幕末期の会津松平家への関心の故に、「京都守護職」の本陣が設けられた金戒光明寺を訪ねた記憶は在る。かなり以前になると思う。
↓こういうモノを見掛ける機会が在った。「これは!」と雨交じりではあった中、金戒光明寺を訪ねてみることにした。
金戒光明寺は地下鉄の駅等からはやや離れている。が、東山駅界隈をグルグルと廻って丸太町通辺りに到ると、何やら上記のような案内看板に出くわす。
↓入口に到った…
↑「京都守護職」の本陣が設けられていた旨、看板が掲出されている。
↓進んで行けば、こういうような案内図が在る…
↓見上げるような感じの場所に大きな門が設えられている。上記の案内図の境内は小高い丘のような場所の上に築かれているのだ。
この「小高い丘の上」というのは「城」のような感覚で利用し得るということになる。街の北東部の主要道路等に睨みを利かせる位置でもある。そして千名以上の関係者が滞在して活動することも可能な広い敷地、多数の建物が在ったということで、幕末期の「京都守護職」が「本陣」とした訳だ。
↓上って門を潜ろうとしたが、扁額に注目した。
扁額には「浄土真宗最初門」と在る。この金戒光明寺は「浄土宗」の寺で、「浄土真宗」ではない。
金戒光明寺は比叡山を下りた法然上人が最初に庵を結んで活動を始めた場とされる。「浄土の教えの真実を最初に広めた場所」というのが「浄土真宗最初門」の意味で、後小松天皇(在位1382-1412)から賜った宸翰(=天皇の直筆)で扁額を設えたのだという。
↓門の下から中の様子が少し覗く…
↓振り返った感じも美しかった…
↓こちらで御参りした…
↓境内にはこういう傾斜も見受けられる…
↓三重塔も在る…
↓境内をぐるりと廻って、小高い辺りから下りると、中に入ることは叶わないものの竹林も在った。
独特な形状の「五劫思惟阿弥陀仏」(ごこうしゆいあみだぶつ)という像や會津藩殉難者墓地の「松平容保公」の像のように、殊に強く記憶に残ったモノは別途記事も起こした。この金戒光明寺も、訪ねて興味深い場所である。
松平容保公:會津藩殉難者墓地:金戒光明寺(2022.05.13)
↓凛々しい武士…それも身分が在りそうな武士だ…
↑像は松平容保(まつだいらかたもり)(1836-1893)である。幕末期に会津松平家の当主となり、京都守護職として家中の士を率いて入洛し、金戒光明寺を「本陣」として活動した経過が在る。
↓その京都守護職の活動の中で、多くの殉難者が生じていることから、金戒光明寺には墓地が設けられている。そこに立寄ってみた。
会津松平家に纏わることに興味を覚えたのは、1808年に「北方警固」という動きが在って、家中の士が宗谷へ大挙してやって来たという出来事を伝え聞いたからである。宗谷へ向かう事案の国元での纏め役を務めた人物に関して、『花ならば花咲かん 会津藩家老・田中玄宰』という小説に、少し詳しい。
その「北方警固」の件に触れたことが契機で、会津松平家に纏わる様々なモノを読んだ。一部によく知られるシリーズであるようだが、『会津士魂』というシリーズの文庫本21冊も読了した。この他にも色々である…
そういうように会津松平家に纏わることに色々と触れて思っていることが在る。「官」(=正)と「賊」(=邪)というようなことが「余りにも相対的」というような「世の無常」というようなことに関してである。
幕末期、社会の安寧に責任を負わなければならない幕府の下、京都守護職を務めた会津松平家は懸命の努力で任務を果たし、高い評価を受けた。そして体制が変わったが、そうなると「討伐対象」になり、「賊の首魁」のような扱いになってしまったのだ。『会津士魂』というシリーズは、その無念を訴えるような調子が強いシリーズなのだが。
↓その会津松平家の人達の想いが篭るような松平容保の像は、家中の士が眠る地で静かに端座していた…
「官」(=正)と「賊」(=邪)というようなことが「余りにも相対的」というような「世の無常」というようなことは、幕末というような時代より後、現在に至っても繰り返し見受けられる様相であるとも思う。色々と考えながら、墓地で静かに祈った…
↑像は松平容保(まつだいらかたもり)(1836-1893)である。幕末期に会津松平家の当主となり、京都守護職として家中の士を率いて入洛し、金戒光明寺を「本陣」として活動した経過が在る。
↓その京都守護職の活動の中で、多くの殉難者が生じていることから、金戒光明寺には墓地が設けられている。そこに立寄ってみた。
