何時の間にか寝入ってしまう可能性が高いような気がする状態である。京都の宿の居室で寛いではいるのだが…
前日は…訪ねた先で思った以上に時間を要しながら歩き廻り、移動中も色々と興趣が沸いて辺りを視て愉しみ、結果的に精力的に動いてエネルギーを使った一日の後は、「電池が切れた?」とでもいうような具合で、よく判らない間に居眠りに陥っていた。「あれ?寝てた…」と起き出して、暫く起きていて再度眠り、そして朝を迎えた。深夜に起きていた間には、夥しい数になった写真の整理に着手した。
何かそういうことばかりしている。それもまた好いが…
風がやや強めかもしれない状態、気温がやや下がりそうな状態と聞き、やや温かいアンダーウェアを持ち出し、それを着て出ることとした。京都に関して、「廻り込んで辿り着き、辿り着くまでにエネルギーを使った関係で、直ぐに休んだ…」という感を12月18日と12月25日に繰り返した。そういうことなので「少し京都に落ち着いて過ごそう」というような気になっていて、京都の地下鉄とバスに1日中自在に乗降可能な「1日券」を昨夕の間に用意している。
「コンビニしか開いていない…」という時間帯からバタバタと動き出しても、「早朝の暗さ」が長目なことと相俟って草臥れるので、少し間合いを見計らって出てみることとした。その間は居室で寛ぐ。が7時台から動いた。
四条烏丸のバス停まで、祇園の八坂神社を望むような辺りからゆっくりと歩いた。静かな日曜日の早朝に小雪が交る状態だった。そして少し長目に待つ羽目には陥ったが、高雄山までバスで移動した。途中、山に上がるような感じの箇所で雪が少々強まった。と言って、道路面に雪が積もるという程でもない。木々の枝や建物の屋根等に雪が付着して辺りの様子が変わった。高雄山まで、バスの乗車時間は45分を切ったと思う。道路が空いていたからであろう。
そんな高雄山で神護寺を訪ねた。道路が築かれていてバスで上がる場所と、神護寺が在る場所との間には谷が在り、「下って上って」で往復歩く。片道20分前後だが、湿って滑り易い感じで、慎重な足取りを強いられた。雪に染まった様子も目立つ中、最澄や空海という平安時代初期の高僧達にも所縁が在る、少し独特な空気感が興味深かった。
神護寺から市街側へのバスだが、仁和寺を通ったので下車した。仁和寺では、一度立寄った時に「流してしまった?」という感じの場所をゆっくりと観た。
仁和寺からはバスで鹿苑寺金閣、通称「金閣寺」を訪ねた。金閣寺辺りでは風が冷たく、小雪が交っていた。独特な空気感を醸し出していた。そして意外に来訪者も多い感じだった。
その金閣に近い辺りで昼食を愉しんだ後は、バスで建勲神社を訪ねた。建勲神社は、かの織田信長を祀った神社である。なかなかに人気が高いようで、存外に来訪者は多かった。
そこからは、<全国高校駅伝>の交通規制でバスが何やら長目に停車するというような場面も在ったが、二条城に到った。既に午後3時近くになっていたので、見学に時間を要しそうな二条城は見学せず、地下鉄で烏丸御池に移動し、六角堂を訪ねた。以降は、珈琲を頂いて休むというようなことをしながら、何となく買物もして、宿に歩いて引揚げた。宿に着いた頃は午後6時に近かった。
何やら「京都に住んで何かをやっていたとして、或る時に“オフ”の時間が出来れば、多分こういうような過ごし方?」というような挙に及んだような気がしている。多数の写真を撮った。それの整理に着手しているが、追ってこの「京都の1人の休日」の様は詳しく綴ってみたい感だ。
明日は?「帰国」ということになっている…
びわ湖浜大津駅の周辺で…(2021.12.25)
4輛で運行の列車が併用軌道の区間、普通の自動車等も行き交う道路上に敷設された軌道を路面電車のように行き交っているような事例は、京阪京津線のびわ湖浜大津駅の辺り以外に類例を知らない。今般は興味深く乗車したのだが、全く初めてでもない。以前にも乗車していて、前方に陣取って視ていると面白いことは承知していた。
気になっていたのは「4輛の列車が路上(=併用軌道)を往来していると如何いうように見えるか?」ということである。
↓上栄町駅側へ進む列車は、こういう具合にびわ湖浜大津駅から「路上」に出て来る。
↓「4輛の列車」は珍しくもないモノだが、こういうように路上に現れると不思議だ…
今般、思い付いて敢えて時間を設けてびわ湖浜大津駅周辺で何本かの列車を眺めた…
↓駅が「2階」になっていて、道路と軌道とが視える箇所が在るので眺めてみた。
↓カーブの軌道を器用に進んでいるように見えた。
↓車輛はこの区間のことを顧慮して、他の形式よりも長さが短いようにも見える。
↓先頭側が直線区間に差し掛かったようだが、後尾側は未だカーブだ。
↓行ってしまった…
↓駅はこういう具合になっている。よく在る「2階」という感じだ。
↓券売機の辺りも眺めた…
それにしてもこの京津線は見て面白い。そして「京都から隣の大津へ一寸…」ということなのだが、何やら「凄く遠くの変わった場所へ行ってみる」という場合に似たような興趣が沸く。
気になっていたのは「4輛の列車が路上(=併用軌道)を往来していると如何いうように見えるか?」ということである。
↓上栄町駅側へ進む列車は、こういう具合にびわ湖浜大津駅から「路上」に出て来る。
↓「4輛の列車」は珍しくもないモノだが、こういうように路上に現れると不思議だ…
今般、思い付いて敢えて時間を設けてびわ湖浜大津駅周辺で何本かの列車を眺めた…
↓駅が「2階」になっていて、道路と軌道とが視える箇所が在るので眺めてみた。
↓カーブの軌道を器用に進んでいるように見えた。
↓車輛はこの区間のことを顧慮して、他の形式よりも長さが短いようにも見える。
↓先頭側が直線区間に差し掛かったようだが、後尾側は未だカーブだ。
↓行ってしまった…
↓駅はこういう具合になっている。よく在る「2階」という感じだ。
↓券売機の辺りも眺めた…
それにしてもこの京津線は見て面白い。そして「京都から隣の大津へ一寸…」ということなのだが、何やら「凄く遠くの変わった場所へ行ってみる」という場合に似たような興趣が沸く。
上栄町駅からびわ湖浜大津駅へ…(2021.12.25)
京都の地下鉄東西線に京阪の京津線の列車が乗り入れている。地下鉄東西線の列車は6輛で運行されているが、京津線の列車は4車輛だ。地下鉄東西線の東側で枝分かれしていて、京阪の4輛の列車はびわ湖浜大津駅へ向かう。
地下を通っていた列車が地上に出て、少し判り易い勾配を上り下りする場面や大きなカーブになっている箇所を抜けてびわ湖浜大津駅が近付く。
↓びわ湖浜大津駅へ向かう列車に乗り、手前の上栄町駅で空いていたので前方が視える辺りに陣取ってみた。
↑踏切が視えて、街中に入っていることが判る。
↓軌道がカーブを描いているのが判る。そしてカーブの箇所は舗装道路の上、併用軌道になっている。
↓併用軌道に乗り上げた。
↑列車はトンネルの中で「地下鉄の列車」として動いていて、地上に出た部分は「地方の街の私鉄路線の列車」となり、やがて「路面電車?!」という様相を呈する。
↓自動車も走る路上を4輛の列車が進んでいる。
↓逆方向、上栄町駅側へ進む列車とも擦違う。
↓路上で4輛の列車2本が擦違っている。
↓びわ湖浜大津駅へ向かう辺りのカーブが判るようになって来た。
↓カーブへ進入する。
↓多少減速する感じになる。
↓びわ湖浜大津駅の入口だ。琵琶湖に沿って伸びている石山坂本線の、併用軌道になっている部分も視えている。
↓駅へゆっくりと進入した。
↓到着である…
この後、列車は待避線に入って待機し、また折り返しで運行される。
↓駅名の看板だ。
↑下部の隣駅が記されている。右側は京都の地下鉄東西線に乗り入れる京津線の上栄町駅と、琵琶湖沿岸に延びる石山坂本線の三井寺駅とが併記されている。
何度か利用した経過は在るが、何時も面白いと思う。
地下を通っていた列車が地上に出て、少し判り易い勾配を上り下りする場面や大きなカーブになっている箇所を抜けてびわ湖浜大津駅が近付く。
↓びわ湖浜大津駅へ向かう列車に乗り、手前の上栄町駅で空いていたので前方が視える辺りに陣取ってみた。
↑踏切が視えて、街中に入っていることが判る。
↓軌道がカーブを描いているのが判る。そしてカーブの箇所は舗装道路の上、併用軌道になっている。
↓併用軌道に乗り上げた。
↑列車はトンネルの中で「地下鉄の列車」として動いていて、地上に出た部分は「地方の街の私鉄路線の列車」となり、やがて「路面電車?!」という様相を呈する。
↓自動車も走る路上を4輛の列車が進んでいる。
↓逆方向、上栄町駅側へ進む列車とも擦違う。
↓路上で4輛の列車2本が擦違っている。
↓びわ湖浜大津駅へ向かう辺りのカーブが判るようになって来た。
↓カーブへ進入する。
↓多少減速する感じになる。
↓びわ湖浜大津駅の入口だ。琵琶湖に沿って伸びている石山坂本線の、併用軌道になっている部分も視えている。
↓駅へゆっくりと進入した。
↓到着である…
この後、列車は待避線に入って待機し、また折り返しで運行される。
↓駅名の看板だ。
↑下部の隣駅が記されている。右側は京都の地下鉄東西線に乗り入れる京津線の上栄町駅と、琵琶湖沿岸に延びる石山坂本線の三井寺駅とが併記されている。
何度か利用した経過は在るが、何時も面白いと思う。
想像以上にエネルギーを使った感…=運行日誌(2021.12.25)
京都の祇園に在る宿の居室で寛いで居る。過去に利用した経過も在る場所だ。今般、関西空港からの「帰国」に備えて宿を求めることにしたのだが、幾つか思い浮かんだ中、この場所に空室が在って利用可能であると判り、御願いすることとした訳だ。
<スパワールド>でサウナも利用して身体が解れたことに加え、連日のように早朝から動き回って随分と歩いたからであろう。何やら早めに抗えない眠気が射して眠り、一旦は起き出したが再度の眠気でまた眠った。少し長目に深く眠って、頭がスッキリしたような感じで迎えた早朝である。今般のような自身の状況下では「往々にして…」というものかもしれないのだが、御願いしてある宿に入るまでの間に関しては、余り深くも考えていない。そんな状況だ…
「遠方を目指して発つ」という感でもないので、宿で提供の朝食―所謂バイキングだが、サラダを多めに、若干のおかずという形にした。同じチェーンの宿であった、前日の広島と同様…―を頂いて、些か寛ぎながら支度をして発った。
発ったのは午前7時半頃だったが、御願いしてある宿に入ったのは午後5時半過ぎで、既に戸外は薄暗く「土曜日夕刻の賑わい」も見受けられる感だった。「大阪駅・京都駅間はJRの“新快速”で30分余り」という中、大阪・京都間で「1日仕事」になってしまっている。釈明というのでもない―そうする必然性も無いと思うのだが…―が、この顛末を少々綴っておきたい。そのための「運行日誌」である。
結論から申し上げると、思い付いて発った後に訪ねてみた場所で何となく思う以上に時間を要し、気付くと酷く時間が経ってしまっていて、「そろそろ宿へ…」という時点で「夕刻に差し掛かってしまって…」という状態であったに過ぎない。「たかが休暇…されど休暇…」と何処かで聞いたようなフレーズも思い浮かぶのだが、「思い立って」を重ねるようなことをしていると、何やら夢中になって時間も早く経過してしまうという訳だ。それ以上でも以下でもない。
動物園前駅で地下鉄堺筋線の列車に乗った。阪急の路線に直結している列車で淡路駅に出て阪急京都線の列車に乗り継ぐ。茨木市駅まで準急に、以降は快速急行に乗車で京都河原町駅に至った。午前9時前後になっていた。御願いしてある宿に入るまでの間に動き回るには好適かもしれないと思える時間帯だった。京都河原町駅構内のロッカーに嵩張るモノを預けて、少し動き回ってみることにしたのだ。
阪急の京都河原町駅から京阪の祇園四条駅まで歩いた。三条駅へ列車で北上し、地下鉄の三条京阪駅からびわ湖浜大津駅を目指した。そして概ね湖に沿う軌道を行き交う路線の列車を利用し、三井寺や石山寺を訪ね、あの独特なびわ湖浜大津駅を行き交う列車を少し眺めた。三井寺や石山寺は存外に見学(=参拝)に時間を要した…そして凄く興味を持っていたびわ湖浜大津駅を行き交う列車についても、時間を割いてゆっくりと眺めた。そんなことをしていて、殆ど午後2時半になってしまっていた。
