樺太の列車時刻表…?!(2021.09.30)

「昭和10年」というのは1935年である。「86年前」というようなことになる。

↓その86年前の印刷物を“復刻”として再現したモノを入手した。
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↑列車時刻表だ!現在も目にする時刻表と同じような様式である。他に表現する術が余り思い付かないということに他ならないのかもしれないが、何となく馴染んでいる様式が随分古くから一般的であったことに些か感心する。

↓これは86年前の“樺太”で運行されていた列車の時刻表だ。鉄道の運行主体の会社または公社の呼称が「昭和10年」という時期に鑑みて「少々いい加減?」に視える気もする。が、これは現在のコルサコフ、大泊の商店である<亜庭屋>が、駅構内で営んだ店等で配布するために刷ったという代物であるらしい。
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↑折り畳んでポケットにでも入れられるようなデザインを意図したとだと見受けられる。現在のコルサコフである大泊から、現在のユジノサハリンスクである豊原という路線の時刻表の辺りを殊に興味深く眺めた。

「東海岸線 下り列車」という枠のモノに注目した。

「大泊港」というのは1920年代までに整備された、稚内港との間を結ぶ船が発着した桟橋に設けられた停車場だ。その1920年代までに整備された桟橋は現在のコルサコフ港でも使用されている。そして貨物輸送用に鉄路も残っている。が、旅客用の駅は姿を消して久しい。

「榮町」と少し太い文字が「大泊港」の次に在る。“栄町”というのは大泊の繁華街であった辺りだ。

↓往時はこういう建物―銀行の支店であったという…―も在って賑わっていたのが「大泊の栄町」だ。
22-09-2018 Korsakov (37)
(2018.09.22 撮影)

時刻表上で「榮町」が少し太い文字なのは、繁華街なので旅客乗降が多目であったのであろう。

そして「大泊」だが、これは街で最も古くから拓けたとされる「クシュンコタン」と呼ばれていたような地区に近い辺りの駅のことであろう。

「樺太時代」とは「1905年から1945年」ということになる。それ以前、「1875年から1905年」は日露間の条約でサハリンはロシア領であった。が、様々な事由でサハリンを往来する日本人も多く見受けられたことから、条約に基づいて「日本領事館」がサハリンに開設された。その場所が「クシュンコタン」と呼ばれていたような地区だ。

因みにこの「日本領事館」に程近かったという辺りに、1890年にサハリンを訪ねた作家のチェーホフが滞在し、チェーホフは領事館の日本人達とも友好的に交流していたそうだ。チェーホフと日本人領事館員達は、連れ立って景色が好い辺りへ足を運び、持参した弁当を一緒に摘まむようなピクニックをしたらしい。

そして列車は順次進んで内陸側に入って「豊原」に至る。「樺太時代」の劈頭、とりあえず大泊が樺太進出、統治の足掛かりになったが、1906年、1907年頃から豊原の都市建設が始まって、樺太の中心的な街は豊原ということになって樺太庁のような行政機関も豊原に設置された。

86年前の時刻表を視れば、「大泊港」と「豊原」との間を1時間余りで結ぶ列車と1時間40分余りで結ぶ列車とが混在している。「大泊港」と「豊原」との間は50kmに満たない筈で、相当な長距離を運行する場合の「“普通”と“急行”」でもないのだから、「40分もの差」は不可解だと思った。

よく見れば、始発の「大泊港」の上に“列車番号”が在って、その上に「客」とか「混」という文字が入っている。これは?「客車のみの普通な旅客列車」と、「貨車と客車を併せて連結する混合列車」との区別だ。

↓九州では動態保存の8620形蒸気機関車による列車運行が見受けられるが、樺太ではこの8620形とほぼ同じ型の蒸気機関車が走っていたようだ。
'SL HITOYOSHI' at Isshochi Station on OCT 23, 2015 (3)
(2015.10.23 撮影)