会津松平家に纏わることに興味を覚えたのは、1808年に「北方警固」という動きが在って、家中の士が宗谷へ大挙してやって来たという出来事を伝え聞いたからである。宗谷へ向かう事案の国元での纏め役を務めた人物に関して、『花ならば花咲かん 会津藩家老・田中玄宰』という小説に、少し詳しい。
その「北方警固」の件に触れたことが契機で、会津松平家に纏わる様々なモノを読んだ。一部によく知られるシリーズであるようだが、『会津士魂』というシリーズの文庫本21冊も読了した。この他にも色々である…
そういうように会津松平家に纏わることに色々と触れて思っていることが在る。「官」(=正)と「賊」(=邪)というようなことが「余りにも相対的」というような「世の無常」というようなことに関してである。
幕末期、社会の安寧に責任を負わなければならない幕府の下、京都守護職を務めた会津松平家は懸命の努力で任務を果たし、高い評価を受けた。そして体制が変わったが、そうなると「討伐対象」になり、「賊の首魁」のような扱いになってしまったのだ。『会津士魂』というシリーズは、その無念を訴えるような調子が強いシリーズなのだが。
↓その会津松平家の人達の想いが篭るような松平容保の像は、家中の士が眠る地で静かに端座していた…
「官」(=正)と「賊」(=邪)というようなことが「余りにも相対的」というような「世の無常」というようなことは、幕末というような時代より後、現在に至っても繰り返し見受けられる様相であるとも思う。色々と考えながら、墓地で静かに祈った…
勝鬨橋…(2022.05.08)
↓早朝に大江戸線の勝どき駅に到り、出口へ…
↑とりあえず階段を上れば「勝どき駅前」という交差点で、左へ進むと勝鬨橋に至るということが何となく判った…
↓その勝鬨橋に難無く至った…
↓近付けば、なかなかに大きい…
↓河岸に下りて様子を眺めてみた…
↑全長が246mで幅が22mであるという。隅田川の河口部に近い辺りの橋だ。
日露戦争後、築地と月島とを結ぶ「勝鬨の渡し」が設けられた。やがて交通量の増加を踏まえて架橋計画が持上り、1933(昭和8)年に着工し、1940(昭和15)年に竣工している。
大型船の航行を可能とするため、橋は「可動橋」であり、船が通る時には通行を停めて橋が開いて船が通過するようになっていた。更に路面電車の軌道まで敷設されていて、実際に橋上を路面電車が運行していた。
車輛の交通量が増える中、「可動橋」としての機能は停止している。また路面電車も運行しなくなっている。
↓橋を歩いて渡ってみた…「可動橋」であった時代の、機器を管理、操作する場所と見受けられるモノが在る…
↓構造物の下を潜ると、反対側にも似たようなモノが在る…
↓振り返ってみる…画の奥側が勝どきで、手前側は築地だ…
↓こういう1930年代頃のモノ…何やら美しい…
この勝鬨橋は1940年頃、「皇紀2600年」というようなことや「(幻の)東京五輪」という盛り上りの中で登場したモノであるようだ。
資料館も設けられている勝鬨橋だが、そんな場所が開館する遥か以前の早朝に訪ねたので、資料館は見られなかったが…
↓以前から関心が在った場所で、立寄る機会を設けられて好かった…
↑とりあえず階段を上れば「勝どき駅前」という交差点で、左へ進むと勝鬨橋に至るということが何となく判った…
↓その勝鬨橋に難無く至った…
↓近付けば、なかなかに大きい…
↓河岸に下りて様子を眺めてみた…
↑全長が246mで幅が22mであるという。隅田川の河口部に近い辺りの橋だ。
日露戦争後、築地と月島とを結ぶ「勝鬨の渡し」が設けられた。やがて交通量の増加を踏まえて架橋計画が持上り、1933(昭和8)年に着工し、1940(昭和15)年に竣工している。
大型船の航行を可能とするため、橋は「可動橋」であり、船が通る時には通行を停めて橋が開いて船が通過するようになっていた。更に路面電車の軌道まで敷設されていて、実際に橋上を路面電車が運行していた。
車輛の交通量が増える中、「可動橋」としての機能は停止している。また路面電車も運行しなくなっている。
↓橋を歩いて渡ってみた…「可動橋」であった時代の、機器を管理、操作する場所と見受けられるモノが在る…
↓構造物の下を潜ると、反対側にも似たようなモノが在る…
↓振り返ってみる…画の奥側が勝どきで、手前側は築地だ…
