「立寄った記憶」は在る他方で「辺りの呼称は??」というような場合が「存外に多い?」という気がすることも在る。
「こういうモノが在って、こういう場所を通って辿り着いて…」というような次元のことをかなり漠然と覚えている。忘れてしまうのでもない。が、「あそこは何と呼ぶのだ?!」という場合が生じてしまう。
「東側(関西や途中の岡山等)から広島へ向かう?敢えて呉を廻って?」というようなことを思い付いた時、以前に呉に立ち寄った際の「こういうモノが在って、こういう場所を通って辿り着いて…」というような次元のことを幾分思い出した。そして「あそこは何と呼ぶのだ?!」という場合が見事に生じた。
呉は海上自衛隊の艦艇が利用する港で、様々な種類の艦艇が在る。潜水艦まで在る。潜水艦というのは非常に独特な形をしていて、街には潜水艦のことを紹介する海上自衛隊の史料館まで在るのだが、現在活動している潜水艦が呉を拠点にしているので、それが停泊する様子が視える場所が在る。以前に呉に立寄った時、その潜水艦が視える場所に寄った覚えが在る。それを思い出したのは好いが、「あそこは何と呼ぶのだ?!」ということになってしまった。
「潜水艦が停泊している様子が視える」というのは、「非常に特徴的な景色」ということになる訳で、呉に関する様々な情報を調べると直ぐに場所は判った。呉で視られるような次元で「潜水艦が停泊している様子が視える」というような例は、国内外に広く類例を求め悪いという程度に「特徴的な景色」ということにもなるらしい。
<アレイからすこじま>という緑地を目指せば善いのだ。整備された緑地でその「非常に特徴的な景色」を愉しむことが叶うのだ。
「アレイ」とは英語の「alley」で「小路」という程の意味だ。「からすこじま」とは辺りに在った「烏小島」という島に因むのだという。周囲が40mという小さな「烏小島」は、大正時代に魚雷発射訓練場を設けようとした時に埋め立ててしまっていて、現在は無いということだ。
この<アレイからすこじま>を目指そうと、呉駅辺りから歩き始めて思い違いで妙な方向に歩いて、また呉駅へ戻って再出発で辿り着くというような余計なこともしてしまったが、それでも辿り着いた時には少し嬉しかった。
↓潜水艦が停泊している様子が視えた…
↓水上を往来する艦艇も見受けられるが、艦体の大部分が海中に沈んでいる潜水艦が視えているのは興味深い…
↓潜水艦も少し纏まった数が並んでいるという様子は、何やら独特で面白い…
↓潜水艦は、水圧の強い海底を航行するのに好適な形という、「機能美を突き詰めた」というような形状であるのが面白いと思う…
↓古くは魚雷を動かすために用いられたというクレーンが在る…現在では“オブジェ”という感ではあるが…
↓暫し、こういう様子を見入っていた…
この<アレイからすこじま>…強く記憶に留め、きっとまた訪ねてみたい…
呉線の車窓を愉しんだ…(2021.12.22)
所謂“中国地方”というのは、本州という長大な島の南西部を占めていて、東西にやや広く拡がっている。その“中国地方”の瀬戸内海側で、やや西寄りな広島と、東寄りな岡山が「二大都市」というようなことになるのだと思う。
この広島と岡山との間を往来しようとするなら、幾つもの経路、幾つもの交通手段が在り得ると思う。所要時間も料金も様々であろう。今般、「岡山から広島へ」という移動を企図した。少し踏み込めば、奈良で過ごした後に広島を目指そうとしていたので「関西圏から広島へ」という移動をしたことになるのだが、奈良を発った早朝に神戸へ直通する列車に乗り込み、辿り着いた神戸で新幹線の駅まで歩いてしまったことから、何となく新幹線の列車に乗車してみたくなり、一気に広島入りでもなく岡山に寄り道ということにしてしまった。そういう訳で「岡山から広島へ」ということになった。
