↓祇園白川である。夕刻に辺りを歩いた…
↓京都では、街角にこういうような小さな社を見掛けることが存外に多いような気がする。
「辰巳」とは、京都の御所から視て南東側の方角を示しているのだという。その南東の方角を護るという社であった起こりを持つようだが、芸事の上達を祈る、商売の成功を祈るというような社になっていると聞いた…
↓なかなかに好い感じに視えると、何度通り掛かっても思う…
<北海道庁旧本庁舎>(赤レンガ)…(2020.12.28)
『十八本山納経帳』:真言宗十八本山―18ヶ寺を巡った…(起 2020.07.31 至 2020.12.22)
↓手元にこういうモノが在る…
↓出し入れを繰り返してやや傷んだが、カバーになっていて、外すと中身が現れる…
↓「納経帳」とは、所謂「御朱印帳」である。仏事ではその起こりに因んで、帳面のことを「納経帳」と呼ぶ方を好む場合も在るのかもしれない…
↓中身は蛇腹のように用紙が綴られている。この『十八本山納経帳』は18ヶ寺の説明が在って、御朱印を頂くべき頁が決まっている。各寺を訪ねて、各々の頁に押印して頂き、決まっている文句を書き込んで頂くのだ…言わば「巡礼の証または記録」となる代物である…
夏に四国へ渡ってみた際に善通寺を訪ねた…弘法大師こと空海が生まれ育った家が在ったとされる辺りに開かれた寺であると伝えられる古刹だ…
やや旧い映画を観て、関連書を読み、弘法大師こと空海という、日本古代史で最大級の、更に日本史上でも屈指の文化人に何処か惹かれるものの在った中で善通寺を訪ねた。奈良時代というような遠い昔、後に非常に高名な僧侶になる幼児が走り回っていたかもしれない辺りの、時を経て巨大になっているな楠を視て、弘法大師こと空海を非常に身近に感じた…
そうしていると、その「弘法大師」の名を墨書した御朱印を授与しているということが判ったが、その際に<真言宗十八本山>という「18ヶ寺を巡る」という営みが在り、『十八本山納経帳』という専用の御朱印帳も在ると知った。
何か「非常に好い出会い」というような気もして、そして勝手に身近に感じた弘法大師こと空海の名を記した御朱印を手にしたく、『十八本山納経帳』を入手して18ヶ寺を巡ってみることにしたのだ…
「難解?」とされる真言宗である…その要諦を空海御本人が纏めたとされる『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)を現代語訳したモノが在ると知り、ゆっくりと読んでみた…
要は?「とりあえず生きている」というだけに過ぎない人間は、様々な事柄に触れて高みを目指して行く存在である。儒教や仏教の諸宗で様々な事柄を説いているが、それらを学んで実践するのは、各々が「通り過ぎるべき段階」である。正しい導師の助力を得ながら、より一層の崇高な高みを目指すのが真言宗であるという主張であると読み取った…
自身なりに思ったのは?昨日より今日…今日より明日と、少しなりとも「より心豊かに…」というようなことを考えてみるということが、人を豊かにしてくれる筈…ということのように考えた。完全に勝手な我流だが…
そういう中、18ヶ寺を巡ってみる思惑を胸に、時間を設けて動いてみるのは好い感じだった…
「十八本山」ということだが、これは一体何なのか?