びわ湖浜大津駅からは三条京阪駅に移動だ。そして京阪の三条駅から東福寺駅に南下した。東福寺駅近くの店に入って昼食を摂ったが、その時点で午後3時台の後半になってしまっていた。
東福寺駅からJRの列車に一駅間乗れば京都駅だ。京都駅では翌日に京都を動き回ってみる場面で使いそうな「1日乗車券」を入手し。京都タワーに立寄って、そこから宿を目指した。宿を目指す場面では、地下鉄で京都駅・四条駅間を移動し、阪急の烏丸駅へ向かって、阪急の列車で京都河原町駅だ。そして京都河原町駅でロッカーに預けた荷物を引っ張り出して宿に入った訳である。
こんなことをしていれば。「大阪駅・京都駅間はJRの“新快速”で30分余り」という中、大阪・京都間で「1日仕事」になってしまう訳だ…
こういう具合の顛末をとりあえず綴っていて…居眠りに陥ってしまった…そこから眼を覚ました。未だ日付は改まっていない…様々なことは追って綴るが、色々とやっていてエネルギーを使った…
<スパワールド>でサウナも利用して身体が解れたことに加え、連日のように早朝から動き回って随分と歩いたからであろう。何やら早めに抗えない眠気が射して眠り、一旦は起き出したが再度の眠気でまた眠った。少し長目に深く眠って、頭がスッキリしたような感じで迎えた早朝である。今般のような自身の状況下では「往々にして…」というものかもしれないのだが、御願いしてある宿に入るまでの間に関しては、余り深くも考えていない。そんな状況だ…
「遠方を目指して発つ」という感でもないので、宿で提供の朝食―所謂バイキングだが、サラダを多めに、若干のおかずという形にした。同じチェーンの宿であった、前日の広島と同様…―を頂いて、些か寛ぎながら支度をして発った。
発ったのは午前7時半頃だったが、御願いしてある宿に入ったのは午後5時半過ぎで、既に戸外は薄暗く「土曜日夕刻の賑わい」も見受けられる感だった。「大阪駅・京都駅間はJRの“新快速”で30分余り」という中、大阪・京都間で「1日仕事」になってしまっている。釈明というのでもない―そうする必然性も無いと思うのだが…―が、この顛末を少々綴っておきたい。そのための「運行日誌」である。
結論から申し上げると、思い付いて発った後に訪ねてみた場所で何となく思う以上に時間を要し、気付くと酷く時間が経ってしまっていて、「そろそろ宿へ…」という時点で「夕刻に差し掛かってしまって…」という状態であったに過ぎない。「たかが休暇…されど休暇…」と何処かで聞いたようなフレーズも思い浮かぶのだが、「思い立って」を重ねるようなことをしていると、何やら夢中になって時間も早く経過してしまうという訳だ。それ以上でも以下でもない。
動物園前駅で地下鉄堺筋線の列車に乗った。阪急の路線に直結している列車で淡路駅に出て阪急京都線の列車に乗り継ぐ。茨木市駅まで準急に、以降は快速急行に乗車で京都河原町駅に至った。午前9時前後になっていた。御願いしてある宿に入るまでの間に動き回るには好適かもしれないと思える時間帯だった。京都河原町駅構内のロッカーに嵩張るモノを預けて、少し動き回ってみることにしたのだ。
阪急の京都河原町駅から京阪の祇園四条駅まで歩いた。三条駅へ列車で北上し、地下鉄の三条京阪駅からびわ湖浜大津駅を目指した。そして概ね湖に沿う軌道を行き交う路線の列車を利用し、三井寺や石山寺を訪ね、あの独特なびわ湖浜大津駅を行き交う列車を少し眺めた。三井寺や石山寺は存外に見学(=参拝)に時間を要した…そして凄く興味を持っていたびわ湖浜大津駅を行き交う列車についても、時間を割いてゆっくりと眺めた。そんなことをしていて、殆ど午後2時半になってしまっていた。
びわ湖浜大津駅からは三条京阪駅に移動だ。そして京阪の三条駅から東福寺駅に南下した。東福寺駅近くの店に入って昼食を摂ったが、その時点で午後3時台の後半になってしまっていた。
東福寺駅からJRの列車に一駅間乗れば京都駅だ。京都駅では翌日に京都を動き回ってみる場面で使いそうな「1日乗車券」を入手し。京都タワーに立寄って、そこから宿を目指した。宿を目指す場面では、地下鉄で京都駅・四条駅間を移動し、阪急の烏丸駅へ向かって、阪急の列車で京都河原町駅だ。そして京都河原町駅でロッカーに預けた荷物を引っ張り出して宿に入った訳である。
こんなことをしていれば。「大阪駅・京都駅間はJRの“新快速”で30分余り」という中、大阪・京都間で「1日仕事」になってしまう訳だ…
こういう具合の顛末をとりあえず綴っていて…居眠りに陥ってしまった…そこから眼を覚ました。未だ日付は改まっていない…様々なことは追って綴るが、色々とやっていてエネルギーを使った…
西大寺駅…(2021.12.21)
↓全く初めて立寄っている駅なのだが「何処か懐かしい」という気分が沸き起こる駅だと思った。
↓或いは?国鉄時代に各地で建てられた、駅の標準的な機能を詰め込んだような建物であるかもしれない。
↓公衆電話ボックスも健在だ…
↓判り易い「駅の案内」も掲出されていたのは嬉しい。
↑が、別段に面倒な感じでもないシンプルな駅ではあるが…
↓駅から近い辺りの案内図も掲出されていた…
西大寺駅は赤穂線の駅である。兵庫県の西寄りに在る相生駅と東岡山駅との間が赤穂線である。西大寺駅は岡山駅や東岡山駅の少し東、住所は「岡山市東区」だそうだ。「西大寺」という寺が在り、それに因んで辺りの地域名自体も「西大寺」である。案内図を視れば、様々な官署も小中学校も何でも「西大寺〇〇」である。寺の西大寺を探そうとすると、その何でも「西大寺〇〇」という状況に埋没してしまうかのようで、何やら戸惑った…
↓ICカード乗車券を利用可能な、今では少し見慣れてしまっている改札口の感じだ…
↓近隣の私立学校の広告看板が在って、保線関係のモノと見受けられる車輛が停まっていた。
↓岡山駅へ向かう列車が現れた…
↑「4輛」が基本の113系電車を「2輛」で運用可能なように改造した車輛が使われているのだが、何か少し不思議な外見であるように思う。
↓(時間を遡って)こちらが岡山駅から列車が着いた時の様子で、2輛で運行されている列車の逆側の外見だ…
こういうような雰囲気…何にも替え難いと思っている…更に、保線関係の車輛に「晴れの国」と在ったが、この日の輝くような冬の蒼天も忘れ難いものであった…
↓或いは?国鉄時代に各地で建てられた、駅の標準的な機能を詰め込んだような建物であるかもしれない。
↓公衆電話ボックスも健在だ…
↓判り易い「駅の案内」も掲出されていたのは嬉しい。
↑が、別段に面倒な感じでもないシンプルな駅ではあるが…
↓駅から近い辺りの案内図も掲出されていた…
西大寺駅は赤穂線の駅である。兵庫県の西寄りに在る相生駅と東岡山駅との間が赤穂線である。西大寺駅は岡山駅や東岡山駅の少し東、住所は「岡山市東区」だそうだ。「西大寺」という寺が在り、それに因んで辺りの地域名自体も「西大寺」である。案内図を視れば、様々な官署も小中学校も何でも「西大寺〇〇」である。寺の西大寺を探そうとすると、その何でも「西大寺〇〇」という状況に埋没してしまうかのようで、何やら戸惑った…
↓ICカード乗車券を利用可能な、今では少し見慣れてしまっている改札口の感じだ…
↓近隣の私立学校の広告看板が在って、保線関係のモノと見受けられる車輛が停まっていた。
↓岡山駅へ向かう列車が現れた…
↑「4輛」が基本の113系電車を「2輛」で運用可能なように改造した車輛が使われているのだが、何か少し不思議な外見であるように思う。
↓(時間を遡って)こちらが岡山駅から列車が着いた時の様子で、2輛で運行されている列車の逆側の外見だ…
こういうような雰囲気…何にも替え難いと思っている…更に、保線関係の車輛に「晴れの国」と在ったが、この日の輝くような冬の蒼天も忘れ難いものであった…
「柿の葉ずし」を摘まんだ…:明日香村にて(2021.12.20)
「明日香村へドライブ」という相談になった中、御誘い頂いた方は「昼食は?」と気に懸けて下さった。自身としては「まぁ…何でも構わないでしょう…」という程度に思わないでもなかったのだが…
↓こういうモノを用意して下さった…
↓好天に誘われて、明日香村を眺望出来る丘の上でランチタイムということにしたのだ…
↓押寿司風のモノが柿の葉に包まれているのが「柿の葉ずし」だ。
↓鯖…
↓鮭…
↓椎茸…
↓サンマ…
↓海老…
↓鶏そぼろ…
↓鯛…
包んである柿の葉を使って手を汚さずに摘まむことが出来る「柿の葉ずし」だが、7個入っている各々に異なる具材が使われている。<ヤマト>という会社の製品だそうだ。こういうのは初めてだった!鯖と鮭とは「紅白」の色にもなるので、これが奈良ではよく視掛けるモノになる。恐らく、古くは鯖を専ら使っていて、少し時代が下って鮭が人気を高めたのであろうとは思うが…この<ヤマト>という会社の製品は、非常に好い意味で少し変わっている。
御蔭様で、「絶妙な変化球」というような「奈良県の佳いモノ」に出くわすことが叶った…そして時季としては寧ろ温かい、言わば冬の好天の下で、明日香村の様子を望みながら頂いた「柿の葉ずし」は忘れ難い…
↓こういうモノを用意して下さった…
↓好天に誘われて、明日香村を眺望出来る丘の上でランチタイムということにしたのだ…
↓押寿司風のモノが柿の葉に包まれているのが「柿の葉ずし」だ。
↓鯖…
↓鮭…
↓椎茸…
↓サンマ…
↓海老…
↓鶏そぼろ…
↓鯛…
包んである柿の葉を使って手を汚さずに摘まむことが出来る「柿の葉ずし」だが、7個入っている各々に異なる具材が使われている。<ヤマト>という会社の製品だそうだ。こういうのは初めてだった!鯖と鮭とは「紅白」の色にもなるので、これが奈良ではよく視掛けるモノになる。恐らく、古くは鯖を専ら使っていて、少し時代が下って鮭が人気を高めたのであろうとは思うが…この<ヤマト>という会社の製品は、非常に好い意味で少し変わっている。
御蔭様で、「絶妙な変化球」というような「奈良県の佳いモノ」に出くわすことが叶った…そして時季としては寧ろ温かい、言わば冬の好天の下で、明日香村の様子を望みながら頂いた「柿の葉ずし」は忘れ難い…
足元…:奈良(2021.12.20)
四天王寺へ…:天王寺:大阪(2021.12.24)
大阪の街の南側で幾つか見受けられる繁華な地区である天王寺については、四天王寺が近くに在って「天王寺さん」と近隣住民が親しんでいて、それが人口に膾炙して「天王寺」という辺りの地名が生れて定着したというように聞いている。
大阪に着いて、不意にそんなことを思い出したのも、四天王寺を発願したというかの聖徳太子が産れたという橘寺が佇む様を明日香村で視たからかもしれない。
↓天王寺駅の傍の路を進んで、一箇所曲がるとこういう鳥居が在る。四天王寺の境内へ続く場所だ…
↓境内に足を踏み入れるとこういう具合に堂塔が視えるのだが…
↓廻り込んでこういう角度で眺めるべきなのかもしれない…
↓というのも、四天王寺は門、塔、金堂が直線に並ぶ中心的な伽藍が築かれているからである。「こういう角度で眺めるべきなのかも」としたのは画の上側の門からの眺めである。「四天王寺の境内へ続く」としたのは画の右側ということになる。
↓こうやって眺めると、四天王寺は巨大な超高層ビルである<あべのハルカス>を見上げるような場所に立地しているとは思い悪い…
↓今般、拝観料を払って中を拝観して参拝した…
↓伽藍の建物は「再建」だが、何れも非常に美しい…
四天王寺が立地する辺りは、色々な時代に戦乱の舞台となり、近代にも戦禍を被っていて、喪われたモノも多い筈だ。しかし聖徳太子が発願して建立されたという遥かな昔から、数え切れない程の世代に亘って受継がれたモノが在る。何か、そういうことを考えさせられてしまう。
この四天王寺の辺りは何度も通っていて、伽藍の雰囲気も眺めてはいたが、改めて真面目に立寄ってみて善かった。最近はその「改めて真面目に…」というのが、自身の「一寸したキーワード」になっているかもしれない。
大阪に着いて、不意にそんなことを思い出したのも、四天王寺を発願したというかの聖徳太子が産れたという橘寺が佇む様を明日香村で視たからかもしれない。
↓天王寺駅の傍の路を進んで、一箇所曲がるとこういう鳥居が在る。四天王寺の境内へ続く場所だ…
