「30分余り歩いて目的地に到着」ということになれば、到着時に少し大きな安堵感を覚えるものだが…香取神宮に至り着いた時には、雨の中で、多少風が強まる中であり、覚えた安堵感は少し大き目で、同時に「無事に辿り着けたことへの感謝」というようなモノも沸き上がった…
↓降り頻る雨の中に佇む拝殿を眺め、文字どおりに「神々しいモノ」さえ感じていた…
↑一日の活動を始めるような時間帯に辿り着いたのだったが、殿内に神職の皆さんが集まっていて、太鼓を鳴らす音も聞こえた。
↓脇の方から見上げたが、非常に重厚な感じがする建物だ…
↓正面のもう少しだけ近い位置から眺めた感じだ…
↓写真で視ても判るような程度に雨は強まっていた…それでも構わず、じっと建物を眺めていた。或いは魅せられてしまったかもしれない…
古くから国家鎮護の神と尊崇された社である…そういう場が放つ“力”が渦巻くような空間が創出されていると思った。そういう中へ足を運ぶことが叶ったのは善かった…
雨中の桜…:神道山古墳群:香取(2020.03.29)
香取駅に至って列車を下りた後、香取神宮を目指して雨の中を歩き始めた…
香取駅の辺りに掲出された案内板を視て、「神道山古墳群」(しんどうやまこふんぐん)という文字を記憶に留めた。踏切を越えて鉄道の向こうに在る香取神宮への道筋で、最初の目印になりそうであったからだ。
↓これがその、行き当たった神道山古墳群である…
「古墳群」というのは?「古代の有力者の墳墓」が幾つか集まって見受けられる場所ということになるが、結局は「小さな山が在る」というように見える場所だ。辺りは川が流れている平野の一部で平坦な地形なので、丘のように少しだけ小高くなった感じは少し目立った…
↓雨の中で桜が咲き誇っていた様子が非常に好かった…
思うと…自身としては「2020年に初めて自身の眼で視た、桜が咲き誇る様子」というのが、この神道山古墳群で視た様子ということになった…
歩き廻るには悪条件であった最中ではあったが…香取を訪ねた経過は色々な意味で記憶に残る。雨中で撮った写真を眺めながら「何時か再訪…」という想いが募る…
香取駅の辺りに掲出された案内板を視て、「神道山古墳群」(しんどうやまこふんぐん)という文字を記憶に留めた。踏切を越えて鉄道の向こうに在る香取神宮への道筋で、最初の目印になりそうであったからだ。
↓これがその、行き当たった神道山古墳群である…
「古墳群」というのは?「古代の有力者の墳墓」が幾つか集まって見受けられる場所ということになるが、結局は「小さな山が在る」というように見える場所だ。辺りは川が流れている平野の一部で平坦な地形なので、丘のように少しだけ小高くなった感じは少し目立った…
↓雨の中で桜が咲き誇っていた様子が非常に好かった…
思うと…自身としては「2020年に初めて自身の眼で視た、桜が咲き誇る様子」というのが、この神道山古墳群で視た様子ということになった…
歩き廻るには悪条件であった最中ではあったが…香取を訪ねた経過は色々な意味で記憶に残る。雨中で撮った写真を眺めながら「何時か再訪…」という想いが募る…
丸型ポスト:佐原…(2020.03.29)
伊能忠敬の旧宅を擁する街並みを歩きながら佐原駅を目指していた…
↓こういうモノに出くわした…
↑風雨の中に佇む、少し古いデザインのポストが美しいと思って足を停めたのだが…何か街並みの雰囲気に酷く似合う感だった…
こういう「出くわす様々なモノ」に眼を向けながら歩き廻る場所として、佐原は好適な場所であると思った。そして「“次”が在れば、もう少々好条件の下で…」と更に強く思った…
↓こういうモノに出くわした…
↑風雨の中に佇む、少し古いデザインのポストが美しいと思って足を停めたのだが…何か街並みの雰囲気に酷く似合う感だった…
こういう「出くわす様々なモノ」に眼を向けながら歩き廻る場所として、佐原は好適な場所であると思った。そして「“次”が在れば、もう少々好条件の下で…」と更に強く思った…
桜越しに天守閣を仰ぎ見る…:大阪城(2020.04.02)
車窓…:大阪駅にて(2020.04.02)
雨中の桜と東塔と…:薬師寺 白鳳伽藍(2020.04.01)
