↓最近になって通り過ぎる機会が増えた辺りである。
↑川が蛇行していて、深く護岸が整えられている。そんな脇に立つ1本の木が、何やら趣深いと思った。
こういうような「眼に留まった…」に何気なくカメラを向けながら歩くようなことが存外に愉しい。
シマホッケ等を…(2022.04.08)
前日にも立ち寄った御近所の御店を再訪した。続けて訪ねたとて、前日と異なるモノを頂くということで「同じモノばかり…」は容易に避けられる。(と言って、気に入っているモノを連日のように続けて頂くということに、何らの問題も無いとは思うのだが。)
↓これが頂きたかった!シマホッケだ…
↑半身の魚を切り分け、分けた各片に串を打つ。「魚の食べ易い串焼き」という体裁で、そして美味い。
実は前日、御近所の御店でこれを所望した。折り悪く売り切れたところだった。そして「明日入荷…」と聞いた。それが記憶の隅に残り、“明日”を迎えている中で立ち寄ったのだった。
↓ほかに枝豆を摘み…
↓つみれを頂き…
↓玉子めしの「誘惑」に屈した…
↓未だ強めな風が冷たい夕べに、馴染んだ御近所の御店で「温かい…」感じに過ごすのが酷く好い…
↓これが頂きたかった!シマホッケだ…
↑半身の魚を切り分け、分けた各片に串を打つ。「魚の食べ易い串焼き」という体裁で、そして美味い。
実は前日、御近所の御店でこれを所望した。折り悪く売り切れたところだった。そして「明日入荷…」と聞いた。それが記憶の隅に残り、“明日”を迎えている中で立ち寄ったのだった。
↓ほかに枝豆を摘み…
↓つみれを頂き…
↓玉子めしの「誘惑」に屈した…
↓未だ強めな風が冷たい夕べに、馴染んだ御近所の御店で「温かい…」感じに過ごすのが酷く好い…
回数券…(2022.04.05)
<たち柳川鍋(スケソウダラ)>…(2022.04.04)
物語…(2022.04.07)
↓所謂ハードカバーの本だ…
↑何となく写真に収めてしまった…やや古い(1993年から1994年頃に出ているようだ…)本で、図書館で借りた。
表題になっている『野ばら』を含めて9篇の短篇が収められた1冊だ。
所謂「児童文学」は、概ね大正時代頃に起こった雑誌を媒体とし、児童向けの余り長くない読物として数多く発表されたということから盛んになったようだ。小川未明(1882-1961)はその雑誌媒体で多くの作品を発表していた作家である。主に雑誌媒体での発表を意図した短い作品を多く著したという作家で、1946年設立の児童文学者協会の初代会長を務めたそうだ。
この小川未明が1922年頃に発表したと伝えられる作品が『野ばら』で、最近何かで取り上げられていたのが耳目に触れて「是非とも一読!」と思い立った。そして図書館で見出し―“資料検索”で見出すと、開架の中ではなく、奥に収蔵されている閉架の場所に在るということで、係の方に持って来て頂いたのだった…―て一読して、非常に善かったと思う。
『野ばら』の物語である。
大きな国と小さな国とが隣国で境を接していた。辺境の国境に、大きな国の老兵、小さな国の青年兵とが各々に警備任務に就いている場所が在った。
老兵と青年兵とは時々顔を合わせ、挨拶を交わし、言葉を交わし、一緒に辺りに咲く季節の花を愛で、時には将棋を指すようにもなった。互いの国を代表する警備任務の兵ということと無関係に「隣人」という以上でも以下でもなかった。
或る時、老兵の大きな国と青年兵の小さな国とが戦争を始めてしまった。青年兵は前線に駆け付けるのだという。老兵は、階級が上の自分の首でも持って行けば手柄になるであろうし、青年兵に殺されるのなら構わないとした。青年兵は「殺さなければならない人ではない」とそのまま去った。
時季が巡り、老兵は青年兵と共に愛でた季節の花を眺める。2人が殊更に愛したのは野ばらであった。やがて戦争が終結し、小さな国の軍が壊滅したと伝わり、老兵は青年兵が戦死したであろうと考える。
互いの国を代表する警備任務の兵ということと無関係に「隣人」という以上でも以下でもなかった2人である。敵味方に分かれる羽目に陥る事態が、何か虚しい。そんな物語だ。
