…
↓境内へ進めば、酷く貫禄が在る手水場が姿を見せる…
↓そして拝殿が在り、奥に並ぶ本殿の神々に参拝をするようになっている…
↓拝殿の脇から本殿等が視えるが…中央の3棟が組み合わさるような本殿が全て「国宝」の指定を受けていて、脇の2棟の摂社が全て「重要文化財」の指定を受けている…
↑何れも鎌倉時代や室町時代の建築であるようだ…
↓本殿の辺りに少し近付いたが…なかなかに貫禄が在る…
↓少し角度を変えると、この種の建築に特徴的な屋根の感じが判り易いかもしれない…
宇太水分神社は「崇神天皇の時代の創建」と伝えられている。崇神天皇は第10代天皇とされている。疫病退散の祭祀を執り行ったことなどが伝えられているようだが、半ば伝説のような時代の天皇ということになるように思う。そんな遥か昔から、地域と人々の平穏を祈る場が受け継がれ、永い年月の中には様々な困難が生じていたことであろうが、「国宝」や「重要文化財」という指定を受けるような文化財が大切に受継がれているのである。
何か「遥かな時間を超えて受継がれる人々の願い」というようなモノを感じ、ここに立ち寄ることが叶って本当に善かったと思った。
そして…バスの本数が少な目で動き悪いので、少し慌ただしく榛原駅へ引揚げたのだった…
サイフォンで淹れた珈琲とバタートースト…:<喫茶 ラ・ヴィータ>(2020.03.30)
<祇園枝垂桜>、<産寧坂>、<大谷本廟>と<東大路通>を南下し、京阪の清水五条駅の辺りに至った。京阪の路線の七条駅から出町柳駅までの区間は、街の東寄りの地下に軌道が敷設されている。故に「清水五条駅の辺り」と言っても、「川沿いの道路の歩道部分に地下駅との出入口が見える」ということになる。
朝5時頃から歩くと…時間はたっぷりと在る。清水五条駅周辺に至った時点で朝7時前という状態だった。そのまま歩き続けるというのも消耗してしまいそうなので、一息入れられそうな場所を探した…
↓歩道にこんな看板が出ていた…<喫茶 ラ・ヴィータ>という店が在った。
↓「営業中」だ!!
↓「おはようございます!」と入ってみれば、「古き善き喫茶店」という風情が溢れる店だった…
折り良く、店主氏が店に着いて、この日の営業を始めようとしていたところだった…流れていた音楽―詳しく知らないが、やや懐かしい感じがしたラテン系な曲だった…―に合わせて、店主氏の鼻歌が混じる。お気に入りの音楽と共に一日を幕開けしようとしていたのであろう…
↓スタンダードな感じのブレンドコーヒーをサイフォンで淹れていた…極々軽いブレックファストという感で、バターを塗ったトーストを頂いた…
何か、主に近隣に在る皆さんが立ち寄る店というような感じの場所だった。そう言えば以前にもそういう感じな店に立寄ったことが在った…こういうような「日常の街角」に、一寸だけ静かに御邪魔させて頂くというのも、旅の愉しみというものかもしれない…京都に関して言えば、この種の「近隣に在る皆さんが立ち寄る」というような喫茶店は無数に在るような気がする…
朝5時頃から歩くと…時間はたっぷりと在る。清水五条駅周辺に至った時点で朝7時前という状態だった。そのまま歩き続けるというのも消耗してしまいそうなので、一息入れられそうな場所を探した…
↓歩道にこんな看板が出ていた…<喫茶 ラ・ヴィータ>という店が在った。
↓「営業中」だ!!
↓「おはようございます!」と入ってみれば、「古き善き喫茶店」という風情が溢れる店だった…
折り良く、店主氏が店に着いて、この日の営業を始めようとしていたところだった…流れていた音楽―詳しく知らないが、やや懐かしい感じがしたラテン系な曲だった…―に合わせて、店主氏の鼻歌が混じる。お気に入りの音楽と共に一日を幕開けしようとしていたのであろう…
↓スタンダードな感じのブレンドコーヒーをサイフォンで淹れていた…極々軽いブレックファストという感で、バターを塗ったトーストを頂いた…
何か、主に近隣に在る皆さんが立ち寄る店というような感じの場所だった。そう言えば以前にもそういう感じな店に立寄ったことが在った…こういうような「日常の街角」に、一寸だけ静かに御邪魔させて頂くというのも、旅の愉しみというものかもしれない…京都に関して言えば、この種の「近隣に在る皆さんが立ち寄る」というような喫茶店は無数に在るような気がする…
<大谷本廟>…(2020.03.30)
<祇園枝垂桜>を振り出しに<産寧坂>に立寄り、辺りで南北に延びている<東大路通>を南下してみることにした。五条通に行き当たる筈で、右折すると西寄りに進むことになり、京阪の清水五条駅辺りに至る筈だと、辺りの案内図を視て考えたのだった。
↓思ったとおりに五条通が眼に入ったが、他方で絢爛な桜に眼を奪われてしまった…
↓重厚な趣が在る場所だと思った…
ここは<大谷本廟>という浄土真宗の寺である。浄土真宗を開いた親鸞聖人を祀る廟堂なのだそうだ。1603(慶長8)年から現在地に在って、この地を「大谷」と呼ぶのだそうだ。
↓<円通橋>(えんつうきょう)と呼ぶというが、幅6mで長さ40mの石橋が架けられている。1856(安政3)年に竣工したという。
↓思ったとおりに五条通が眼に入ったが、他方で絢爛な桜に眼を奪われてしまった…
↓重厚な趣が在る場所だと思った…
ここは<大谷本廟>という浄土真宗の寺である。浄土真宗を開いた親鸞聖人を祀る廟堂なのだそうだ。1603(慶長8)年から現在地に在って、この地を「大谷」と呼ぶのだそうだ。
↓<円通橋>(えんつうきょう)と呼ぶというが、幅6mで長さ40mの石橋が架けられている。1856(安政3)年に竣工したという。
<産寧坂>…(2020.03.30)
「非常によく知られている」という場所で、直ぐ近くまで訪れた経過は在っても、「どういう訳か立ち寄っていない…」というような場所は見受けられるものである。
祇園の宿に在って、前日の“些かの消耗”から回復した感であった中、<祇園枝垂桜>を眺めに行くことを振り出しに、早朝から歩き廻った…
↓そして<八坂の塔>を見上げる辺りに至った…
↓吸い込まれるように、石畳の路へ踏み込んで行った…
