結局、早朝から動く?:運行日誌(2020.08.03)

何か…「充実した!」という感で、些かの眠気も禁じ得ないような感の中、居室で1日を振り返る…

前日は、日中の暑さに消耗した感で、暗くなり切る前には既に宿の居室でゆったりと寛いでいた…少し早くから居室内の照明を全て灯したままに、然程のこともせずに眠りに陥った…何やら深夜帯に起き出した…暫くそのまま起きていた…

今般、「旅の前半」は“四国”との「鮮烈な出会い」が叶った感だった。松山の宿を出た後は“帰国”までの間に「旅の後半」ということになる。何をするのか、細々したことは事前に特段に決めておく程のこともない。「極々大まかな段取り」を一寸だけ考えておけば、それで差支えは無い…

そんなことをしていて、やがて照明を落として少々休んだ…そして、眠っては眼を開けるということを繰り返した…

どうしても何かを早朝からしなければならない必然性も無かったのだが…朝6時台から動き始めた…

JR松山駅へ向かい、列車で今治に出て、バスに乗って大三島の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)を訪ねた。<しまなみ海道>というモノを初めて経験した。“ETC”というゲートが設えられている有料の自動車専用道路と、一般的な道路とを何度も出入りし、芸予諸島の島々が橋で結ばれて「海上の道路」の様相を呈している訳だ…この<しまなみ海道>を進めば、今治から広島県の尾道まで至ることが出来るということだ…

大山祇神社では、奉納を受けた様々なモノを展示しているという宝物殿は“事情”で休館だった…が、独特な雰囲気の神社と、<しまなみ海道>というモノを経験出来たことが好かった…

やがて今治に引揚げ、海に浮かぶような今治城を眺めるというようなことをして松山に引揚げた…

松山では…連日、酷い汗をかいて汚れてしまったワークパンツを選択した。替えのズボン等は用意していなかった…そこで、今治で<ユニクロ>に出くわしたのを幸いに、宿の館内等で着用するショートパンツを求めた。宿でそれに穿き替え、ワークパンツやTシャツ等を洗った…

洗濯を終え、また普段のワークパンツに、未だ来ていなかった持参のTシャツという服装で、モノは極力持たずに道後温泉を訪ねた。

非常に有名な<本館>は工事中だ。入浴も可能とはいうが…敢えて入らずに観られる建物外観を愉しみ、別な施設で名湯を愉しんだ次第だ…

宿へ引揚げる道すがらに食事…松山の郊外、三津浜で起こって受継がれ、「松山のソウルフード」と言われる場合も在るという<三津浜焼き>を頂いた。広島辺りの影響を多少は受けているのかもしれないが、独自に発展して受継がれている、当地流の“お好み焼き”のようなモノだ…

「そうしなければならない理由」等、何処にも無いのに、早起きして活動していた…「そうしなくても構わない理由」は在る。「休み」なのだから…それでも早起きして活動だ…振り返ると、今般の行動を起こした7月30日以降、連日のように早朝から動き回っている感だ…

今日はやや雲が多めであったかもしれないが、それでも陽射しは強めで気温は低くはなかった…何か半袖Tシャツを着ていて外に出ている腕と、そして顔が酷く日に焼けている…「こんなに日焼けしたのは何時以来か?」と思ってしまう程度だ…

そのうち…見聞に関して、方々での写真に関して整理をしてみたいが…今宵は「とりあえず充実!」と振り返っておくに留める…

ロシア兵墓地:松山(2020.08.02)

↓「如何にも…」と言うのか…「ロシア!」という感じがする…
02-08-2020 Matsuyama vol01 (1)
↑日本国内にも胸像は見受けられるが、何となく「ユジノサハリンスクで親しんだ…」という印象が個人的には強い…

↓胸像はこういう具合に、松山市内に在る…
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↓胸像の人物はロシア帝国の海軍で大佐であったワシリー・ボイスマンである…「墓」となっている…
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↓辺りには、こういうような具合に「墓」が沢山在る…
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↑墓碑銘には「露國海軍水兵」とか「露國歩兵率」というような具合に「露國」という文字が視える…

