今朝は腕時計のカレンダーの「THU 31」に直ぐ気付き、素早く「THU 1」に合わせた。月が改まった…
↓月が改まったと言って、「15℃程度の曇天」という状態に何らの変化も無かった…
酷く寒いとは思わない…同時に、温かいとも思わない…そういう感じだ。
↓7月最初の早朝、光は解き放たれなかった…
3本の新しいネクタイ…(2021.07.01)
どうやら「2005年頃から」ということのようだが「夏季はノーネクタイ」というような話しになっていて、6月頃から9月頃には、ネクタイは「邪魔者?」というような扱いかもしれない。
それでも、自身では「オン…」というような場面、身体を動かして作業をする、或いは少し長く歩き廻らなければならないという事情でもない限り、シャツを着用する場面ではネクタイを着用する場合が多い。「オフ…」という場面では着用しないが…
この辺り…稚内の場合、然程暑いという程でもない。「シャツを着て、ネクタイ着用」という程度で、上着は敢えて引っ掛けないというような感じの服装は、「(屋内では)年中同じような…」という具合であると思う。寧ろ、「ネクタイは外して構わない」という他方に「上着は着用しろ!」というのが散見し、ハッキリ言えばそれがかなり嫌だ…ネクタイは別段に邪魔でもないと個人的には感じる。が、上着は酷く邪魔で、汗もかき易い。汗をかく原因を増やす必然性は低いと思う…汗を多くかけば、少し疲れてしまうというものだ。
要は、服装というのは、色々な意味で各々が心地好い程度にして居ればそれで差し支えないという程度に思う。だが「手近なことに関して“言掛り”のようなことを言ってガタガタ騒ぐ」という“校則”か何かに「染められている?」という方が多いのかもしれず、夏季に何かの集まりでも在れば「ネクタイは如何するんだ!?」と強めに問うとか、「その辺は支持して頂かなければ困る!!」と憤りを滲ませて声を上げるというような方が「必ず…」現れるようになった。個人的には「何やら哀れかもしれない…」と思う場合も在る事象だ。
不意にそんなことも思い出したが…実は「夏季はノーネクタイ」というような話しになっているらしい中、眼に留めたネクタイが気に入って、入手してしまったのだ。
↓3本も入手してしまった…
↓包を開けた…
↓「霰小紋」(あられこもん)、「大小霰」(だいしょうあられ)という江戸時代辺りから伝わるという柄だ。
↑所謂“ドット”、“水玉模様”にアレンジを加えたモノのようで、少し面白いと思った。
「小紋」というのは、型紙を使って染めて、細かな柄の布地を作るものである。江戸時代、武士の正装は「裃を着用」というものであったが、この裃を作る際に「小紋」の布地を用いた。そしてその柄に関して、大名家等で「定めた小紋」というモノ、「当家では…」と定番にしていた例も在ったようだ。「大小霰」(だいしょうあられ)については、薩摩島津家で用いていたということで知られているそうだ。(一部の時代モノ、幕末期を舞台とするテレビドラマで、島津侯が裃着用の正装で江戸城の広間に現れる場面に、さり気なくこの「大小霰」の裃を使っていた例が在ったそうだ…)
「小紋」を「江戸小紋」と呼ぶ場合も在る。「江戸小紋」という呼び方は、「裃を作る布を染めていたような、護り受け継がれるべき伝統工芸」ということで、1950年代に起こったらしい。
このネクタイは、その「江戸小紋」の柄を意図して「大小霰」(だいしょうあられ)の生地を用意して作られたモノである。
↓同系色で市松紋様を作り上げた生地を使っているネクタイだ…
↑綾織と経朱子の組織で組んだ市松紋様であるとのことだ…
「綾織」?経糸・緯糸3本以上で構成され、糸の交差が斜めの線として現れ畝として見えるようになる織物であるという。
「経朱子」?これは「朱子織」のことであろう。経糸と偉糸の交差する点をなるべく目立たないようにして、織物の表面に経糸または緯糸を長く浮かせた織り方であるという。
