<Golden State Warriors>のパーカー…(2021.06.19)

↓洗濯が終わったパーカーだ…
19-06-2021 (4)
↑NBAのチームである「Warriors」(ウォリアーズ)の少し旧いロゴが入った代物だ。

2001年12月下旬だったか?(飽くまでも!!)“現在時点”では「最初で最後…」となっている形だが、サンフランシスコに立寄った折り、「米国のプロスポーツを現場で観戦したい!」と考えて、折良く試合が開催されていたウォリアーズの試合を観戦した。現在では紅いユニフォームを使っているヒューストンが紺色のユニフォームで乗り込んで来て、ウォリアーズは白のユニフォームで迎えたが、残念ながら負けた試合を観戦したのだった…

そういう縁が在り、また「NBAの試合」というのが酷く愉しい一時だったので、以降は少しバスケットボール観戦にも力が入るようになった。そして…本拠地での敗戦を観たウォリアーズは所謂「長い低迷期」の最中で、「何時かはこのチームに栄光を!!」と一生懸命に応援するようになった。応援と言っても、サンフランシスコに度々行くことが出来るのでもない。そして長く「不人気…」とか、1990年代前半位のNBAを観戦していたような人達の間では少し知られていたかもしれないものの「知らない人の方が多い?」という感で、試合の中継も限定的であったが、試合開催の都度にネットで英語の試合情報を読んでいた。それ以外に情報が無い状態でさえ在った…そして「斯く戦い、斯く敗れ…」と読みながら「何時か栄光を!」と願い続けていた。

そんな中、「太平洋の彼方にも“何時か栄光!”と願う者が在る意思表示を!」と、敢えて米国の通販を利用してウォリアーズのグッズ、主に衣類を取寄せて身に着けるというようなこともしていた。その衣類は現在でも使う…

↓このロゴマークは1990年代後半から2000年代の「長い低迷期」のモノということになる。
19-06-2021 (5)
↑チーム名の下にキャラクターが描かれている。<サンダー>という名で、試合会場には着ぐるみも登場したものだった。が…2008年に、オクラホマシティーに新しいチームが起こって、チームの愛称を<サンダー>に決めた際、「名前が被る…」ということになってしまい、何やら「引退…」となって姿を消した。

そんな経過の後、ウォリアーズはロゴマーク等を一新し、躍進と栄光の2010年代に入って行く。2015年には「40年ぶりのリーグ優勝!」ということが在った。極々最近のシーズンに至っては、少し勢いが無く苦戦しているが、プレイオフの決勝戦に連続出場を果たした等、何となく「リーグを代表する強豪チーム」という存在感を示した時期さえ在った。

↓多分、人気が高いとも思い悪かった時期のモノなので、同じモノは然程多くは出回っていないような気がする。そういう意味で、大事に今でもこれを愛用している…
19-06-2021 (6)

この種の衣類は、主に肌寒いような時季に使う。そういうことで、気付くと存外に長く愛用しているという場合も在るとは思う。そして、思い入れのあるスポーツチームのロゴが入って酷く気に入っているというのも善い。が…「6月の後半の時季にこの種の衣類を、直ぐに使う前提で洗濯している」という状況に、何となく苦笑いが込み上げる。洗濯の翌日、10℃程度の気温で風が冷たいので、これを着用し、戸外を歩く場面では風除けに薄いジャケットを上に引掛けてさえいる…

<大阪近鉄バファローズ>のキャップ…(2021.06.19)

↓愛用中のキャップの一つ…
19-06-2021 (3)

こういうようなキャップは、幾つかのモノをローテーションで使う程度が好いと思っている…このキャップもその「幾つかのモノ」の一つだ…

↓野球チームが「大阪近鉄」を号した、結果的に然程長くなかった期間に使用されたキャップのデザインではあるが、往時と色の組合せがやや違う。
19-06-2021 (2)
↑この「大阪近鉄」と号する野球チームが姿を消して15年程度にもなるので、キャップを街で被っていても「何やらのデザインの…」という程度にしか視えないかもしれない。個人的に、<大阪近鉄バファローズ>に強い思い入れを抱いているのでもないのだが、この1958年頃にかの岡本太郎画伯に依頼したという「猛牛」のマークが酷く気に入っている。

<X100F>のレンズでボケて写っている背後を視れば「コインランドリーのテーブル」に何気なく置いたキャップということが判る…
19-06-2021 (1)
↑コインランドリーの機械が仕事を終えるのを待つ間に読書に興じるための文庫本を洗濯モノを詰めたのとは別なバッグに容れたのだが、バッグに<X100F>も容れて在ったので、何気なく写真を撮ったのだ。

こういう具合に「一寸気に入っているモノ」を写真に撮るのも少し愉しい…

稚内港北防波堤ドーム…(2021.06.19)

例によって…前夜の早目な時間に寝入ってしまった事を受けての早起きである…

↓少し歩き廻って戸外の様子を伺ってみた…
19-06-2021 early morning (1)
前日の霧とは明らかに様子が異なったが…何やら「寒々しい」というような感だ…

早朝は10℃を割り込んでいたという感で、やや強めな風が酷く冷たかった…

↓「最も日が長い時季」という「6月19日」に口を突いて「寒々しい…」という言葉を発してしまう…これが「稚内らしい」ということか??
19-06-2021 early morning (3)

何やら妙な気分で、寒々しい中で佇むことがキツいような気もして、早々に引揚げた…

【連載】現今事情―サハリン (11)

「街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視ると街の名前が思い浮かぶ」というようなモノということで、「ユジノサハリンスクという街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視るとユジノサハリンスクという街の名前が思い浮かぶ」というようなモノは「如何か?」というようなことを一寸考えていた。