“五芒星”のファスナートップ…(2020.04.07)
↓愛用のレザーのキーケースに鍵を収めているが、一寸「飾り」を付けてみた…
この「☆」は“五芒星”というモノだが、陰陽師の安倍清明に因んで紋の呼称として「清明桔梗」と言う場合も在る…
↓京都の清明神社を訪ねると、「清明桔梗」という紋の呼称に因んで<桔梗屋>という店が在り、色々と売られている。そこで求めたファスナートップだ…
本来の使途はファスナーに付けるチャームだが、上の画のように「手近に“五芒星”の清明桔梗の紋を…」というようなことをする場合に使い易そうだと思って求めたのだった…
「御祓い」が大切な役目の一つであったという陰陽師に因む紋である…手近に在ると、悪いことを払い除けてくれそうである。
この「☆」は“五芒星”というモノだが、陰陽師の安倍清明に因んで紋の呼称として「清明桔梗」と言う場合も在る…
↓京都の清明神社を訪ねると、「清明桔梗」という紋の呼称に因んで<桔梗屋>という店が在り、色々と売られている。そこで求めたファスナートップだ…
本来の使途はファスナーに付けるチャームだが、上の画のように「手近に“五芒星”の清明桔梗の紋を…」というようなことをする場合に使い易そうだと思って求めたのだった…
「御祓い」が大切な役目の一つであったという陰陽師に因む紋である…手近に在ると、悪いことを払い除けてくれそうである。
豊国神社…:大阪城公園(2020.04.02)
↓敢えて背中から銅像を眺めるというのは面白い…
↓豊臣秀吉の銅像だ…戦の指揮を執るというような様子の像だ…
この銅像は、戦時下の「金属供出」で1943(昭和18)年に姿を消して、2007(平成19)年に至って復元されたモノであるという。大阪城公園の豊国神社に据えられている…
京都の豊国神社は「とよくにじんじゃ」と言うが…大阪城公園に在る豊国神社は「ほうこくじんじゃ」と言う…京都の豊国神社は豊臣秀吉が祀られているのみなのだが、大阪城公園の豊国神社には豊臣秀頼、豊臣秀長が合わせて祀られているのだという…
京都の豊国神社は江戸時代に廃されてしまった後、明治時代に復活した経過が在る。大阪でも明治期に京都の豊国神社の別社として起こる。
1921(大正10)年に至り、京都の豊国神社から独立した。その後何度かの遷座が在り、1961(昭和36)年に現在地へ遷っている。
↓社殿はなかなかに重厚な感じだった…
↓灯篭に豊臣家の紋が入っていた…
↑奥の桜が美しい…
京都の豊国神社に立ち寄った経過が在ったので、「そう言えば大阪城公園にも…」と思い出した。京都が「とよくにじんじゃ」で、大阪が「ほうこくじんじゃ」であるというのは、今般初めて気付いた…
大阪では、街の礎を築いた人物として「太閤さん」は少し人気が高いと聞く。江戸時代に廃されてしまう以前の豊国神社については、大阪城内に分祀されていたらしいが、明治期以降に復活した神社に関してもそういうようなことになった訳だ。
興味深い経過の神社であるが、素晴らしい青空の下で立寄ることが出来たというのが、非常に好かった…
↓豊臣秀吉の銅像だ…戦の指揮を執るというような様子の像だ…
この銅像は、戦時下の「金属供出」で1943(昭和18)年に姿を消して、2007(平成19)年に至って復元されたモノであるという。大阪城公園の豊国神社に据えられている…
京都の豊国神社は「とよくにじんじゃ」と言うが…大阪城公園に在る豊国神社は「ほうこくじんじゃ」と言う…京都の豊国神社は豊臣秀吉が祀られているのみなのだが、大阪城公園の豊国神社には豊臣秀頼、豊臣秀長が合わせて祀られているのだという…
京都の豊国神社は江戸時代に廃されてしまった後、明治時代に復活した経過が在る。大阪でも明治期に京都の豊国神社の別社として起こる。
1921(大正10)年に至り、京都の豊国神社から独立した。その後何度かの遷座が在り、1961(昭和36)年に現在地へ遷っている。
↓社殿はなかなかに重厚な感じだった…
↓灯篭に豊臣家の紋が入っていた…
↑奥の桜が美しい…