↓境内に足を踏み入れるとこういう具合に堂塔が視えるのだが…
↓廻り込んでこういう角度で眺めるべきなのかもしれない…
↓というのも、四天王寺は門、塔、金堂が直線に並ぶ中心的な伽藍が築かれているからである。「こういう角度で眺めるべきなのかも」としたのは画の上側の門からの眺めである。「四天王寺の境内へ続く」としたのは画の右側ということになる。
↓こうやって眺めると、四天王寺は巨大な超高層ビルである<あべのハルカス>を見上げるような場所に立地しているとは思い悪い…
↓今般、拝観料を払って中を拝観して参拝した…
↓伽藍の建物は「再建」だが、何れも非常に美しい…
四天王寺が立地する辺りは、色々な時代に戦乱の舞台となり、近代にも戦禍を被っていて、喪われたモノも多い筈だ。しかし聖徳太子が発願して建立されたという遥かな昔から、数え切れない程の世代に亘って受継がれたモノが在る。何か、そういうことを考えさせられてしまう。
この四天王寺の辺りは何度も通っていて、伽藍の雰囲気も眺めてはいたが、改めて真面目に立寄ってみて善かった。最近はその「改めて真面目に…」というのが、自身の「一寸したキーワード」になっているかもしれない。
橘寺を望む…:明日香村(2021.12.20)
↓冬の水田の向こうに小さな古寺が佇む…
↑何か「古くからの景観」を非常に重んじている明日香村の「らしい」という感もする光景だ。
明日香村では『明日香景観デザインマニュアル』(.pdf)というようなモノを用意していて、「景観計画」ということで「戸外の景観を形成するあらゆるモノ」にルールが在るということになっているそうだ。
↓そんな明日香村に所在する橘寺は、かの聖徳太子が産れたとされる辺りに在る古寺だ…
明日香村という場所は、何やら「考古学」(何かを発掘し、出て来たモノから古い時代を推察する)と「歴史学」(書き綴られた記録を読み解き、古い時代の様子を考察する)との「境界?」というような、「不思議な何か」を今日に伝えている場所のような気がした。所謂「飛鳥時代」には、当時の先進技術を有するような人達も多く見受けられた地域であったようだが、現代では「本当に静か…」な場所だ。
↑何か「古くからの景観」を非常に重んじている明日香村の「らしい」という感もする光景だ。
明日香村では『明日香景観デザインマニュアル』(.pdf)というようなモノを用意していて、「景観計画」ということで「戸外の景観を形成するあらゆるモノ」にルールが在るということになっているそうだ。
↓そんな明日香村に所在する橘寺は、かの聖徳太子が産れたとされる辺りに在る古寺だ…
明日香村という場所は、何やら「考古学」(何かを発掘し、出て来たモノから古い時代を推察する)と「歴史学」(書き綴られた記録を読み解き、古い時代の様子を考察する)との「境界?」というような、「不思議な何か」を今日に伝えている場所のような気がした。所謂「飛鳥時代」には、当時の先進技術を有するような人達も多く見受けられた地域であったようだが、現代では「本当に静か…」な場所だ。
<あべのハルカス>を見上げた…(2021.12.24)
<ミックス>:お好み焼き…:新世界にて…(2021.12.24)
大阪での夕食となった…
夕刻に戸外へ出てみたのだったが、小雨が交り始めたので宿の近くへ引揚げ、近隣で夕食を摂ることとした。
↓こういう感じの店を眼に留めた…
新世界の界隈だが「先週の方がもう少し賑やかではなかったか?」というような按配だった。そういう中で店に入ると、居合わせた方が食事を終えて発つところで、来店客が自身だけになった。が、直ぐに何組か現れたが…
↓陣取ったカウンターに鉄板が据えられていて、眼前でお好み焼きが焼かれた…
イカ、エビ、肉類等と卵が溶いた粉と合わせられた状態で小さなボールに入っていて、それを丁寧に混ぜる。それを鉄板に拡げ、丸い形に整えて焼く。傍らで薄切りの肉を焼き、焼けたところでヘラで切って、焼いているお好み焼きに載せる。
↓こういうような具合に容が整って行く…
↓ソース、マヨネーズが点けられ、鰹節粉、青海苔が散らされて「どうぞ!」と眼前に押し出される…
↓ヘラで切って、小皿に取って頂くことになる…
「お好み焼き」という呼称は同じであるが広島のモノとは随分と様子が違った。本当に「別モノ」だと思った。
自身ではこのお好み焼きで十分なボリュームであると思って頂いたが、他の方達は焼きそば等を併せて頼んでいた。「お好み焼きのみを摘まむ」というのと、「焼きそば等と合わせて頂く」というのが在るように見受けられた。
この「大阪のお好み焼き」は「粉モノ」であることには違いないのだが、何か「雑多な具材が入っている蒲鉾か何かのようなモノ…」というようにも、頂いてみて感じた。場合によって、これを米飯等と合わせて頂くというやり方も在るのかもしれない。(最近の自身はやらないと思うが…)
広島のモノと「比べてみる?」という意識が僅かに在ったのかもしれないが、なかなかに美味いと思った。
夕刻に戸外へ出てみたのだったが、小雨が交り始めたので宿の近くへ引揚げ、近隣で夕食を摂ることとした。
↓こういう感じの店を眼に留めた…
新世界の界隈だが「先週の方がもう少し賑やかではなかったか?」というような按配だった。そういう中で店に入ると、居合わせた方が食事を終えて発つところで、来店客が自身だけになった。が、直ぐに何組か現れたが…
↓陣取ったカウンターに鉄板が据えられていて、眼前でお好み焼きが焼かれた…
イカ、エビ、肉類等と卵が溶いた粉と合わせられた状態で小さなボールに入っていて、それを丁寧に混ぜる。それを鉄板に拡げ、丸い形に整えて焼く。傍らで薄切りの肉を焼き、焼けたところでヘラで切って、焼いているお好み焼きに載せる。
↓こういうような具合に容が整って行く…
↓ソース、マヨネーズが点けられ、鰹節粉、青海苔が散らされて「どうぞ!」と眼前に押し出される…
↓ヘラで切って、小皿に取って頂くことになる…
「お好み焼き」という呼称は同じであるが広島のモノとは随分と様子が違った。本当に「別モノ」だと思った。
自身ではこのお好み焼きで十分なボリュームであると思って頂いたが、他の方達は焼きそば等を併せて頼んでいた。「お好み焼きのみを摘まむ」というのと、「焼きそば等と合わせて頂く」というのが在るように見受けられた。
この「大阪のお好み焼き」は「粉モノ」であることには違いないのだが、何か「雑多な具材が入っている蒲鉾か何かのようなモノ…」というようにも、頂いてみて感じた。場合によって、これを米飯等と合わせて頂くというやり方も在るのかもしれない。(最近の自身はやらないと思うが…)
広島のモノと「比べてみる?」という意識が僅かに在ったのかもしれないが、なかなかに美味いと思った。
少しばかり東へ…=運行日誌(2021.12.24)
大阪の宿に在る…一週間前になっているが、12月17日に辿り着いて夜を明かした宿と同じ場所だ。更に―多分…―「1週間前に滞在した居室の隣室」と見受けられる場所だ…
深く眠って一度起き出し、もう一度深く眠って起き出すという具合で迎えた朝だった。
振り返ると?出発した17日…19日…20日…21日…22日…23日…と殆どの日程で「朝早めな暗い時間に始動」という様相である。冬至の当日を挟むような、1年の中で最も日が短い時季なるが故に「暗い朝」は自然なのだが、連日となっているので「時にはゆっくりとスタートしてみよう」と思い付いた。宿で朝食―サラダと、些かのおかずと、小さなパンを1つ…―の提供を受け、居室で暫し寛ぐ。
「帰国」と呼んでいるが、引揚げるのが関西空港を出るフライトなので、広島からであれば東進しなければならない。色々と道草しながら進むことを思い描いてはいた。が「今度こそ!」と「緩急の“緩”」という1日にしたいような気分になって来ていた。加えて、街の中を動き回ると「広島への断ち切り難い未練」に囚われてしまうというような気もして、結局「迷わずに広島駅へ!前進!!」ということにしたのだった。
実は荷物が増えた…稚内から着て来た上着とワークシャツでは汗ばむので、それを脱ぎ、半袖Tシャツの上に呉で求めたパーカーという服装に切り替えた。そうすると快適だが、上着とワークシャツは「荷物」だ…加えて呉で求めたモノも些か…そこで「モノが増えてしまった時のために…」と用意してあったエンジ色のトートバッグを使うことにした。それで歩き易くはなるが、それでも身軽に方々を見て回るのは余りい具合は好くない。
そして広島駅で切符を求め、乗車したのは<みずほ>という名の列車であった。新幹線の列車で新大阪に至ってしまった。新大阪では地下鉄の「1日乗車券」を入手し、以降はそれを使って少しだけ動き回った…
宿に入る前、近くの<スパワールド>という施設でサウナや大浴場を利用し、宿に入った後は淀屋橋を訪ねた。照明に浮かぶ<中央公会堂>を一寸眺めたかったのだが、何やら催事で周辺が混み合っていた。加えて、少し経って雨も混じり始めた…早々に引揚げ、「大阪の流儀の“お好み焼き”」を夕食として頂いた…
色々なことは追って順次綴るようにしたい。とりあえず、無事に少し東へ進んだのだった。
深く眠って一度起き出し、もう一度深く眠って起き出すという具合で迎えた朝だった。
振り返ると?出発した17日…19日…20日…21日…22日…23日…と殆どの日程で「朝早めな暗い時間に始動」という様相である。冬至の当日を挟むような、1年の中で最も日が短い時季なるが故に「暗い朝」は自然なのだが、連日となっているので「時にはゆっくりとスタートしてみよう」と思い付いた。宿で朝食―サラダと、些かのおかずと、小さなパンを1つ…―の提供を受け、居室で暫し寛ぐ。
「帰国」と呼んでいるが、引揚げるのが関西空港を出るフライトなので、広島からであれば東進しなければならない。色々と道草しながら進むことを思い描いてはいた。が「今度こそ!」と「緩急の“緩”」という1日にしたいような気分になって来ていた。加えて、街の中を動き回ると「広島への断ち切り難い未練」に囚われてしまうというような気もして、結局「迷わずに広島駅へ!前進!!」ということにしたのだった。
実は荷物が増えた…稚内から着て来た上着とワークシャツでは汗ばむので、それを脱ぎ、半袖Tシャツの上に呉で求めたパーカーという服装に切り替えた。そうすると快適だが、上着とワークシャツは「荷物」だ…加えて呉で求めたモノも些か…そこで「モノが増えてしまった時のために…」と用意してあったエンジ色のトートバッグを使うことにした。それで歩き易くはなるが、それでも身軽に方々を見て回るのは余りい具合は好くない。
そして広島駅で切符を求め、乗車したのは<みずほ>という名の列車であった。新幹線の列車で新大阪に至ってしまった。新大阪では地下鉄の「1日乗車券」を入手し、以降はそれを使って少しだけ動き回った…
宿に入る前、近くの<スパワールド>という施設でサウナや大浴場を利用し、宿に入った後は淀屋橋を訪ねた。照明に浮かぶ<中央公会堂>を一寸眺めたかったのだが、何やら催事で周辺が混み合っていた。加えて、少し経って雨も混じり始めた…早々に引揚げ、「大阪の流儀の“お好み焼き”」を夕食として頂いた…
色々なことは追って順次綴るようにしたい。とりあえず、無事に少し東へ進んだのだった。
「串カツ」を摘まんだ…:新世界:大阪(2021.12.17)
少しばかりゴチャゴチャともしながら、本当に「一日仕事」で通天閣を望むエリアに至った。
そうした中、酷く空腹感を覚えたので食事を摂りたかったこと、併せて「自身の、自身による、自身のための“安着祝い”」という気分が盛り上がった。
↓こういう場所に立寄ってみた…
↑界隈は少しだけ賑わっていた感ではあったようだが、「ラストオーダー」が近付いていた時間帯で、1人でカウンター席に陣取るというようなゆとりは在ったのだ。
↓<どて焼き>を摘まみながらハイボールを頂いた。「色々と在りながら、概ね思い描いたようにこのエリアに辿り着いた…」という感慨が沸き起こる…
↓「メイン」の串カツだ!
↑下段の左側から…元祖串カツ…えび…うずら…チーズ…鶏つくね…ウインナー…とんかつ…上段の左側から…唐揚げ…チーズちくわ…さつまいも…餅…と11本である。
↓加えてアスパラが少しだけ後に届いた…
どて焼きと12本の串カツ…好い感じだ!