「ユジノサハリンスクという街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視るとユジノサハリンスクという街の名前が思い浮かぶ」というようなモノとしてレーニン像を思い出すという話題を綴っていた。が、それだけに留まらない。

ユジノサハリンスク辺りでは「日本国内の一寸した都市に在るようなサービスやモノは大概在る」という状態だが、場合によって「流行り始めが比較的新しい」ということで、日本国内で見受けられる様子と違う場合も在る。が、色々な業種の人達が「旅行で訪れた○○で見掛けたアレが好ましい…自分の携わる店でも…」と試行しているらしい例にも出くわす。

↓こんなモノに出くわした。
08-06-2017 (10)

正しく「日本国内の一寸した都市に在る」という感だ。地域の代表的な建物の画が入った箱に菓子を入れて売っている。所謂“パン屋”な感じで、パンや菓子の製造販売すること、加えてカフェ的にそれらを飲物と合わせて店内で頂くという業態で方々にチェーン展開している店で見掛けて求めたモノであった。

↓序なので「箱の中」の画も…箱に画が在るように、柔らかい菓子がチョコレートに包まれているモノだ。稚内に持ち帰って、土産として方々に配った記憶も在る。
08-06-2017 (11)

「地域の代表的な建物の画」という感じで箱に入っている画は<サハリン州郷土博物館>である。広大なロシアに在って、この種の建物は類例が無い。

この<サハリン州郷土博物館>であるが、広大なロシアの他地域で類例が見受けられない形状の建物で「他地域からの来客が在れば、視て頂くべきモノ」ということになっているようだ。それこそ、サハリン州政府が連邦政府の高官を迎える場面から、手近な身内が遊びに来るとか、何かで知り合った他地域の人達を迎えるという場面に至るまで、とにかくも「これが有名な…」と辺りを通って視て頂くという様子である。更に「街を代表するような場所」ということで、何かの記念撮影をこの場所でやっている人達も存外に頻繁に見掛ける。

↓建物の前に噴水まで設えられ、地元の人達にも広く親しまれている場所だ…
24-10-2019 (45)

↓当然ながら年中視られる建物で、積雪期にも佇んでいる…
30-12-2018 morning (18)

<サハリン州郷土博物館>は<樺太庁博物館>として1937年に竣工した建物である。“ソ連化”の後にも、そのまま博物館として使用され続けている。

聞けば、新たな建物を新設して<サハリン州郷土博物館>を移転するような構想もされたことが在ったらしいが、結局この建物が使われ続けている。2007年頃であったと聞くが、函館から瓦屋根の工事を手掛ける業者の職人達を招聘し、石州瓦による屋根を補修した経過も在ったようだ。竣工から間もなく85年で、老朽化も目立つようではあるが。

17-10-2018 morning (13)

1945年の終戦、そして1946年の“ソ連化”であるが、現地でそれは「サハリンの行政等の中心がアレクサンドロフスク・サハリンスキーからユジノサハリンスクへ移った」という理解になっていると見受けられる。<サハリン州郷土博物館>については、「アレクサンドロフスク・サハリンスキーからユジノサハリンスクへ移った」という理解になっていて、「博物館自体が認識する歴史」として、博物館の「起こりの年」は「アレクサンドロフスク・サハリンスキーで博物館が起こった」という出来事の「1896年」となっている。「1937年」を起点にして「建物が80年!」というようなことは博物館自体でも言っている場合が在るが、「博物館の歴史」としては「1896年の開館以来125年」というような認識のようだ。

現在の<サハリン州郷土博物館>は、そのアレクサンドロフスク・サハリンスキーから移って来た収蔵品に<樺太庁博物館>から引き継がれた収蔵品ということで活動を始めていることになる。自然、民俗、歴史というような様々な分野の展示が見受けられる<サハリン州郷土博物館>だが、或る意味では「建物そのもの」が「少し貴重な展示品」という性質を帯びているかもしれない。

この建物について、「樺太時代」に「日本の関係者」が建てたということは現地でも知られている。1937年竣工も一部に知られている。が、その「知られ方」に関して言えば、一部に「?」という事が在る。

サハリンでは、この<サハリン州郷土博物館>について「日本の伝統的な様式である“テイカン”の形」というように紹介されている。これが多分、余り正しくない。

“テイカン”は「帝冠様式」のことに他ならないが、これは「伝統的」とは少し言い難い。「1930年代の日本で流行した様式」とすべきであろう。概ね、「鉄筋コンクリート造の洋式建築に和風の屋根」というような和洋折衷の建築様式ということになる。

「帝冠様式」が流行って行く契機に大阪城が在るらしい。

大阪城「激動の幕末」に色々と在った後、その広い敷地を専ら陸軍が様々な用途に利用していた。

大阪城は「大坂城」として豊臣秀吉の下で起こり、豊臣家が敗れた戦い―「大坂冬の陣」、「大坂夏の陣」―の後に殆ど焼失してしまった。そして徳川幕府の下で再建された。その徳川幕府時代の「大坂城」には天守閣が在ったが、1660年に「焔硝蔵(火薬庫)に落雷」という事件―大爆発で多くの建物が焼失し、多数の死傷者が発生した…―で天守閣は姿を消した。(1660年の出来事から時日を経て、焔硝蔵については堅牢極まりない石造のモノが建てられ、陸軍も利用したと伝えられる。)

その頃以降、「大坂城」と呼ばれた時代、大阪城と呼ばれるようになっても天守閣は無いままだった。「激動の幕末」に色々と在ったという時期にも在った建物は一部が現在にまで伝わっているのだが、そんな時代には天守閣は無い状態で、色々な建物が敷地内に在って利用されていた訳だ。