端的に言えば、真言宗には主なもので16派在り、その16派の総本山、大本山というモノが18ヶ寺在るのだ。これを「十八本山」と呼んでいる。
真言宗では師から弟子へ色々なことが伝えられるようになっていて、また教団運営上の色々な事柄も在り、年月を経る中で様々な派も形成されて行った。それでも一定の一体性は保たれたが、近代に入って各派が独立性を有する教団のようになって行った。
現在では、同じ根を有する主要な16派は“連絡会”的な<真言宗各派総大本山会>を設置している。そこでこの『十八本山納経帳』というモノも登場した訳だ…
1番から18番と、18ヶ寺には番号が付されているが、それに拘泥する必要も無い。自身でも「可能なように…出来る範囲で…」と動いた。
以下に18ヶ寺を巡って頂いた御朱印を御紹介したい。
↓重複するが、1番は善通寺だ。(2020.07.31訪問)
この善通寺の後、四国から関西に移動し、早速に18ヶ寺巡りに着手した…
↓2番は須磨寺だ。(2020.08.04訪問)
↓3番は清荒神清澄寺だ。(2020.12.21訪問)
↓4番は中山寺だ。(2020.12.21訪問)
↓5番は大覚寺だ。(2020.12.21訪問)
↓6番は仁和寺だ。(2020.08.06訪問)
↓7番は智積院だ。(2020.08.06訪問)
↓8番は泉涌寺だ。(2020.08.06訪問)
↓9番は東寺だ。(2020.12.22訪問)(※自身ではここを最後の18ヶ寺目とした…)
↓10番は勧修寺だ。(2020.08.06訪問)
↓11番は随心院だ。(2020.12.22訪問)
↓12番は醍醐寺だ。(2020.12.22訪問)
↓13番は生駒山の宝山寺だ。(2020.08.05訪問)
↓14番は信貴山の朝護孫子寺だ。(2020.12.19訪問)
↓15番は西大寺だ。(2020.08.05訪問)
↓16番は長谷寺だ。(2020.08.05訪問)
↓17番は根来寺だ。(2020.12.19訪問)
↓18番は高野山の金剛峯寺だ。(2020.12.20訪問)
以上の18ヶ寺が「十八本山」だ。各々が「或る種の美術作品?」と見えなくもない墨書と印が収まった『十八本山納経帳』は「宝物!!」になった…
『十八本山納経帳』を視ると、各々の頁の御朱印を頂くべく各寺を訪ねた時の様々なことも想い起される。振り返ると、少し勇み足(?)で「18ヶ寺を巡るのだ!!」と「走って…」しまったような傾向も帯びていたかもしれない。それはそれで善ということにしておきたい。何もこの18ヶ寺訪問が「御終い…」ではないのだから…
訪ねてみた18ヶ寺は、深い由緒が在る場所が多く、文化史の上で重要な位置を占めている場所ばかりであると思う。18ヶ寺との出会いは「日本の歴史との邂逅」という性質を帯びていると言ってしまっても過言ではないかもしれない…
半ば思い付きで四国に渡り、善通寺を訪ねてみた時が契機となって「18ヶ寺を巡るのだ!!」とし始めて、年内に完遂することが叶って善かったと思う。こんなに“達成感”が在るとは、事前には思わなかった…
そしてこの“達成感”の記憶を一定の形に整理しておきたいと、態々時間を設けてこの記事も綴ってみた訳だ…
※ この記事は、旅に出た経過等を日誌か何かのように纏めた記事を収める<память>(パーミャチ=記憶)のカテゴリに収めたい。『十八本山納経帳』の中身の写真そのものは、18箇所目となった東寺を訪ねた後、京都祇園に求めた宿の部屋で撮っているが、18ヶ寺は香川県、兵庫県、京都府、奈良県、和歌山県に所在するので、「撮影した場所の都道府県」を基礎に分ける、このブログのカテゴリ整理では収まらない…序でながら、18ヶ寺の名称に嵌めたリンクで、各寺を訪ねた際のことを綴った記事を御覧頂ける。更に序でながら、12月に訪ねた各寺に関しては、未だ色々と綴るべき事項が多く在るので、関係記事が後から更に掲載という予定も在ることを申し添える…
↓出し入れを繰り返してやや傷んだが、カバーになっていて、外すと中身が現れる…
↓「納経帳」とは、所謂「御朱印帳」である。仏事ではその起こりに因んで、帳面のことを「納経帳」と呼ぶ方を好む場合も在るのかもしれない…