↓こんな小皿に串カツを取る…
↓昨今の“事情”を踏まえて「独特な方式」ではなく、こういうソースを適当に点けて串カツを頂くというようになっている…
↓こういう按配に頂く訳だ…
串カツは「安定の味!好い感じだ…」と頂いていれば「ラストオーダーとなります」という御話しに…
↓芋焼酎のロックで締め括った…
自身の安着を祝いながら「大阪に乾杯!!」という気分だった…
そうした中、酷く空腹感を覚えたので食事を摂りたかったこと、併せて「自身の、自身による、自身のための“安着祝い”」という気分が盛り上がった。
↓こういう場所に立寄ってみた…
↑界隈は少しだけ賑わっていた感ではあったようだが、「ラストオーダー」が近付いていた時間帯で、1人でカウンター席に陣取るというようなゆとりは在ったのだ。
↓<どて焼き>を摘まみながらハイボールを頂いた。「色々と在りながら、概ね思い描いたようにこのエリアに辿り着いた…」という感慨が沸き起こる…
↓「メイン」の串カツだ!
↑下段の左側から…元祖串カツ…えび…うずら…チーズ…鶏つくね…ウインナー…とんかつ…上段の左側から…唐揚げ…チーズちくわ…さつまいも…餅…と11本である。
↓加えてアスパラが少しだけ後に届いた…
どて焼きと12本の串カツ…好い感じだ!
↓こんな小皿に串カツを取る…
↓昨今の“事情”を踏まえて「独特な方式」ではなく、こういうソースを適当に点けて串カツを頂くというようになっている…
↓こういう按配に頂く訳だ…
串カツは「安定の味!好い感じだ…」と頂いていれば「ラストオーダーとなります」という御話しに…
↓芋焼酎のロックで締め括った…
自身の安着を祝いながら「大阪に乾杯!!」という気分だった…
<そば肉玉>:お好み焼き…:西広島にて…(2021.12.23)
早朝から精力的に動き回っていた中、広電西広島に辿り着いた。JR西広島駅の隣りでもある…所謂「昼食時間帯」に差し掛かろうかというような頃合いだった。
↓こんな店を眼に留め、入ってみた…
↓そしてこの「お好み焼き」を頂いてしまった。<そば肉玉>と号する。
概ね満席な状態がずうっと続いていた。食事を終えて帰った方が在れば即座に場所を片付け、そこに次の方が着席である。
大きな鉄板を駆使して、店の方が切れ間無くお好み焼きを作り続けている。途切れない来店客の分に加えて、店に取りに来て持ち帰るという人達の分までドンドン焼いている。
粘性が在るように見える溶いた粉を鉄板上に垂らして、円形にクレープ状なモノを作る。そこにキャベツとモヤシを載せ、天かすを載せて調味料を振る。肉も載せる。引っ繰り返し、もう一度引っ繰り返してそこに粉を少し垂らす。他方で“そば”を焼き、焼いている他のモノと組み合わせる。そして鉄板上に卵を割って、その上にそこまでの工程で出来ているモノを載せる。モノをへらで押して形を整える。そうすると上の画のような<そば肉玉>が出来上がる…作業は豪快で速い…精巧な機械で作るかのように、殆ど変わらない見た目のお好み焼きがドンドン出来る。時々“トッピング”で標準仕様以外のモノも混じるが、それにも確り対応している。「見事…」と何となく見入ってしまっていた。お好み焼きの作り方としては他所と変わらないと思うが、自身ではここまで凄いの作業の様子は視た記憶が無い…
↓カウンター席の眼前、鉄板になっている箇所に出て来るお好み焼きであるが、好みでマヨネーズやソースを点ける。そして小さなヘラで切って、小皿に取りながら頂く。
西広島駅前の、地元で長く親しまれているように見受けられた店だったが、焼いている様子が見事で驚きながら見ていた。そして大変に美味しく頂いた。840円という価格にも驚いた。満足度としては「倍位なら払っても構わない…」とさえ思った。これもまた「広島が誇る文化!」であると思った…さり気なくそういうモノに触れられて好かった。
↓こんな店を眼に留め、入ってみた…
↓そしてこの「お好み焼き」を頂いてしまった。<そば肉玉>と号する。
概ね満席な状態がずうっと続いていた。食事を終えて帰った方が在れば即座に場所を片付け、そこに次の方が着席である。
大きな鉄板を駆使して、店の方が切れ間無くお好み焼きを作り続けている。途切れない来店客の分に加えて、店に取りに来て持ち帰るという人達の分までドンドン焼いている。
粘性が在るように見える溶いた粉を鉄板上に垂らして、円形にクレープ状なモノを作る。そこにキャベツとモヤシを載せ、天かすを載せて調味料を振る。肉も載せる。引っ繰り返し、もう一度引っ繰り返してそこに粉を少し垂らす。他方で“そば”を焼き、焼いている他のモノと組み合わせる。そして鉄板上に卵を割って、その上にそこまでの工程で出来ているモノを載せる。モノをへらで押して形を整える。そうすると上の画のような<そば肉玉>が出来上がる…作業は豪快で速い…精巧な機械で作るかのように、殆ど変わらない見た目のお好み焼きがドンドン出来る。時々“トッピング”で標準仕様以外のモノも混じるが、それにも確り対応している。「見事…」と何となく見入ってしまっていた。お好み焼きの作り方としては他所と変わらないと思うが、自身ではここまで凄いの作業の様子は視た記憶が無い…
↓カウンター席の眼前、鉄板になっている箇所に出て来るお好み焼きであるが、好みでマヨネーズやソースを点ける。そして小さなヘラで切って、小皿に取りながら頂く。
西広島駅前の、地元で長く親しまれているように見受けられた店だったが、焼いている様子が見事で驚きながら見ていた。そして大変に美味しく頂いた。840円という価格にも驚いた。満足度としては「倍位なら払っても構わない…」とさえ思った。これもまた「広島が誇る文化!」であると思った…さり気なくそういうモノに触れられて好かった。
原爆ドーム…(2021.12.23)
このブログに写真を掲出している例だけでも2015年、2018年、2019年と「広島に立寄った記憶が在る限り」は、殆ど必ず足を向けて、少し眺めているという場所が在る。広島へ立寄る機会が生じたなら、時間が許す限り、この場所を訪れてみるのは、全く初めて広島に入った時以来の恒例となっている…
↓「時間が停まった…」かのような状況で保存されている建物なのだが、それでも「迎えた新たな一日への期待」というような感じで佇んでいるようにも感じられた。薄暗い早朝の原爆ドームだ。
暗い中で何も考えずに路面電車に乗り、少し違う側に出て、何やら逆方向に歩いてしまって迷ったので、通り掛かったタクシーを利用して辺りに至った…
↓ここに足を運ぶと、辺りを何回か廻って様子を眺める…
↓全く初めてこれを実際に視た際には「存外に…小さい?」というようにも思ったのだが、残っているのは建物の概ね真中辺りに相当する箇所で、両脇に相当する6割程度が損なわれてしまっているので、そういう具合に思ったのであろう。
↓好天な朝、朝陽が上る前の「少し明るい…」という按配でこれを眺めるのも好い…
↓少々草臥れた落葉が絨毯のようになっていたのが面白かった…
今般、広島滞在が想い出多いものとなったことから、広島を離れようとする段になって早速に「何時か再訪を…」と思っていることに気付かされる。再訪が叶えば、この場所も訪ねてみなければなるまい。
↓「時間が停まった…」かのような状況で保存されている建物なのだが、それでも「迎えた新たな一日への期待」というような感じで佇んでいるようにも感じられた。薄暗い早朝の原爆ドームだ。
暗い中で何も考えずに路面電車に乗り、少し違う側に出て、何やら逆方向に歩いてしまって迷ったので、通り掛かったタクシーを利用して辺りに至った…
↓ここに足を運ぶと、辺りを何回か廻って様子を眺める…
↓全く初めてこれを実際に視た際には「存外に…小さい?」というようにも思ったのだが、残っているのは建物の概ね真中辺りに相当する箇所で、両脇に相当する6割程度が損なわれてしまっているので、そういう具合に思ったのであろう。
↓好天な朝、朝陽が上る前の「少し明るい…」という按配でこれを眺めるのも好い…
↓少々草臥れた落葉が絨毯のようになっていたのが面白かった…
今般、広島滞在が想い出多いものとなったことから、広島を離れようとする段になって早速に「何時か再訪を…」と思っていることに気付かされる。再訪が叶えば、この場所も訪ねてみなければなるまい。
<582>…:市役所前停留所:広島の路面電車(2021.12.23)
「一日乗車券」を手に、早朝から何度も路面電車に乗降を繰り返して広島市内、一部に廿日市市内を動き回っていた。一部、停留所間を徒歩で動き回ることもした。
市役所前停留所に至った。ここから宿の近くに引揚げようとしていた…
広島電鉄の宇品線は1912(大正元)年に開業したという。紙屋町から御幸橋の間だったということだ。この開業当初から、真菰橋停留場(まこもばしていりゅうじょう)という名で、現在の市役所前停留所に相当する停留場は登場しているとのことだ。1944(昭和19)年に停留場は休止ということになったが、1946(昭和21)年に再開し、その際に「市役所前停留所」ということになって現在に至っている。
↓何やら古めかしい型の車輛が登場した…
↑最近、広島では最新型やもっと新しいモノが多い感じなので、こういう車輛は酷く目立つ…
↓西広島を目指してこの車輛が出発したのを見送ったが、<582>は神戸からやって来た車輛だ。「582」という番号は、神戸で用いられていた独特な書体で書かれているという。
↑<582>は1960年製造で、神戸で運行されていた。「570形」という。1971(昭和46)年に神戸で路面電車が廃止された中、神戸市交通局から広島電鉄が買い取った車輛であるという。
↓「50」というマークが掲出されているが、これは「神戸から広島へ移って50年」ということなので掲出しているそうだ…
↑神戸からやって来たこの型は、現在ではこの1輛だけが運行中であるとのことだ。
こういうように「他所から移って長く稼働を続ける」という車輛は好い。こういうのが幾つも在ることで、何か「現に稼働していながらも“資料館”になっている」という雰囲気になるのが面白い。
市役所前停留所に至った。ここから宿の近くに引揚げようとしていた…
広島電鉄の宇品線は1912(大正元)年に開業したという。紙屋町から御幸橋の間だったということだ。この開業当初から、真菰橋停留場(まこもばしていりゅうじょう)という名で、現在の市役所前停留所に相当する停留場は登場しているとのことだ。1944(昭和19)年に停留場は休止ということになったが、1946(昭和21)年に再開し、その際に「市役所前停留所」ということになって現在に至っている。
↓何やら古めかしい型の車輛が登場した…
↑最近、広島では最新型やもっと新しいモノが多い感じなので、こういう車輛は酷く目立つ…
↓西広島を目指してこの車輛が出発したのを見送ったが、<582>は神戸からやって来た車輛だ。「582」という番号は、神戸で用いられていた独特な書体で書かれているという。
↑<582>は1960年製造で、神戸で運行されていた。「570形」という。1971(昭和46)年に神戸で路面電車が廃止された中、神戸市交通局から広島電鉄が買い取った車輛であるという。
↓「50」というマークが掲出されているが、これは「神戸から広島へ移って50年」ということなので掲出しているそうだ…
↑神戸からやって来たこの型は、現在ではこの1輛だけが運行中であるとのことだ。
こういうように「他所から移って長く稼働を続ける」という車輛は好い。こういうのが幾つも在ることで、何か「現に稼働していながらも“資料館”になっている」という雰囲気になるのが面白い。
<651>…:広島港停留所:広島の路面電車(2021.12.23)
広島在住の友人が身軽に動き回って観察した結果、広島の街で活躍する路面電車に関して「多くの種類の車輛を視たい!」ということなら、恐らく広島港停留所に陣取って眺めるのが好いという結論に至ったという。
「広島電鉄」が運行する路面電車は多分「日本国内最大?」と見受けられるような規模である。最新の工夫が施された新しい車輛が主流を占めつつある中、様々な年代の車輛、或いは他所で路面電車の運行が停止した後に移籍した車輛等が入り混じっていて実に面白い。と言っても、古い車輛に関しては、電車の運行が増える朝の混雑時間帯に登場する場合が多いという。更に自身でも気付いたが、「広島港⇔西広島」という運行系統に在っては、古い車輛の搭乗頻度が高いようだ。
そういうことで、朝の広島港停留所に足を運んでみた。
↓味わい深い古い車輛が広島港停留所に現れた…
↓広島港停留所は3本に枝分かれした軌道に続々と電車が着いて、折り返しで出発するという仕組みになっている。入って来た車輛がその軌道の一つに入った。
↓<651>という車輛だ…これは「少し特別…」な車輛でもある。
この<651>は1942(昭和17)年生まれである…
<651>が登場した1942(昭和17)年頃にもなると、軍隊への動員というような事も在って、各産業で色々な影響も受けていた。路面電車の運行にしても、運行に携わる要員確保の観点で運行本数を減らさざるを得ない面が在った。そういう中で「少し大き目な車輛を用意し、多くの乗客を輸送可能なようにするという構想が持ち上がり、「650形」が製造されることになった。そして<651>が産声を上げた。