↓<産寧坂>に至った…<三年坂>とも呼ばれている…
この辺り…「“京都”のイメージ」というような感にもなっているような場所だと思うが、これまでどうしたものか訪ねたことが無かった…「漸く辿り着いた」ということになるのかもしれない…
↓石畳の坂道になっている一画だ…
↑辺りは「重要伝統的建造物群保存地区」となっている。なるほど、何となく「幕末の志士が駆け抜けて行く?」というような様子を想像してしまうような街並みであった…
↓これは<二年坂>と呼ばれる<三年坂>と交差する少し緩やかな坂道であるが、ここも公式には<産寧坂>の一部なのだそうだ…
↓桜の木が在る辺りでは、折良く花が咲いていた…
↓実に雰囲気が好かった…
早朝の、未だ全くと言って差し支えない程度に、何も動いていないような中でこの<産寧坂>に歩き至った。そして、遠い時代の人々の話し声や足音でも聞こえそうな街並みをゆったりと眺めた。起き出して散策に出ているような人達や、私自身と同様にカメラを手に散策している人達に少しだけ出くわしたが、驚く程に静かであった。街歩きは早朝が好いということか…
今般、ここに立ち寄ることが叶ったのは非常に嬉しい!!
祇園の宿に在って、前日の“些かの消耗”から回復した感であった中、<祇園枝垂桜>を眺めに行くことを振り出しに、早朝から歩き廻った…
↓そして<八坂の塔>を見上げる辺りに至った…
↓吸い込まれるように、石畳の路へ踏み込んで行った…
↓<産寧坂>に至った…<三年坂>とも呼ばれている…
この辺り…「“京都”のイメージ」というような感にもなっているような場所だと思うが、これまでどうしたものか訪ねたことが無かった…「漸く辿り着いた」ということになるのかもしれない…
↓石畳の坂道になっている一画だ…
↑辺りは「重要伝統的建造物群保存地区」となっている。なるほど、何となく「幕末の志士が駆け抜けて行く?」というような様子を想像してしまうような街並みであった…
↓これは<二年坂>と呼ばれる<三年坂>と交差する少し緩やかな坂道であるが、ここも公式には<産寧坂>の一部なのだそうだ…
↓桜の木が在る辺りでは、折良く花が咲いていた…
↓実に雰囲気が好かった…
早朝の、未だ全くと言って差し支えない程度に、何も動いていないような中でこの<産寧坂>に歩き至った。そして、遠い時代の人々の話し声や足音でも聞こえそうな街並みをゆったりと眺めた。起き出して散策に出ているような人達や、私自身と同様にカメラを手に散策している人達に少しだけ出くわしたが、驚く程に静かであった。街歩きは早朝が好いということか…
今般、ここに立ち寄ることが叶ったのは非常に嬉しい!!
<KITTE>…(2020.03.29)
東京駅に至り着き、とりあえず屋外に出てみた。
あの煉瓦造の駅舎の直ぐ脇、<KITTE>からの眺望が好いと承知していたので「一寸だけ眺望を…」と思ったのだった…
そうは思ったが…眺望を愉しむことは叶わなかった…
↓施設1階は「通路」として通り抜けることは出来たが…「臨時休業」となっていて、上階に上がることは出来なかった…
制服姿の警備員が佇む様子が散見し、通行人も殆ど居ない状況だった…こういう様子…記録しておこうと思った…
あの煉瓦造の駅舎の直ぐ脇、<KITTE>からの眺望が好いと承知していたので「一寸だけ眺望を…」と思ったのだった…
そうは思ったが…眺望を愉しむことは叶わなかった…
↓施設1階は「通路」として通り抜けることは出来たが…「臨時休業」となっていて、上階に上がることは出来なかった…
制服姿の警備員が佇む様子が散見し、通行人も殆ど居ない状況だった…こういう様子…記録しておこうと思った…
城南宮…(2020.03.31)
竹田駅からはやや距離を歩くことになるが…
↓城南宮という神社が在る…鳥居に掲げられた扁額には「城南離宮」と在る…
↑江戸時代まで、この辺りが院政の時代に<鳥羽離宮>とされていた地区でもあったことから、「城南離宮」が社号のように用いられていたそうだ…
↓鳥居の柱には「文久元年」(=1861年)と幕末期の年号が刻まれている。敬愛され、篤い信心を寄せられていた社で、この時期に寄進を受けた鳥居なのであろう…
↓いよいよ城南宮に入る…
↓鳥居の中央には「太陽・月・星」を象徴するという特徴的な紋が在る。
平安遷都の際に創建されたと伝えられ、「城」(=平安京)の南側に鎮座することから「城南宮」と呼ばれるようになったという。院政の時代には、その中心的な場となった<鳥羽離宮>の一部を占めたことで寧ろ「城南離宮」と呼び習わされ、離宮の鎮守という位置付けにもなったことから、皇族の行幸も頻繁であったという。そして<(京都)御所>の「裏鬼門」を守る神となったことから、貴族の「方違」の宿所となり、方除けや厄除けの神としても信仰されたという…
↓本殿は1978(昭和53)年の建築であるというが、平安時代の様式に則ったとされるものだ…
↓近付いて眺めると、なかなかの迫力だ…
色々な事情で損なわれた建物が再建され、場合によって再建されていないのかもしれないが、「平安遷都の頃から辺りに鎮座」という「場所」が独特なエネルギーを放っている…というような気もした…少し興味が在って、なかなか訪ねる機会を設けられずにいたが、「京都から奈良へ移動する場合の通り道…」と思い付いて立ち寄る機会を設けられた。善かった…
↓城南宮という神社が在る…鳥居に掲げられた扁額には「城南離宮」と在る…
↑江戸時代まで、この辺りが院政の時代に<鳥羽離宮>とされていた地区でもあったことから、「城南離宮」が社号のように用いられていたそうだ…
↓鳥居の柱には「文久元年」(=1861年)と幕末期の年号が刻まれている。敬愛され、篤い信心を寄せられていた社で、この時期に寄進を受けた鳥居なのであろう…
↓いよいよ城南宮に入る…
↓鳥居の中央には「太陽・月・星」を象徴するという特徴的な紋が在る。