こういう蒸気機関車で、乗客を乗せる客車のみを牽引する場合と、様々なモノを積んだ思い貨車と客車を連結して長めになる可能性が在る列車を牽引する場合とでは、自ずと一定の区間を結んで走る場合の速さも変わるのであろう。それに気付いてこの「40分もの差」に得心した。他方、流石に「貨車と客車を併せて連結する混合列車」というモノに乗車した記憶は無い。そして、樺太ではそういう列車が毎日のように動いていたということに想いを巡らせた。

樺太時代の「榮町」に近い辺りの乗降場から「大泊」であった辺りの駅を経て「豊原」に相当する辺りで、列車に乗車してみた経過も在った。2017年のことだったが、往年の「客」という列車と比べ、所要時間は然程変わらないようだ。(今、往年の時刻表を見て気付いたことだが…)

↓当時のことを綴った記事が在る。
ユジノサハリンスク >> コルサコフ:列車に初めて乗車…(2017.08.12)

大泊の「榮町」から「豊原」で運行された往年の列車に対して、2017年に乗車機会が在ったユジノサハリンスクとコルサコフとの列車だが、後者の方が本数が少ないと思う…が、昭和16(1941)年に豊原の人口が3万7千人余りであったのに対し、近年のユジノサハリンスクの人口が20万人程度と規模が大きい中、コルサコフ(往年の大泊)のような比較的近い街との間はバスがかなり盛んに運行され、多くの人達はそういう交通手段を利用する。他、自家用車の利用も盛んだ。

↓時刻表には裏面も在って、南樺太の鉄道で運行されていた列車の情報が判るようになっている。
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↓実はこういうモノを入手してしまった…
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↓かなり立派な、往年の「満州」や「朝鮮」の時刻表を復刻したモノなのだが、附録のように「台湾」や「樺太」というモノも入っていると知った。個人的には「樺太」に一寸惹かれて入手に至ったのだ。
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ここで話題にした「86年前の樺太の列車時刻表」ということに関連して言えば、当時は「本州方面から北海道(函館)へ渡り、北海道内を稚内へ向けて北上し、船で樺太(大泊)へ渡る」という「列車と船を使う輸送」ということが考慮され、或る程度便利に乗継が出来るようにと考えられていたのだという。手にした時刻表は、大泊に在る駅構内等に店を構えた小売業者が色々な旅客の利用のために半ば広告という意図で刷ったモノだが、記載されている運行されていた列車はその「本州方面から北海道(函館)へ渡り、北海道内を稚内へ向けて北上し、船で樺太(大泊)へ渡る」という「列車と船を使う輸送」の文脈で運行時刻等が考えられていたのだ。

「86年前の樺太の列車時刻表」の昭和10年頃と言えば…東京の上野駅を午後7時に出る列車に乗ると、翌朝の午前7時台に青森駅に到ったのだという。そこから午前8時台に出る連絡船で出航すると昼頃、午後1時前に函館に着いたという。そしてその翌朝の御膳7時前に稚内で、午前9時前に出る船で宗谷海峡を進むと午後5時前に大泊港だったという。概ね45時間で上野駅から大泊港だ。「86年前の樺太の列車時刻表」を見ると、午後5時前に船で大泊港に着いた人達が、豊原等へ向かうことが叶う列車も運行されていることが判る。

少し前にやや旧い列車時刻表を見る機会が在ったが、この種のモノも時には非常に興味深い…

満洲朝鮮復刻時刻表 附台湾・樺太復刻時刻表 [ 新潮社 ]


ジンギスカン…串焼きのホルモン、鳥皮、サガリ、ハツ、砂肝、豚…枝豆…(2021.10.01)

↓ジンギスカン…
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↓ホルモン…
01-10-2021 evening (5)

↓鳥皮、サガリ、ハツ…
01-10-2021 evening (7)

↓砂肝…
01-10-2021 evening (9)

↓豚…
01-10-2021 evening (11)

↓枝豆…
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こういう「何時もの…」という感じ…少し長めな期間に亘って愉しめなかった。

↓“事情”で休業していた御近所の御店が再開した!!
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「何時もの…」という感じの有難さ、愛おしさを噛締めた…

↓この灯に、何度でも会いに行こう…
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