月の下旬に少し時間を設けて動いてみれば、直ぐに月末に至ってしまう。動いたのが12月となれば、月末は即ち年末でもある。
年末、自身にとっては「札幌で“居候”…」ということが恒例化している。月の下旬の動きから、そのまま「札幌で“居候”…」という状況にスライドした。
時間を設けて動いたのは非日常だ。恒例化している“居候”は、半ば日常ながらも、一部は非日常だ。
「予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず」というのは、かの松尾芭蕉の『奥の細道』に在る一節だったと思うが、「漂泊の思い止まず」ということで、時間を設けてフラフラと出てしまい、何となく戻った。
今般、余りにも「訪ねてみたいあそこ」という場が多く、何をどうしたものか、なかなか収拾が困難だった。「困難…」とは言っても、「勝手に迷っている」に過ぎず、どうということもないのだが…
とは言え、実際に「航空券を申込む!」、「止めた…」を何度かやって、「とりあえず<青春18きっぷ>=普通列車で、可能な範囲で随意に動くことが出来る」ということにして、改めて考えた。結果、「苫小牧に至ってフェリーで仙台にとりあえず上陸」ということにしたのだった。
今般、少なくとも<真言宗十八本山>の件は頭に在った。
既に「十八本山」の18ヶ寺を巡った件については綴ったが、夏に思い付いて着手した「18ヶ寺巡り」の「残り」を何とかしたかった。
この「18ヶ寺巡り」の「残り」をどうかしようとすれば…A 交通至便な大阪の何処かに陣取り、根来寺、信貴山、高野山を巡る、B 京都または京都へ出易い辺りにに陣取り、京都の未踏4寺を巡る、C AとBとの移動に際して、阪急沿線の宝塚市内の2寺を巡るということをすれば、順番はどうでも構わないが、「18ヶ寺巡り」の「残り」を訪ねるということは可能であると見受けられた。
他方で「仙台に上陸」となれば、そこから訪ねたい、寄りたいは無制限に多々在るということで、益々収拾困難に陥る。フェリーの船内で寛ぎながら、随分と考えたのだ。
その結果、仙台上陸後に比較的速やかに大阪へ移動し、上述の「18ヶ寺巡り」の「残り」に向けた案を実施し
「十八本山」の18ヶ寺巡りの成就を目指すこととした。
それ以降は?気紛れに、前夜やその日の思い付きのように動き回った。北海道へ引揚げる段取りに関しては、何時かも利用した新幹線の列車と北海道内の特急列車の乗継で札幌に到るということにして、それに備えて東京駅至近で前夜を明かすということは、少し早く決めた。
となると…関西から東京は何処をどのように通っても構わなかった。北陸や信越を経るということも思い付いた。紀伊半島を広く巡るようなことも思い付いた。四国や九州に向かって、そこから東京へ飛ぶことも考えた。が…何れでもなく、関西滞在を少しだけ伸ばし、名古屋を経て東京へという、やや無難な経路になった…
結果として…今般は「飛ばなかった…」という旅だ。空路を利用する機会を設けず、列車や船での移動を重ねていたことになる…
今般…「18ヶ寺巡り」の「残り」―根来寺、朝護孫子寺、金剛峯寺(高野山)、清荒神清澄寺、中山寺、大覚寺、醍醐寺、随心院、教王護国寺(東寺)―の9寺の他、建仁寺、法隆寺、興福寺、東大寺、葛井寺、観音寺(津島)、大須観音を訪れた。神社に関しては、鹽竈神社、松尾大社、辛国神社、津島神社、若宮八幡社、富岡八幡宮、穴八幡宮、神田明神を訪れた。また、大阪で大浪橋、岩松橋、千歳橋を、東京で永代橋、中央大橋を写真に収める機会が各々に在ったが、橋梁を眺めるというようなことも重ねたという記憶が残る…
こういうこと―合わせて16寺、8社に立寄った…更に社寺の辺りを漫然と通り過ぎてしまっているというのも在ると思う…―をやっていると、或る種の“巡礼”という様相を呈しているかもしれないが、そういう意識は薄い…社寺に関しては「歴史や文化や地域活動を象徴するような場」として、関心を覚えるので訪ねているに過ぎない。或いは「景色が好いので眺めに…」ということも在る。加えて社寺では「自身がここに在る」ことに関して、「各訪問先へ無事に着いたこと」について感謝の意を表しようと社寺で参拝し、可能であれば御朱印を頂く場合も在るということだ…
何処かを訪ねてみる場合、訪ねる先が何か特別である必然性は無いと、今般改めて思った。訪ねる先々の「普通…」な感じの中に何となく御邪魔するだけで十分だ…最近の関心は、何となく社寺に傾いていて、社寺を訪ねるようなことをしながら方々の街を随意に動いたというような感だった…
こうした営為から何を見出したのか?見聞等に関しては、追って少しずつ―一部は先行して素早く綴って出してしまっているが…―整理したい。マダマダ十二分に記憶が新しい間に、簡単な纏めをしようと、この記事を綴っている訳だ。
巷で「GoTo」なるものが如何したこうしたと話題になってはいるようだが…自身としては「Go to XX」と誰かに命令形で言われるまでもなく、何時でも「漂泊の思ひやまず」というもので、時間が設けられれば何処へでも可能なように出掛けるだけのことだ…そして今般は出掛けた。
戻ってみて、早速に「“次”に機会が在れば?」と何となく思っている側面も否定し悪い…
或いは「今年の些か特殊な事情?」ということも在るかもしれないが、「達成感のようなモノと縁が薄かった?」という中、
「十八本山」の18ヶ寺巡りの成就は「少し大きな達成感!」というように思っている一面が在る…