平安遷都の際に創建されたと伝えられ、「城」(=平安京)の南側に鎮座することから「城南宮」と呼ばれるようになったという。院政の時代には、その中心的な場となった<鳥羽離宮>の一部を占めたことで寧ろ「城南離宮」と呼び習わされ、離宮の鎮守という位置付けにもなったことから、皇族の行幸も頻繁であったという。そして<(京都)御所>の「裏鬼門」を守る神となったことから、貴族の「方違」の宿所となり、方除けや厄除けの神としても信仰されたという…
↓本殿は1978(昭和53)年の建築であるというが、平安時代の様式に則ったとされるものだ…
↓近付いて眺めると、なかなかの迫力だ…
色々な事情で損なわれた建物が再建され、場合によって再建されていないのかもしれないが、「平安遷都の頃から辺りに鎮座」という「場所」が独特なエネルギーを放っている…というような気もした…少し興味が在って、なかなか訪ねる機会を設けられずにいたが、「京都から奈良へ移動する場合の通り道…」と思い付いて立ち寄る機会を設けられた。善かった…
E217系電車:東京駅(2020.03.29)
「総武・横須賀 快速」という列車は、かなり古い話しながら、自身が東京に在った学生時代に親しんだ「少し懐かしい…」感じのする存在だ。と言って、かなり御無沙汰なので、乗車した記憶が無い車輌での運行であったのだが…
千葉駅で乗車し、東京駅を目指した。見覚えが在るような、余り無いような中を進んだが…朝早い時点で降り続いていた雨が“雪”に切り替わり、車窓から見える街の一部が白く染まり始めていた…
↓そして列車は東京駅の地下に設えられた、「総武・横須賀 快速」が発着する場所に…若干のカーブを描く地下のホームに列車が並ぶ様は、少し見栄えが好いように思う…
↑それにしても…雪が付着した状態の車輌…「東京駅」では視る機会が少ないように思う…加えて「3月末頃」という時季でもある…
こういう「やや珍しい?」という状態を視て、改札口を目指して地上へ上がった…
千葉駅で乗車し、東京駅を目指した。見覚えが在るような、余り無いような中を進んだが…朝早い時点で降り続いていた雨が“雪”に切り替わり、車窓から見える街の一部が白く染まり始めていた…
↓そして列車は東京駅の地下に設えられた、「総武・横須賀 快速」が発着する場所に…若干のカーブを描く地下のホームに列車が並ぶ様は、少し見栄えが好いように思う…
↑それにしても…雪が付着した状態の車輌…「東京駅」では視る機会が少ないように思う…加えて「3月末頃」という時季でもある…
こういう「やや珍しい?」という状態を視て、改札口を目指して地上へ上がった…
E217系電車:千葉駅(2020.03.29)
千葉県内から東京を通って神奈川県内へという総武線と横須賀線とを繋げて往来する快速列車…随分と古い話しながら、東京に在った学生時代に色々な形で乗車したような記憶が在る…
佐原駅から千葉駅へ移動し、更に東京駅へ進もうとした際、思い出していたのはこの「総武・横須賀 快速」という列車だった。
↓列車の先頭辺りになる位置でやって来る列車を待っていると、こんな車輌が現れた…
↑これも、近年に視掛けた記憶が在る他方、乗車した記憶が無い型の車輌だ…E217系電車というそうだ…
E217系電車は1994年から1999年に製造されたそうだ。「4箇所の扉」という方式を初めて導入した例でもあるらしい。成田線で乗車した209系を改良するようにして、より長い距離を運行する車輌としての要求に応えるように仕上げたという経過であるらしい。
↓乗車してみた…ロングシートの車内だ…
日曜日の昼…相対的に列車が混み合わない時間帯ではあると思うが…この日は「外出の自粛を…」ということでもあった日で、人出は控えめだった訳だ…
列車が動き始めれば、車窓では雪が降って一部に積もり始めている様子も見受けられた。扉の上方に在る電光掲示に、雪のために運休や遅れが生じていく可能性も在る旨が表示されてもいた。「何やら…」という雰囲気で、乗車した記憶が無い型の車輌で運行される、やや懐かしい列車に乗車したのだった…
佐原駅から千葉駅へ移動し、更に東京駅へ進もうとした際、思い出していたのはこの「総武・横須賀 快速」という列車だった。
↓列車の先頭辺りになる位置でやって来る列車を待っていると、こんな車輌が現れた…
↑これも、近年に視掛けた記憶が在る他方、乗車した記憶が無い型の車輌だ…E217系電車というそうだ…
E217系電車は1994年から1999年に製造されたそうだ。「4箇所の扉」という方式を初めて導入した例でもあるらしい。成田線で乗車した209系を改良するようにして、より長い距離を運行する車輌としての要求に応えるように仕上げたという経過であるらしい。
↓乗車してみた…ロングシートの車内だ…
日曜日の昼…相対的に列車が混み合わない時間帯ではあると思うが…この日は「外出の自粛を…」ということでもあった日で、人出は控えめだった訳だ…
列車が動き始めれば、車窓では雪が降って一部に積もり始めている様子も見受けられた。扉の上方に在る電光掲示に、雪のために運休や遅れが生じていく可能性も在る旨が表示されてもいた。「何やら…」という雰囲気で、乗車した記憶が無い型の車輌で運行される、やや懐かしい列車に乗車したのだった…
安楽寿院の周辺…:鳥羽離宮跡の一部…(2020.03.31)
竹田駅の辺りを、城南宮という神社を目掛けて歩く…
↓途中でこんな小さな寺に行き当たった…
↑「弘法大師」という文字の提灯が在るが、真言宗の寺で安楽寿院というそうだ…建物脇の桜が美しかった…
↓辺りは桜が咲き乱れ、一部に花びらが散っていたが、何か素晴らしく雰囲気が好かった…
↓桜に包まれて、吸い込まれてしまいそうな気さえした…
↓辺りは<鳥羽離宮>の跡の一部ということになるそうだ…
「院政」というモノが絶頂であった時代、実権を握った上皇達が住んでいて、院政の中心であったのが鳥羽離宮ということになる。
↓院政の絶頂期に君臨した上皇達…白河法皇、鳥羽法王の足跡に関する碑が在った。「法皇」というのは、上皇が出家して僧籍を得た場合に冠せられる称号である…
↓辺りには「皇室に所縁?」ということを想起させる紋が刻まれた瓦が使用されているのも見受けられた…
↓「何となく出くわした…」という感の場所ではあったが…非常に好かった!