↓中身は蛇腹のように用紙が綴られている。この『十八本山納経帳』は18ヶ寺の説明が在って、御朱印を頂くべき頁が決まっている。各寺を訪ねて、各々の頁に押印して頂き、決まっている文句を書き込んで頂くのだ…言わば「巡礼の証または記録」となる代物である…
夏に四国へ渡ってみた際に善通寺を訪ねた…弘法大師こと空海が生まれ育った家が在ったとされる辺りに開かれた寺であると伝えられる古刹だ…
やや旧い映画を観て、関連書を読み、弘法大師こと空海という、日本古代史で最大級の、更に日本史上でも屈指の文化人に何処か惹かれるものの在った中で善通寺を訪ねた。奈良時代というような遠い昔、後に非常に高名な僧侶になる幼児が走り回っていたかもしれない辺りの、時を経て巨大になっているな楠を視て、弘法大師こと空海を非常に身近に感じた…
そうしていると、その「弘法大師」の名を墨書した御朱印を授与しているということが判ったが、その際に<真言宗十八本山>という「18ヶ寺を巡る」という営みが在り、『十八本山納経帳』という専用の御朱印帳も在ると知った。
何か「非常に好い出会い」というような気もして、そして勝手に身近に感じた弘法大師こと空海の名を記した御朱印を手にしたく、『十八本山納経帳』を入手して18ヶ寺を巡ってみることにしたのだ…
「難解?」とされる真言宗である…その要諦を空海御本人が纏めたとされる『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)を現代語訳したモノが在ると知り、ゆっくりと読んでみた…
要は?「とりあえず生きている」というだけに過ぎない人間は、様々な事柄に触れて高みを目指して行く存在である。儒教や仏教の諸宗で様々な事柄を説いているが、それらを学んで実践するのは、各々が「通り過ぎるべき段階」である。正しい導師の助力を得ながら、より一層の崇高な高みを目指すのが真言宗であるという主張であると読み取った…
自身なりに思ったのは?昨日より今日…今日より明日と、少しなりとも「より心豊かに…」というようなことを考えてみるということが、人を豊かにしてくれる筈…ということのように考えた。完全に勝手な我流だが…
そういう中、18ヶ寺を巡ってみる思惑を胸に、時間を設けて動いてみるのは好い感じだった…
「十八本山」ということだが、これは一体何なのか?
端的に言えば、真言宗には主なもので16派在り、その16派の総本山、大本山というモノが18ヶ寺在るのだ。これを「十八本山」と呼んでいる。
真言宗では師から弟子へ色々なことが伝えられるようになっていて、また教団運営上の色々な事柄も在り、年月を経る中で様々な派も形成されて行った。それでも一定の一体性は保たれたが、近代に入って各派が独立性を有する教団のようになって行った。
現在では、同じ根を有する主要な16派は“連絡会”的な<真言宗各派総大本山会>を設置している。そこでこの『十八本山納経帳』というモノも登場した訳だ…
1番から18番と、18ヶ寺には番号が付されているが、それに拘泥する必要も無い。自身でも「可能なように…出来る範囲で…」と動いた。
以下に18ヶ寺を巡って頂いた御朱印を御紹介したい。
↓重複するが、1番は善通寺だ。(2020.07.31訪問)
この善通寺の後、四国から関西に移動し、早速に18ヶ寺巡りに着手した…
↓2番は須磨寺だ。(2020.08.04訪問)
↓3番は清荒神清澄寺だ。(2020.12.21訪問)
↓4番は中山寺だ。(2020.12.21訪問)
↓5番は大覚寺だ。(2020.12.21訪問)
↓6番は仁和寺だ。(2020.08.06訪問)
↓7番は智積院だ。(2020.08.06訪問)
↓8番は泉涌寺だ。(2020.08.06訪問)
↓9番は東寺だ。(2020.12.22訪問)(※自身ではここを最後の18ヶ寺目とした…)
↓10番は勧修寺だ。(2020.08.06訪問)
↓11番は随心院だ。(2020.12.22訪問)
↓12番は醍醐寺だ。(2020.12.22訪問)
↓13番は生駒山の宝山寺だ。(2020.08.05訪問)
↓14番は信貴山の朝護孫子寺だ。(2020.12.19訪問)
