靴…(2020.08.09)

旭川の宿で夜を明かし…

↓何となく眼に留まって、写真に撮ってしまった…
09-08-2020 Asahikawa (6)

神戸空港を経由して四国に至り、各地を歩き廻った後に関西に滞在し、再び神戸空港から新千歳空港に飛んで、旭川に至るまで履いていた自身の靴だ…

この靴…何時、何処で求めたモノであったか、全く思い出せない…かなり長く使っている代物だ…

↓誰にでも在る「歩き方の癖」を反映して靴底が擦り減り、何となく全般に変形してしまっているような靴だ…
09-08-2020 Asahikawa (7)

正直なところ、既に「些か歩き悪い感…」というモノも否めない状況で、遠からず破棄せざるを得ないような気がする…が、これは「実質的に初めて」ということになった四国各地を歩き廻った靴である。その姿を写真に収めてしまった…

旭川から先、稚内へ引揚げる際にもこの靴は履いていた…そして稚内でもとりあえず使い続けている…

<青春18きっぷ>のポスター:多度津駅(2020.08.02)

列車の乗換えで多度津駅に…

↓通路でこういうポスターを見掛けた…
02-08-2020 Tadotsu, Kagawa pref (3)
↑「北海道の写真?!」と思えば…<青春18きっぷ>のポスターであった…

北海道から遠く隔たった四国の多度津で、美瑛町で撮影と判る写真が使用されたポスターを視るというのは、何か独特な感慨も沸き起こる…

ポスターには「旅に出られる。その幸せの大きさを北の大地で味わっています。」と在る。私の場合は、「旅に出られる幸せ」を四国の地で味わっていたことになるが…なかなかに好いフレーズのような気がした。

時々思うことが在る…

歩行能力を獲得、確立した「原初の人類」は、森の中から草原や平原に歩を踏み出し、それ以来ずうっと“旅”を続けることになったのではないであろうか?そういう意味で、“旅”とは「ヒトの本能の一部」なのかもしれないというようなことだ…

写真の美馬牛駅は美瑛駅の先で、普通列車の本数が比較的少なくない旭川・富良野間の路線に在る駅で、<青春18きっぷ>を手に訪ね易い感な駅のように思う…

そういう余計なことも考えたが、列車も使って気儘に何処かへ旅に出るというのは…「或いは本能?」というような行動だとも思わないでもないが…とにかく楽しい!

天守閣…:尼崎城(2020.08.08)

大阪の「直ぐ西の隣り」という尼崎であるが…この尼崎は江戸時代には城下町であったのだという…

大坂城を本拠地とした豊臣家を滅ぼしてしまった江戸幕府であった…その後大坂城が、江戸幕府の西日本に於ける中心的拠点と位置付けられた中、尼崎には譜代大名が封ぜられ「大坂の西側の防衛拠点」ということになり、尼崎城には天守閣も築かれた…

この尼崎城の天守閣は、尼崎に封じられた大名家が交代しながら明治時代を迎えるまで、営々と受継がれ、やがて取り壊されてしまったのだという。そして城の石垣の石材が港湾整備の資材に用いられるようなこともあり、時代が進む中で尼崎が都市化して行く中、街の中の地名等に痕跡を留める例が見受けられる程度で、「城下町 尼崎」という記憶は薄れて行ったようだ…

↓しかし…この尼崎の城跡に天守閣が復元された…精確には「天守閣そのものの外観の建物が建てられた」ということになるのかもしれないが…とにかく、尼崎に「城の天守閣」が姿を現したのだ…
08-08-2020 Amagasaki (12)
↑江戸時代の約250年間に亘って街に在った天守閣と同じ大きさであるという…

この江戸時代の尼崎城だが、戦国時代にかの荒木村重が使っていた城とは位置が異なるということだ。伊丹の有岡城で織田信長に反旗を翻した荒木村重は「尼崎に逃れた」と伝わるのだが、逃れた城が在った場所は阪神電車の<なんば線>で尼崎から大阪方向へ1駅進む大物(だいもつ)駅の側だったという…

江戸幕府が譜代大名をこの地に封じ、新たに城を築いて安定した治政を目指すべく、現在の尼崎の母体となった城下町は登場した訳だ…

↓阪神電車の尼崎駅に近い辺り、城跡の公園で天守閣と周辺が新たに整備されたというように見える状況だった…城の建物を眺めながら散策するには好適な場所になっていたと思う。
08-08-2020 Amagasaki (13)

↓石垣に乗っている天守閣の建物部分が高さ18m近くになるようだが…なかなかに大きい…
08-08-2020 Amagasaki (14)

↓美しいバランスの建物だ…
08-08-2020 Amagasaki (15)