この桜が咲き乱れていた辺りで親子連れを見掛た。お子さんは2人で、1人は何やらランドセルを背負っていた。もう1人は少し幼いちびっ子だ。2人を連れていた母親が、新入学児童らしい上の子と、幼い下の子の写真を撮っている様子を見掛た…色々と「事情」の生じた情勢下ではあったが…それでも桜は咲き、それでも御入学のような人生の節目は訪れる…そんなことを思っていた…
↓途中でこんな小さな寺に行き当たった…
↑「弘法大師」という文字の提灯が在るが、真言宗の寺で安楽寿院というそうだ…建物脇の桜が美しかった…
↓辺りは桜が咲き乱れ、一部に花びらが散っていたが、何か素晴らしく雰囲気が好かった…
↓桜に包まれて、吸い込まれてしまいそうな気さえした…
↓辺りは<鳥羽離宮>の跡の一部ということになるそうだ…
「院政」というモノが絶頂であった時代、実権を握った上皇達が住んでいて、院政の中心であったのが鳥羽離宮ということになる。
↓院政の絶頂期に君臨した上皇達…白河法皇、鳥羽法王の足跡に関する碑が在った。「法皇」というのは、上皇が出家して僧籍を得た場合に冠せられる称号である…
↓辺りには「皇室に所縁?」ということを想起させる紋が刻まれた瓦が使用されているのも見受けられた…
↓「何となく出くわした…」という感の場所ではあったが…非常に好かった!
この桜が咲き乱れていた辺りで親子連れを見掛た。お子さんは2人で、1人は何やらランドセルを背負っていた。もう1人は少し幼いちびっ子だ。2人を連れていた母親が、新入学児童らしい上の子と、幼い下の子の写真を撮っている様子を見掛た…色々と「事情」の生じた情勢下ではあったが…それでも桜は咲き、それでも御入学のような人生の節目は訪れる…そんなことを思っていた…
竹田駅…(2020.03.31)
京都の街の地下を南北に延びている地下鉄烏丸線(からすません)だが、南側へ進んで行けば、南の起点・終点の竹田駅は地上に在って、列車もトンネルを抜けて高架線に上がってから竹田駅に到着する。
↓左が竹田駅まで乗車した京都の地下鉄の車輌だ。右は北上しようとしている列車だが、車輌は近鉄のモノだ…
↑こういうような、外観の雰囲気が大きく異なる「他社車輌」が並ぶ様子を眺めるのは一寸愉しい…
竹田駅は、現在の近鉄京都線の基礎となる路線を開いた<奈良電気軌道>の駅として1928(昭和3)年に<城南宮前駅>の呼称で登場し、1940(昭和15)年に竹田駅と改称している。1963(昭和38)年に<奈良電気軌道>と近鉄が合併し、竹田駅は近鉄京都線の駅ということになった。1987(昭和62)年に竹田駅は現在の場所の駅となった。そして1988(昭和63)年には地下鉄烏丸線の延伸区間(京都・竹田)が開通し、近鉄京都線と地下鉄の相互乗入運行も始まったのだという。
↓駅の看板はこういう具合になっている。この看板は、地下鉄烏丸線で見受けられる仕様だ。駅は現在、地下鉄が主に管轄する駅ということになっている。
↑看板の下側、隣の駅を表示する箇所には「地下鉄線」、「近鉄線」と付記されている。「たけだ」と大書されている脇には、地下鉄の駅番号であるK15と、近鉄京都線の駅番号であるB05が併記されている…
↓竹田から南側へ進む列車が発着するホームで列車を待てば…大和西大寺駅を経て、橿原神宮前駅(かしはらじんぐうまえ)に至る列車が現れた…
↑この橿原神宮前行の他、近鉄奈良行の列車も見掛る場合が多いと思う…因みに、この時は橿原神宮前行で大和西大寺駅へ向かい、乗り換えて近鉄奈良駅に至った…
実は…地下鉄烏丸線も、近鉄京都線も、何度も利用したことが在ったが…竹田駅で乗降したのは初めてだったのだ…
↓左が竹田駅まで乗車した京都の地下鉄の車輌だ。右は北上しようとしている列車だが、車輌は近鉄のモノだ…
↑こういうような、外観の雰囲気が大きく異なる「他社車輌」が並ぶ様子を眺めるのは一寸愉しい…
竹田駅は、現在の近鉄京都線の基礎となる路線を開いた<奈良電気軌道>の駅として1928(昭和3)年に<城南宮前駅>の呼称で登場し、1940(昭和15)年に竹田駅と改称している。1963(昭和38)年に<奈良電気軌道>と近鉄が合併し、竹田駅は近鉄京都線の駅ということになった。1987(昭和62)年に竹田駅は現在の場所の駅となった。そして1988(昭和63)年には地下鉄烏丸線の延伸区間(京都・竹田)が開通し、近鉄京都線と地下鉄の相互乗入運行も始まったのだという。
↓駅の看板はこういう具合になっている。この看板は、地下鉄烏丸線で見受けられる仕様だ。駅は現在、地下鉄が主に管轄する駅ということになっている。
↑看板の下側、隣の駅を表示する箇所には「地下鉄線」、「近鉄線」と付記されている。「たけだ」と大書されている脇には、地下鉄の駅番号であるK15と、近鉄京都線の駅番号であるB05が併記されている…
↓竹田から南側へ進む列車が発着するホームで列車を待てば…大和西大寺駅を経て、橿原神宮前駅(かしはらじんぐうまえ)に至る列車が現れた…
↑この橿原神宮前行の他、近鉄奈良行の列車も見掛る場合が多いと思う…因みに、この時は橿原神宮前行で大和西大寺駅へ向かい、乗り換えて近鉄奈良駅に至った…
実は…地下鉄烏丸線も、近鉄京都線も、何度も利用したことが在ったが…竹田駅で乗降したのは初めてだったのだ…
桜…:木屋町通:高瀬川に沿って…(2020.03.31)