↓15番は西大寺だ。(2020.08.05訪問)
↓16番は長谷寺だ。(2020.08.05訪問)
↓17番は根来寺だ。(2020.12.19訪問)
↓18番は高野山の金剛峯寺だ。(2020.12.20訪問)
以上の18ヶ寺が「十八本山」だ。各々が「或る種の美術作品?」と見えなくもない墨書と印が収まった『十八本山納経帳』は「宝物!!」になった…
『十八本山納経帳』を視ると、各々の頁の御朱印を頂くべく各寺を訪ねた時の様々なことも想い起される。振り返ると、少し勇み足(?)で「18ヶ寺を巡るのだ!!」と「走って…」しまったような傾向も帯びていたかもしれない。それはそれで善ということにしておきたい。何もこの18ヶ寺訪問が「御終い…」ではないのだから…
訪ねてみた18ヶ寺は、深い由緒が在る場所が多く、文化史の上で重要な位置を占めている場所ばかりであると思う。18ヶ寺との出会いは「日本の歴史との邂逅」という性質を帯びていると言ってしまっても過言ではないかもしれない…
半ば思い付きで四国に渡り、善通寺を訪ねてみた時が契機となって「18ヶ寺を巡るのだ!!」とし始めて、年内に完遂することが叶って善かったと思う。こんなに“達成感”が在るとは、事前には思わなかった…
そしてこの“達成感”の記憶を一定の形に整理しておきたいと、態々時間を設けてこの記事も綴ってみた訳だ…
※ この記事は、旅に出た経過等を日誌か何かのように纏めた記事を収める<память>(パーミャチ=記憶)のカテゴリに収めたい。『十八本山納経帳』の中身の写真そのものは、18箇所目となった東寺を訪ねた後、京都祇園に求めた宿の部屋で撮っているが、18ヶ寺は香川県、兵庫県、京都府、奈良県、和歌山県に所在するので、「撮影した場所の都道府県」を基礎に分ける、このブログのカテゴリ整理では収まらない…序でながら、18ヶ寺の名称に嵌めたリンクで、各寺を訪ねた際のことを綴った記事を御覧頂ける。更に序でながら、12月に訪ねた各寺に関しては、未だ色々と綴るべき事項が多く在るので、関係記事が後から更に掲載という予定も在ることを申し添える…
五重塔を仰ぎ見る…:東寺(2020.12.22)
「名所」というモノが非常に多い京都に関しては「アレを視れば京都を思い出す」というようなモノは定め悪いかもしれない。
例えばテレビドラマ等で「主人公は〇〇へ移動…」ということを示すべく「〇〇の風景」を一寸映すという演出が在ると思う。こういう例で、「札幌へ飛んだ」ということなら「ススキノ交差点のウイスキー会社の大看板が在る様子」を使う例を思い出す。京都であれは?
↓コレが映る様子が採用ではないだろうか?東寺の五重塔である…新幹線の列車が通る高架の向こうにこの五重塔が視える箇所が在って、テレビドラマ等では「京都へ向かった」という場面で使う例が多いような気がする…
↑近鉄の駅から東寺の方向へ歩くとこういう様子が視えるのだが、何となく好きな光景だ…
↓独特な形で非常に背が高いモノが在ると、上ばかり仰ぎ見てしまう…
↑東寺の境内を囲う濠と塀の脇を歩きながら、思わず見上げていた…
↓門を潜って境内に入っても、何となく仰ぎ見てしまう…
↑木造のこうした塔としては日本一高い55m弱の高さが在るのだという…
55m弱?普通、街のビルは1階の天井の高さが3m前後である場合が多いので…55m弱と言えば「18階建のビル」に比肩する訳である。
序ながら…野球場の<東京ドーム>の“天井”は56m余りであるそうだ。ということは?東寺の五重塔の高さの屋根を掛ければ「野球が出来る」という訳だ…
現在の五重塔は、1644(寛永21)年に竣工したモノで「5代目」であるという。こういう寺の高い塔は、落雷等で焼失する例が多かったようで、現在は視られないモノが多く方々に建てられては消失したということが繰り返されたようだ…
↓門の辺りからも視えているが、こういう塔は好い…
例えばテレビドラマ等で「主人公は〇〇へ移動…」ということを示すべく「〇〇の風景」を一寸映すという演出が在ると思う。こういう例で、「札幌へ飛んだ」ということなら「ススキノ交差点のウイスキー会社の大看板が在る様子」を使う例を思い出す。京都であれは?