その「岡山から広島へ」ということであれば、手中に在った<青春18きっぷ>による移動―普通列車を乗り継いでの移動―を「し易い…」と見受けられる地域だと思った。地域によっては「利用を阻んでいる?!」と首を傾げたい程度に列車が少ない場合も在るが、岡山・広島間であれば幾つかの経路でドンドン乗り継いで、順調に移動し得ると観た。
そして思い付いたのは「久し振りな感じで呉に寄りながら広島に至る」という経路である。
岡山は様々な路線の結節点となっているが、最も列車本数が多いのは、概ね瀬戸内海に沿って東西に延びる山陽線であると思う。<青春18きっぷ>による移動―普通列車を乗り継いでの移動―についても、その山陽線の列車で西へ進めば広島は然程遠くもないように思う。が、敢えて「呉線」を経由してみることとした。
「呉線」というのは、広島県内の三原から海岸部を大きく回って呉を経て広島の手前の海田市(かいたいち)までの87㎞の区間を指すという。呉のやや東側の広辺りを発着している列車の多くは海田市から更に進み、広島へ至るような運行が多いので、広島までが「呉線」であるように感じないでもないのだが、路線の区分けとしては海田市までであるそうだ。
海田市と呉との間は1903(明治36)年に鉄道が開通している。呉が海軍工廠を要する重要な軍港として発展しようという中、広島との間を結ぶ交通の整備が急がれて開通したのであろう。東側の三原とを結ぶ部分は、1930(昭和5)年に部分開業で、1935(昭和10)年に呉までの全線が開通している。従って、現在の呉線は1935(昭和10)年以来の歴史を有するということになる。
岡山から西へ、山陽本線の普通列車を利用するとなれば、余り深く考えなくても駅まで行くと「西へ進む列車」には乗車可能だ。
↓こういうような山陽線を行き交う列車に岡山駅で乗車する…
↓早朝からその列車に乗って糸崎に至った。糸崎から広島方面へ向かう列車に乗換える…
↓隣の三原に到り、三原で呉線の列車に乗り換えて呉へ向かったのだった。
因みに…岡山で管轄している線区では古くからの車輛も見受けられるのだが、広島で管轄している線区では「近年の西日本の主力」に躍進した感じの227系電車が専らという感じになった昨今だ。227系電車は広島で初めて登場した後、各地の線区で古い車輛を置き換える際に採用されているという経過である。
この227系電車の列車に三原で乗り込み、呉を目指した…
↓進行方向左側に陣取ったのだったが…呉線の区間に入れば、車窓に海が視えた!
↓そして造船所も視えた…
↓対岸の四国、愛媛県を本拠地とする会社の工場であったらしい…この辺り、広島県、愛媛県というような瀬戸内海辺りは造船業が盛んな地域でもあることを思い出した…
↓朝が遅い12月であるからだと思うのだが、何やら朝の光と海の風情が酷く好い感じだ…
↓海岸に迫るように集落が見受けられ、海には「養殖?牡蠣!?」というモノも視えるようになる…
↑「広島県」と言うと、殊にやや西寄りな辺りでは「牡蠣の養殖」が盛んであるという…
牡蠣の養殖だが、北海道の宗谷地方と少し縁が在る。
牡蠣の幼生は2週間程浮遊しているが、やがて岩場等に付着するようになる。養殖ではこの性質を利用する。幼生が浮遊している海中にホタテの貝殻を沈めると、幼生は貝殻に付着する。「採苗」と呼ばれるそうだ。
この「採苗」に用いるホタテの貝殻は北海道の宗谷地方から大量に供給されている。稚内港には、この用途で広島県へ送るための夥しい数の貝殻が袋に入って積まれているのが見受けられる場合も在るのだ。
↓やがて呉が近付く…