思い付いて老舗喫茶店を訪ねてみようとした朝…祇園の宿から四条通を少し西へ進み、地下に設えられた阪急の京都河原町駅の出口が在る辺りで木屋町通を北上し始めた…
↓木屋町通には桜が溢れていた…
↓二条から五条の南北に延びる一隅が木屋町と呼ばれているらしいが、その木屋町に南北に延びる通の脇は桜が並木のようになっている…
↓木屋町通は高瀬川と並行している。高瀬川の脇に桜が植えられ、木屋町通が「桜並木の道」というような様相を呈している…
高瀬川は何か「真直ぐな水路」という様相なのだが、江戸時代初期に相当する1611年頃、京都の街中と街の南側の伏見とを結ぶ運河として開削されたものであるそうだ。この運河では「高瀬舟」と呼び習わされた川舟が行き交っていて、それに因んで運河も「高瀬川」と呼ばれるようになって行ったようだ。運河としての役目は既に果たしておらず、伏見へ繋がる水路でもなくなってしまっているが、江戸時代の「3間」(約5.4m)に設定された川幅は殆ど変わっていないということだ。
↓「道の脇に」とも「川の脇に」とも形容し得る状況だが、桜が非常に眼に優しい感じだ…
↓こういう桜を愛でながら進むことが叶う場所を歩き廻ってみたい…それだけのことで、ここまで足を運んでしまったような気がする…
木屋町通の桜に関しては、阪急の京都河原町駅辺りで眺めるのが専らであったが、「木屋町通を高瀬川沿いに歩いて眺める桜」というのも、非常に好いと思った。
↓木屋町通には桜が溢れていた…
↓二条から五条の南北に延びる一隅が木屋町と呼ばれているらしいが、その木屋町に南北に延びる通の脇は桜が並木のようになっている…
↓木屋町通は高瀬川と並行している。高瀬川の脇に桜が植えられ、木屋町通が「桜並木の道」というような様相を呈している…
高瀬川は何か「真直ぐな水路」という様相なのだが、江戸時代初期に相当する1611年頃、京都の街中と街の南側の伏見とを結ぶ運河として開削されたものであるそうだ。この運河では「高瀬舟」と呼び習わされた川舟が行き交っていて、それに因んで運河も「高瀬川」と呼ばれるようになって行ったようだ。運河としての役目は既に果たしておらず、伏見へ繋がる水路でもなくなってしまっているが、江戸時代の「3間」(約5.4m)に設定された川幅は殆ど変わっていないということだ。
↓「道の脇に」とも「川の脇に」とも形容し得る状況だが、桜が非常に眼に優しい感じだ…
↓こういう桜を愛でながら進むことが叶う場所を歩き廻ってみたい…それだけのことで、ここまで足を運んでしまったような気がする…
木屋町通の桜に関しては、阪急の京都河原町駅辺りで眺めるのが専らであったが、「木屋町通を高瀬川沿いに歩いて眺める桜」というのも、非常に好いと思った。
夜桜…:祇園白川(2020.03.30)
朝…:<東華菜館>(2020.03.31)
京都・祇園の宿から離れようとしていた日…老舗喫茶店で朝食を摂ってみることを思い付いた朝だった…
京都は古くからの、様々な時代の文物が折り重なっているような街であるのだが、それは逆に言えば「各々の時代に“新しかった”モノ」が導入された、登場したという経過が繰り返されていた場所ということでもある。そういう中、「現在では当たり前なサービス」が「普及し始めたような頃」にそんなサービスが京都に登場している。そうしたモノの中には、現在も「登場した頃の好き伝統」というようなモノを受継いで現在に至っている例も在る。
京都・祇園の宿からふらりと歩いて訪ねるのに好適な位置に「1932(昭和7)年創業」を謳う老舗喫茶店が在ると知った。「珈琲を供する喫茶店」が起こって、街で一定程度定着するのは、どうやら昭和初期であるようなのだが、そんな頃の伝統を受継ぐ店を訪ねてみるのは気持ちが弾む…
↓弾む気分で四条通を歩んだ…朝の光に輝く感の古風なビルが好い趣だった…川面に典雅な建物の姿が映り込む感じが好い…
↑かのウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計で、1926(大正15)年に竣工したという<東華菜館>の建物だ。
↓建物の正面入口辺りの大袈裟にも見える装飾が面白く、未だ通行人が少ない朝でもあったので、少し足を停めて見入ってしまった…
こういう「眼に留まって眺め入ってしまう」という建物が在る風景というのは非常に好い。何度でも訪ねたく、そして通り掛かりたくなる場所だ…
京都は古くからの、様々な時代の文物が折り重なっているような街であるのだが、それは逆に言えば「各々の時代に“新しかった”モノ」が導入された、登場したという経過が繰り返されていた場所ということでもある。そういう中、「現在では当たり前なサービス」が「普及し始めたような頃」にそんなサービスが京都に登場している。そうしたモノの中には、現在も「登場した頃の好き伝統」というようなモノを受継いで現在に至っている例も在る。
京都・祇園の宿からふらりと歩いて訪ねるのに好適な位置に「1932(昭和7)年創業」を謳う老舗喫茶店が在ると知った。「珈琲を供する喫茶店」が起こって、街で一定程度定着するのは、どうやら昭和初期であるようなのだが、そんな頃の伝統を受継ぐ店を訪ねてみるのは気持ちが弾む…
↓弾む気分で四条通を歩んだ…朝の光に輝く感の古風なビルが好い趣だった…川面に典雅な建物の姿が映り込む感じが好い…
↑かのウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計で、1926(大正15)年に竣工したという<東華菜館>の建物だ。
