新宿のバスターミナルに在る。待合室の片隅の椅子に陣取っている。ターミナル内は存外に賑わっている。
早寝をしたのでもない他方、早起きになってしまった朝だった…
地下鉄大江戸線の蔵前駅へ、始発の列車が動くような頃に足を運び、勝どき駅へ向かった。勝鬨橋や築地本願寺を眺めた。
そんな散策の後、築地市場駅から蔵前駅へ引揚げた。宿の朝食提供が始まった少し後だった。バイキング式で容器に適当にモノを容れ、居室で頂く方式だった。
「長い一日」が明らかに予想される中、余り慌てて動き始めても疲れてしまう。悠然と宿の居室で寛いだ。
やがて「チェックアウト」だが、滞在した宿は浅草寺が「徒歩圏内」ということに気付いた。そこで歩いてみた。好天に恵まれていた中で浅草寺を訪ね、参拝してから辺りを少し散策もしてみた。
そこからは地下鉄を乗り継ぎ、やや判り悪い道程を歩いて「都電」に乗った。辿り着いたのは荒川2丁目停留所で、直ぐ傍に「吉村昭文学記念館」が在る。
吉村昭の作品は色々と読んでいる。その各作品に関連する取材旅行のことや、生い立ちに関することなどの展示、書斎を再現した展示、加えて時期毎に替えて色々な話題を提供する展示が在った。時期毎の展示では『大黒屋光太夫』に関連する話題が取り上げられていた。大変に興味深く読んだ作品だったので非常に好かった。
吉村昭は現在の荒川区の地域で生まれ育っている。著名作家となった中で「区内に記念館…」という話しが出た。御本人にその旨を伝えると「私のような者に関して公的資金を投じて施設を設けるのも?」と御本人は固辞したという。それでも「是非!」と話しが続く中、御本人は応諾したが、条件として「図書館か何かの施設の中に展示等をする場所を設けるような感」ということだった。そこで<ゆいの森>と名付けた区の図書館が登場した際、館内に正しく「展示コーナー」というように設えられた「吉村昭文学記念館」である。「館内の展示コーナー」とは言え、それを知らないで様子の画でも視ると、「小規模な独立した記念館」というようにも視える立派な感じに仕上がっている。
そして都電と京成の列車を乗り継いで成田に移動した。「特定行動」と略しているが、「国外から到着した友人と落ち合い、目指すようにすべく縁を繋いだ場所へ御案内」という行動のためだ。
成田空港駅に向かう前に成田駅で下車し、食事を摂った。偶々眼に留まった店が「沖縄料理」で、「らふてぃ」という肉の角煮を摘まみ、量が半分という「ソーキそば」を頂いた。参道側を少し歩いたが、「長命泉」という地酒を1杯頂くという場面が在ったが、やや時間的にキツいと感じたので新勝寺を訪ねることはしなかった。
成田空港では「捜査活動」でもないが、友人を含むグループが到着する場所を突き止め、そこで待ち受けた。サハリンに在った時に多用していた「チェルニャーシカ」と呼び習わされるボーダーシャツを着て、何となくカメラも提げていたのだが、到着した友人は移動のバスから一瞥した瞬間に「来てくれた!」と直ぐ解ったそうだ。そこも「狙い」で、敢えてそんなシャツを持参したのだったが。
本当に「何やら夢のようでもある…」と友人との再会を互いに喜んだ。そして東京方面へ移動し、新宿で過ごしたという次第だ。
これから?発車までにやや間が在るのだが、バスに乗ることになった…
蔵前駅―大江戸線(2022.05.08)
出先では、必ずしも早寝ではない場合も在るのだが、それでも早起きしてしまった。
↓戸外に出てみた…

↑先行していた浅草線の蔵前駅と、大江戸線の蔵前駅は地下の通路では結ばれていないようで、互いに離れている。その大江戸線の蔵前駅が滞在している場所に近かった。
「12号線」という仮称のような名称で1991年に部分開業し、2000年に現在のような路線になって「大江戸線」となった。路線図を視ると「環状線」のように見えるが、実は「6」のような形に軌道が敷設され、JRの山手線のように「廻り続ける」という列車運行となっているのでもない。都庁前駅で折り返す、或いは環から放射状に延びる形になっている区間に出入りするというような形になっている。何回か利用してよく判ったが、「何方から廻っても〇〇駅に着く」という程でもない訳だ。
古く「江戸」の範囲とされた、江戸時代の地図で「朱引き」とされている範囲を食み出した箇所も含んで運行されているが、「江戸の範囲を囲むような」ということで「大江戸線」ということにしたらしい。
↓始発列車が発着する少し前のような時間帯に大江戸線の蔵前駅に入った。

