振り返ると「始まり」が「何時頃か?」ということが曖昧になってしまっていることに思い至る。そういう程度に時日を経ている、自身の中の慣例が在る。
年末頃に「随意に過ごす時間」を設けてみる、少し俗な表現を用いるなら「好き勝手にフラフラとする」ということ、そして換言すると「休暇を取得する」ということが慣例化している。
実は…その“慣例”の時期に入ろうとしている。
「好き勝手にフラフラとする」と言って、それは“常態”というようなものかもしれない。気儘な「一人住まい」を延々と続けている訳なのだから。が、ここで「好き勝手にフラフラとする」と表現する状態は、「明日は何処って?知らない…明日は朝早くから動いて、足が向くままで、気が向くか草臥れるかした辺りで休む筈だ」ということをするという意味である。
こういう営為を巷では「気楽な旅行に出る」とでも表現すると思う。が、自身の感覚としては“旅行”とでも言えば「或る程度、丁寧に時間を掛けた準備手配をした上で動き回る」というようなことであるように思う。自身の営為は「さぁ!行こう!」というように「ふらりと出てしまう…」ということを仕出かして差し支えない時間を設定するというだけで、それ以外には「丁寧に時間を掛けた準備手配」という程のことはしない。または「出来ない」とか「やりたくない」というようにさえ考えてしまう。
「丁寧に時間を掛けた準備手配」について「しない」、「出来ない」、「やりたくない」というのも「著しく否定的」かもしれない。完全に排除しようとまでもしてはいないが、避けるかのように考えてしまう理由は在る。
「気楽な旅行に出る」とでも表現されそうな営為を「好き勝手にフラフラとする」と表現するというのは、「訪ねてみたい場所が余りにも多い」からなのだ。行先等を細かく設定し悪いということが在る。「旅行?何方へ?」とでも問われると、「まぁ、色々と…」と言葉を濁してしまう場合さえ在る程度に、方々を駆け巡ってしまう、またはそうしてみたくなる性分なのだ。
実際には相当に多くの場所を短い時間で駆け回ってしまったにしても、「詰め過ぎたスケジュールは狂い易いので抵抗感が強い」というように考えることも在る。例えば或る地域でA、B、C、Dという程度の数箇所を訪ねるように事前に計画したとする。そういう場合に往々にして在るのは、「Aが余りに凄く、酷く時間を要したのでB、C、Dは訪ねなかった」とか「事前に計画してみた所は然程興趣が深いのでもなかったが、偶々出くわした場所が凄く好かった」というようなことだ。だから、この例で言うA、B、C、Dに相当するような場所の名称や最寄駅等をメモしておく程度のことをする場合は在るが、それ以上の「スケジュールの組み立て」的なことは敢えてしない。
また、乗物で移動するような「単なる手間」というようなことも「それ自体を愉しもうとする」という傾向が酷く強い。「単なる手間」となる移動も、「見慣れぬ路の彼方の見知らぬ街へ…」というような、自身にとっての興趣が強く沸き起こる訳だ。
「自身の“休暇”」は飽くまでも自身が主演、監督、脚本で「好き勝手!!」が許容される筈、または「許容されなければならない」と思っている。だから、「好き勝手にフラフラとする」と表現するような「自身の流儀」を勝手に貫きたいのだ。
「丁寧に時間を掛けた準備手配」ということを「しない」、「出来ない」、「やりたくない」という程度に考え、結局は戯れに「出国/帰国」とも称するが、設定した「期間」の最初と最後の大きな移動に関することをとりあえず決める程度のことしかしない。が、それでも「訪ねてみたい場所が余りにも多い」ので何時までも定まらない。漸く固まって手配完了の頃には、出発が間近になり過ぎている。そして出発して以降も頭の中で何度も「東へ?西へ?南へ?南東や南西という案も在り得る…」と考えている。そしてそんな「過程そのもの」も「愉しみの一部」と考えている面も在る。
そういう「好き勝手!!」を「勝手な流儀」で展開しようとする中であっても「これは外さない!」と、飽くまでも随意に自身の意思で「この日のこの時間帯はここに身を置きたいから…」という程度に考える場合も在る。
最近の例では…過日訪ねた高野山の例が在る。あれは「行きたい!!」という思いが募り、それを実行する限られた期間を設定したのだったが、その中で「こういう感じで辿り着く…辿り着いてこうする…とすれば、辿り着く前段階、後段階が生じて…」という程度に考えていて、自身としてはやや珍しいのだが「動く期間の輪郭」が事前に殆ど決まってしまっていた。
今般は、その高野山の例とは違う。が「行きたい!!」が幾分は在るので、「X日に○○に在るように…」という程度のことは考えた。が、そういう部分以外は飽くまでも“流儀”に従っている。本当に「好き勝手にフラフラとする」という訳だ。気儘に「見慣れぬ路の彼方の見知らぬ街へ…」と方々へ動き、「傍目には酷く忙しそう?」という程度に動くか、または「○○の休日」という程度に過ごすかを重ねる訳だ。酷く心弾んでいる!!
「訪ねてみたい場所が余りにも多い」という中、少しでも多くそれらを訪ねたいという思いが在る。加えて、過去に訪ねて好かった場所に関しては「もっともっと親しみたい」という思いも在る。訪ねる場所に関して、言わば「新規」と「繰り返し」ということになる。客観的な基準等は全く無いが、それらの「新規」と「繰り返し」とを「その場の思い付き」というような程度に雑ぜ合わせる。そういうのが好い…
結局、或る時に自身の人生が不意に終焉でも迎えるようなことになった時「あそこに行っておきたかった…」という悔恨を少しでも少なくしたい…最近はそういうような余計なことまでも思うようになっていて、それ故に「“何処かへ行きたい”症候群」と戯れに呼ぶ“症状”が悪化してしまっているかもしれない。
思うことを色々と綴った。何れにしても、明早朝に色濃い「夜の残滓」の中に灯りを漏らしている「我が“始発駅”」から「見慣れぬ路の彼方…」を向けて、(当面は馴染んだ路を往くことになるが…)出発するのが待ち遠しい。