「フライト前に道草」というのとは別に「朝の散策」ということにして、未だ暗い間に宿から戸外に出て歩き廻った。
八坂の塔を望む辺りや
坂道と坂道とが交差している辺りを巡っていたが、やがて少しばかり明るい感じになって来た。
↓少し開けた感じの場所に行き当たり、何やら酷く大きく立派な門が在った…

↑門の右側に「仁王門」という文字が読めるが、中央に扁額が在る。「何?」と思いながら流麗な書体を視ると…「清水寺」と読めた。
「清水寺!?」と些か驚いた。何か深く意図せずに辿り着いてしまった…本当に、辺りを歩き廻って偶然に出くわしたという具合だ。正式には「音羽山清水寺」(おんわさんきよみずでら)と称するそうだ。そう聞いて、敢えて記事の題名を「音羽山清水寺」とした。
「京都の寺」ということになると、平安京遷都以降の永い歩みの中で登場した寺が多い―「殆ど」とすべきか…―訳だが、この清水寺は「平安京遷都以前からの経過」も有しているのだという。
現在の清水寺の場所辺りで行叡(ぎょうえい)という伝説的な僧が778年頃に千手観音を祀っていたという故事が伝わり、それを清水寺の起源とすることではあるらしい。が、780年にかの坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(758-811)が音羽山で観音に帰依するようになり、観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという故事も伝わる。その後、坂上田村麻呂は征夷大将軍となって、東国の蝦夷平定に携わる。無事に役目を果たすことが叶うよう、この寄進した本堂で観音像に祈願をしていた。任務を果たして後、798年に至り坂上田村麻呂は延鎮(えんちん)という僧と協力して本堂を改築し、観音の脇に毘沙門天と地蔵菩薩の像を祀る、現在にまで受け継がれる清水寺の原型が成立したという。
上述の故事により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、坂上田村麻呂を本願というように位置付けているのだそうだ。
810年に嵯峨天皇の勅許を得て清水寺は「公認された寺」ということになって活動を続ける。西暦1000年を過ぎたような頃に登場している『枕草子』や『源氏物語』に、清水の観音の縁日、または観音詣でという言及が見受けられるということで、その頃には既に「よく知られた存在」となっていたことが伺える。
清水寺も、古くからの経過を有する寺の例に漏れず、伽藍が「損なわれ、再建され…」ということが何度も繰り返されて来た経過が在る。現在の本堂は徳川家光(江戸幕府の第3代将軍)の寄進で1633年に再建が成ったというが、その前後の時代に建っている堂が境内には多いようだ。
↓少しばかり歩を進めると、池の水面に塔が映り込んでいる。

↓少し高い辺りに華麗な伽藍が視えていた…

この清水寺だが、建物の中のような有料拝観の場所は開けている時間帯に有料で入るようになっているようだが、少し広い境内を随時散策して差し支えないような具合だった。他所の人達が何やら散策をしたり、カメラを手に風景を撮っている、記念写真を撮っているという様子も存外に多く見受けられた。そこでこの清水寺に出くわしたのも良縁であると、少々動き回ってみたのだった…
↓所謂「清水の舞台」…本堂を見上げた…

↓深夜から早朝に些か雪が交った様子が、少し離れて建物の屋根等を視ると窺えた…

↓脇の階段を上がると「舞台」の高さが判り易い…遠くに<京都タワー>も視えていた…

↓この「舞台」も見事に太い木を組み上げて造られている…

↓椿だと思うが花が咲いていて、花に雪が被っていた…

↓些かの雪が見受けられた。少し寒い朝ではあった…

清水寺は、古くからよく知られる建物が豊かな自然の中に在るという、非常に人気が高い場所だ。この清水寺に関しては、高校生であった頃の修学旅行で立ち寄ったような記憶が在るのだが、それ以外には立ち寄った経過が在ったか否か思い出せない。そういう場所に「期せずして」というようなことで辿り着いた。それも「京都を離れ…」という予定の朝に「何となく散策…」という状況下でのことなのだ。何やら妙に興味深い…
平安京遷都以前からの経過…或いは平安時代に知られる存在になっていた時期以降だけを数えても千年を超える経過の清水寺である。そういう場所に「偶然出くわした」という感じが、何か酷く嬉しかった…