「露國」とは「ロシア」を指し示す表現に他ならない。1904(明治37)年から1905(明治38)年の<日露戦争>の頃、ロシア陸海軍の将兵が捕虜となる事例が在り、捕虜は日本国内に設けた収容施設に送り込まれた。

往時の日本では<陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約>と呼ばれたそうだが、1899(明治32)年に戦時の様々なことを申し合わせる条約が締結されていて、日本もそれに調印している。<日露戦争>の当時、日本では「条約を遵守している」として、ロシア将兵を捕虜とした場合に適切に対応していると宣伝も行っていたようだ。それ故、収容施設の1つが在った「マツヤマ」の名は国際的にも少し知られていたという。

そういうことで、「捕虜は罪人ではない」とし、松山では捕虜のロシア将兵を「縁在ってやって来ることになり、滞在している外国人達」という程度に迎えていたようだ。

そんな中、傷病等によって戦争終結後に帰国が叶わずに他界してしまった人達も在り、98名が松山で葬られ、墓地が設けられた。その中、最も上席であった人物がワシリー・ボイスマン大佐だったので、「一同の代表」というように大きめな墓碑が出来たのだった。

松山駅に到着し、路面電車で鉄砲町停留所に向かい、汗をかきながら歩き廻ってこの場所に至ることが出来た。

↓こういう看板を見つけて、墓地の中の石段のような場所を上がってロシア兵墓地へ至ったのだったが…
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↓外周側の坂道を上がると、大きな看板も出ていたことに、立ち去る段になって気付いた…
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↓ワシリー・ボイスマン大佐の胸像は、お年寄りや中学生等を含む御近所の皆さんが墓地の清掃等を続けていることに感銘を受けたロシアの人達が在って、ロシアの彫刻家が像を制作して1994(平成6)年に寄贈されて据えられたそうだ…
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偶々、「汗をかいても乾き易い化繊のTシャツ」ということで、サッカーのロシア代表チームのレプリカユニフォームを身に着けていたが、「双頭の鷲」のエンブレムを胸に、<日露戦争>時代のロシア将兵の墓地を詣でた訳である…

近所に大学が在って、スポーツに勤しんでいる学生さんと見受けられる若い人達が辺りでジョギングをしている様子を視ながら、酷い汗をかきながら歩き廻った。水分補給をしようと眼に留まったコンビニに入って水を求めた際、店員さんが「凄い…汗ですね…」と少し笑っていた。

なかなかに興味深い訪問だった…

<78>…:大街道停留所&勝山町停留所:松山の路面電車(2020.08.02)

松山は路面電車が大いに活躍している街である…一部に専用軌道となっている場所も見受けられるが、路上に軌道が敷設された併用軌道が交差しているような箇所も多く見受けられる…

こういう街へ足を踏み入れれば…“1日乗車券”を入手して積極的に利用する…

↓大街道停留所で電車に乗り込んだ…
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↑繁華な辺りで、何人かの乗客が下車し、発車前に信号待ちだった感の車内に乗り込めば「貸切」だったので、「美しい内装…クラシカルな感じが酷く好い…」と思い、提げていた<X100F>を使った…

↓次の停留所、勝山町の傍に滞在しているので直ぐに下車し、カーブを曲がって去って行く電車を見送った…
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↓クラシカルな外観だが、近年は<伊予鉄>のイメージカラーとしたオレンジ色の単色を基本にした塗装が各車に施され、なかなかに見映えが好いと思った…
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この車輛は<モハ50形>という…

<モハ50形>が初登場したのは1951(昭和25)年であったそうだ。「前期型」と「後期型」とが在り、<78>は「後期型」の1輛で、1965(昭和40)年に登場しているという。

↓やや傾いた光線を受け、夏らしい暑さの中、クラシカルな電車がカーブの軌道を進む様は美しかった…
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こういう路面電車が活躍している様…酷く好い!!