↓建物の正面入口辺りの大袈裟にも見える装飾が面白く、未だ通行人が少ない朝でもあったので、少し足を停めて見入ってしまった…
こういう「眼に留まって眺め入ってしまう」という建物が在る風景というのは非常に好い。何度でも訪ねたく、そして通り掛かりたくなる場所だ…
佐原駅…(2020.03.29)
列車で香取駅に着き、香取神宮へ、更に「佐原重要伝統的建造物群保存地区」と呼ばれるらしいが、佐原の街へと風雨の中で歩き続けた。
「19世紀に地図を作った人達」への興味から、伊能忠敬に所縁の佐原に寄ってみたかった。悪条件の下で動き廻る羽目に陥りはしたが、「悪条件下で敢えて!」ということをして、「忘れ難い地区」というように感じられるようになり、「再会を期す!」と念じながら佐原を発つことにした。
伊能忠敬が存命であったような時代の建物も見受けられるという地区から、佐原駅までは歩いて15分前後の道程だ。些か長く風雨に当たった状態だったので、些か身体も冷えて来ていると自覚し始めていた中で佐原駅を目指した…
↓「着いたぁ!」と万歳をしてしまうような感で、至り着いた駅舎を眺めた…
↓実に…渋い外観の駅だ…強風で「佐原駅」と書き込まれた暖簾が揺れていた…
↑「佐原重要伝統的建造物群保存地区」に紛れ込んでも違和感が薄いような按配の外装に仕上げられている建物だった…
↓2000年代に何回かの整備工事を経て、周辺も含めて現在のような様子になったようだ…
成田駅や千葉駅へ向かう列車に乗ろうとしたが…少し待ち時間が発生したが「濡れっ放し…」が「ややキツい…」と思えるようにもなって来たので、駅舎内の待合に利用出来るスペースの一隅を拝借してゆったりしていた…
色々な駅舎を見ている。中は「今時の普通の駅」だが、何やら「歴史的建造物?」であるとさえ思わせるような、地域に伝わる古い建物のイメージを採り入れた、実に素敵な建物だと思った。離れて数時間と経たずに「また行きたい…」と思い出してしまった程だった…
「19世紀に地図を作った人達」への興味から、伊能忠敬に所縁の佐原に寄ってみたかった。悪条件の下で動き廻る羽目に陥りはしたが、「悪条件下で敢えて!」ということをして、「忘れ難い地区」というように感じられるようになり、「再会を期す!」と念じながら佐原を発つことにした。
伊能忠敬が存命であったような時代の建物も見受けられるという地区から、佐原駅までは歩いて15分前後の道程だ。些か長く風雨に当たった状態だったので、些か身体も冷えて来ていると自覚し始めていた中で佐原駅を目指した…
↓「着いたぁ!」と万歳をしてしまうような感で、至り着いた駅舎を眺めた…
↓実に…渋い外観の駅だ…強風で「佐原駅」と書き込まれた暖簾が揺れていた…
↑「佐原重要伝統的建造物群保存地区」に紛れ込んでも違和感が薄いような按配の外装に仕上げられている建物だった…
↓2000年代に何回かの整備工事を経て、周辺も含めて現在のような様子になったようだ…
成田駅や千葉駅へ向かう列車に乗ろうとしたが…少し待ち時間が発生したが「濡れっ放し…」が「ややキツい…」と思えるようにもなって来たので、駅舎内の待合に利用出来るスペースの一隅を拝借してゆったりしていた…
色々な駅舎を見ている。中は「今時の普通の駅」だが、何やら「歴史的建造物?」であるとさえ思わせるような、地域に伝わる古い建物のイメージを採り入れた、実に素敵な建物だと思った。離れて数時間と経たずに「また行きたい…」と思い出してしまった程だった…
香取駅…(2020.03.29)
成田線は何となく長閑な感じだった…成田駅から30分程度だったと思う。佐原駅を過ぎると、程無く香取駅だ…
↓香取駅で下車して、乗っていた209系電車を何となく眺めた…
↑「ここまで運んでくれてありがとう!」という感じで見送った…
↓この路線では、駅名の看板を独特な設えにしている…看板は風雨で濡れていた…
↑香取駅の先に在る駅が2つ併記されている。水郷駅は銚子へ向かう路線、十二橋駅は鹿島神宮へ向かう路線の駅なのだそうだ…
この辺り…「無人駅」となっている場合が見受けられるが、香取駅もそういう例の一つだ。但し、この辺りの無人駅は「ICカード乗車券を使って乗降」という前提―待合の辺りに、乗車用、降車用のICカード乗車券の機器が据えられていた。―のようで、列車の乗務員(運転士)に現金で支払う(運転席辺りの料金箱に運賃を入れる)というような案内にはなっていなかった。関西方面でも、似たような例は見たことが在った。今般は<青春18きっぷ>を利用したので、黙って下車しただけだった…
↓「目指す香取神宮は?」と思って駅前に踏み出せば、地元の香取市で設置したらしい案内板が据えられていた…
なるほど、この看板に違わず、香取神宮までは30分程度だった…雨の中を歩き続けたのだった…
↓香取駅で下車して、乗っていた209系電車を何となく眺めた…
↑「ここまで運んでくれてありがとう!」という感じで見送った…
↓この路線では、駅名の看板を独特な設えにしている…看板は風雨で濡れていた…
↑香取駅の先に在る駅が2つ併記されている。水郷駅は銚子へ向かう路線、十二橋駅は鹿島神宮へ向かう路線の駅なのだそうだ…