↓「いよいよ到着!」と列車の先頭側に歩を進めて、前方を少し眺めてしまった…
↓列車は呉駅に到着し、乗降が済んで、直ぐに行先である広島を目指して発車する…
ハッキリ言えば、岡山から広島へ普通列車で移動しようとする中、呉線経由は「遠回り」である。が、車窓を愉しんで、色々と面白い呉に寄ってみるということなら、積極的に「呉線経由」を択んでも好いような気がする。
今般、呉線を列車で移動したというのが酷く愉しかった…こうして写真を多数掲出して、記憶を強く留めたいと思った…
この広島と岡山との間を往来しようとするなら、幾つもの経路、幾つもの交通手段が在り得ると思う。所要時間も料金も様々であろう。今般、「岡山から広島へ」という移動を企図した。少し踏み込めば、奈良で過ごした後に広島を目指そうとしていたので「関西圏から広島へ」という移動をしたことになるのだが、奈良を発った早朝に神戸へ直通する列車に乗り込み、辿り着いた神戸で新幹線の駅まで歩いてしまったことから、何となく新幹線の列車に乗車してみたくなり、一気に広島入りでもなく岡山に寄り道ということにしてしまった。そういう訳で「岡山から広島へ」ということになった。
その「岡山から広島へ」ということであれば、手中に在った<青春18きっぷ>による移動―普通列車を乗り継いでの移動―を「し易い…」と見受けられる地域だと思った。地域によっては「利用を阻んでいる?!」と首を傾げたい程度に列車が少ない場合も在るが、岡山・広島間であれば幾つかの経路でドンドン乗り継いで、順調に移動し得ると観た。
そして思い付いたのは「久し振りな感じで呉に寄りながら広島に至る」という経路である。
岡山は様々な路線の結節点となっているが、最も列車本数が多いのは、概ね瀬戸内海に沿って東西に延びる山陽線であると思う。<青春18きっぷ>による移動―普通列車を乗り継いでの移動―についても、その山陽線の列車で西へ進めば広島は然程遠くもないように思う。が、敢えて「呉線」を経由してみることとした。
「呉線」というのは、広島県内の三原から海岸部を大きく回って呉を経て広島の手前の海田市(かいたいち)までの87㎞の区間を指すという。呉のやや東側の広辺りを発着している列車の多くは海田市から更に進み、広島へ至るような運行が多いので、広島までが「呉線」であるように感じないでもないのだが、路線の区分けとしては海田市までであるそうだ。
海田市と呉との間は1903(明治36)年に鉄道が開通している。呉が海軍工廠を要する重要な軍港として発展しようという中、広島との間を結ぶ交通の整備が急がれて開通したのであろう。東側の三原とを結ぶ部分は、1930(昭和5)年に部分開業で、1935(昭和10)年に呉までの全線が開通している。従って、現在の呉線は1935(昭和10)年以来の歴史を有するということになる。
岡山から西へ、山陽本線の普通列車を利用するとなれば、余り深く考えなくても駅まで行くと「西へ進む列車」には乗車可能だ。
↓こういうような山陽線を行き交う列車に岡山駅で乗車する…
↓早朝からその列車に乗って糸崎に至った。糸崎から広島方面へ向かう列車に乗換える…
↓隣の三原に到り、三原で呉線の列車に乗り換えて呉へ向かったのだった。
因みに…岡山で管轄している線区では古くからの車輛も見受けられるのだが、広島で管轄している線区では「近年の西日本の主力」に躍進した感じの227系電車が専らという感じになった昨今だ。227系電車は広島で初めて登場した後、各地の線区で古い車輛を置き換える際に採用されているという経過である。
この227系電車の列車に三原で乗り込み、呉を目指した…
↓進行方向左側に陣取ったのだったが…呉線の区間に入れば、車窓に海が視えた!