↓<651>は初登場以来80年になろうとしているが、未だ普通に運用されている。
「広島港⇔西広島」という運行系統に投入されていたのだが、この系統を往くことに関して<651>はかなり年季が入っている。1945(昭和20)年8月6日、<651>は現在の「広島港⇔西広島」という運行系統に在る停留所である<中電前>の周辺で原爆の被害を受けてしまっている。そのことから「被爆電車」tp呼ばれる。
↓原爆投下の際に大きな被害を受けた<651>は修理され、1946(昭和21)年3月頃には修理を終えて復帰したのだという。そして現在に至るまで、時代の要請で様々な改造も施されているが、運用されている…
広島は原爆の惨禍に見舞われてしまったが、その後は「短い区間であっても、可能な範囲で電車の運行を…」ということになり、動いている電車は苦境に在った人々に希望を与えたのだという。そして精力的な復旧努力が重ねられた。
↓今日も<651>は「広島港⇔西広島」を往来していた…
↑こういうような経過の車輛で、永く大切に使われてきた訳で、同型の車輛の中の1輛は既に「博物館の展示品」になっているという。が、この<651>は「飽くまでも普通に運用」である。或いはそれは、博物館で保存するよりも意義深い。そして運行可能な状態でメンテナンスをし続けるのも、なかなかに大変かもしれない。
所謂「被爆電車」が「現在でも普通に運用」とは聞いていた。その車輛を間近に視られたのは好い経験だったと思う…
「広島電鉄」が運行する路面電車は多分「日本国内最大?」と見受けられるような規模である。最新の工夫が施された新しい車輛が主流を占めつつある中、様々な年代の車輛、或いは他所で路面電車の運行が停止した後に移籍した車輛等が入り混じっていて実に面白い。と言っても、古い車輛に関しては、電車の運行が増える朝の混雑時間帯に登場する場合が多いという。更に自身でも気付いたが、「広島港⇔西広島」という運行系統に在っては、古い車輛の搭乗頻度が高いようだ。
そういうことで、朝の広島港停留所に足を運んでみた。
↓味わい深い古い車輛が広島港停留所に現れた…
↓広島港停留所は3本に枝分かれした軌道に続々と電車が着いて、折り返しで出発するという仕組みになっている。入って来た車輛がその軌道の一つに入った。
↓<651>という車輛だ…これは「少し特別…」な車輛でもある。
この<651>は1942(昭和17)年生まれである…
<651>が登場した1942(昭和17)年頃にもなると、軍隊への動員というような事も在って、各産業で色々な影響も受けていた。路面電車の運行にしても、運行に携わる要員確保の観点で運行本数を減らさざるを得ない面が在った。そういう中で「少し大き目な車輛を用意し、多くの乗客を輸送可能なようにするという構想が持ち上がり、「650形」が製造されることになった。そして<651>が産声を上げた。
↓<651>は初登場以来80年になろうとしているが、未だ普通に運用されている。
「広島港⇔西広島」という運行系統に投入されていたのだが、この系統を往くことに関して<651>はかなり年季が入っている。1945(昭和20)年8月6日、<651>は現在の「広島港⇔西広島」という運行系統に在る停留所である<中電前>の周辺で原爆の被害を受けてしまっている。そのことから「被爆電車」tp呼ばれる。
↓原爆投下の際に大きな被害を受けた<651>は修理され、1946(昭和21)年3月頃には修理を終えて復帰したのだという。そして現在に至るまで、時代の要請で様々な改造も施されているが、運用されている…
広島は原爆の惨禍に見舞われてしまったが、その後は「短い区間であっても、可能な範囲で電車の運行を…」ということになり、動いている電車は苦境に在った人々に希望を与えたのだという。そして精力的な復旧努力が重ねられた。
↓今日も<651>は「広島港⇔西広島」を往来していた…
↑こういうような経過の車輛で、永く大切に使われてきた訳で、同型の車輛の中の1輛は既に「博物館の展示品」になっているという。が、この<651>は「飽くまでも普通に運用」である。或いはそれは、博物館で保存するよりも意義深い。そして運行可能な状態でメンテナンスをし続けるのも、なかなかに大変かもしれない。
所謂「被爆電車」が「現在でも普通に運用」とは聞いていた。その車輛を間近に視られたのは好い経験だったと思う…
大変に精力的に…=運行日誌(2021.12.23)
本当に「何時でも御休み頂いて構いません」という状態で広島の宿に在る。或いは「非常に好い一日」であったと思う。滞在中の広島の天候も好かった…
愉しい夕べの後に心地よく深く眠り、スッキリと早朝を迎えていた。早朝…思わず勤しんだのは、宿の館内にあるコインランドリーを利用しての洗濯だった。汗ばんだ長袖ワークシャツ等を洗った。そんな細かいことまで含めて、実に精力的に動いたということになる。
広島県入りをした後、「何やら温かい…」と思った。日中は13℃程度だ…汗ばむ場合も在るので、呉で求めたパーカーを半袖Tシャツの上に着て、そのまま戸外に出ても差し支えない感じだ。今朝もその出で立ちに、愛用の真っ黒な大阪近鉄バファローズのマークが入ったキャップを着用で出てみることとした。そしてそれで差支えなかった。朝は戸外を歩き廻っていて些か手が冷たい感じもしたが、程無く気にならなくなり、特段の不具合も無く過ごした。
午前中は友人と過ごすことが叶った。路面電車の広島港停留所で落ち合い、朝の混み合う時間帯に登場する例が多い「古めな車輛」を眺める等したのだが、その後は嘗ての「宇品線」の後を辿り、所謂「被爆建造物」である<旧陸軍広島被覆支廠>を眺めた。そして被爆の歴史でも知られる御幸橋へ通じる辺りで、再会を期して別れた。
今般の西日本入りの切っ掛けの一部が、稚内を訪ねてくれた友人を「返礼訪問」ということでもあったのだが、所用も在った中で非常に興味深い案内をしてくれて、「こういうのが面白いかもしれない」と色々と助言も頂いた。そういうことも在って、非常に精力的に広島を動き回り、何か広島も一気に「想い出多き街」になった。本当に「終いに動き悪くなってしまって…」という程度に精力的に動いた。
広島の想い出に関することは順次綴りたい。本当に多くの場所を巡って、精力的に昂揚した気分の中で過ごした。
明日は?「明日の風」に任せて、今宵は休む…
愉しい夕べの後に心地よく深く眠り、スッキリと早朝を迎えていた。早朝…思わず勤しんだのは、宿の館内にあるコインランドリーを利用しての洗濯だった。汗ばんだ長袖ワークシャツ等を洗った。そんな細かいことまで含めて、実に精力的に動いたということになる。
広島県入りをした後、「何やら温かい…」と思った。日中は13℃程度だ…汗ばむ場合も在るので、呉で求めたパーカーを半袖Tシャツの上に着て、そのまま戸外に出ても差し支えない感じだ。今朝もその出で立ちに、愛用の真っ黒な大阪近鉄バファローズのマークが入ったキャップを着用で出てみることとした。そしてそれで差支えなかった。朝は戸外を歩き廻っていて些か手が冷たい感じもしたが、程無く気にならなくなり、特段の不具合も無く過ごした。
午前中は友人と過ごすことが叶った。路面電車の広島港停留所で落ち合い、朝の混み合う時間帯に登場する例が多い「古めな車輛」を眺める等したのだが、その後は嘗ての「宇品線」の後を辿り、所謂「被爆建造物」である<旧陸軍広島被覆支廠>を眺めた。そして被爆の歴史でも知られる御幸橋へ通じる辺りで、再会を期して別れた。
今般の西日本入りの切っ掛けの一部が、稚内を訪ねてくれた友人を「返礼訪問」ということでもあったのだが、所用も在った中で非常に興味深い案内をしてくれて、「こういうのが面白いかもしれない」と色々と助言も頂いた。そういうことも在って、非常に精力的に広島を動き回り、何か広島も一気に「想い出多き街」になった。本当に「終いに動き悪くなってしまって…」という程度に精力的に動いた。
広島の想い出に関することは順次綴りたい。本当に多くの場所を巡って、精力的に昂揚した気分の中で過ごした。
明日は?「明日の風」に任せて、今宵は休む…
足元…:神戸(2021.12.21)
近鉄奈良駅から列車に乗り、神戸三宮駅に到った。約1時間半の乗車だ。「その辺を少し歩くか…」と思い付いた。身体を伸ばしたかった。酷く急いでいるという訳でもない。
↓歩を進め、こんなモノを眼に留めた。
↑何となく「児童の絵画?」を想わせるデザインのマンホールだ。
↓更に歩を進めるとこういうモノも眼に留まった。
↑「神戸」とでも聞けば思い浮かべるような光景をデザインした画のマンホールだが「Welcome」と在って、来訪した身を歓迎してくれているようだ…
本当に「看過してしまい易い」という存在のマンホールなのだが、時に眼を留めると妙に面白い。
↓歩を進め、こんなモノを眼に留めた。
↑何となく「児童の絵画?」を想わせるデザインのマンホールだ。
↓更に歩を進めるとこういうモノも眼に留まった。
↑「神戸」とでも聞けば思い浮かべるような光景をデザインした画のマンホールだが「Welcome」と在って、来訪した身を歓迎してくれているようだ…
本当に「看過してしまい易い」という存在のマンホールなのだが、時に眼を留めると妙に面白い。
建造中かもしれない巨船が覗く光景…:呉(2021.12.22)
港と共に興り、様々な経過を経ている街…瀬戸内海を渡る風が感じられる地域…時季としては「やや温かい?」と思える程度の好天…不慣れな街ではあるが、一度訪ねてみた、または立寄った思い出も少し在って、それも殊更に懐かしい。そういうような呉なのだが、何やら訳も無く「好いなぁ…」という感慨が沸き起こった。
↓思わず足を停めて眺めてしまった…
↑呉は巨大な軍艦を建造、修理した海軍工廠の流れを汲む造船所が今でも活動していて、様々な用途の巨大な船が建造されている。そんな船の一つだと思いながら眺めた。
余り細々としたことを考えない程度に、何処かの駅へ足を運んで列車に乗り、余り馴染んでいない街に辿り着いて歩き廻ってみる…というだけのことなのだが、何か「解き放たれた」というように自身は感じるのだ。
時季としては「やや温かい?」と思える程度の好天の中で動き回った。日中は13℃程度にはなっていたと思われる。少々汗ばんだのも思い出だ…
↓思わず足を停めて眺めてしまった…
↑呉は巨大な軍艦を建造、修理した海軍工廠の流れを汲む造船所が今でも活動していて、様々な用途の巨大な船が建造されている。そんな船の一つだと思いながら眺めた。
余り細々としたことを考えない程度に、何処かの駅へ足を運んで列車に乗り、余り馴染んでいない街に辿り着いて歩き廻ってみる…というだけのことなのだが、何か「解き放たれた」というように自身は感じるのだ。
時季としては「やや温かい?」と思える程度の好天の中で動き回った。日中は13℃程度にはなっていたと思われる。少々汗ばんだのも思い出だ…
昨今の広島駅…(2021.12.22)
↓呉駅で乗り込んだ列車が到着し、折り返し運転となる列車に乗る多くの乗客が見受けられ、乗務員が交代して車輛の脇辺りに…記憶に在る「広島駅の様子」という感だ。
↑画の227系電車は広島地区で初めて登場し、JR西日本の方々に拡がっている車輛だ。広島地区では<レッドウイング>という愛称も冠せられている。
「還って来た」というような錯覚を抱く程に広島を訪ねているのでもないかもしれない。が、到着してみればこの駅の「風」という程度のモノは記憶の中から甦る。
跨線橋へ上がって改札口を潜り抜けて駅前に出ようとした。路面電車が発着する場所も在る南口から出て、求めた宿へ歩こうとした。
駅の中では、何やら「工事中?」というような覆いが視えた。「↑」が床等に示されていて「工事中なのでこちらを御進み願います」というような状態になっている。札幌駅辺りでも見受けられるような状況だ。
↓工事箇所を覆う覆いの壁に囲われた状況から、外光の下に出たが、思わず足を停めて眼を疑った。
↑「あの大きな駅舎が?無い!?」と大いに驚いた。
↓駅舎を建替えているのだということだ…
↓広島駅の前に着けば、駅舎は視えずに「工事中の場所を覆う壁に何やら案内が大書されている」という状況に出くわすことになる。
↓駅を背に右側へ進んだ場合に目立っていて、個人的には「広島駅周辺の目印の1つ」という程度に思っていた大きな郵便局も建替えていた。
↓郵便局「であった場所」の前に在ったポストは残った。そしてこんな眺めだ…
或いは、こういう「一寸変わった様子」を記録するというのも意義深いのかもしれない。とにかく驚いたのだが、何年か経ったら「竣工して供用されている新駅舎」にも列車で到着してみたいものだ。
↑画の227系電車は広島地区で初めて登場し、JR西日本の方々に拡がっている車輛だ。広島地区では<レッドウイング>という愛称も冠せられている。
「還って来た」というような錯覚を抱く程に広島を訪ねているのでもないかもしれない。が、到着してみればこの駅の「風」という程度のモノは記憶の中から甦る。