京都の豊国神社に立ち寄った経過が在ったので、「そう言えば大阪城公園にも…」と思い出した。京都が「とよくにじんじゃ」で、大阪が「ほうこくじんじゃ」であるというのは、今般初めて気付いた…
大阪では、街の礎を築いた人物として「太閤さん」は少し人気が高いと聞く。江戸時代に廃されてしまう以前の豊国神社については、大阪城内に分祀されていたらしいが、明治期以降に復活した神社に関してもそういうようなことになった訳だ。
興味深い経過の神社であるが、素晴らしい青空の下で立寄ることが出来たというのが、非常に好かった…
<MIRAIZA OSAKA-JO>(ミライザ大阪城)=旧第四師団司令部庁舎…(2020.04.02)
↓大阪城天守閣の直ぐ脇に在る建物だ…
この建物は、大阪城天守閣と同時期に登場した陸軍の第四師団司令部庁舎であった建物だ。嘗ては博物館に利用されたような経過が在ったようだが、現在は<MIRAIZA OSAKA-JO>(ミライザ大阪城)という商業施設になっている。
↓少し角度を変えると、建物前の植込みが好い感じに見えた…
現在の時点でこの建物を視れば「古風なビル」というように見えるが、1930年代初頭には「当世風」であった訳だ…
その当時は「大阪が“大大阪”と呼ばれた時代」で、「街のシンボル」として、嘗ての栄華を想わせる和風な大阪城天守閣を建てた。その直ぐ脇で、如何にも「当世風」なビルだ。この様子を視た建築家達の中に「和風な意匠を入れる建物を工夫して、大阪城天守閣との親和性を高めて、辺りをもう少し好い感じに?」と考えた人達が在ったようだ…
そういう辺りから、「コンクリート造の建物に、瓦屋根のような和風の意匠を添える」という「帝冠様式」という建物が建てられるようになって行った。「帝冠様式」は「過剰な装飾を排すべき…」ということになって1938年頃から廃れるが、1930年代には流行の様式となって行った…日本国内にもそういう建物が残っているが、満州や樺太にも登場している。
この建物自体は「帝冠様式」でもないのだが、「登場の切っ掛けを作った建物」ということで、何となく注目してしまう…
↓嘗ては司令部庁舎の色々な部屋であった場所に店舗等が入っているのだが、館内の「往時は軍服姿の多くの関係者が行き交っていた…」と思えるような場所は、重厚な設えが残されている…
とにかく、これは「画になる建物」という感で、存外に気に入っている…少し以前にゆっくり寄った経過も在ったが、近くまで行ったので眺めていたのだった…
この建物は、大阪城天守閣と同時期に登場した陸軍の第四師団司令部庁舎であった建物だ。嘗ては博物館に利用されたような経過が在ったようだが、現在は<MIRAIZA OSAKA-JO>(ミライザ大阪城)という商業施設になっている。
↓少し角度を変えると、建物前の植込みが好い感じに見えた…
現在の時点でこの建物を視れば「古風なビル」というように見えるが、1930年代初頭には「当世風」であった訳だ…
その当時は「大阪が“大大阪”と呼ばれた時代」で、「街のシンボル」として、嘗ての栄華を想わせる和風な大阪城天守閣を建てた。その直ぐ脇で、如何にも「当世風」なビルだ。この様子を視た建築家達の中に「和風な意匠を入れる建物を工夫して、大阪城天守閣との親和性を高めて、辺りをもう少し好い感じに?」と考えた人達が在ったようだ…
そういう辺りから、「コンクリート造の建物に、瓦屋根のような和風の意匠を添える」という「帝冠様式」という建物が建てられるようになって行った。「帝冠様式」は「過剰な装飾を排すべき…」ということになって1938年頃から廃れるが、1930年代には流行の様式となって行った…日本国内にもそういう建物が残っているが、満州や樺太にも登場している。
この建物自体は「帝冠様式」でもないのだが、「登場の切っ掛けを作った建物」ということで、何となく注目してしまう…
↓嘗ては司令部庁舎の色々な部屋であった場所に店舗等が入っているのだが、館内の「往時は軍服姿の多くの関係者が行き交っていた…」と思えるような場所は、重厚な設えが残されている…
とにかく、これは「画になる建物」という感で、存外に気に入っている…少し以前にゆっくり寄った経過も在ったが、近くまで行ったので眺めていたのだった…