↓そして造船所も視えた…
↓対岸の四国、愛媛県を本拠地とする会社の工場であったらしい…この辺り、広島県、愛媛県というような瀬戸内海辺りは造船業が盛んな地域でもあることを思い出した…
↓朝が遅い12月であるからだと思うのだが、何やら朝の光と海の風情が酷く好い感じだ…
↓海岸に迫るように集落が見受けられ、海には「養殖?牡蠣!?」というモノも視えるようになる…
↑「広島県」と言うと、殊にやや西寄りな辺りでは「牡蠣の養殖」が盛んであるという…
牡蠣の養殖だが、北海道の宗谷地方と少し縁が在る。
牡蠣の幼生は2週間程浮遊しているが、やがて岩場等に付着するようになる。養殖ではこの性質を利用する。幼生が浮遊している海中にホタテの貝殻を沈めると、幼生は貝殻に付着する。「採苗」と呼ばれるそうだ。
この「採苗」に用いるホタテの貝殻は北海道の宗谷地方から大量に供給されている。稚内港には、この用途で広島県へ送るための夥しい数の貝殻が袋に入って積まれているのが見受けられる場合も在るのだ。
↓やがて呉が近付く…
↓「いよいよ到着!」と列車の先頭側に歩を進めて、前方を少し眺めてしまった…
↓列車は呉駅に到着し、乗降が済んで、直ぐに行先である広島を目指して発車する…
ハッキリ言えば、岡山から広島へ普通列車で移動しようとする中、呉線経由は「遠回り」である。が、車窓を愉しんで、色々と面白い呉に寄ってみるということなら、積極的に「呉線経由」を択んでも好いような気がする。
今般、呉線を列車で移動したというのが酷く愉しかった…こうして写真を多数掲出して、記憶を強く留めたいと思った…
<三備一宮 吉備津神社 御神酒>…(2021.12.21)
吉備津神社を訪ねてみた際、石段の下辺りに在った店で「気になるモノ」を眼に留め、それを求め、抱えて岡山の宿に入った。
↓吉備津神社の「御用達」という清酒である。
↑<御神酒>で「ごしんしゅ」というように、売っていた御店の方は言っていた。一見した時、正直「如何いうように読む?」とも思った…
↓岡山市内の酒造会社が製造しているようだ。極聖(きわみひじり)という銘の酒である。
↓箱から引っ張り出すと、300ml入りの小さ目な瓶で、1人で頂くにも好適である程度のモノだ…
↓時々「限定販売」というような酒で見掛ける、製造者と販売者が別々になっている例のモノだとラベルで判った。
何やら面倒なことは如何でも構わない。何やら「行掛り…」というように岡山へ至り、岡山で宿を求めてゆったりとしたが、岡山県下の神社の中でも殊に深い由緒が在るらしい吉備津神社を訪ねられたということは、自身の慶びが大きい。それを祝して、翌日からの「旅の続き」に向けて呑みたい気分が高まっていた。そこでこの<三備一宮 吉備津神社 御神酒>に登場願ったのだ。
極聖(きわみひじり)という銘の酒はなかなかに評価が高いようだ。芳醇でありながらも「すうっと…」という具合に呑めるような按配で、「岡山県の清酒!佳い…」と思った。
この<御神酒>は、何か「三備一宮」とも呼ばれ、嘗ての吉備国、その後の備前、備中、備後を護る鎮守との縁を深めてくれた存在というようにも感じられる。御蔭様で美味しくこれを空け、深く眠って翌早朝に元気に出発となったのだった。
↓吉備津神社の「御用達」という清酒である。