↓コレが映る様子が採用ではないだろうか?東寺の五重塔である…新幹線の列車が通る高架の向こうにこの五重塔が視える箇所が在って、テレビドラマ等では「京都へ向かった」という場面で使う例が多いような気がする…
↑近鉄の駅から東寺の方向へ歩くとこういう様子が視えるのだが、何となく好きな光景だ…
↓独特な形で非常に背が高いモノが在ると、上ばかり仰ぎ見てしまう…
↑東寺の境内を囲う濠と塀の脇を歩きながら、思わず見上げていた…
↓門を潜って境内に入っても、何となく仰ぎ見てしまう…
↑木造のこうした塔としては日本一高い55m弱の高さが在るのだという…
55m弱?普通、街のビルは1階の天井の高さが3m前後である場合が多いので…55m弱と言えば「18階建のビル」に比肩する訳である。
序ながら…野球場の<東京ドーム>の“天井”は56m余りであるそうだ。ということは?東寺の五重塔の高さの屋根を掛ければ「野球が出来る」という訳だ…
現在の五重塔は、1644(寛永21)年に竣工したモノで「5代目」であるという。こういう寺の高い塔は、落雷等で焼失する例が多かったようで、現在は視られないモノが多く方々に建てられては消失したということが繰り返されたようだ…
↓門の辺りからも視えているが、こういう塔は好い…
随心院…(2020.12.22)
↓辿り着いて、正面から眺めてみて「典雅な…」というように感じた…
京都の地下鉄東西線は、全駅でホームの床から天井までが壁のような扉で覆われ、入線する車輛の姿が視えないので「電車の内装が施されたエレベーター」のような不思議な感じであるのだが、その路線が街の東から南寄りに折れた辺りに小野駅が在る。小野駅を出ると、勸修寺(勧修寺)(かじゅうじ)も在るが、それとは反対の方向へ進むと随心院(ずいしんいん)が在る。
↓真正面に対して少し左側の入口から、拝観・参拝の受付に進む…
↓外から視ても感じた「典雅な…」という感じが溢れていると思いながら中を見学した…
↓「撮影は御遠慮願います」の文化財指定の画が入った襖が多々在った中、「撮影可」の華やかなモノが在った…
↓<極彩色梅匂小町絵図>(ごくさいしきうめいろこまちえず)と名付けられた2009年の作品であるという…
↓宮廷に仕えて、歌人として華やかな活躍も伝えられ、絶世の美女であったと伝わる小野小町は、小野一族に所縁が在るこの地域で隠棲していたという。その隠棲の場所が随心院であったというのだ。その「小野小町に所縁の随心院」としての活動の一環としてこれが制作されたようだ…
随心院そのものは、仁海(にんがい)(954-1046)が開いた牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひさんまんだらじ)の塔頭であったという。1299年以降は、皇族や摂家出身者が住持として入る「門跡寺院」ということになったという…
↓「冬の陽射し」が落ち着いた雰囲気を醸し出してくれていた…
↓この種の池の水面が酷く好い…
こういう場所…「一人静かに訪ねる」という感じが酷く合うような気もした…
京都の地下鉄東西線は、全駅でホームの床から天井までが壁のような扉で覆われ、入線する車輛の姿が視えないので「電車の内装が施されたエレベーター」のような不思議な感じであるのだが、その路線が街の東から南寄りに折れた辺りに小野駅が在る。小野駅を出ると、勸修寺(勧修寺)(かじゅうじ)も在るが、それとは反対の方向へ進むと随心院(ずいしんいん)が在る。
↓真正面に対して少し左側の入口から、拝観・参拝の受付に進む…
↓外から視ても感じた「典雅な…」という感じが溢れていると思いながら中を見学した…
↓「撮影は御遠慮願います」の文化財指定の画が入った襖が多々在った中、「撮影可」の華やかなモノが在った…