↓周囲を歩いて、この美しい建物を眺めた…
08-08-2020 Amagasaki (20)

天守閣の建物そのものは、尼崎で創業した会社の方が「創業の地に!」との想いで再建して市に寄贈したとのことである。簡単に出来ることではないと、感心する挿話だ…

尼崎城の天守閣は、この地に在った大名や江戸幕府の威光の象徴で、繁栄した城下町を見守り続けた経過が在ったモノであろう。2019(平成31)年に登場という現在の天守閣…“平成”の最後に姿を現し、“令和”の今、そして未来をここで見守り続けるのであろう。

↓「再登場!」を果たした「街のシンボル」と出会うことが叶って善かった…
08-08-2020 Amagasaki (22)

<源平の庭>&<敦盛塚>:須磨寺(2020.08.04)

↓須磨寺にこういう場所が在る…
04-08-2020 Kobe, Suma (28)
↑2人の騎馬武者の像が据えられた庭である。騎馬武者が身に着けている甲冑は、平安時代や鎌倉時代の様式のモノ―所謂「大鎧」という代物…時代が下ると、寧ろ神社に奉納するモノのような、儀礼的な用途で製作されるが、鎌倉時代頃までは騎乗するような身分、名の在る将が身に着けるのは「大鎧」であったようだ…―と見受けられる…

↓よく見れば「平敦盛」、「熊谷直実」という名札が2人の騎馬武者の足下に据えられていた…
04-08-2020 Kobe, Suma (29)
↑平敦盛に熊谷直実?『平家物語』の世界だ…この庭は<源平の庭>と名付けられているという。

『平家物語』等で綴られる源平合戦であるが、重要な戦いの1つとされる<一ノ谷合戦>は現在の神戸市の域内、須磨の近隣も含む辺りで戦われたのだという。

「平家を討つ!」と源氏が挙兵して騒乱が始まった。源氏の攻勢により、京の周辺から平家の勢力が駆逐され始めた。

平家はその重要な“地盤”であった中国地方、四国、九州に退きながら軍勢の立て直しを図って逆襲を意図していた。そこに京に進駐した木曽義仲と他の諸将との内紛のような情勢が生じていた。その間隙に、平家は“遷都”を画策した福原が在る現在の神戸市の域内に進撃して軍勢を集め、源氏への逆襲の機会を狙った。

そうした情勢下、木曽義仲との内紛が片付いたことを受け、源氏は源範頼が率いる本隊と、かの源義経が率いる別動隊とで平家が布陣する地域へ進撃した。

そこに発生したのが<一ノ谷合戦>であった…そして<源平の庭>に在る、2人の騎馬武者の挿話だ…

熊谷直実は功に逸りながら勇戦していたが、平家側の戦線維持が困難と見受けられるような状況に及んで、少し沖の船へ逃れようと馬を走らせる武者に気付く。

「待たれよ!背を向けて逃げるか?卑怯な振る舞いではないか!待たれよ!」と熊谷直実は武者を追った。追われた武者は止まった。

「名を伺いたい!」と熊谷直実は武者に迫るが、武者は「名乗る程の名ではないが、我が首を打って手柄とされるが好かろう…」とし、従容として熊谷直実の手に掛かった。が、熊谷直実は複雑な心境になった。討ち取った武者は、自身の息子のような年恰好の者であったのだ。熊谷直実が討ち取ったのは、平清盛の甥であった平敦盛だった。

ディーテールは色々とバリエーションも在るようだが…こういうような挿話である…

↓この須磨寺に、その<一ノ谷合戦>で討たれてしまった平敦盛の首が葬られているというのだ…
04-08-2020 Kobe, Suma (22)

事前に詳しく調べていたのでもなかったが、期せずして源平合戦の有名な挿話に所縁が在る場所に立寄ることとなった…

何処かを訪ねて、こういうような事に出くわすのは非常に面白いと思う…

<亜細亜万神殿>:須磨寺(2020.08.04)

三宮で神戸牛のランチを愉しんだ後、列車で少し西の須磨に向かい、須磨寺を訪ねてみた…

「夏らしい」という感じの陽射しを受け、適当に水を摂りながら歩を進めて須磨寺に至ったが…

↓少し風変わりな設えに見えた箇所に出会った…
04-08-2020 Kobe, Suma (3)

↓何か「異国風」な絵柄の彫られた石板が据えられていた…
04-08-2020 Kobe, Suma (4)

↓「視るような…視ないような…」という像も在った…
04-08-2020 Kobe, Suma (5)

↓明らかに「東南アジアの神像」というモノだ…
04-08-2020 Kobe, Suma (40)