元号が“大正”から“昭和”に変わろうというような頃、「大大阪」とも呼ばれて大いに発展していた大阪では、現在に受け継がれている様々なモノが登場しているのだが、専ら陸軍が利用していた大阪城に関して、一部を公園化して「街のシンボル」として天守閣を建てることになったのだった。

そして1931年に完成して登場したのが現在の建物であるが、この頃に「合わせて師団司令部庁舎も建てましょう」ということになっていた。大阪城と師団司令部庁舎とは相次いで隣接地に登場した。

こんなことで「昔の城を想定した和風建築」の大阪城と、「当時一般的だった洋風建築の庁舎そのもの!」であった師団司令部庁舎とが並んだのだが、これを見た建築家達が「和風の意匠を採り入れて、城と親和性が高い庁舎であったなら、もっと佳かったのでは?」という問題意識を持ったという。そして、その時点で一部の建築で実施されていた「和風な意匠を入れる」ということを前面に押し出す動きが起こった。

これが「帝冠様式」が流行った背景に在ったという話しだ。少し長くなったが、好きな話題でもあるので、敢えて綴った。「和風の意匠を入れる」というのが「伝統的」に該当するかもしれないが、それでも「帝冠様式」そのものは「1930年代の日本で流行した様式」ということになる。

ではこの「帝冠様式」は、何故「1930年代の流行」ということで、以降は流行らなくなったのか?回答は単純なことで「出来なくなってしまった」ということに尽きる。更にこれは「1940年 “幻”の東京五輪」にも少し関連が在る。

例えば1937年に竣工した建物と似たような建物を数年後に建てることは、技術的に不可能とも思い悪い。それでも「出来なくなってしまった」というのは、鉄骨を筆頭に、建設資材の使用量に厳しい制限が加えられ、華美なデザインを排するというようなことになって行ったからだ。1938年に<国家総動員法>というモノが成立しているが、中国大陸での戦争状態が長引いていて、各種資材に関する制限が拡がりつつあった中、1938年頃以降は「帝冠様式」のような建物が新たに登場しなくなったようだ。

1938年には、「1940年 東京五輪」について「開催権返上」と称して東京開催が見送られた。それは、鉄骨を大量に使う競技場建設が「進められない…」ということになったことも一因になっているのだ。五輪開催に向けて大きな競技場を建設するとすれば大量の鉄骨が要ることになるが、「それだけの鉄?軍艦がどれだけ建造出来るだろうか?」というような話しにもなっていた訳だ。

その後、「1940年 五輪」そのものは、東京が選出された時に“次点”であったヘルシンキで開催ということになった。しかし、その1940年頃にはヘルシンキのフィンランドも戦争に突入していて、前年の1939年時点で後に「第二次大戦」と呼ばれる時期に突入してしまっていて、「1940年 五輪」そのものが“幻”に終始してしまったのだった。

「帝冠様式」の<樺太庁博物館>(現在の<サハリン州郷土博物館>)は、結果的に「帝冠様式が流行った時期の最終盤」に登場した形となった。「帝冠様式」による建築は、現在も日本国内で色々と見受けられるが、台湾や満州でも見受けられたということだ。

実は<サハリン州郷土博物館>が契機で「帝冠様式」というモノに関心を寄せるようになった。名古屋市庁舎愛知県庁舎は名古屋に立ち寄った時に眺めに行ってみた。現在は観光案内所となっている旧奈良駅はかなり気に入っていて、関西方面に出る際に敢えて奈良に宿を求め、これが窓から視える部屋に滞在するようにしたことさえ在る。他、未だ視ていないモノも色々と在る。結局「サハリンが入口で様々な関心が拡がる場合も在る」ということになるのではないか?

現在のユジノサハリンスクで、中心的な市街の多くは1906年、1907年頃から建設が進められた「豊原」を基礎としている。この「豊原」に<樺太庁博物館>(現在の<サハリン州郷土博物館>)が竣工した1937年頃の様子だが、「町」が「市」というようになった。当時、樺太は他所の県等とは取り扱いが別であったが、それでも北海道で「最も北の市」であった旭川市(1922年から「市」)から随分北―旭川から稚内で250km余り…稚内からコルサコフ港を経てユジノサハリンスクへ行けば180㎞程度…併せて430㎞程度なので、東京・名古屋間より遠い…―に「最も北の市」が登場したことになる。その後、1943年には樺太の市町村も他所の県と同じ取り扱いになり、改めて「豊原市」となっている。1941年頃の資料として、豊原市は人口3万7千人余りであったそうだ。

この連載は、「或る日、如何いう経過であれ、辿り着いて街を歩くと、別段に不便や不自由という程のことが気になって仕方ないということが在るでもない普通の街」という感であるユジノサハリンスクのようなサハリンの都市なのだが、それでも「サハリンってモノが在るの?」と存外の頻度で御訊ねを頂くという状況に思い至って綴り始めた。

或る意味では日本国内の一寸した街に在る店より手が込んだモノを供してくれるようなカフェが在り、店舗、サービスノウハウ、材料等が揃わなければ供し悪いモノを供してくれるようなファストフード系の店が在り、スーパーに立ち寄ればお惣菜からミカンまで何でも売っていて、祝い事の催事に使うレンタカーから花束まで各種サービスも普通に行われているユジノサハリンスクである。街の方々に都市緑地が整備され、地域の歴史を伝えようとするモニュメントが据えられている。プロスポーツのチームが在ってシーズンには試合が催されていて、著名な劇作家の足跡が残っているに留まらず、専属の劇団が公演活動もする劇場が在り、映画館も自国内や外国の映画を普通に上映している。