こういう「表面の感じが違う生地」を組み合わせて、二色の四角形を交互に配した格子模様ということになる「市松紋様」を作った訳だ。「市松紋様」?これは、初代 佐野川市松(1722-1762)という歌舞伎役者が白色と紺色の正方形を交互に配した柄の袴という衣装で舞台に登場し、人気を博したことに因んで人口に膾炙した表現であるようだ。
↓これは「梨地無地」という…
↑特段に柄が無い「無地」だが、表面の光沢を抑えて複雑な凹凸を見せる「梨地」という仕上げが施された布を使っている。
「梨地」の織物は経糸と緯糸を複雑に交差させて織られるのだそうだ。不規則に現れるシボが特徴であり、質感が例えると梨のような感じということで「梨地」と称するらしい。
ところでネクタイというモノの経過である。「首の回りに布の装飾品を着ける」ということ自体は、例えば「秦の始皇帝の陵墓の、兵士を象った“兵馬俑”に、スカーフらしきモノを身に着けている例が見受けられる」とか、「ローマ帝国の兵士がスカーフのようなモノを身に着けていたと伝わる」という話しが在って、相当に古いようである。が、現在御馴染みなネクタイの原型が現れたのは17世紀頃と見受けられるそうだ。
日本国内に在っては、漂流してしまって米国船に助けられ、米国で暮らして教育も受けたという、かのジョン万次郎(1827-1898)が1851年に帰国した際の長崎奉行所による事情聴取記録に、所持品として「白鹿襟飾三箇」と在るそうだ。この「襟飾」なるモノがネクタイらしい。故に、記録が残る限り「初めてネクタイを着用したと見受けられる日本の人」というのはかのジョン万次郎らしいということだ。
昨年であったが、徳島県の織物によるネクタイを入手していて、現在でも多用している。そうしたことで、何となく「藍の色…」と気になっていた。そんな中で今般、藍色系統のネクタイを色々と出している国内業者の通販ページに出くわしてしまったのだ。時には…こういう“出会い”と「衝動買い…」という例も在る…そしてそれも悪くはない…
何処となく「邪魔者?」というような扱いかもしれないと感じるようなモノを、敢えて3本も求めてしまったというのが、何となく愉快だ…記事の質感や柄が面白いので写真にまで撮ってしまったが…これから大事に愛用したい…
それでも、自身では「オン…」というような場面、身体を動かして作業をする、或いは少し長く歩き廻らなければならないという事情でもない限り、シャツを着用する場面ではネクタイを着用する場合が多い。「オフ…」という場面では着用しないが…
この辺り…稚内の場合、然程暑いという程でもない。「シャツを着て、ネクタイ着用」という程度で、上着は敢えて引っ掛けないというような感じの服装は、「(屋内では)年中同じような…」という具合であると思う。寧ろ、「ネクタイは外して構わない」という他方に「上着は着用しろ!」というのが散見し、ハッキリ言えばそれがかなり嫌だ…ネクタイは別段に邪魔でもないと個人的には感じる。が、上着は酷く邪魔で、汗もかき易い。汗をかく原因を増やす必然性は低いと思う…汗を多くかけば、少し疲れてしまうというものだ。
要は、服装というのは、色々な意味で各々が心地好い程度にして居ればそれで差し支えないという程度に思う。だが「手近なことに関して“言掛り”のようなことを言ってガタガタ騒ぐ」という“校則”か何かに「染められている?」という方が多いのかもしれず、夏季に何かの集まりでも在れば「ネクタイは如何するんだ!?」と強めに問うとか、「その辺は支持して頂かなければ困る!!」と憤りを滲ませて声を上げるというような方が「必ず…」現れるようになった。個人的には「何やら哀れかもしれない…」と思う場合も在る事象だ。
不意にそんなことも思い出したが…実は「夏季はノーネクタイ」というような話しになっているらしい中、眼に留めたネクタイが気に入って、入手してしまったのだ。
↓3本も入手してしまった…
↓包を開けた…