この場所は<亜細亜万神殿>と名付けられている場所だ…

アジア諸国の古美術品多数の奉納を受けた須磨寺で、それらを一堂に会して祀る場を設ける計画を立てた。そんな折り、日本での地震災害に際して復興の祈りを捧げていたネパールの寺院が在る辺りで地震災害が発生したという報が伝わった。そこで、この場所はネパールの災害後の復興の祈りの場という位置付けも与えられたのだという。

須磨寺は真言宗の流れを汲む寺であるが…仏教は広くアジアの国々で、各々の地域なりの形で受容され、それらが互いに交わったような経過も加わって、今日までに様々な経過が在るというモノだ。その表象が国や地域で色々と異なっているのかもしれないが、仏教は何時でも何処でも「生きることの真実」を見出そうとし、「自身を含む世の安寧を祈る」という性質のものなのではないだろうか?そういう意味で、須磨寺にこうした<亜細亜万神殿>というような場が登場するのは興味深い…

↓これは仏教の世界への拡がりを象徴する<輪宝>というモノであるそうだ…一寸面白いと思った。
04-08-2020 Kobe, Suma (2)

↓滴り落ちていた汗を拭いながら、アジアの人々の安寧を祈ってみた…
04-08-2020 Kobe, Suma (6)

手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)…(2020.08.07)

一寸上がってみた若草山から下り、東大寺の大仏殿の方向へ歩を進めた…

↓こういうモノに眼を留めた…
07-08-2020 Nara vol01 (35)
↑「八」という文字を「鳩の絵」で表現しようとしているような紋が在る石灯籠だ…

「八」という文字を「鳩の絵」で?方々の八幡宮で見受けられる…が、ここで見掛けたモノは少し独特なデザインでもある…

若草山側から近付き、こういう様子を最初に視たのだったが、ここが手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)だ。
07-08-2020 Nara vol01 (34)

大仏や東大寺を建立した聖武天皇が宇佐神宮の分霊を勧請して東大寺を守護する社としたことに起源を有する神社であるという…

↓拝殿から望んだ感じである…
07-08-2020 Nara vol01 (37)

八幡宮が方々に広まったのは石清水八幡宮の人気の高さという事由と聞いたような気もするが…石清水八幡宮よりも早い時期から宇佐神宮の分霊が九州から勧請されていた訳だ…

↓なかなかに興味深いと思いながら、境内を眺めて参拝した…
07-08-2020 Nara vol01 (38)

余りにも有名な東大寺の大仏殿から近い辺りなのだが、今般初めてこの手向山八幡宮に立寄った。なかなかに雰囲気が好い…

今般、思い付いて「滞在した奈良の宿の周辺を歩き廻って、緩急の“緩”のような感で過ごす日」という1日を設けてみたが、振り返ってみて非常に好かったと思う。奈良は、こういうような「散策適地」が非常に多い。今般に限っては、「多少不慣れな暑さの故、無理は禁物ということに…」という事情で然程多くは歩いていないかもしれないが…また奈良には立ち寄りたい…

7200系電車…:丸亀駅(2020.07.31)

↓丸亀駅に到着し、乗って来た車輌を何となく眺めた…瀬戸大橋を望む辺りでは高架化が施されている軌道や駅を多く見掛けたような気がした…丸亀駅は1987(昭和62)年に高架化されたそうだ。
31-07-2020 Marugame (1)
↑或る程度広く見掛ける感じもする外観の車輌だと思った…四国上陸後、香川県内でよく見掛けた型の車輌だ…

この車輌は7200系電車というそうだ…

国鉄時代の最末期、1987(昭和62)年に瀬戸大橋と香川県内の一部で電化が実現して電車による列車を運行することになった際に121系電車が登場した。この国鉄時代の121系電車がJR四国に受継がれる。

受継がれた121系電車は四国で運用され続ける。2輌でのワンマン運行にも対応可能なように一部の改装も施された。

そして30年程を経た中、2016年以降に足回りや内外装の大幅な改造が順次施され、JR四国による他の型の電車との連結も可能となった車輌を新たに7200系電車としたのだ。改造は2019年までに全ての121系電車について実施された。現在では121系は既に無く、JR四国に在る19編成が全て7200系電車ということになっているそうだ…

↓夏らしい陽光を受け、ステンレスの車体が輝いていた様子が記憶に残るが、何となく「香川県辺りのローカルな列車」というように強く感じた。列車は利用の都度、そこそこに賑わっていたような気がする…
31-07-2020 Marugame (2)
こういう「ローカルな…」という雰囲気が強く漂う車輌で、余り慣れない地域を動き回ってみるのも一寸面白い…