ハッキリ言えば、これらの「普通」が余りにも知られていない。または「特殊な編集」のような事でも在って、黙殺されているように思う。だから「サハリンってモノが在るの?」と存外の頻度で御訊ねを頂くのだと思う。

「特殊な編集」と申し上げたが、サハリンに関しては「嘗ての樺太」ということで、関係文物を取り上げる例が在るか、「嘗ての樺太…以上!」となってしまっている場合さえ在ると思う。そういう問題意識の故に、<サハリン州郷土博物館>の建物に関しては、散々に様々な話題を出した後に廻った。

「建物そのもの」が「少し貴重な展示品」という性質を帯びるかもしれないような、建物の竣工時点から80年以上、“博物館”というモノが起こったと自認する頃から120年以上という伝統を有している<サハリン州郷土博物館>の例だが、「これだけのモノが在る場所?日本国内の何処にでも溢れているのか?!」と問うてみたくなる。そんなモノは無い場所の方が多いのではないか?そういう場所に住んでいて、それで「サハリンってモノが在るの?」と訊ねるのか?何か変だ。

<サハリン州郷土博物館>に関しては、建物の来歴というのか、様式というような事柄に話しが及べば、話題は尽きずに話しがドンドン拡がる。こういう存在は「街の豊かな文化」を体現する存在たり得ると思う。そういう「街の豊かな文化」を体現する存在まで在るユジノサハリンスクを擁するサハリンについて、「サハリンってモノが在るの?」ではなく、「馴染みが無い…知らない…」という「フラットな地点」から視て頂きたいと思うのである。

14-11-2018 (8)

稚内港北防波堤ドーム…(2021.06.18)

↓何やら「霧に沈んでいる」というような様相の稚内港北防波堤ドームが視える…
18-06-2021 early morning (6)

最近は稚内港北防波堤ドームに灯りが点いていない。点けるとしても「午後8時前から午前3時半頃」というような次元になる「最も日が長い時季」だ。“ライトアップ”をして、観る人が集まるというようなことは避けたいという意図が在るようではある。この場所に「集まる」という程度に人が居る様子は視ないが…更にこの場所の灯りは「半ば街灯」という性質のようにも視える。点けたから、消したからと、何か在るとも思えない感だ。

↓そんなことを思い出したが、この「霧に沈んでいる」というような様相も面白い…
18-06-2021 early morning (8)

↓深い霧で覆われ、信号機や街灯の灯りだけが浮かび上がるような具合だ…
18-06-2021 early morning (11)

↓それ程頻繁に視るでもない光景のように思う。
18-06-2021 early morning (12)

↓「この辺りで奥に稚内港北防波堤ドームが、右手前に12階建てのホテルの建物が視える筈」と写真を撮ったが…見事に霧に沈んで何も視えないような按配だ…
18-06-2021 early morning (13)

↓散々に写真を撮っている画角だが…こうやって視ても見事に「霧に沈んでいる」様子だ…
18-06-2021 early morning (14)

時にはこんな様子も興味深いものだ…

深い霧の早朝…(2021.06.18)

早目に休んで深く眠り、眼が開いて、そこから浅く眠り、何となく午前3時台…「最近の典型?」というようになっている気がしている。

↓玄関の辺りで戸外を視て深い霧に驚き、<X100F>を提げて歩き廻ってみることとした…
18-06-2021 early morning (1)

↓何か「演出用スモークを些か使い過ぎた舞台やダンスホール…」というような按配だった…
18-06-2021 early morning (3)

深い霧の中、街灯の光が点在する様は不思議な感じで面白いが…

↓午前3時半を過ぎて“消灯”すると、何やら「霧に沈められている街」という風情になる…
18-06-2021 early morning (15)

稚内港北防波堤ドーム…:夕刻(2021.06.17)

↓早朝の霧が晴れ、日中から夕刻は好天に恵まれていたような感だったが、光が美しい夕刻だった…
17-06-2021 evening (7)

好天に恵まれた一日であったが、それでも広い市域の一部で「何やら霧が…」という話しにはなっていたらしい…

↓光が美しいと見入っていたのだが、東寄りの天の側、宗谷の丘陵の方向に霧が湧き上がっているのが視えていた…
17-06-2021 evening (9)

何時も思うが、美しい景色が手近な場所に在るというのは、非常に好いことだ…

夕べの一時…(2021.06.17)

↓夕刻、御近所の御店へ…
17-06-2021 evening (3)

↓陣取ったカウンター席の辺りに、沖縄県の土産と見受けられるモノが鎮座していた…
17-06-2021 evening (2)

↓直ぐ脇には「アフリカ辺りのアート?」というようなキリンが佇んでいた…
17-06-2021 evening (1)

読書に興じながら待つこと暫し…

↓美味しい夕食が登場!
17-06-2021 evening (4)

↓気に入ってしまったチキンカツを頂いた…「御馳走様でした!」という感…
17-06-2021 evening (5)

こういう「何でもない夕べの一時」というようなモノが酷く好い…

稚内港北防波堤ドーム…(2021.06.17)

↓明るさに誘われるように、早朝の戸外へ出てみた…
17-06-2021 early morning (3)

↓高めな天で勢い良く、速く雲が流れ、短い時間で随分と様子が変わった…
17-06-2021 early morning (5)

↓やがて霧が拡がり始めた…
17-06-2021 early morning (7)

↓少し陸側にも歩を進めた…
17-06-2021 early morning (12)

↓俄かに拡がった霧で、画の奥に視える12階建ての建物が霞んでいる…
17-06-2021 early morning (15)

↓思い付いて「正方形」の画も撮ってみた…
17-06-2021 early morning (14)

↓引揚げようとした際に再度様子を…日出時刻を過ぎたが、上がる朝陽の様子は視えなかった…
17-06-2021 early morning (17)

こんな早朝であったが、何となく好天な朝になってはいる。或いは「時季らしい」というような様相だ。気温は15℃程度である…

<チキンカツライス>…(2021.06.16)

↓御近所の御店で夕食を愉しんだ…
16-06-2021 evening (2)
↑大きなチキンカツだ!!

