高知城から高知駅へ路面電車で移動していて、乗換のはりまや橋停留所で乗車すべき電車を待っていた…
高松から徳島を経て高知へ至った道中や高知城の様子を振り返りながら停留所に佇んでいれば…
↓自身が乗車しない方向へ向かう電車が姿を見せた…
↑古風な外観の車輌だが…側面の<とさでん>グループの旅行会社の広告に「ウェブサイトの“検索窓”」が描かれているという様子に気づいて「時代…」を感じた…
↓乗降は直ぐに済んでしまい、この<804>は速やかに発車した…
<804>は<800形電車>と呼ばれている4輌の中の1輌だ。この車輌は下関から高知へやって来たのだという…
車輌そのものは1959(昭和34)年に製造され、下関の路面電車として走っていた。「山陽電気軌道」という会社であったそうだが、1971年に路面電車を全廃した際、車輌が譲渡されたということだ。(因みに「山陽電気軌道」はその後、「サンデン交通」というバス会社になっていて、現在も下関を中心とする地域で活動している…)
下関で12年間動いた<804>だが…高知では既に48年間動いているということになる。一寸、面白いと思った…
今般、高知で動いている少し古風な路面電車の車輌に幾分親しんだ。「何回か」に過ぎない乗車ではあったが、少しだけ時間を経て「酷く懐かしい…」と感じていることに気付かされる…
道後温泉駅…(2020.08.03)
松山の路面電車は、この辺りの様々な鉄道の経過を受継いで変遷を重ねた中で今日の姿が在るらしい…
道後温泉で路面電車が発着する場所…
↓立派な建物が在って<道後温泉駅>と称している…道後温泉から引揚げようとした際に一寸眺めた…建物前にタクシーも待機していて「観光地の交通拠点」という趣だ…
↑1911(明治44)年の建物の外観をイメージして1986(昭和61)年に建てた駅舎であるという。古い建物が残る、或いは古い建物を意識した建築が見受けられるというような一帯で、こういう建物は辺りの様子に酷く似合う。
立派な建物が在るが、特段に乗車券をどうこうするというようなことでもなく、建物の前の停留所で普通に路面電車が発着し、乗客は他の停留所での乗降時同様に車内で運賃を支払うようになる…
↓ここは<坊っちゃん列車>の方向転換を行う場所で、<道後温泉駅>の脇に「展示線」が敷設されていて、その姿が視られる…何かかなり古い車輌の外観を模したモノが、建物の雰囲気に似合っている…
↓何か…この街に少し滞在して「通う…」というような真似さえしてみたい風情が在ると思った…
↑入口の少し奥、乗り場に路面電車が停車している様子も伺える…
↓「明治時代を意識した外観」という建物である。御手洗を示すピクトグラムも「明治時代の紳士淑女」というような風にしているのが面白かった…
松山…伝統を誇る路面電車等が「活き活きと活躍している」という雰囲気が在る地域だ…
道後温泉で路面電車が発着する場所…
↓立派な建物が在って<道後温泉駅>と称している…道後温泉から引揚げようとした際に一寸眺めた…建物前にタクシーも待機していて「観光地の交通拠点」という趣だ…
↑1911(明治44)年の建物の外観をイメージして1986(昭和61)年に建てた駅舎であるという。古い建物が残る、或いは古い建物を意識した建築が見受けられるというような一帯で、こういう建物は辺りの様子に酷く似合う。
立派な建物が在るが、特段に乗車券をどうこうするというようなことでもなく、建物の前の停留所で普通に路面電車が発着し、乗客は他の停留所での乗降時同様に車内で運賃を支払うようになる…
↓ここは<坊っちゃん列車>の方向転換を行う場所で、<道後温泉駅>の脇に「展示線」が敷設されていて、その姿が視られる…何かかなり古い車輌の外観を模したモノが、建物の雰囲気に似合っている…
↓何か…この街に少し滞在して「通う…」というような真似さえしてみたい風情が在ると思った…
↑入口の少し奥、乗り場に路面電車が停車している様子も伺える…
↓「明治時代を意識した外観」という建物である。御手洗を示すピクトグラムも「明治時代の紳士淑女」というような風にしているのが面白かった…
松山…伝統を誇る路面電車等が「活き活きと活躍している」という雰囲気が在る地域だ…
<像之公豊一内山>=<山内一豊公之像>…:高知城(2020.08.01)
高知城に「上がった」という時であった…路面電車の停留所から「多分…こちら側?」と歩を進め、「ここが高知城の敷地らしい…」ということになり、石垣や様々な構造物が在る辺りへ上る場所に至った…必ずしも“正面入口”というような感じの場所から入ったということでもなかった…
一頻り高知城の様々なモノを視た後、「この辺が?“正面入口”?」という辺りに至った…
↓そして出くわしたのがこれだ…
↑<像之公豊一内山>と在るが、これは少し古い書き方である。<山内一豊公之像>ということだ…
山内一豊は「高知城を築いた」という人物である。この像?一寸「見覚え?」という感だった…
静岡県内の掛川城を訪ねてみた経過が在ったが、掛川城の建物内の展示に、この高知城に据えられた像の小さなレプリカが在ったのだ。
山内一豊は関ケ原合戦の頃には掛川城の城主で6万石の大名であった。関ケ原合戦の時、逸早く徳川家康陣営に入ることを明言し、東海道を進んで行く徳川家康の軍勢が掛川城を随意に利用して構わないと「提供」した。そういうような経過で、関ケ原合戦の後、俗に「土佐24万石」と云われる―実際は20万9千石とのこと…―大領が与えられたのだ…
↓「掛川城の展示に在った像の“実物”だな…」と思いながら眺めたが…“実物”の大きな像は、なかなかに迫力が在る…
↑甲冑に身を固めて騎乗し、槍を手に進軍中、或いは自軍を率いて戦闘を開始するような場面と見受けられる像だ…
この像…台座の銘が<像之公豊一内山>なので、なかなかに古いと思う。城下町たる高知の街の礎を築いた人物として、古くから地元で敬愛されていたという証左のように思った。
訪ねた先で、この種の像に出会うのは面白い…
一頻り高知城の様々なモノを視た後、「この辺が?“正面入口”?」という辺りに至った…
↓そして出くわしたのがこれだ…
↑<像之公豊一内山>と在るが、これは少し古い書き方である。<山内一豊公之像>ということだ…
山内一豊は「高知城を築いた」という人物である。この像?一寸「見覚え?」という感だった…
静岡県内の掛川城を訪ねてみた経過が在ったが、掛川城の建物内の展示に、この高知城に据えられた像の小さなレプリカが在ったのだ。
山内一豊は関ケ原合戦の頃には掛川城の城主で6万石の大名であった。関ケ原合戦の時、逸早く徳川家康陣営に入ることを明言し、東海道を進んで行く徳川家康の軍勢が掛川城を随意に利用して構わないと「提供」した。そういうような経過で、関ケ原合戦の後、俗に「土佐24万石」と云われる―実際は20万9千石とのこと…―大領が与えられたのだ…
↓「掛川城の展示に在った像の“実物”だな…」と思いながら眺めたが…“実物”の大きな像は、なかなかに迫力が在る…
↑甲冑に身を固めて騎乗し、槍を手に進軍中、或いは自軍を率いて戦闘を開始するような場面と見受けられる像だ…
この像…台座の銘が<像之公豊一内山>なので、なかなかに古いと思う。城下町たる高知の街の礎を築いた人物として、古くから地元で敬愛されていたという証左のように思った。
訪ねた先で、この種の像に出会うのは面白い…