跨線橋へ上がって改札口を潜り抜けて駅前に出ようとした。路面電車が発着する場所も在る南口から出て、求めた宿へ歩こうとした。
駅の中では、何やら「工事中?」というような覆いが視えた。「↑」が床等に示されていて「工事中なのでこちらを御進み願います」というような状態になっている。札幌駅辺りでも見受けられるような状況だ。
↓工事箇所を覆う覆いの壁に囲われた状況から、外光の下に出たが、思わず足を停めて眼を疑った。
↑「あの大きな駅舎が?無い!?」と大いに驚いた。
↓駅舎を建替えているのだということだ…
↓広島駅の前に着けば、駅舎は視えずに「工事中の場所を覆う壁に何やら案内が大書されている」という状況に出くわすことになる。
↓駅を背に右側へ進んだ場合に目立っていて、個人的には「広島駅周辺の目印の1つ」という程度に思っていた大きな郵便局も建替えていた。
↓郵便局「であった場所」の前に在ったポストは残った。そしてこんな眺めだ…
或いは、こういう「一寸変わった様子」を記録するというのも意義深いのかもしれない。とにかく驚いたのだが、何年か経ったら「竣工して供用されている新駅舎」にも列車で到着してみたいものだ。
岡山駅からの出発…(2021.12.22)
↓こういう感じ?「早朝」なのだが…「深夜そのもの」な雰囲気だと思う。
↑岡山駅の出口から数分というような辺りに求めた宿を午前5時半頃に出た時、何となく振り返って眼にした光景だ。
↓こういう具合に眺めると岡山駅は大きい…
↑16輛編成の列車が発着する新幹線の軌道と乗降場を上に載せたビルと、方々を結ぶ路線の軌道が在る地上部分とが組み合わさっている。
↓余り深く考えずに岡山駅へ向かったが、山陽線を西へ向かう列車は、既に待機中だった。
↑4輛編成の113系電車だ。「国鉄時代」に登場した車輛で、改造が重ねられて現在でも運用されているモノだ。何となく気に入っている車輛でもある…
↓こういう具合に、確りと棚の上に荷物を上げて、座席に陣取った…
↑リュックサックと上着やキャップの他、カメラを入れたバッグも在って、それは抱えて座っている。乗客の多くの「日常」な移動の荷物と大きく変わらない感じだと思う。
先走ったことを話題とするが…出発した際には「座席が何となく埋まるような感じ」だった車内だが、糸崎駅へ向けて進む中で、入れ替わりながらも乗客は増えて行ったような感じだった。そういう「日常」というような中で移動する感じが好いと思っている。
↑岡山駅の出口から数分というような辺りに求めた宿を午前5時半頃に出た時、何となく振り返って眼にした光景だ。
↓こういう具合に眺めると岡山駅は大きい…
↑16輛編成の列車が発着する新幹線の軌道と乗降場を上に載せたビルと、方々を結ぶ路線の軌道が在る地上部分とが組み合わさっている。
↓余り深く考えずに岡山駅へ向かったが、山陽線を西へ向かう列車は、既に待機中だった。
↑4輛編成の113系電車だ。「国鉄時代」に登場した車輛で、改造が重ねられて現在でも運用されているモノだ。何となく気に入っている車輛でもある…
↓こういう具合に、確りと棚の上に荷物を上げて、座席に陣取った…
↑リュックサックと上着やキャップの他、カメラを入れたバッグも在って、それは抱えて座っている。乗客の多くの「日常」な移動の荷物と大きく変わらない感じだと思う。
先走ったことを話題とするが…出発した際には「座席が何となく埋まるような感じ」だった車内だが、糸崎駅へ向けて進む中で、入れ替わりながらも乗客は増えて行ったような感じだった。そういう「日常」というような中で移動する感じが好いと思っている。
色々な意味で「好い時間」だ…=運行日誌(2021.12.22)
広島の宿に在る…「更に西へ」を実践した結果だ…
岡山の宿の居室で、「緩急の“緩”」を頭の隅で意識したような気はするが、意識したとおりに動いていたのか否かはやや微妙であるような気もしていた中で休み、早朝を迎えた。
御神酒(ごしんしゅ)と御店の方が呼んでいたが、吉備津神社の辺りで300ml入り瓶の清酒を求めた。少し芳醇な味で美味いモノだった。「美味いモノ」としたが…“試飲”と称して空けてしまった。そして直ぐに「深ーく!」というような様子で眠った訳である。深夜と早朝との境界の「深夜寄りな側…」という辺りにスッキリと起き出したのだ。好い朝というものだ…
<青春18きっぷ>を手に、「ハッキリ深夜!」という趣な早朝に岡山駅へ向かった。歩いて直ぐなのだが…そして「今日の分」の<青春18きっぷ>を使い始めた訳だ…
岡山駅からは「夜の移動?」という雰囲気で、山陽本線の列車で西へ進んだ。倉敷駅に着く前の車掌さんによる車内アナウンスで、乗換列車として「夜行列車」の<サンライズ出雲>への言及が在った。(これまでに一度だけ乗車したことも在った…)あの<サンライズ出雲>が岡山駅に至る以前に岡山駅を発っている。あれは倉敷駅では「出雲市駅へ向かう朝早めな列車」ということにでもなるのだろうか?
糸崎駅に至ると、山陽線の先行することになる列車に乗り換えて三原駅へ向かい、三原駅で呉線の列車に乗り換えた。その呉線の列車で呉駅に至ったのである。
呉は「どことなく懐かしい…」という気がする。「懐かしい」と言って縁深いのでも何でもない。何時の間にか「存外に古い話し…」ということになるのだが、過去に訪ねた経過が在って、その時のことを時々思い起すのだ。そんなことで、訳も無く「好いなぁ…」と思い出すのだが、そういう感覚が甦った。好天に恵まれた中で街を歩き廻る、バスに乗ってみる、面倒になってタクシーを使う、訳も意味も無く緑地で佇む、買物や食事にも興じるという具合で「呉の休日」という感でもあった。名状し悪い「好いなぁ…」というのは幾つかの場所で感じることなのだが、呉もそういうように思える場所だ。訳をうまく説明出来ないが、或いはその訳に容を与えるべく繰り返し尋ねてみるというのも一興なのかもしれない…
そういうことを思いながら呉駅で広島駅へ向かう列車に乗った…「会いたい人達が在る西日本」で動こうとしたが故に、関西まで南下し、その関西で少し張り切って動いていたが、奈良の後は「更に西…」へと動くという意図が在ったのだが、その意図の故に目指したのが広島だった。そしてその意図も無事に果たした…実に楽しい夕べを過ごすことが叶った…
偶々「会いたい人達が在る西日本」で動こうという中で広島が浮上したのだが、広島については「寧ろ通り過ぎる…」という感じが繰り返されている中、「もう少々親しんでみたい…」というようにも思っていた。故に今般の「会いたい人達が在る西日本」で動こうという意図に絡まって広島が浮上したというのは非常に幸いだったのだ。
ところで…最近、JRの広島駅は「新たに整備…」ということになっているらしく、建物を壊して新たに建てている。そういう訳で「何となく覚えている広島駅辺りの様子」が非常に大きく変わってしまっていて、些か戸惑ったということは綴っておかなければならないであろう。
仔細は追って様々に綴ってみたいが、とりあえず好い按配だ…広島では10℃かそれ以上と思われた日中の気温で、些かあせもかいた。替えの衣類を適当に用意という場面も在った…
岡山の宿の居室で、「緩急の“緩”」を頭の隅で意識したような気はするが、意識したとおりに動いていたのか否かはやや微妙であるような気もしていた中で休み、早朝を迎えた。
御神酒(ごしんしゅ)と御店の方が呼んでいたが、吉備津神社の辺りで300ml入り瓶の清酒を求めた。少し芳醇な味で美味いモノだった。「美味いモノ」としたが…“試飲”と称して空けてしまった。そして直ぐに「深ーく!」というような様子で眠った訳である。深夜と早朝との境界の「深夜寄りな側…」という辺りにスッキリと起き出したのだ。好い朝というものだ…
<青春18きっぷ>を手に、「ハッキリ深夜!」という趣な早朝に岡山駅へ向かった。歩いて直ぐなのだが…そして「今日の分」の<青春18きっぷ>を使い始めた訳だ…
岡山駅からは「夜の移動?」という雰囲気で、山陽本線の列車で西へ進んだ。倉敷駅に着く前の車掌さんによる車内アナウンスで、乗換列車として「夜行列車」の<サンライズ出雲>への言及が在った。(これまでに一度だけ乗車したことも在った…)あの<サンライズ出雲>が岡山駅に至る以前に岡山駅を発っている。あれは倉敷駅では「出雲市駅へ向かう朝早めな列車」ということにでもなるのだろうか?
糸崎駅に至ると、山陽線の先行することになる列車に乗り換えて三原駅へ向かい、三原駅で呉線の列車に乗り換えた。その呉線の列車で呉駅に至ったのである。
呉は「どことなく懐かしい…」という気がする。「懐かしい」と言って縁深いのでも何でもない。何時の間にか「存外に古い話し…」ということになるのだが、過去に訪ねた経過が在って、その時のことを時々思い起すのだ。そんなことで、訳も無く「好いなぁ…」と思い出すのだが、そういう感覚が甦った。好天に恵まれた中で街を歩き廻る、バスに乗ってみる、面倒になってタクシーを使う、訳も意味も無く緑地で佇む、買物や食事にも興じるという具合で「呉の休日」という感でもあった。名状し悪い「好いなぁ…」というのは幾つかの場所で感じることなのだが、呉もそういうように思える場所だ。訳をうまく説明出来ないが、或いはその訳に容を与えるべく繰り返し尋ねてみるというのも一興なのかもしれない…
そういうことを思いながら呉駅で広島駅へ向かう列車に乗った…「会いたい人達が在る西日本」で動こうとしたが故に、関西まで南下し、その関西で少し張り切って動いていたが、奈良の後は「更に西…」へと動くという意図が在ったのだが、その意図の故に目指したのが広島だった。そしてその意図も無事に果たした…実に楽しい夕べを過ごすことが叶った…
偶々「会いたい人達が在る西日本」で動こうという中で広島が浮上したのだが、広島については「寧ろ通り過ぎる…」という感じが繰り返されている中、「もう少々親しんでみたい…」というようにも思っていた。故に今般の「会いたい人達が在る西日本」で動こうという意図に絡まって広島が浮上したというのは非常に幸いだったのだ。
ところで…最近、JRの広島駅は「新たに整備…」ということになっているらしく、建物を壊して新たに建てている。そういう訳で「何となく覚えている広島駅辺りの様子」が非常に大きく変わってしまっていて、些か戸惑ったということは綴っておかなければならないであろう。
仔細は追って様々に綴ってみたいが、とりあえず好い按配だ…広島では10℃かそれ以上と思われた日中の気温で、些かあせもかいた。替えの衣類を適当に用意という場面も在った…
<三諸杉>のTシャツ…(2021.12.20)
↓大神神社の近くで求めた…地元酒造会社の銘酒<三諸杉>(みむろすぎ)のロゴ等のデザインだ…
「奈良県の酒」と言えば…色々と在る訳で…極個人的には大阪日本橋の地下街で飲食店も営んでいる宇陀松山の酒造会社の濁り酒を想い起すのだが…「少量多品種」な製造であるので、存外に販売している―呑ませてくれる―店が在るような無いようなだ。
そういう中、ドライブに御誘い頂いた方が「県内の酒で御薦め、或いは最も気に入っているモノとして挙げたいのは<三諸杉>」とされていて、大神神社周辺に在る直営の売店に寄ってみた。そこでこのTシャツを発見して入手した訳だ。
三輪山が古来より「三諸山(みむろやま)」と呼ばれていて、三輪山は「杉」に神様が宿るとされているので、この会社では<三諸杉>という銘を酒に使っているのだそうだ。
↓背中にも確りとプリントが在る…
これは視えるように着用していると「“奈良派”である!」と主張するような感じになると思う…現在の時季はアンダーウェア的な使い方が多くなるかもしれないが…実は、奈良の後に神戸、岡山を経て広島に至ったのだが、汗をかいたのでTシャツを替えようとした際に「そうだ…」と思い付いて早速にこれを使うことにした。なかなかに好いので、こうして「求めて…出先に在る中で、早速に愛用し始め…」ということを記憶に留めておきたいとも思ってこうして写真を使った記事を纏めている…
「奈良県の酒」と言えば…色々と在る訳で…極個人的には大阪日本橋の地下街で飲食店も営んでいる宇陀松山の酒造会社の濁り酒を想い起すのだが…「少量多品種」な製造であるので、存外に販売している―呑ませてくれる―店が在るような無いようなだ。
そういう中、ドライブに御誘い頂いた方が「県内の酒で御薦め、或いは最も気に入っているモノとして挙げたいのは<三諸杉>」とされていて、大神神社周辺に在る直営の売店に寄ってみた。そこでこのTシャツを発見して入手した訳だ。
三輪山が古来より「三諸山(みむろやま)」と呼ばれていて、三輪山は「杉」に神様が宿るとされているので、この会社では<三諸杉>という銘を酒に使っているのだそうだ。
↓背中にも確りとプリントが在る…
これは視えるように着用していると「“奈良派”である!」と主張するような感じになると思う…現在の時季はアンダーウェア的な使い方が多くなるかもしれないが…実は、奈良の後に神戸、岡山を経て広島に至ったのだが、汗をかいたのでTシャツを替えようとした際に「そうだ…」と思い付いて早速にこれを使うことにした。なかなかに好いので、こうして「求めて…出先に在る中で、早速に愛用し始め…」ということを記憶に留めておきたいとも思ってこうして写真を使った記事を纏めている…