メニューには<チキンカツライス>と在るが、上の写真のように、皿に大きなチキンカツが盛られた状態で登場した?

↓要はライスが添えられて定食風に出て来る訳だ…
16-06-2021 evening (1)
↑この御店では、丼や茶碗に米飯を盛って出す場合には、例えば<カツ定食>というように「定食」と称し、皿に盛る場合は「ライス」としているようだ…永い経過の在る御店なので「何時の間にか定着して呼び習わしている」ということなのだと思う。

非常に大きな美味いチキンカツに大満足だ!最近は「米飯を食べ過ぎるのが好くない…」と、食事の際に一寸配意しているのだが、この御店では「御飯は少な目に…」と御願いするのが常となった。それでも「一般的な定食や“〇〇セット”のライス程度」と見受けられる量が頂けるので十二分だ…

最近は「御近所の“それでも開いている”という店」がやや少ないので、こういう「美味く、ボリュームも十分」という御店は酷く有難い…

【連載】現今事情―サハリン (10)

「街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視ると街の名前が思い浮かぶ」というようなモノが在ると思う。

これは例えば、「東京」とでも言えば煉瓦造の東京駅の建物を思い浮かべる、「大阪」とでも言えば大阪城が在る様子通天閣が在る様子を思い浮かべるというようなこと、逆に煉瓦造の東京駅の建物の画が出れば「東京」を思い浮かべる、大阪城が在る様子の画や通天閣が在る様子の画が出ると「大阪」を思い浮かべるという次元のことだ。

こういうことには「個人差」も非常に大きいというようには思う。各々に、テレビドラマや映画のようなモノまで含めて「視ているモノ」は異なり、経験や見聞が異なる以上、「知っているか?知らないか?」という事情や、同じモノに抱くイメージは異なるのだから、上述例のように「街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視ると街の名前が思い浮かぶ」という具合にはならない場合が在ることは否定しない。が、上述例の「東京」や「大阪」は相当に高い割合の人が判ると思う。

不意にこんなことを思い出したのは「ユジノサハリンスクという街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視るとユジノサハリンスクという街の名前が思い浮かぶ」というようなモノは「如何か?」というようなことを思ったからだ。

既にこの連載記事は9回綴っていて、サハリンの様子、その中心的な街であるユジノサハリンスクの様子を色々と論じてはいる。が、「ユジノサハリンスク」というのは、一般的には「知名度が低い外国の地方都市」という以上でも以下でもないとも思う。

上述で例示した「東京」や「大阪」という程度であれば、相当高い割合で「街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視ると街の名前が思い浮かぶ」というようなモノが在ると思う。が、数多在る国内各地の街については必ずしもそうではないかもしれない。「それは何処?」とか「そういう名前の街が在るのか?」ということになる場合も少なくない筈だ。国内でそういうことなのだから、「知名度が低い外国の地方都市」という以上でも以下でもない「ユジノサハリンスク」は、「それは何処?」どころか「何?それ?」かもしれない。

それでも「ユジノサハリンスク」は、「市行政府の見解」としては1882年に現在の市域の一部に村が起こったとされる以来の歴史を有し、現在の中心的な市街の多くは1906年、1907年頃から建設が進められた「豊原」を基礎としていて、市域で20万人余りが居住し、日常的に往来が見受けられる範囲に居住する30万人余りの商圏を形成しながら在るのだ。自身はこのユジノサハリンスクを何度も訪ね、短期、中期と滞在する経験を重ねている。そんな中で「サハリンってモノが在るの?」という問いに出くわし、色々と論じてみたくなったのだった。

自身としては何度も訪ねて滞在しているユジノサハリンスクなので、「ユジノサハリンスクという街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視るとユジノサハリンスクという街の名前が思い浮かぶ」というモノは在る。

↓自身としては、この「巨大…」な感じのレーニン像は「ユジノサハリンスクという街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視るとユジノサハリンスクという街の名前が思い浮かぶ」というモノの一つである。
18-09-2018 afternoon (11)

銅像や大きなモニュメントが記憶に残るという場所は幾分在ると思っているが、こんなに「巨大…」な感じの銅像というのは、自身が視たことが在る範囲で類例が余り思い浮かばない。かなり以前に滞在した経過が在るモスクワで「大きな銅像」を色々と視た記憶が在るのだが、この「ユジノサハリンスクのレーニン」に比肩するモノは思い出し悪い。

↓ユジノサハリンスクの街に在れば、こんなような様子を見掛ける頻度は高いように思う。
18-09-2018 afternoon (3)

この像は9m程度の高さと言われる。色々と利用可能な広い都市緑地の一隅を占めて建っている像で、広めなレーニン通を挟んでユジノサハリンスク市行政府庁舎と向き合っている。そのユジノサハリンスク市行政府庁舎は地上4階(地階も在るが…)で、広場と道路の幅で少し離れているが、「巨大なレーニン像と庁舎が似たような高さ?」に見える。「地上4階」となれば、各階の天井を平均2.5m程度―一般オフィスの入っている階と、少し広い会議室が設えられている階とで天井の高さが少し違うかもしれない…―と思えば10m程度であり、外から庁舎を視る場合には屋根や基礎部分の高さが若干加わる感じになる。レーニン像もそれに近いと推測出来るのだ。