↓<極彩色梅匂小町絵図>(ごくさいしきうめいろこまちえず)と名付けられた2009年の作品であるという…
↓宮廷に仕えて、歌人として華やかな活躍も伝えられ、絶世の美女であったと伝わる小野小町は、小野一族に所縁が在るこの地域で隠棲していたという。その隠棲の場所が随心院であったというのだ。その「小野小町に所縁の随心院」としての活動の一環としてこれが制作されたようだ…
随心院そのものは、仁海(にんがい)(954-1046)が開いた牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひさんまんだらじ)の塔頭であったという。1299年以降は、皇族や摂家出身者が住持として入る「門跡寺院」ということになったという…
↓「冬の陽射し」が落ち着いた雰囲気を醸し出してくれていた…
↓この種の池の水面が酷く好い…
こういう場所…「一人静かに訪ねる」という感じが酷く合うような気もした…
中山寺(なかやまでら)…(2020.12.21)
↓「私鉄沿線の然程規模が大きくない商店街」という印象の「参道」を抜ける、或いはその「参道」を歩いている気分の中でこういうモノが眼前に現れる…
↑「中山さん」と親しまれているという中山寺(なかやまでら)の門で、なかなかに賑わっていた…
↓中山寺の境内は「段々状態」で拡がっていて、門を潜って入り込むと階段が設えられている…
↓新旧様々な建物が林立する「絢爛な伽藍」という感だった…
↓立派な本堂の辺りは多くの参拝者で溢れていた…本堂のディーテールに何となく眼が向いた…
↓訪ねた時には僧侶の皆さんが読経をしているところで、その声が朗々と辺りに響いていた…
「聖徳太子が開いた」という寺伝が在るという中山寺は相当な古い歴史を誇る…寺は「安産祈願」の霊場として皇族や貴族、源頼朝などの武家、庶民より深い信仰を集めたというが、現在にもそれが受継がれている様子だ。集まっていた参拝者は、安産の御守の授与を受ける若い御夫妻が多く、更に「無事に子宝に恵まれ…」という報告の御参りと見受けられる、小さな子どもと両親に祖父母と見受けられる家族連れの姿も多かった…
「永い歴史」ということは、「災害や戦乱で建物が損なわれた」という経過も多々在ることと半ば同義のように思うのだが、中山寺もそうした例に洩れない…
↓しかしながら、比較的近年にも伽藍の建物は新たに建てられている。画の<青龍塔>と名付けられた五重塔もそうした新しい建物の一つだ…
↓朗々と響いた読経…不慣れな雰囲気を訝って泣いている乳幼児の声…多数の参拝者が集まっているざわめき…普通な真摯な信心が渦を成しているような気配が辺りに溢れているような気もした…
この中山寺も阪急の沿線だが、記事に掲出した門へ続く商店街(参道)が始まる辺りに在る駅は<中山観音>という…
観音様を祀る本堂でも、他の何でも構わないと思うのだが、「祈り」の本質の一つは「様々なモノを次世代へ受継いで行きたい…」ということなのかもしれない。「安産祈願」とは、正しくそういうものであろう…
そんなことを想いながら、中山寺を辞去した…
↑「中山さん」と親しまれているという中山寺(なかやまでら)の門で、なかなかに賑わっていた…
↓中山寺の境内は「段々状態」で拡がっていて、門を潜って入り込むと階段が設えられている…
↓新旧様々な建物が林立する「絢爛な伽藍」という感だった…
↓立派な本堂の辺りは多くの参拝者で溢れていた…本堂のディーテールに何となく眼が向いた…
↓訪ねた時には僧侶の皆さんが読経をしているところで、その声が朗々と辺りに響いていた…
「聖徳太子が開いた」という寺伝が在るという中山寺は相当な古い歴史を誇る…寺は「安産祈願」の霊場として皇族や貴族、源頼朝などの武家、庶民より深い信仰を集めたというが、現在にもそれが受継がれている様子だ。集まっていた参拝者は、安産の御守の授与を受ける若い御夫妻が多く、更に「無事に子宝に恵まれ…」という報告の御参りと見受けられる、小さな子どもと両親に祖父母と見受けられる家族連れの姿も多かった…