この辺り…「無人駅」となっている場合が見受けられるが、香取駅もそういう例の一つだ。但し、この辺りの無人駅は「ICカード乗車券を使って乗降」という前提―待合の辺りに、乗車用、降車用のICカード乗車券の機器が据えられていた。―のようで、列車の乗務員(運転士)に現金で支払う(運転席辺りの料金箱に運賃を入れる)というような案内にはなっていなかった。関西方面でも、似たような例は見たことが在った。今般は<青春18きっぷ>を利用したので、黙って下車しただけだった…
↓「目指す香取神宮は?」と思って駅前に踏み出せば、地元の香取市で設置したらしい案内板が据えられていた…
なるほど、この看板に違わず、香取神宮までは30分程度だった…雨の中を歩き続けたのだった…
209系電車:JR成田駅(2020.03.29)
成田線の列車で、成田駅から香取駅を目指した…
↓雨の中、列車がホームに姿を見せた。
↓乗換駅であるためか、幾分長く停車した。写真を撮る分には有難い…
停車直後、車輌の4箇所の扉が一斉に開くが、直ぐに3箇所を閉める。冷たい空気が入り込むことを抑えるということなのだろう。時々見受けられる「押しボタンで開閉」という仕組みにはなっていなかった…
209系電車という型の車輌である。1992年から1993年、2000年、2004年と増備されて、現在は1000輌もの車輌が関東地方の様々な路線で運用されているようだ。成田線には2010年頃から登場したらしい…
実は「駅に停車」を何となく視たことは在ったが、乗車したことは無かった。それに乗車出来たことは好かった…
↓雨の中、列車がホームに姿を見せた。
↓乗換駅であるためか、幾分長く停車した。写真を撮る分には有難い…
停車直後、車輌の4箇所の扉が一斉に開くが、直ぐに3箇所を閉める。冷たい空気が入り込むことを抑えるということなのだろう。時々見受けられる「押しボタンで開閉」という仕組みにはなっていなかった…
209系電車という型の車輌である。1992年から1993年、2000年、2004年と増備されて、現在は1000輌もの車輌が関東地方の様々な路線で運用されているようだ。成田線には2010年頃から登場したらしい…
実は「駅に停車」を何となく視たことは在ったが、乗車したことは無かった。それに乗車出来たことは好かった…
夕刻…:<東華菜館>(2020.03.29)
京都の祇園に宿を求め、夕刻までに無事に辿り着いた。そして辺りを少し歩き回った…
↓四条通と川が交わる辺りで、何となく見上げた…
↑趣が在る古風なビルの上空に月が輝き始めていた…
↓少し建物が広く画に入るようにもしてみた…
この古風なビルは<東華菜館>という中華料理店だ…
建物は様々な業績が知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計で、1926(大正15)年に竣工したのであるという。大正時代には「ビアホール」が流行ったということで、この建物は洋食系の料理を愉しんでビールを飲むという店だったそうだ。その後、戦時色が濃くなる中、その種の店が営業し悪くなって休業したようだ。そして1945(昭和20)年末、中華料理店として再出発し、<東華菜館>として現在に至っている…
↓何度となく、こういう具合に見上げながら辺りを通り過ぎていたが、今般は思い付いて写真を撮った…
色々な古今の文物を擁する街に関しては、何度立ち寄ってみても、その都度に「改めてアレが好い!」に出くわすものだ。些か残念なのは…ここに立ち寄る―中で食事を愉しむ…―機会を現時点で設けられていないということだ…
↓四条通と川が交わる辺りで、何となく見上げた…
↑趣が在る古風なビルの上空に月が輝き始めていた…
↓少し建物が広く画に入るようにもしてみた…
この古風なビルは<東華菜館>という中華料理店だ…
建物は様々な業績が知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計で、1926(大正15)年に竣工したのであるという。大正時代には「ビアホール」が流行ったということで、この建物は洋食系の料理を愉しんでビールを飲むという店だったそうだ。その後、戦時色が濃くなる中、その種の店が営業し悪くなって休業したようだ。そして1945(昭和20)年末、中華料理店として再出発し、<東華菜館>として現在に至っている…
↓何度となく、こういう具合に見上げながら辺りを通り過ぎていたが、今般は思い付いて写真を撮った…
色々な古今の文物を擁する街に関しては、何度立ち寄ってみても、その都度に「改めてアレが好い!」に出くわすものだ。些か残念なのは…ここに立ち寄る―中で食事を愉しむ…―機会を現時点で設けられていないということだ…
<のぞみ>…:東京駅(2020.03.29)
東京を通過しながら、少し西へ進むという意図が在ったのだが…身体が濡れて弱った感じであったことに加えて、雪で列車運行に乱れが生じる可能性を排し悪いと見受けられる状況であったことから、若干早めに西へ移動することとした…「雪から逃げる」というような気もしたが…
↓些かの運休も生じているという新幹線の列車だが、それでも「随分な運航頻度だ…」と感心する程度に列車は発着していた…
↑京都まで乗車することにした<のぞみ>である…
↓このホームの辺りの普段の状況も承知しているので、この日の様子は「酷く空いている…」という感ではあった…
列車内は「多少空いている?」というような状態ではあったが、運行は「何時もの如く…」で、京都までは非常に快適な移動であった…