このレーニン像は1970年に登場したそうだ。レーニンは1870年生まれだ。「生誕100年」でレーニンを顕彰するという動きが在り、方々で銅像等が登場した。ロシアを含む旧ソ連の国々、そして社会主義政権の下に在った欧州諸国で銅像が見受けられた。

ユジノサハリンスクを初めて訪ねるという方の一部に「こんなモノが?在る?」と驚かれる方が見受けられる。

「発せられる問い」には「含意」が在るものであるとも思う。ユジノサハリンスクの巨大なレーニン像を視て「こんなモノが?在る?」と言う方に関しては、酷く大きいので単純に驚くということに加えて、「社会主義政権の国々の経過の中、その種の政権の象徴というようなレーニンが何故未だに?」という「含意」が在ることが明らかだ。

1991年12月に“ソ連”は旗を下してしまった。そこへ至るまで、1989年頃から旧ソ連諸国や社会主義政権の下に在った欧州諸国で、体制が変わる動きが在った。社会主義政権が“退場”を余儀なくされた中、政権の象徴という感のレーニン像が撤去という動きが在った。そしてそれが日本国内でも、写真やビデオも交えて随分と報じられた経過が在った。もう30年も前だが。

そういう「レーニン像が撤去」を記憶している方が存外に多く、「“ソ連”は旗を下してしまって、年月を重ねた中で、未だにレーニン像?」ということになるのだ。

1990年代の前半頃、“ソ連”を「止めてしまった…」ということで、レーニンは「別段に用も無い?」という程度に考えられていたかも知れない。が、「レーニン像が撤去」を積極的に行っていたのは、「“ソ連”は止めた!!」という意識が高かった場所に限られるかもしれない。積極的に行っていなかった例も多いのだが、これはかなり単純な理由によると見受けられる。それは「レーニン像を撤去する費用を捻出することがままならなかった」ということに尽きてしまう可能性が高い。

“ソ連”という体制が存在した時代を「不当な時代」というように認識している人達が多数派を占めていると見受けられるような場所では、“ソ連”を「止めてしまった…」ということで「何処かへ消えろ!」とばかりに「レーニン像が撤去」だった。が、多くの地域では「何十年間も別段に邪魔になるでもない場所に在り続けた像で、撤去の大きな費用を使う余裕も無いのだから、放っておけ…」というようなことになったのであろう。

“ソ連”を「止めてしまった…」という後、1990年代の間は殊に「金が無い…」という話しばかりが聞こえて来たロシアだった。エリツィン政権からプーチン政権に交代して政治経済の体制が色々と整備され、「資源カード」を切って国庫も潤うような感じになり、「経済成長」という様相になって行くのは2000年代の半ば以降位と見受けられる。

そうやって“ソ連”を脱して“ロシア”という感じになって行くと、街の様々なモノ―道路、広場、公的施設を始めとする様々な建物、商業施設等々―が整備されて行く。そういう場面、例えば「広場を整備しよう!」というようなことになった時、「レーニン像…“旧時代”のモノだ。要るか?要らないよな…」という話しになる場合も生じるようになる。撤去に要する費用も何とか出来るようになっているのである。

しかしながら、今度は「レーニン像…“旧時代”のモノだ。要るか?要らないよな…」とは「少し違う意味合い」の事柄が出て来るようになった。レーニン像の中、ユジノサハリンスクの「巨大…」なモノのような殊に目立つモノを中心に、幾つかのモノが「文化財指定」となったのである。

「巨大…」な感じのレーニン像の台座辺りに、サハリン州政府のエンブレムが入ったプレートが貼り付けられているのが見える。そのプレートには州政府の文化担当省が、レーニン像を「文化財」に指定した旨が刻まれている。像は「特定の時代の人々による営みを伝える」という性質を帯びていて、同時に「制作当時から伝わる優れた美術品」とも見做される訳だ。

ユジノサハリンスクの「巨大…」なレーニン像は、撤去の動きが在ったというようには聞かない。アレは撤去に相当な費用が要ることは疑い無く、そういうことに資金を投じるのであれば、他の事に資金を投下するということになるのであろう。

レーニン像はユジノサハリンスクに留まらず、サハリンの方々の街にも建てられた。ユジノサハリンスクのように「巨大…」ではないのだが、「この街にも在った…」と何となく驚く程度に方々に在る。

↓アレクサンドロフスク・サハリンスキー…
Alexandrovsk-Sakhalinsky 23-09-2017 vol01 (37)

↓ティモフスコエ…
Tymovskoe 24-09-2017 (6)

↓ドリンスク…
Dolinsk on 13-05-2017 (1)

↓コルサコフ…
at Korsakov on MAY 08, 2017 (4)

↓ネべリスク…
12-10-2017 (1)

レーニン像に注目して大きく写るように撮った画も、その限りでもない画も交っているが、とりあえず自身で撮った写真の中で眼に留めた「サハリン各地のレーニン像」である。写真に撮っていなかった、または保存しているモノの中から直ぐに出て来なかった例も幾分在る。そして自身が知らない例も在るであろう。各地のレーニン像は、色々な姿でレーニンが表現されているのが少し面白い。ティモフスコエのレーニン像は着帽姿だが「あの街は冬に殊に寒いから…」という冗談を聞いたような気もする。何やら「レーニン像巡りスタンプラリー」という程のことでも出来てしまいそうな程、方々に在って驚く。

これらの中、ネべリスクの街に在るレーニン像に関しては、撤去の動きが在ったようだ。現在地から撤去の場合、他所に移設するということにもなったのかもしれないが。

ネべリスクは、樺太時代に本斗と呼ばれていた、サハリンの南西部の日本海側に在る。この街では2007年に「直下型地震」という災害が在って、大きな被害が発生してしまっていた。そこで新しい公共施設等が順次整えられていた。