↑<御神酒>で「ごしんしゅ」というように、売っていた御店の方は言っていた。一見した時、正直「如何いうように読む?」とも思った…
↓岡山市内の酒造会社が製造しているようだ。極聖(きわみひじり)という銘の酒である。
↓箱から引っ張り出すと、300ml入りの小さ目な瓶で、1人で頂くにも好適である程度のモノだ…
↓時々「限定販売」というような酒で見掛ける、製造者と販売者が別々になっている例のモノだとラベルで判った。
何やら面倒なことは如何でも構わない。何やら「行掛り…」というように岡山へ至り、岡山で宿を求めてゆったりとしたが、岡山県下の神社の中でも殊に深い由緒が在るらしい吉備津神社を訪ねられたということは、自身の慶びが大きい。それを祝して、翌日からの「旅の続き」に向けて呑みたい気分が高まっていた。そこでこの<三備一宮 吉備津神社 御神酒>に登場願ったのだ。
極聖(きわみひじり)という銘の酒はなかなかに評価が高いようだ。芳醇でありながらも「すうっと…」という具合に呑めるような按配で、「岡山県の清酒!佳い…」と思った。
この<御神酒>は、何か「三備一宮」とも呼ばれ、嘗ての吉備国、その後の備前、備中、備後を護る鎮守との縁を深めてくれた存在というようにも感じられる。御蔭様で美味しくこれを空け、深く眠って翌早朝に元気に出発となったのだった。
飛鳥大佛:飛鳥寺:明日香村(2021.12.20)
甘樫丘で眺望を愉しみ、「柿の葉ずし」を摘まんでから歩き、「季節外れ?」な花を見掛け、かの蘇我蝦夷に関する伝承の在る塚の辺りを通って少し変わったポストが在る辺りへ、飛鳥寺の境内に到着した。
が、裏側から中に入り込んだというような感だったので、改めて正面に一寸廻った。
↓これが正面の出入口である。
↓この標石は18世紀末、寛政年間のモノと伝えられているという。
↑この寺は、建物が損なわれて何度も立て直されていて、往古の威容も現在では感じられないのだが、1400年間以上も場所が動いていない大佛が非常に知られている。230年程前の寛政年間に在っても、この大佛は知られていたということなのであろう。
↓大佛が収められている建物の屋根である…
拝観料を収めて大佛が在る建物に入ろうとした際、カメラを提げていたということも在ったが、窓口の方は「大佛の写真は撮って頂いて構いません」と仰った。こちらから申し出たのでもなく、そういう話しで「少し珍しい」と思った。「では大佛様の御尊顔を拝し、御姿を写真に収めて…」と思いながら入った。
↓色々な角度からゆっくりと、写真も撮りながら大佛を拝見した。釈迦如来像ということである。
↑面長な顔で、鼻が高い感じの顔だ。世界史の教科書に在った、遠い国々の仏教美術を想起させる。「“仏像”なるモノ?」が伝わって、それ程の時日が経ったということでもない時代の作だ。遠い国で造られていたモノのイメージが色濃く反映されているのかもしれない。
↓この大佛も奈良の大仏と同じ手の形になっている。
↑奈良で読んだ説明を思い出す…掌が上を向いている左手は「与願印」(よがんいん)と呼ばれ、「人の願いを叶える」ということを表すそうだ。掌を前に示すようにする右手は「施無畏印」(せむいいん)と呼ばれ、「畏れることなど何も無い」ということを表すそうだ。「畏れずに佛を敬う者の願いは叶うであろう」というようなことになるのであろうか?