↓「霰小紋」(あられこもん)、「大小霰」(だいしょうあられ)という江戸時代辺りから伝わるという柄だ。
↑所謂“ドット”、“水玉模様”にアレンジを加えたモノのようで、少し面白いと思った。
「小紋」というのは、型紙を使って染めて、細かな柄の布地を作るものである。江戸時代、武士の正装は「裃を着用」というものであったが、この裃を作る際に「小紋」の布地を用いた。そしてその柄に関して、大名家等で「定めた小紋」というモノ、「当家では…」と定番にしていた例も在ったようだ。「大小霰」(だいしょうあられ)については、薩摩島津家で用いていたということで知られているそうだ。(一部の時代モノ、幕末期を舞台とするテレビドラマで、島津侯が裃着用の正装で江戸城の広間に現れる場面に、さり気なくこの「大小霰」の裃を使っていた例が在ったそうだ…)
「小紋」を「江戸小紋」と呼ぶ場合も在る。「江戸小紋」という呼び方は、「裃を作る布を染めていたような、護り受け継がれるべき伝統工芸」ということで、1950年代に起こったらしい。
このネクタイは、その「江戸小紋」の柄を意図して「大小霰」(だいしょうあられ)の生地を用意して作られたモノである。
↓同系色で市松紋様を作り上げた生地を使っているネクタイだ…
↑綾織と経朱子の組織で組んだ市松紋様であるとのことだ…
「綾織」?経糸・緯糸3本以上で構成され、糸の交差が斜めの線として現れ畝として見えるようになる織物であるという。
「経朱子」?これは「朱子織」のことであろう。経糸と偉糸の交差する点をなるべく目立たないようにして、織物の表面に経糸または緯糸を長く浮かせた織り方であるという。
こういう「表面の感じが違う生地」を組み合わせて、二色の四角形を交互に配した格子模様ということになる「市松紋様」を作った訳だ。「市松紋様」?これは、初代 佐野川市松(1722-1762)という歌舞伎役者が白色と紺色の正方形を交互に配した柄の袴という衣装で舞台に登場し、人気を博したことに因んで人口に膾炙した表現であるようだ。
↓これは「梨地無地」という…
↑特段に柄が無い「無地」だが、表面の光沢を抑えて複雑な凹凸を見せる「梨地」という仕上げが施された布を使っている。
「梨地」の織物は経糸と緯糸を複雑に交差させて織られるのだそうだ。不規則に現れるシボが特徴であり、質感が例えると梨のような感じということで「梨地」と称するらしい。
ところでネクタイというモノの経過である。「首の回りに布の装飾品を着ける」ということ自体は、例えば「秦の始皇帝の陵墓の、兵士を象った“兵馬俑”に、スカーフらしきモノを身に着けている例が見受けられる」とか、「ローマ帝国の兵士がスカーフのようなモノを身に着けていたと伝わる」という話しが在って、相当に古いようである。が、現在御馴染みなネクタイの原型が現れたのは17世紀頃と見受けられるそうだ。
日本国内に在っては、漂流してしまって米国船に助けられ、米国で暮らして教育も受けたという、かのジョン万次郎(1827-1898)が1851年に帰国した際の長崎奉行所による事情聴取記録に、所持品として「白鹿襟飾三箇」と在るそうだ。この「襟飾」なるモノがネクタイらしい。故に、記録が残る限り「初めてネクタイを着用したと見受けられる日本の人」というのはかのジョン万次郎らしいということだ。
昨年であったが、徳島県の織物によるネクタイを入手していて、現在でも多用している。そうしたことで、何となく「藍の色…」と気になっていた。そんな中で今般、藍色系統のネクタイを色々と出している国内業者の通販ページに出くわしてしまったのだ。時には…こういう“出会い”と「衝動買い…」という例も在る…そしてそれも悪くはない…
何処となく「邪魔者?」というような扱いかもしれないと感じるようなモノを、敢えて3本も求めてしまったというのが、何となく愉快だ…記事の質感や柄が面白いので写真にまで撮ってしまったが…これから大事に愛用したい…