ネべリスクでの、地震災害からの復興は何次かに分けて順次建設事業を進めていたようだった。街の中心部、地区行政府庁舎、文化センター、嘗ての行政府庁舎を転用した郷土博物館が見受けられる辺りの広場を整備するということになった。広場の整備構想の中、レーニンのような「“政治的”な銅像」は「住民や来訪者が憩う街の広場」という場所に「要るか?」ということになり「要らないよな…」という観方が多数派を占めたという。レーニン像が在った辺りに噴水を設えるというような「整備計画完成予想図」まで作成されたらしい。しかし、「あの像は“文化財”的な意味合いが在るものである。そういうモノは、可能であるならば、本来据えられていた場所に残すべきでは?」という話しが出て来た。結果、ネべリスクの整備工事が終わって登場した新しい広場には、建立当初から変わらない位置にレーニン像が在り続けている。

何やら「レーニン像尽くし」というようになってはしまった。が、サハリンに関して「こんな観方も?」というようなことを思う。レーニン像の多くが登場した1970年辺りは、既に「半世紀前」である。レーニン像が「“旧時代”のモノだ。要るか?要らないよな…」と「話し」は在っても「資金を要し過ぎる故…」と見受けられる理由で何となく残ってしまったという1991年頃も既に「30年前」だ。

サハリンの都市もまた、「何十年かの変化が観られるような、普通の都市」なのである。

稚内公園内の散策路…(2021.06.16)

↓街の後背のようになっている丘陵に整備されている<稚内公園>の一部だ…
16-06-2021 early morning (7)
↑2001年や2002年にはこういうような歩道になっていたような記憶も在るが、何時頃に現状になったのかは明確に覚えていない…しかし、歩き易い感じなので気に入っている…

時にはこういう場所を散策するのが好い…

早朝の眺望…:稚内(2021.06.16)

↓時には「少し高い辺り」から街を眺めてみるのも悪くないような気がする…
16-06-2021 early morning (4)

偶々飛んで来た海鳥が写真に写ったが…彼らは何時も「上空から…」という具合に街や港を視ている筈だ…

雲が多目で、写真の感じ以上に薄暗いような気もする中、10℃程度で些か肌寒く感じる早朝だったが…「時にはこういう感じも…」と辺りのベンチに腰を下ろして少しぼんやりとしてしまっていた…

早朝の北門神社…(2021.06.16)

色々と妙な“制限”も生じている中ながら、一部の御近所の御店が健気に営業しているので、立寄って夕食を愉しんだ後に早目に休んだが、何やら「“深夜”と“早朝”との境界?」という時間帯に眼が開いた。そこから少し横になり、何となく起き出してしまった…

戸外の様子を伺えば、何となく「雲が多目で肌寒い」という様相だった。そう思うと同時に、この「雲が多目で肌寒い」というのは、「この街で最も頻繁に出くわす早朝の様子?」というような気もした…

↓愛用の<X100F>を提げて北門神社の境内に上った…
16-06-2021 early morning (1)

北門神社は「御願いすると御朱印を頂くことも叶う」という場所、換言すると「神職の皆さんが原則的に常時活動している」という神社としては、北海道内で最も北に位置している。そういう意味で、近年は「密かに人気…」という感であるらしい…(因みに、宗谷岬の辺りに神社が在って、恐らくそこが北海道内で最も北の社であると見受けられるが…)

北門神社は江戸時代に現在の稚内の市域に入って仕事をしていた人達が、自身の健康や安全、仕事の成功等を祈念すべく起こした社に源を有すると考えられている神社である。「稚内の鎮守」というような存在感の神社だ…

↓「日出を待つような頃」で、思う以上に明るい中でも未だ街灯が点いているが、こういう光加減は何やら「艶めかしい?」というように何時も思う…
16-06-2021 early morning (2)
↑画の左側の小路は<稚内公園>として整備されている辺りへ続く散策路に通じている。時々ここを歩く…

↓引揚げようと境内へ通じる石段を下ろうとしていた場面だ…
16-06-2021 early morning (8)
↑「肌寒い…」という感じの10℃程度の気温だが、日照時間は酷く長い6月である。緑は確実に色濃くなっている感だ…

時にはこういう場所を歩き廻るようなことも好いように思う…

稚内港北防波堤ドーム…(2021.06.15)

↓やや強めな風が冷たく感じられる早朝だった…
15-06-2021 early morning (3)

↓滑らかな海面を風が渡るという風な様子だった…
15-06-2021 early morning (6)

↓10℃程度の気温に下がった…何か酷く寒々しい感の早朝だった…
15-06-2021 early morning (8)

↓光が解き放たれるというような気配も無い…
15-06-2021 early morning (9)

寒々しい朝に戸外の様子を少し視て、直ぐに引揚げた…

路傍の花…(2021.06.15)

↓少々冷たい風に揺らいでいた花が酷く目立った…
15-06-2021 early morning (11)

↓未だ停める車輛が見受けられない早朝の駐車場の一隅だ…
15-06-2021 early morning (12)

↓暫し、路傍で風に揺らぐ花を見入ってしまっていた…
15-06-2021 early morning (10)

「草の浪」…(2021.06.15)

早朝に辺りの様子を伺ってみようと戸外を歩き廻った…

↓海岸で、やや伸びた草が強めで少々冷たい風に揺れ、何やら「草の浪」というように視えた…
15-06-2021 early morning (1)

何やら「不思議な光景?」という按配だ…

<生ハムサラダ>…(2021.06.14)

何時の頃からか、食事を摂ろうと入った店で「〇〇サラダ」というようなモノを供していることに気付くと、それを試してみる機会が多くなった…

↓何度も頂いてはいるが…何となく「時には好いかもしれない…」と御願いした一皿である…
14-06-2021 evening (4)
↑透けるような薄い生ハムと野菜…ドレッシングで味を…シンプルだがこれが美味い!