↓傷んだ箇所を補修したように視える箇所や、頭髪部分の一部が少々傷んだように視える気もするのだが、それでもこの大佛は1400年以上も場所を動いていないのだという。
↓かの聖徳太子が存命であった時代に既に鎮座していた大佛である。その時代から1400年程にもなる時代にこうして大佛と我々が向き合っていることになるが、或いは「聖徳太子が眼にしていた様子」を追体験していることになるかもしれない。
寛政年間のモノという標石が好いので、敢えて「大佛」と表記してみたのだが…この大佛との対面は好かった!現場では、何か「大胆にも大佛様にモデルを御願いして撮影会…」という雰囲気も無くはなかったかもしれないが…
↓辺りに光が降り注ぐような様子も見受けられたということが忘れ難い飛鳥寺である…
今般はドライブに御誘い頂き、やや訪ね悪い場所も連なる明日香村を訪ねてみるということになった。そして方々廻ったが、何か少し親しんで、繰り返し寄っていた奈良県を「もう少々掘り下げてみた」というような経験だったと思う。
が、裏側から中に入り込んだというような感だったので、改めて正面に一寸廻った。
↓これが正面の出入口である。
↓この標石は18世紀末、寛政年間のモノと伝えられているという。
↑この寺は、建物が損なわれて何度も立て直されていて、往古の威容も現在では感じられないのだが、1400年間以上も場所が動いていない大佛が非常に知られている。230年程前の寛政年間に在っても、この大佛は知られていたということなのであろう。
↓大佛が収められている建物の屋根である…
拝観料を収めて大佛が在る建物に入ろうとした際、カメラを提げていたということも在ったが、窓口の方は「大佛の写真は撮って頂いて構いません」と仰った。こちらから申し出たのでもなく、そういう話しで「少し珍しい」と思った。「では大佛様の御尊顔を拝し、御姿を写真に収めて…」と思いながら入った。
↓色々な角度からゆっくりと、写真も撮りながら大佛を拝見した。釈迦如来像ということである。
↑面長な顔で、鼻が高い感じの顔だ。世界史の教科書に在った、遠い国々の仏教美術を想起させる。「“仏像”なるモノ?」が伝わって、それ程の時日が経ったということでもない時代の作だ。遠い国で造られていたモノのイメージが色濃く反映されているのかもしれない。
↓この大佛も奈良の大仏と同じ手の形になっている。
↑奈良で読んだ説明を思い出す…掌が上を向いている左手は「与願印」(よがんいん)と呼ばれ、「人の願いを叶える」ということを表すそうだ。掌を前に示すようにする右手は「施無畏印」(せむいいん)と呼ばれ、「畏れることなど何も無い」ということを表すそうだ。「畏れずに佛を敬う者の願いは叶うであろう」というようなことになるのであろうか?
↓傷んだ箇所を補修したように視える箇所や、頭髪部分の一部が少々傷んだように視える気もするのだが、それでもこの大佛は1400年以上も場所を動いていないのだという。
↓かの聖徳太子が存命であった時代に既に鎮座していた大佛である。その時代から1400年程にもなる時代にこうして大佛と我々が向き合っていることになるが、或いは「聖徳太子が眼にしていた様子」を追体験していることになるかもしれない。
寛政年間のモノという標石が好いので、敢えて「大佛」と表記してみたのだが…この大佛との対面は好かった!現場では、何か「大胆にも大佛様にモデルを御願いして撮影会…」という雰囲気も無くはなかったかもしれないが…
↓辺りに光が降り注ぐような様子も見受けられたということが忘れ難い飛鳥寺である…
今般はドライブに御誘い頂き、やや訪ね悪い場所も連なる明日香村を訪ねてみるということになった。そして方々廻ったが、何か少し親しんで、繰り返し寄っていた奈良県を「もう少々掘り下げてみた」というような経験だったと思う。
丸型ポスト…:飛鳥寺:明日香村(2021.12.20)
↓飛鳥寺に郵便の丸型ポストが佇んでいる。
↑丸型ポストが、古い経過を誇る寺の一隅に在るという様子が好ましいような気もしたのだが、このポストに関しては「あれ??」と首を傾げながら見入ってしまう。
方々で丸型ポストに眼を向けて写真に収めた経過が在る。それらと比べて、この飛鳥寺のモノは「モノクロ写真でもハッキリ判る程度に色が違う」のである。