↑「東京辺りの流儀」では、乗換駅は殆どの場合に駅名を統一している。浅草線の蔵前駅が在ったから、ここは蔵前駅になったのであろう。多分、ずうっと前の建設構想の時点では「厩橋駅」という程度の呼称だったと思う。「関西辺りの流儀」であれば、そういうようになったかもしれない?そういう余計な事も思った…
↓都営地下鉄の、この乗場に掲出されている案内が判り易い。目指したい駅へ進む列車が着く場所が明確になる。

↓列車が現れた…

↓「日曜日の早朝」であり、車内はかなり空いていた…

「休日の早起き」で一部に地下鉄を利用する移動も交えて散策に出るというのも面白い。
↓戸外に出てみた…

↑先行していた浅草線の蔵前駅と、大江戸線の蔵前駅は地下の通路では結ばれていないようで、互いに離れている。その大江戸線の蔵前駅が滞在している場所に近かった。
「12号線」という仮称のような名称で1991年に部分開業し、2000年に現在のような路線になって「大江戸線」となった。路線図を視ると「環状線」のように見えるが、実は「6」のような形に軌道が敷設され、JRの山手線のように「廻り続ける」という列車運行となっているのでもない。都庁前駅で折り返す、或いは環から放射状に延びる形になっている区間に出入りするというような形になっている。何回か利用してよく判ったが、「何方から廻っても〇〇駅に着く」という程でもない訳だ。
古く「江戸」の範囲とされた、江戸時代の地図で「朱引き」とされている範囲を食み出した箇所も含んで運行されているが、「江戸の範囲を囲むような」ということで「大江戸線」ということにしたらしい。
↓始発列車が発着する少し前のような時間帯に大江戸線の蔵前駅に入った。

↑「東京辺りの流儀」では、乗換駅は殆どの場合に駅名を統一している。浅草線の蔵前駅が在ったから、ここは蔵前駅になったのであろう。多分、ずうっと前の建設構想の時点では「厩橋駅」という程度の呼称だったと思う。「関西辺りの流儀」であれば、そういうようになったかもしれない?そういう余計な事も思った…
↓都営地下鉄の、この乗場に掲出されている案内が判り易い。目指したい駅へ進む列車が着く場所が明確になる。

↓列車が現れた…

↓「日曜日の早朝」であり、車内はかなり空いていた…

「休日の早起き」で一部に地下鉄を利用する移動も交えて散策に出るというのも面白い。
厩橋…(2022.05.07)
一夜の宿を求めて施設を訪ねようとして地図を視た。地下鉄大江戸線の蔵前駅を出て、「厩橋」(うまやばし)の交差点を少し越えた辺りと判った。
その「厩橋」(うまやばし)の交差点を少し越えた辺りの宿にモノを置いて、所要を足して引揚げた際、この「厩橋」(うまやばし)が気になった。
↓近寄るとこういうような様子だった。美しい…

↓更に寄ってみて、隅田川の河岸側に歩を進めた…

↓美しい三連のアーチの橋だ。

この橋は関東大震災後の復興の中で架橋されたモノであるという。1926(大正15)年に着工で、1929(昭和4)年に竣工ということだ。
蔵前に在った、幕府の米蔵の米を輸送するための馬を保管する厩が在ったことから、「御厩河岸」(おんまいがし)と呼び習わされていた辺りの橋であったことから「厩橋」の称が登場したそうだ。
江戸時代には辺りで渡し舟を運航していたというが、明治時代に架橋された。最初の橋が鉄橋に改められ、その後は震災後の復興で現在のモノになったそうだ。
↓なかなかに好いモノに出くわした…

その「厩橋」(うまやばし)の交差点を少し越えた辺りの宿にモノを置いて、所要を足して引揚げた際、この「厩橋」(うまやばし)が気になった。
↓近寄るとこういうような様子だった。美しい…

↓更に寄ってみて、隅田川の河岸側に歩を進めた…

↓美しい三連のアーチの橋だ。

この橋は関東大震災後の復興の中で架橋されたモノであるという。1926(大正15)年に着工で、1929(昭和4)年に竣工ということだ。
蔵前に在った、幕府の米蔵の米を輸送するための馬を保管する厩が在ったことから、「御厩河岸」(おんまいがし)と呼び習わされていた辺りの橋であったことから「厩橋」の称が登場したそうだ。
江戸時代には辺りで渡し舟を運航していたというが、明治時代に架橋された。最初の橋が鉄橋に改められ、その後は震災後の復興で現在のモノになったそうだ。
↓なかなかに好いモノに出くわした…