「永い歴史」ということは、「災害や戦乱で建物が損なわれた」という経過も多々在ることと半ば同義のように思うのだが、中山寺もそうした例に洩れない…
↓しかしながら、比較的近年にも伽藍の建物は新たに建てられている。画の<青龍塔>と名付けられた五重塔もそうした新しい建物の一つだ…
↓朗々と響いた読経…不慣れな雰囲気を訝って泣いている乳幼児の声…多数の参拝者が集まっているざわめき…普通な真摯な信心が渦を成しているような気配が辺りに溢れているような気もした…
この中山寺も阪急の沿線だが、記事に掲出した門へ続く商店街(参道)が始まる辺りに在る駅は<中山観音>という…
観音様を祀る本堂でも、他の何でも構わないと思うのだが、「祈り」の本質の一つは「様々なモノを次世代へ受継いで行きたい…」ということなのかもしれない。「安産祈願」とは、正しくそういうものであろう…
そんなことを想いながら、中山寺を辞去した…
清荒神清澄寺…(2020.12.21)
↓こちらは「寺の本堂」である…
↓こちらは「神社の拝殿」である…
両者が同じ境内に併存している…古くからの「神仏習合」というような感が色濃く残って伝わっている…清荒神清澄寺(きよしこうじんせいちょうじ)である。
↓概ね1km程度というが、近くに阪急の駅が設置され、「清荒神駅」と名付けられていて、駅のホームに清荒神清澄寺の看板も在る…
「仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する佛神」とされる<三宝荒神>を祀る社と、大日如来や不動明王や弘法大師を祀る堂が併存していて「荒神さん」として親しまれている場所…庶民的な信仰の場という空気感が強く感じられた…
好天に恵まれた、過ぎない程度に寒い中での散策を愉しむように、この清荒神清澄寺を訪ねてみたのだった…
↓こちらは「神社の拝殿」である…
両者が同じ境内に併存している…古くからの「神仏習合」というような感が色濃く残って伝わっている…清荒神清澄寺(きよしこうじんせいちょうじ)である。
↓概ね1km程度というが、近くに阪急の駅が設置され、「清荒神駅」と名付けられていて、駅のホームに清荒神清澄寺の看板も在る…
「仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する佛神」とされる<三宝荒神>を祀る社と、大日如来や不動明王や弘法大師を祀る堂が併存していて「荒神さん」として親しまれている場所…庶民的な信仰の場という空気感が強く感じられた…
好天に恵まれた、過ぎない程度に寒い中での散策を愉しむように、この清荒神清澄寺を訪ねてみたのだった…
斑鳩の地を望む…:信貴山 朝護孫子寺(2020.12.19)
大塔…:根来寺(2020.12.19)
「公共交通機関で移動し、歩き廻る」という方式では、些か訪ね悪い場所は多く在ると思うが…そういう場所は、敢えて行かない場合も少なくない。しかし「それでも!」と訪ねてみる場合も在る…
↓根来寺(ねごろじ)を訪ねてみた…
史実を一定以上尊重している場合も、その限りでない場合も在る“時代モノ”の映像作品や小説等に、「根来」という地名が出て来る…そこで興味が在ったのだが…
大阪府泉南市というような、大阪府と和歌山県の県境を擁するような辺りから、運行頻度が高くない小さな車輛によるバスに乗って、山間に開いたような、トンネル区間も眼に留まる道を行くと「根来」に辿り着く。辺りは和歌山県岩出市だ。2006年に市制が施行されたそうだ。和歌山県の北側、「紀北」と呼ばれている地域で、自家用車や大阪府南部の鉄道駅を利用して大阪との間を往来する人達が多く見受けられるという。所謂“ベッドタウン”なのだそうだ…