明日香村という地域では、「景観計画」ということで「戸外の景観を形成するあらゆるモノ」にルールが在るということのようだ。目次を拝見すると80ページ以上にも及ぶ『明日香景観デザインマニュアル』(.pdf)というモノも在る。
他の地域では「郵便ポストの色を換える」というようなことは、何かの話題づくりで変わった感じにするというようなことでもなければ、余り無いというように思う。ここでは「景観計画」ということで、『明日香景観デザインマニュアル』(.pdf)というモノに在るルールに基づいてポストの色を換えているらしい。
↓このポストをよく見ると方々で見掛ける丸型ポストに「上塗り」を施していると判る。塗料が一寸だけ剥げて、下地の色が僅かに覗く場所も在ったからだ…
不慣れな地域に敢えて入ってみると、こういう「一寸変わっている?」に不意に出くわす。飛鳥寺という場所に関して聞いたことはあったが、そこに在る丸型ポストの件は聞いたこと等無かった。こういう、訪問する分には如何でも構わないかもしれないようなことが酷く面白い場合も在る。
↑丸型ポストが、古い経過を誇る寺の一隅に在るという様子が好ましいような気もしたのだが、このポストに関しては「あれ??」と首を傾げながら見入ってしまう。
方々で丸型ポストに眼を向けて写真に収めた経過が在る。それらと比べて、この飛鳥寺のモノは「モノクロ写真でもハッキリ判る程度に色が違う」のである。
明日香村という地域では、「景観計画」ということで「戸外の景観を形成するあらゆるモノ」にルールが在るということのようだ。目次を拝見すると80ページ以上にも及ぶ『明日香景観デザインマニュアル』(.pdf)というモノも在る。
他の地域では「郵便ポストの色を換える」というようなことは、何かの話題づくりで変わった感じにするというようなことでもなければ、余り無いというように思う。ここでは「景観計画」ということで、『明日香景観デザインマニュアル』(.pdf)というモノに在るルールに基づいてポストの色を換えているらしい。
↓このポストをよく見ると方々で見掛ける丸型ポストに「上塗り」を施していると判る。塗料が一寸だけ剥げて、下地の色が僅かに覗く場所も在ったからだ…
不慣れな地域に敢えて入ってみると、こういう「一寸変わっている?」に不意に出くわす。飛鳥寺という場所に関して聞いたことはあったが、そこに在る丸型ポストの件は聞いたこと等無かった。こういう、訪問する分には如何でも構わないかもしれないようなことが酷く面白い場合も在る。
入鹿首塚…:明日香村(2021.12.20)
明日香村の様子が鳥瞰出来る甘樫丘(あまかしおか)を下りて飛鳥寺の辺りへ足を運ぶ。
↓こういうモノに出くわす…
↑これは背後になるようで…
↓甘樫丘を背にした、こういう感じが正面から視た様子ということになる。
これは蘇我入鹿の首塚と伝えられているモノだ。
蘇我入鹿は大変な権勢を振るったという豪族で、甘樫丘に居館を築いていたと伝わるのだが、645年に「乙巳の変」(いっしのへん)で殺害されている。(自身の世代では「大化の改新」と教科書に出ていたと記憶している出来事だ。が、「大化の改新」とは蘇我本宗家を滅ぼした後の改革の取組み全般を言う表現で、「蘇我入鹿が斬られた」という事件は「乙巳の変」ということになる。)
この蘇我入鹿が斬られた後に関して色々な伝承が在るということなのだが、この飛鳥寺の辺り、自らの居館が築かれていたという丘を見上げるような位置に塚が在って葬られている。
本当に「古代史の舞台」に佇んでみるという感になるのが明日香村を訪ねてみるということである…
↓こういうモノに出くわす…
↑これは背後になるようで…
↓甘樫丘を背にした、こういう感じが正面から視た様子ということになる。
これは蘇我入鹿の首塚と伝えられているモノだ。
蘇我入鹿は大変な権勢を振るったという豪族で、甘樫丘に居館を築いていたと伝わるのだが、645年に「乙巳の変」(いっしのへん)で殺害されている。(自身の世代では「大化の改新」と教科書に出ていたと記憶している出来事だ。が、「大化の改新」とは蘇我本宗家を滅ぼした後の改革の取組み全般を言う表現で、「蘇我入鹿が斬られた」という事件は「乙巳の変」ということになる。)
この蘇我入鹿が斬られた後に関して色々な伝承が在るということなのだが、この飛鳥寺の辺り、自らの居館が築かれていたという丘を見上げるような位置に塚が在って葬られている。
本当に「古代史の舞台」に佇んでみるという感になるのが明日香村を訪ねてみるということである…