吉備津駅…(2021.12.21)
岡山駅の列車発着案内に「桃太郎線」という用語が用いられている。これは岡山駅・総社駅間の「吉備線」の愛称なのだそうだ。
岡山に至って宿を求めることにした中、岡山で一寸だけ動いてみた。そんな中でこの「桃太郎線」の列車を利用してみた。
↓岡山駅から20分に満たないような乗車だと思う。吉備津駅だ…
石段の下まで10分もかからずに歩いて着く場所の吉備津神社を訪ねた後、岡山駅へ引揚げようと立寄って利用した駅である。
↓「駅舎」と言うより?必要な機材を置くための場所に「屋根」を設えたという感じもする…
↑ICカード乗車券のチャージも可能な券売機や、飲料の自販機も据えられて、利用者の用事は足りる…御手洗も別棟の小さな建物に在る。
↓周辺の路線図に運賃が書き込まれた、駅では御馴染なモノが掲出されている。
↑吉備津・岡山間の運賃は210円だ…
↓列車の時刻表が掲出されている。「存外に利用し易い運行体制では?」と思った。単線区間であるようだが…
吉備津駅は1904(明治37)年にこの路線が敷設された頃に設置された駅なのだそうだ。1971(昭和46)年から無人駅化されている。2007(平成19)年からICカード乗車券が利用可能になったそうだ。
↓対面方式になっている2本のホームが在る。1番側から入って、2番へは「歩いて線路を渡る」ということになっている。
↓「何も無い」という感で、こんな掲示が在った…
↓総社駅へ向かう列車が現れた…
↓出発して行ったのを見送った…
↓岡山駅へ向かう列車が視ええた…
↓列車はゆっくりと停止位置へ近付く…
↑これに乗った…
所謂「国鉄型」の、2輛連結で走るキハ47が主に行き交っていた。何か風情が濃い感じだった…長閑な風情を求めて、沿線を巡ることも叶いそうな運行体制でもあった。再訪を期したい…
岡山に至って宿を求めることにした中、岡山で一寸だけ動いてみた。そんな中でこの「桃太郎線」の列車を利用してみた。
↓岡山駅から20分に満たないような乗車だと思う。吉備津駅だ…
石段の下まで10分もかからずに歩いて着く場所の吉備津神社を訪ねた後、岡山駅へ引揚げようと立寄って利用した駅である。
↓「駅舎」と言うより?必要な機材を置くための場所に「屋根」を設えたという感じもする…
↑ICカード乗車券のチャージも可能な券売機や、飲料の自販機も据えられて、利用者の用事は足りる…御手洗も別棟の小さな建物に在る。
↓周辺の路線図に運賃が書き込まれた、駅では御馴染なモノが掲出されている。
↑吉備津・岡山間の運賃は210円だ…
↓列車の時刻表が掲出されている。「存外に利用し易い運行体制では?」と思った。単線区間であるようだが…
吉備津駅は1904(明治37)年にこの路線が敷設された頃に設置された駅なのだそうだ。1971(昭和46)年から無人駅化されている。2007(平成19)年からICカード乗車券が利用可能になったそうだ。
↓対面方式になっている2本のホームが在る。1番側から入って、2番へは「歩いて線路を渡る」ということになっている。
↓「何も無い」という感で、こんな掲示が在った…
↓総社駅へ向かう列車が現れた…
↓出発して行ったのを見送った…
↓岡山駅へ向かう列車が視ええた…
↓列車はゆっくりと停止位置へ近付く…
↑これに乗った…
所謂「国鉄型」の、2輛連結で走るキハ47が主に行き交っていた。何か風情が濃い感じだった…長閑な風情を求めて、沿線を巡ることも叶いそうな運行体制でもあった。再訪を期したい…
近鉄奈良駅にて…(2021.12.21)
↓関西方面に在ると、駅名ではなく路線名を書いた駅への入口を存外に視るような気がする…
↑同じような駅名でも両者が離れている例、1つの駅に複数の路線が乗り入れている例、そういうようなモノが多いので「〇〇駅」という駅名以上に、「ここに入ると△△線を利用可能」ということの方が「より重要」ということなのであろう。
「奈良」を名乗る駅はJRと近鉄とが持っているのだが、両者の間は存外に離れている。JRの奈良駅周辺に滞在する事例も在るが、今般は近鉄の駅に近い辺りに滞在したのだった…
↓地下に設けられている近鉄奈良駅である。ホームへ下るとこういう様子だった…
↑左は京都へ向かう列車で、右“は料金券”が必要な特急列車だ…大阪難波駅へ向かうそうだ…
↓様子を視ていれば、列車が現れた…
↓神戸三宮を目指す列車だ…
↑車輛は阪神の車輛である。この外観が気に入っている…
↓乗り込んで座席に陣取り、嵩張る(と言って、実に身軽だが…)モノや上着を荷棚へ…
近鉄奈良駅から神戸三宮駅まで、画の列車に乗り通すと概ね1時間半だ…
↑同じような駅名でも両者が離れている例、1つの駅に複数の路線が乗り入れている例、そういうようなモノが多いので「〇〇駅」という駅名以上に、「ここに入ると△△線を利用可能」ということの方が「より重要」ということなのであろう。
「奈良」を名乗る駅はJRと近鉄とが持っているのだが、両者の間は存外に離れている。JRの奈良駅周辺に滞在する事例も在るが、今般は近鉄の駅に近い辺りに滞在したのだった…
↓地下に設けられている近鉄奈良駅である。ホームへ下るとこういう様子だった…
↑左は京都へ向かう列車で、右“は料金券”が必要な特急列車だ…大阪難波駅へ向かうそうだ…
↓様子を視ていれば、列車が現れた…
↓神戸三宮を目指す列車だ…
↑車輛は阪神の車輛である。この外観が気に入っている…
↓乗り込んで座席に陣取り、嵩張る(と言って、実に身軽だが…)モノや上着を荷棚へ…
近鉄奈良駅から神戸三宮駅まで、画の列車に乗り通すと概ね1時間半だ…
「成り行き」に半ば任せてしまうかのように…=運行日誌(2021.12.21)
「緩急の“緩”」を頭の隅で意識したような気はするが、意識したとおりに動いていたのか否かはやや微妙であるような気もする。現在、岡山に求めた宿の居室に在って寛いで居る。
充実の一日の後に深い眠りを経て迎えた早朝だった。「会いたい人達が在る西日本」で動こうとしたが故に、関西まで南下し、その関西で少し張り切って動いていたが、奈良の後は「更に西…」へと動くという意図が在った。
奈良は存外に交通が便利で、列車に乗って色々な場所へ向かうことは容易い。勿論、奈良駅―JRも、近鉄も…―では、本当に巨大な駅のように夥しい数の行先の列車が行き交っているということでもないが、乗り継ぐ等して色々な方面に出ていくには不便でもないと思う。鉄道は「鉄道網」というネットワークを形成し、そのネットワークに入り込んで自在に移動するためのものであると思う。故に奈良駅の在り方で大変に結構なのだ。
今般は身軽に動き回っているので、ドンドン乗換えながら「更に西…」へと動くということもやり易い訳だ。逆に言えば「方々へ気楽に動きたい」ということのために身軽な感じで出て来たという一面も在る。
朝早く…JRの列車を利用すべく、JRの奈良駅を目指して歩こうとした。が、滞在していた宿は近鉄奈良駅の直ぐ傍だ。「近鉄の列車で適当な駅に動いて、そこから乗換で西へ進むコースに乗って…」という程度に思って近鉄奈良駅に入った…
近鉄奈良駅で視掛けた列車は、阪神の軌道にも乗り入れている列車で、「神戸三宮」と行先表示が出ていた。実は…この「近鉄奈良・神戸三宮」という列車が一寸気に入っている。乗ってみたくなった…そして乗車である。「近鉄奈良・神戸三宮」という列車について、「最初から最後まで」というように乗車している乗客は、もしかすると限られるかもしれない。沿線の様々な区間に関して、利用需要に応じて乗客がドンドン入れ替わりながら走っている列車だと思う。
近鉄の駅で列車に乗り込み、阪神の神戸三宮に着くという状況が久し振りだったので新鮮だった。一寸、駅から外に踏み出した。そして散策を始めたが…何やら坂の上の新神戸駅に至ってしまった。新神戸駅…新幹線の列車専用になっている駅だ。こんな場所に至ってしまうと…「新幹線の列車に乗ってみたい!」という程度のことを思う。「手軽な感じで…」と、新大阪・鹿児島中央間に列車に乗り、何となく岡山に至ってしまった…
岡山では、思い付きで西大寺や吉備津神社を訪ねてみた。そして…「一寸…ゆっくりしよう…」ということにした訳だ…「西進の“続き”」は「明日!!」である。
充実の一日の後に深い眠りを経て迎えた早朝だった。「会いたい人達が在る西日本」で動こうとしたが故に、関西まで南下し、その関西で少し張り切って動いていたが、奈良の後は「更に西…」へと動くという意図が在った。
奈良は存外に交通が便利で、列車に乗って色々な場所へ向かうことは容易い。勿論、奈良駅―JRも、近鉄も…―では、本当に巨大な駅のように夥しい数の行先の列車が行き交っているということでもないが、乗り継ぐ等して色々な方面に出ていくには不便でもないと思う。鉄道は「鉄道網」というネットワークを形成し、そのネットワークに入り込んで自在に移動するためのものであると思う。故に奈良駅の在り方で大変に結構なのだ。
今般は身軽に動き回っているので、ドンドン乗換えながら「更に西…」へと動くということもやり易い訳だ。逆に言えば「方々へ気楽に動きたい」ということのために身軽な感じで出て来たという一面も在る。
朝早く…JRの列車を利用すべく、JRの奈良駅を目指して歩こうとした。が、滞在していた宿は近鉄奈良駅の直ぐ傍だ。「近鉄の列車で適当な駅に動いて、そこから乗換で西へ進むコースに乗って…」という程度に思って近鉄奈良駅に入った…
近鉄奈良駅で視掛けた列車は、阪神の軌道にも乗り入れている列車で、「神戸三宮」と行先表示が出ていた。実は…この「近鉄奈良・神戸三宮」という列車が一寸気に入っている。乗ってみたくなった…そして乗車である。「近鉄奈良・神戸三宮」という列車について、「最初から最後まで」というように乗車している乗客は、もしかすると限られるかもしれない。沿線の様々な区間に関して、利用需要に応じて乗客がドンドン入れ替わりながら走っている列車だと思う。
近鉄の駅で列車に乗り込み、阪神の神戸三宮に着くという状況が久し振りだったので新鮮だった。一寸、駅から外に踏み出した。そして散策を始めたが…何やら坂の上の新神戸駅に至ってしまった。新神戸駅…新幹線の列車専用になっている駅だ。こんな場所に至ってしまうと…「新幹線の列車に乗ってみたい!」という程度のことを思う。「手軽な感じで…」と、新大阪・鹿児島中央間に列車に乗り、何となく岡山に至ってしまった…
岡山では、思い付きで西大寺や吉備津神社を訪ねてみた。そして…「一寸…ゆっくりしよう…」ということにした訳だ…「西進の“続き”」は「明日!!」である。
「おでん」を摘まんだ…:奈良(2021.12.20)
↓なかなかに素敵な内装の御店に立ち寄った…
↑午後5時過ぎ、御店が開いたばかりのような時間帯に立寄った…
実は奈良の方と御一緒し、大変に御世話になり、以前に話題にしていた「“おでん”の御店」に立寄るという相談になったのだった。
「相談」としたが、地元の方に好評で長く続いている御店であるということで「あそこにしてみましょう!」と持ち掛けて御案内願ったという方が正確かもしれない。何か酷く訪ねてみたかった…
↓こういうようなメニュー表が各テーブルに在る…
↑うどんや蕎麦とおでんを供している店だ…
おでんを御願いした…
↓奥から「がんもどき」、「たまご」で、手前が「梅焼き」だ…
↑「梅焼き」は梅のような丸い形で、何やら「分厚いハンペン?」という感じだった…
↓焼いた鮭の解し身が添えられる、小さ目な俵形が2つの「おにぎり」も美味い…
↑正直「凄く大きいのも…」と思ったが、それほど大きくなく、程好い量だった…
↓「たこ」が素晴らしいと思った…
↑絶妙な柔らかい感じで出汁に美味く馴染んでいる。そして「関西の流儀」のおでんと強く感じた…
↓「ロールキャベツ」、「ごぼう天」、「平天」と各々に好かった…
↑「ロールキャベツ」は「とろける…」という食感だった。
↓「厚あげ」、「こんにゃく」、「すじ」である…
↑牛筋は関西方面で好んで用いられるように思うのだが、これが素晴らしかった。素材の食感が出汁で非常に好い感じに仕上がっている。
奈良で少し知られた老舗であるということで、出汁の味わいは絶妙だった!!結局「〇〇(地域)風」というのは、地域の好みで完成度を高めた結果で、奈良では「関西風」が洗練度を高めたということなのかもしれない。
出先でも「1年の365日の中で三百数十日というような“普通”」という中で、地元の皆さんが愉しく普通に召し上がっている料理を摘まむことが叶えば、それで好い…ふらりと出て、辿り着いた場所の“日常”に触れるようなことが愉しいのだ。
↓こんな渋い外観の御店である。「店が閉まる時間帯が早めな感じ?」とされる奈良では「あそこは遅くまで開いている…」と知られている場所でもあるという。
色々な意味で「想い出の場所」となった。記憶に留めたい。そしてご案内頂けたことに大感謝!!