↓些かの運休も生じているという新幹線の列車だが、それでも「随分な運航頻度だ…」と感心する程度に列車は発着していた…
↑京都まで乗車することにした<のぞみ>である…
↓このホームの辺りの普段の状況も承知しているので、この日の様子は「酷く空いている…」という感ではあった…
列車内は「多少空いている?」というような状態ではあったが、運行は「何時もの如く…」で、京都までは非常に快適な移動であった…
旅装…:佐原駅にて(2020.03.29)
香取駅から香取神宮へ、更に佐原の街へと朝から動き回ったが…冷たい雨に強めな風が交じる感で、かなり酷く濡れた…
千葉、東京方面へ出ようと佐原駅を目指し、辿り着けば多少列車待ちの時間が在った…
駅の建物の中に、観光案内所、コンビニ的な売店が在って、その辺りに椅子が並ぶ待合室的な設えが在った。そこで一息入れた…
↓持っていた荷物を一寸置いた…そして「そのまま拭き掃除に使える?」という程度に濡れてしまっていた上着とキャップを脱いで、腰を下ろす、身体を伸ばすというようなことで寛いだ…
結局、着替えやノートパソコン等を収めた、昨年6月に甲子園球場の売店で求めたリュックサック―画でも雨に濡れた様子が判る…―と、カメラ類などを収めた、外装が廃タイヤチューブのゴムであるというビジネスバッグとだけで動き廻っていた。この程度であれば、「西へ進みながらい色々な場所に立ち寄り…」ということも出来ると思っていた。が…冷たい雨だったので、やや予定変更はしてしまった…
この感じは、日頃の生活エリアを外れる場所に出ていくような様子というより、生活エリアの中で「何となく持ち物が多め…」という状態を寧ろ思わせる。
こういう程度の調子でフラフラとする位が、自身には好い…
千葉、東京方面へ出ようと佐原駅を目指し、辿り着けば多少列車待ちの時間が在った…
駅の建物の中に、観光案内所、コンビニ的な売店が在って、その辺りに椅子が並ぶ待合室的な設えが在った。そこで一息入れた…
↓持っていた荷物を一寸置いた…そして「そのまま拭き掃除に使える?」という程度に濡れてしまっていた上着とキャップを脱いで、腰を下ろす、身体を伸ばすというようなことで寛いだ…
結局、着替えやノートパソコン等を収めた、昨年6月に甲子園球場の売店で求めたリュックサック―画でも雨に濡れた様子が判る…―と、カメラ類などを収めた、外装が廃タイヤチューブのゴムであるというビジネスバッグとだけで動き廻っていた。この程度であれば、「西へ進みながらい色々な場所に立ち寄り…」ということも出来ると思っていた。が…冷たい雨だったので、やや予定変更はしてしまった…
この感じは、日頃の生活エリアを外れる場所に出ていくような様子というより、生活エリアの中で「何となく持ち物が多め…」という状態を寧ろ思わせる。
こういう程度の調子でフラフラとする位が、自身には好い…
伊能忠敬翁 銅像:佐原駅前(2020.03.29)
↓佐原駅前に佇む銅像だ…
↑これは地図製作に向けた最初の測量旅行から200年を経た2000年頃に建立された伊能忠敬の銅像であるそうだ…
伊能忠敬の学問の師ということにもなる高橋至時(たかはしよしとき)は幕臣であったが、蝦夷地にロシア船が姿を現し始めた状況下、蝦夷地の測量を行って状況を詳しく把握する必要が在ると進言し、それが容れられた。そして彼は実務の最適任者として伊能忠敬を推した。そして伊能忠敬は江戸から蝦夷地を目指して旅立った…
↓船でいきなり蝦夷地へ上陸する経路ではなく、途中の測量を行いながら移動ということで、伊能忠敬のグループは陸路で北を目指したのだと伝えられるが…像は正しく「皆の衆!行こう!」と、測量の機材を抱えて歩み始める様子が生き生きと再現されているように見えた…
佐原では「伊能忠敬」と言えば「郷土の偉人」だ。困難な道を臆せずに踏み出した先人ということにもなるが…駅前にその雄姿を示し、地域を鼓舞しているような感じが好ましいと感じた。
風雨の中、色々と手を掛けて写真は撮らず、とりあえずこの姿を記録したいと、雨にも負けずに使っていた<XF16㎜F2.8>を装着した<X-Pro2>で撮った画だ。「防滴」を謳うカメラを抱えて出掛けて、本当に善かった…
↑これは地図製作に向けた最初の測量旅行から200年を経た2000年頃に建立された伊能忠敬の銅像であるそうだ…
伊能忠敬の学問の師ということにもなる高橋至時(たかはしよしとき)は幕臣であったが、蝦夷地にロシア船が姿を現し始めた状況下、蝦夷地の測量を行って状況を詳しく把握する必要が在ると進言し、それが容れられた。そして彼は実務の最適任者として伊能忠敬を推した。そして伊能忠敬は江戸から蝦夷地を目指して旅立った…
↓船でいきなり蝦夷地へ上陸する経路ではなく、途中の測量を行いながら移動ということで、伊能忠敬のグループは陸路で北を目指したのだと伝えられるが…像は正しく「皆の衆!行こう!」と、測量の機材を抱えて歩み始める様子が生き生きと再現されているように見えた…
佐原では「伊能忠敬」と言えば「郷土の偉人」だ。困難な道を臆せずに踏み出した先人ということにもなるが…駅前にその雄姿を示し、地域を鼓舞しているような感じが好ましいと感じた。
風雨の中、色々と手を掛けて写真は撮らず、とりあえずこの姿を記録したいと、雨にも負けずに使っていた<XF16㎜F2.8>を装着した<X-Pro2>で撮った画だ。「防滴」を謳うカメラを抱えて出掛けて、本当に善かった…