↓こういうような「“美味いサラダ”を探す…」というようなことも、最近は「趣味の一つ」に加わったような気がする…
14-06-2021 evening (5)

こういう具合に、「美味いモノ…」を追う夕食時間帯を過ごすというのは「とにかく好い!」という感だ…

<たこめし>…(2021.06.14)

御近所の御店で「これは意外に美味い…」というモノを見出すと酷く嬉しいものである。

↓この<たこめし>!これがその「これは意外に美味い…」というモノに該当する…
14-06-2021 evening (2)

何か「家庭で受継がれる“一寸した御馳走”という風な炊き込み御飯」というような感じの代物である。蛸を煮込んだ出汁を使って炊き込み御飯を炊き上げ、具材の蛸を沢山加えて、それを綺麗に茶碗に盛るという具合だ…

↓こういう具合で“一寸した御馳走”という風に頂く<たこめし>は、なかなかに好い感じだ…
14-06-2021 evening (1)

「秘伝の…」という具合に、密かに愉しみたいような気もするモノだが、余りに美味いので写真に収め、写真の雰囲気が好いので、こうして御紹介してしまった…

気軽に御近所の御店に立寄り、“一寸した御馳走”という気分で夕食を愉しむという「何でもないこと」が「酷く…愛おしい…」と思う場合も在る昨今だ…

<ソーセージのサンドウィッチ>…(2021.06.13)

時間にゆとりが在る休日のランチである…

↓「もう一つ…アレも…」と思って御願いしてしまうモノ…
13-06-2021 (4)

基本的に「サンドウィッチ」に類するモノは好きだ。

↓ソーセージや野菜を少し焼いたパンに挟んで色々と調味料…こういうのも凄く好い!
13-06-2021 (5)

稚内港北防波堤ドーム…(2021.06.13)

↓何となく起き出した早朝、少し戸外を歩き廻った…
13-06-2021 early morning (1)

↓少し風が強めで、滑らかな海面を「風が渡っている…」という風な様子も見受けられた…
13-06-2021 early morning (3)

↓短い時間で雰囲気が次々に変わるのが「早朝の光」という中で見受けられる状況というモノだ…
13-06-2021 early morning (7)

↓日出時刻を過ぎた辺りになったが、上る朝陽の姿は視え悪かった…
13-06-2021 early morning (11)

こういう早朝の様子であったが、「明るい休日の朝」という感でもあった…

食後に珈琲…(2021.06.12)

土曜日のランチを愉しんだ後、セットになっている珈琲を頂いた…

↓こういう具合だ…
12-06-2021 (20)

↓「珈琲」を前面に押し出しているでもない、食事を愉しむという感の店だが、ランチにセットで供される珈琲が意外に美味い…
12-06-2021 (21)

愉しく美味しく料理を頂いた後、珈琲を啜って、読書に興じながら過ごす休日のランチタイム…実に好い感じだ!!

<ボロネーゼ>…(2021.06.12)

「休日」というモノに関しては、悠然と気に入っている店に立寄ってランチを愉しみたいものである…

↓「休日のランチ」としてこういうモノを頂くと酷く嬉しいものだ…
12-06-2021 (16)

↓「似て非なるモノ」ということになるのかもしれないが、所謂“ミートソース”という感じのパスタ…<ボロネーゼ>をゆったりと頂いた休日のランチである…
12-06-2021 (15)

永年馴染んだ御近所の御店でのランチ…パスタにサラダを添え、食後に珈琲を頂くというのが定番だ…休日の土曜日にそれを愉しむ機会が設けられるというのは非常に嬉しい!

<チーズケーキ>…(2021.06.12)

↓こういう具合の様子に出くわすと「平穏の休日の時間を過ごしている…」と強めに実感する…
12-06-2021 (14)

↓特別な事も無い休日の都度、御近所のカフェに立寄って、店主氏の手作りであるというチーズケーキを摘まみながら、珈琲を頂いて寛ぐ…実に好い!!
12-06-2021 (13)

こういう「さり気ない休日の時間…」というようなモノが酷く愛おしい…

<あんぱん>…(2021.06.12)

↓時々漠然と思うのだが、<あんぱん>というのは、日本の「食べ物の歴史」の中で「極めて重要な発明!!」であるような気がする…
12-06-2021 (10)
↑稚内駅のビルに入っているカフェは、所謂「ベーカリーカフェ」で、何種類かのパンを焼き、サンドウィッチ類等も用意して、珈琲や他の飲物を供するという店で、なかなかに気に入っている。その中で、この<あんぱん>は在ると思わず「お願いします!!」である…

↓こういう具合に、珈琲と一緒に<あんぱん>という感じが酷く好い…
12-06-2021 (9)

こんな「さり気なく普段頂くモノ」という按配が「愛おしい…」というように感じる昨今だ…

<ホットサンド>…(2021.06.12)

↓頻繁に頂く場合も在るが、何となく間隔が開く場合も在るという、なかなかに気に入っているモノだ…
12-06-2021 (7)

↓ハムとトマトと、加熱で蕩けるチーズが入っているサンドウィッチだ…
12-06-2021 (8)

稚内駅のビルに入っているカフェで朝に供せられるメニューで、なかなかに気に入っている。思い付いて休日の土曜日の朝に頂くべき足を運んだのだった…