この岩出市の根来に興教大師(こうぎょうたいし)と呼ばれる覚鑁(かくばん)が開いたとされる根来寺が在る。
覚鑁(かくばん)は高野山で活動し、大伝法院や密厳院(みつごんいん)という道場を起こし、宗祖・空海の教義を復興しようと努めていたが、内部対立が激しくなってしまったことを受けて1140(保延6)年に高野山を離れ、根来寺の母体が形成されて行くのである。そして高野山に残っていた大伝法院の名跡が、根来寺形成から1世紀以上を経た1288(正応元)年に根来に移り、根来寺の独立性、独自性が高まって行ったという。
戦国時代に至ると、根来寺は夥しい僧房が在る「宗教都市」の様相を呈し、多数の僧兵や鉄砲隊を擁する勢力となっていた。そして豊臣秀吉の雑賀攻め(紀州攻略)の戦いで荒廃してしまった…(この時に根来を離れざるを得ないとした人達が京都で智積院を起こして行くこととなる…)
↓戦国時代の戦禍を免れた極一部の建造物が、現在でも大切に伝えられている…
↓1496(明応5)年の建物と伝わる、この種の「多宝塔」としては大きな規模のものであるという…
現地を訪ねれば…「山間の数万人の人口規模の小さな市」という以上でも以下でもない感は免れ悪いかもしれないが、如何にも「密教の道場が築かれて発展した経過」を有するという感がする場所だった…
この根来寺は「訪ね易い」とは言い悪い感ではあったが、訪ねてみて善かったとも思った。こういう機会が設けられたことを歓びとしたい…
↓根来寺(ねごろじ)を訪ねてみた…
史実を一定以上尊重している場合も、その限りでない場合も在る“時代モノ”の映像作品や小説等に、「根来」という地名が出て来る…そこで興味が在ったのだが…
大阪府泉南市というような、大阪府と和歌山県の県境を擁するような辺りから、運行頻度が高くない小さな車輛によるバスに乗って、山間に開いたような、トンネル区間も眼に留まる道を行くと「根来」に辿り着く。辺りは和歌山県岩出市だ。2006年に市制が施行されたそうだ。和歌山県の北側、「紀北」と呼ばれている地域で、自家用車や大阪府南部の鉄道駅を利用して大阪との間を往来する人達が多く見受けられるという。所謂“ベッドタウン”なのだそうだ…
この岩出市の根来に興教大師(こうぎょうたいし)と呼ばれる覚鑁(かくばん)が開いたとされる根来寺が在る。
覚鑁(かくばん)は高野山で活動し、大伝法院や密厳院(みつごんいん)という道場を起こし、宗祖・空海の教義を復興しようと努めていたが、内部対立が激しくなってしまったことを受けて1140(保延6)年に高野山を離れ、根来寺の母体が形成されて行くのである。そして高野山に残っていた大伝法院の名跡が、根来寺形成から1世紀以上を経た1288(正応元)年に根来に移り、根来寺の独立性、独自性が高まって行ったという。
戦国時代に至ると、根来寺は夥しい僧房が在る「宗教都市」の様相を呈し、多数の僧兵や鉄砲隊を擁する勢力となっていた。そして豊臣秀吉の雑賀攻め(紀州攻略)の戦いで荒廃してしまった…(この時に根来を離れざるを得ないとした人達が京都で智積院を起こして行くこととなる…)
↓戦国時代の戦禍を免れた極一部の建造物が、現在でも大切に伝えられている…
↓1496(明応5)年の建物と伝わる、この種の「多宝塔」としては大きな規模のものであるという…
現地を訪ねれば…「山間の数万人の人口規模の小さな市」という以上でも以下でもない感は免れ悪いかもしれないが、如何にも「密教の道場が築かれて発展した経過」を有するという感がする場所だった…
この根来寺は「訪ね易い」とは言い悪い感ではあったが、訪ねてみて善かったとも思った。こういう機会が設けられたことを歓びとしたい…