↑午後5時過ぎ、御店が開いたばかりのような時間帯に立寄った…
実は奈良の方と御一緒し、大変に御世話になり、以前に話題にしていた「“おでん”の御店」に立寄るという相談になったのだった。
「相談」としたが、地元の方に好評で長く続いている御店であるということで「あそこにしてみましょう!」と持ち掛けて御案内願ったという方が正確かもしれない。何か酷く訪ねてみたかった…
↓こういうようなメニュー表が各テーブルに在る…
↑うどんや蕎麦とおでんを供している店だ…
おでんを御願いした…
↓奥から「がんもどき」、「たまご」で、手前が「梅焼き」だ…
↑「梅焼き」は梅のような丸い形で、何やら「分厚いハンペン?」という感じだった…
↓焼いた鮭の解し身が添えられる、小さ目な俵形が2つの「おにぎり」も美味い…
↑正直「凄く大きいのも…」と思ったが、それほど大きくなく、程好い量だった…
↓「たこ」が素晴らしいと思った…
↑絶妙な柔らかい感じで出汁に美味く馴染んでいる。そして「関西の流儀」のおでんと強く感じた…
↓「ロールキャベツ」、「ごぼう天」、「平天」と各々に好かった…
↑「ロールキャベツ」は「とろける…」という食感だった。
↓「厚あげ」、「こんにゃく」、「すじ」である…
↑牛筋は関西方面で好んで用いられるように思うのだが、これが素晴らしかった。素材の食感が出汁で非常に好い感じに仕上がっている。
奈良で少し知られた老舗であるということで、出汁の味わいは絶妙だった!!結局「〇〇(地域)風」というのは、地域の好みで完成度を高めた結果で、奈良では「関西風」が洗練度を高めたということなのかもしれない。
出先でも「1年の365日の中で三百数十日というような“普通”」という中で、地元の皆さんが愉しく普通に召し上がっている料理を摘まむことが叶えば、それで好い…ふらりと出て、辿り着いた場所の“日常”に触れるようなことが愉しいのだ。
↓こんな渋い外観の御店である。「店が閉まる時間帯が早めな感じ?」とされる奈良では「あそこは遅くまで開いている…」と知られている場所でもあるという。
色々な意味で「想い出の場所」となった。記憶に留めたい。そしてご案内頂けたことに大感謝!!
遠望…:「一の鳥居」と御神体:大神神社(おおみわじんじゃ)(2021.12.20)
「大感謝!」という感だった一日に…=運行日誌(2021.12.20)
前夜から連泊中である奈良の宿に在る。精力的に「好い時間」を過ごした1日が終わろうとする中、何やら大きな充足感の中で「何時でも御休み頂いて構いません」という状態で寛いで居る。
前夜…少し馴染んだ感じの中である宿の居室で何となく寛いで居て、「何時でも御休み頂いて構いません」というような状態に入り、何時の間にか訳も分からない感じに休んで、そこから変な時間に目を覚まして、起きている状態と休んでいる状態を繰り返す習性…全然変わらない。そういう中、奈良の宿の居室でこの早朝を迎えた。
今般関西に入ったのは「会いたい人達が在る西日本」で動こうとしたからに他ならない。その“第一弾”が今日なのだ。それで「眠っている場合ではないぞ!!」と無意識に「早寝早起き」になっているのかもしれない。そんなことを想わないでもなかった。
北海道では、「関西の街」と言えば大阪か京都が圧倒的な存在感を示している。それらを遥かに超えて、「関西」とでも言えば「<USJ>に行きたい!!」という話しになる。(<USJ>を関西の地元では寧ろ「ユニバ」と呼んでいるように見受けられるが…)そして大阪でもなく、見所が非常に多いと見受けられる京都に宿を求めた場合でさえ、何やら限られた時間の中で<USJ>を訪ねるに終始という話しも聞く。そんな中に在って自身は「奈良派」を自称している「少数派」だ。自身は大阪府、京都府、兵庫県、滋賀県、和歌山県、奈良県と関西各地に足跡を残しているのだが、<USJ>を訪ねた経験は現時点で皆無だ。そして「国内の遠い辺りから関西に入る来訪者」の選択としては「少数派に過ぎる?」とも見受けられるが、敢えて奈良に泊るようなことも敢えてする。
そういうことで、奈良の方とブログを介してやり取りをするようになって「何時か御会いしましょう」ということになっていた。その「何時か」を今日は実現したのだ。「実は未だ然程親しんでいるのでもない部分の奈良県に親しみたい」という自身の希望を汲取って頂き「明日香村へドライブに…」と御提案を頂き「素晴らしい!」と実施に至った。
先方から「6時半出発」と仰って頂いた中、「では宿の前で待ちます」という話しで、実際に宿の前―バス停が何個か在って、自家用車を停め悪い場所だが…―で御会いした。何やら「“昭和時代”辺りの流儀か?」という感じだった。そういうのも好い…
非常に天候の好い一日となった。適当に雲は在ったが、天は明るく、風は微弱であり、温かくはないかもしれないながら酷く寒いのでもない状態だ。そんな中で<平城宮跡>で朝陽が光を解き放とうとするような様子を眺めてから出発した。有名な社寺や遺跡を巡り、明日香村の景観を愉しみ、奈良市内の<ならまち>地区を夕刻に少々歩いた。利用し易い飲食店が見出し悪いかもしれない明日香村で動こうとしている関係上、午前中に「柿の葉寿司」を仕入れて、素晴らしい眺望を丘の上の展望台で愉しみながら摘まんだランチが愉しかった。そして地元の人達に愛されるおでんの店で夕食を愉しんだ。
本当に、早朝から夜まで、何か「遠方に出ている身内が久々に現れたので一寸辺りでドライブ」というような具合にお迎え頂き、非常に嬉しく、また正しく「実は未だ然程親しんでいるのでもない部分の奈良県に親しみたい」という希望が叶った。明日香村辺りは、所謂「飛鳥時代」の様々な文物、遺構や遺跡、慣習、伝承が色々と在る不思議な場所で、厳しく規制して景観が護られていて、何やら面白いが交通は不便だ。村内の鉄道駅を発着する列車はそこそこに在るが、駅から村内各所を訪ねるのが少し不便なのだ。そういう場所を選んで、ドライブに御誘い頂いたのは幸いだった。そして少数派かもしれない「奈良派」が多少でも増えればという先方の熱意も非常に嬉しかった。
明日香村辺りの、所謂「飛鳥時代」の様々な文物、遺構や遺跡に関しては、「考古学」(何かを発掘し、出て来たモノから古い時代を推察する)と「歴史学」(書き綴られた記録を読み解き、古い時代の様子を考察する)との「境界?」というような、不思議な存在のモノが多い。「どんなことをして造った?」という要素や、華やかな壁画が伝わるという場所が在る古墳、「悪いモノが入らないように“結界”を設ける」とする川の辺りに綱を張る慣例、誰が何のために造ったのかよく判らない中で色々な伝説めいた話しが伝わる不思議な石造物、日本国内に仏教が入って普及し始めたような頃に起源を有しながら栄枯盛衰を経験してきたという寺院等々に触れる中で「考古学と歴史学との境界」というようなことを想ったのだ。
様々な事柄は追って綴って行くようにしたい。明日は?多分「明日の風」に乗るようにするであろう…
前夜…少し馴染んだ感じの中である宿の居室で何となく寛いで居て、「何時でも御休み頂いて構いません」というような状態に入り、何時の間にか訳も分からない感じに休んで、そこから変な時間に目を覚まして、起きている状態と休んでいる状態を繰り返す習性…全然変わらない。そういう中、奈良の宿の居室でこの早朝を迎えた。
今般関西に入ったのは「会いたい人達が在る西日本」で動こうとしたからに他ならない。その“第一弾”が今日なのだ。それで「眠っている場合ではないぞ!!」と無意識に「早寝早起き」になっているのかもしれない。そんなことを想わないでもなかった。
北海道では、「関西の街」と言えば大阪か京都が圧倒的な存在感を示している。それらを遥かに超えて、「関西」とでも言えば「<USJ>に行きたい!!」という話しになる。(<USJ>を関西の地元では寧ろ「ユニバ」と呼んでいるように見受けられるが…)そして大阪でもなく、見所が非常に多いと見受けられる京都に宿を求めた場合でさえ、何やら限られた時間の中で<USJ>を訪ねるに終始という話しも聞く。そんな中に在って自身は「奈良派」を自称している「少数派」だ。自身は大阪府、京都府、兵庫県、滋賀県、和歌山県、奈良県と関西各地に足跡を残しているのだが、<USJ>を訪ねた経験は現時点で皆無だ。そして「国内の遠い辺りから関西に入る来訪者」の選択としては「少数派に過ぎる?」とも見受けられるが、敢えて奈良に泊るようなことも敢えてする。
そういうことで、奈良の方とブログを介してやり取りをするようになって「何時か御会いしましょう」ということになっていた。その「何時か」を今日は実現したのだ。「実は未だ然程親しんでいるのでもない部分の奈良県に親しみたい」という自身の希望を汲取って頂き「明日香村へドライブに…」と御提案を頂き「素晴らしい!」と実施に至った。
先方から「6時半出発」と仰って頂いた中、「では宿の前で待ちます」という話しで、実際に宿の前―バス停が何個か在って、自家用車を停め悪い場所だが…―で御会いした。何やら「“昭和時代”辺りの流儀か?」という感じだった。そういうのも好い…
非常に天候の好い一日となった。適当に雲は在ったが、天は明るく、風は微弱であり、温かくはないかもしれないながら酷く寒いのでもない状態だ。そんな中で<平城宮跡>で朝陽が光を解き放とうとするような様子を眺めてから出発した。有名な社寺や遺跡を巡り、明日香村の景観を愉しみ、奈良市内の<ならまち>地区を夕刻に少々歩いた。利用し易い飲食店が見出し悪いかもしれない明日香村で動こうとしている関係上、午前中に「柿の葉寿司」を仕入れて、素晴らしい眺望を丘の上の展望台で愉しみながら摘まんだランチが愉しかった。そして地元の人達に愛されるおでんの店で夕食を愉しんだ。
本当に、早朝から夜まで、何か「遠方に出ている身内が久々に現れたので一寸辺りでドライブ」というような具合にお迎え頂き、非常に嬉しく、また正しく「実は未だ然程親しんでいるのでもない部分の奈良県に親しみたい」という希望が叶った。明日香村辺りは、所謂「飛鳥時代」の様々な文物、遺構や遺跡、慣習、伝承が色々と在る不思議な場所で、厳しく規制して景観が護られていて、何やら面白いが交通は不便だ。村内の鉄道駅を発着する列車はそこそこに在るが、駅から村内各所を訪ねるのが少し不便なのだ。そういう場所を選んで、ドライブに御誘い頂いたのは幸いだった。そして少数派かもしれない「奈良派」が多少でも増えればという先方の熱意も非常に嬉しかった。
明日香村辺りの、所謂「飛鳥時代」の様々な文物、遺構や遺跡に関しては、「考古学」(何かを発掘し、出て来たモノから古い時代を推察する)と「歴史学」(書き綴られた記録を読み解き、古い時代の様子を考察する)との「境界?」というような、不思議な存在のモノが多い。「どんなことをして造った?」という要素や、華やかな壁画が伝わるという場所が在る古墳、「悪いモノが入らないように“結界”を設ける」とする川の辺りに綱を張る慣例、誰が何のために造ったのかよく判らない中で色々な伝説めいた話しが伝わる不思議な石造物、日本国内に仏教が入って普及し始めたような頃に起源を有しながら栄枯盛衰を経験してきたという寺院等々に触れる中で「考古学と歴史学との境界」というようなことを想ったのだ。
様々な事柄は追って綴って行くようにしたい。明日は?多分「明日の風」に乗るようにするであろう…