昨今伝わる国外情勢を巡る報の最中、「隣人」という以上でも以下でもなかった人達が、攻撃側と防衛側で争って戦禍が日々拡がるという様子が暗示されている物語であると思った。子ども達にも伝わるような形で、雑誌媒体という紙幅の制約を駆使して、美しい挿話に纏まっている。
この『野ばら』の他にも、子ども達が「人の在り方」というようなことを考える材料になりそうな、些か教訓的な“落ち”というようなモノが入っている物語が集まっている。
例えば「身近な何かへの感謝を忘れずに、粗末にすべきではない」、「手近な人の努力やその成果は向き合って大切にすべきである」、「欲張ると得られる筈であったモノ以上に何かを失うかもしれない」というような内容が在ったと思う。
多分、小学生位の頃までに児童文学の系譜に連なる色々な作品には触れていたのだと思う。が、こうして改めて引っ張り出して読むと、なかなかに好いものだと思った。
それにしても、「隣人」という以上でも以下でもなかった人達が争う虚しさを美しい挿話で示した『野ばら』の物語は沁みた。
↑何となく写真に収めてしまった…やや古い(1993年から1994年頃に出ているようだ…)本で、図書館で借りた。
表題になっている『野ばら』を含めて9篇の短篇が収められた1冊だ。
所謂「児童文学」は、概ね大正時代頃に起こった雑誌を媒体とし、児童向けの余り長くない読物として数多く発表されたということから盛んになったようだ。小川未明(1882-1961)はその雑誌媒体で多くの作品を発表していた作家である。主に雑誌媒体での発表を意図した短い作品を多く著したという作家で、1946年設立の児童文学者協会の初代会長を務めたそうだ。
この小川未明が1922年頃に発表したと伝えられる作品が『野ばら』で、最近何かで取り上げられていたのが耳目に触れて「是非とも一読!」と思い立った。そして図書館で見出し―“資料検索”で見出すと、開架の中ではなく、奥に収蔵されている閉架の場所に在るということで、係の方に持って来て頂いたのだった…―て一読して、非常に善かったと思う。
『野ばら』の物語である。
大きな国と小さな国とが隣国で境を接していた。辺境の国境に、大きな国の老兵、小さな国の青年兵とが各々に警備任務に就いている場所が在った。
老兵と青年兵とは時々顔を合わせ、挨拶を交わし、言葉を交わし、一緒に辺りに咲く季節の花を愛で、時には将棋を指すようにもなった。互いの国を代表する警備任務の兵ということと無関係に「隣人」という以上でも以下でもなかった。
或る時、老兵の大きな国と青年兵の小さな国とが戦争を始めてしまった。青年兵は前線に駆け付けるのだという。老兵は、階級が上の自分の首でも持って行けば手柄になるであろうし、青年兵に殺されるのなら構わないとした。青年兵は「殺さなければならない人ではない」とそのまま去った。
時季が巡り、老兵は青年兵と共に愛でた季節の花を眺める。2人が殊更に愛したのは野ばらであった。やがて戦争が終結し、小さな国の軍が壊滅したと伝わり、老兵は青年兵が戦死したであろうと考える。
互いの国を代表する警備任務の兵ということと無関係に「隣人」という以上でも以下でもなかった2人である。敵味方に分かれる羽目に陥る事態が、何か虚しい。そんな物語だ。
昨今伝わる国外情勢を巡る報の最中、「隣人」という以上でも以下でもなかった人達が、攻撃側と防衛側で争って戦禍が日々拡がるという様子が暗示されている物語であると思った。子ども達にも伝わるような形で、雑誌媒体という紙幅の制約を駆使して、美しい挿話に纏まっている。
この『野ばら』の他にも、子ども達が「人の在り方」というようなことを考える材料になりそうな、些か教訓的な“落ち”というようなモノが入っている物語が集まっている。
例えば「身近な何かへの感謝を忘れずに、粗末にすべきではない」、「手近な人の努力やその成果は向き合って大切にすべきである」、「欲張ると得られる筈であったモノ以上に何かを失うかもしれない」というような内容が在ったと思う。
多分、小学生位の頃までに児童文学の系譜に連なる色々な作品には触れていたのだと思う。が、こうして改めて引っ張り出して読むと、なかなかに好いものだと思った。
それにしても、「隣人」という以上でも以下でもなかった人達が争う虚しさを美しい挿話で示した『野ばら』の物語は沁みた。