↓こういう1930年代頃のモノ…何やら美しい…
この勝鬨橋は1940年頃、「皇紀2600年」というようなことや「(幻の)東京五輪」という盛り上りの中で登場したモノであるようだ。
資料館も設けられている勝鬨橋だが、そんな場所が開館する遥か以前の早朝に訪ねたので、資料館は見られなかったが…
↓以前から関心が在った場所で、立寄る機会を設けられて好かった…
吾妻橋…(2022.05.08)
↓「浅草辺りの光景」として或る程度知られている様子であるように思う…或いは、国内の遠い地域や外国で「東京…」とでも聞けば思い浮かべる様子の一つかもしれない…
↑吾妻橋の浅草側からの眺めだ。
↓佇んで写真を撮った場所が台東区で、特徴的な大きな建物等が視えている対岸側は墨田区であるそうだ…
↓河岸に下りてみると、向こう側の駒形橋も視えた…
↓現在の吾妻橋は1931(昭和6)年に竣工したモノだ。関東大震災で傷んだ橋を架け直したのである。
↑延長が150mで幅は20mということだ…
↓こういう、少し古風な外観の橋梁を訪ねて歩き廻るようなことをしてみるのも、東京での存外に愉しい過ごし方かもしれない等と思いながら吾妻橋を眺めた…
↑吾妻橋の浅草側からの眺めだ。
↓佇んで写真を撮った場所が台東区で、特徴的な大きな建物等が視えている対岸側は墨田区であるそうだ…
↓河岸に下りてみると、向こう側の駒形橋も視えた…
↓現在の吾妻橋は1931(昭和6)年に竣工したモノだ。関東大震災で傷んだ橋を架け直したのである。
↑延長が150mで幅は20mということだ…
↓こういう、少し古風な外観の橋梁を訪ねて歩き廻るようなことをしてみるのも、東京での存外に愉しい過ごし方かもしれない等と思いながら吾妻橋を眺めた…
GODZILLA ゴジラ…:歌舞伎町:新宿(2022.05.08)
夜行バスに乗車するまでの間、新宿界隈を散策してみようということになった…
JR新宿駅南側から歩き始め、西側を経て東側へ、歌舞伎町の界隈に至った。
旧い記憶に在るような歌舞伎町の界隈ではあるが、随分と御無沙汰しており、少し「知らない場所…」という感じがしないでもなかった。
↓こういう場所に出くわした…
↑「ゴジラが居る…」と多少驚いた…
↓ゴジラは映画館が入っているビルの辺りに居るのだが、偶々ながら「ウルトラマン」のバナーが建物に下がっていて、少し笑った…
このゴジラが居る辺りの感じは、「記憶に在るようで、まるで知らない…」という気がする場所だった…
JR新宿駅南側から歩き始め、西側を経て東側へ、歌舞伎町の界隈に至った。
旧い記憶に在るような歌舞伎町の界隈ではあるが、随分と御無沙汰しており、少し「知らない場所…」という感じがしないでもなかった。
↓こういう場所に出くわした…
↑「ゴジラが居る…」と多少驚いた…
↓ゴジラは映画館が入っているビルの辺りに居るのだが、偶々ながら「ウルトラマン」のバナーが建物に下がっていて、少し笑った…
このゴジラが居る辺りの感じは、「記憶に在るようで、まるで知らない…」という気がする場所だった…
書斎…:<吉村昭記念文学館>:<ゆいの森あらかわ>(2022.05.08)
↓夥しい書籍等が積上げられた書棚が林立するかのような部屋が再現されている…
↓「読むべき…」を集めて読み込み、自分なりの「取材の旅」も重ねて作品を綴ったという作家、吉村昭の部屋を再現した場所を訪ねることが叶った。
吉村昭の作品は色々と、大変に興味深く読んでいる。その吉村昭の記念館に関して知ったのは極最近だった。
↓荒川区の施設の一隅に、「施設の常設的展示スペース」という雰囲気で設置されているのが<吉村昭記念文学館>である。
吉村昭は現在の荒川区ということになる場所で生まれ育っている。少年時代の事等を何かに綴っていて、現在の荒川区である郷里を愛していたということも知られている。
数々の作品で、吉村昭は高名な作家となった。荒川区では「地元出身の高名な作家のことを紹介する展示施設」という話しが持ち上がり、吉村昭本人に伝えたが御本人は「自身のことに関連して、公的資金で施設など…」と固辞したのだという。
それでも荒川区の側としては、地元に所縁の吉村昭に関して事績や人物を伝える場を設けたいという想いを抱き続けて来た。話し合いが続く中、吉村昭としては「図書館のような施設の中に展示コーナーを設けるというような感じであれば、活動経過や作品等を御紹介頂くことで構わない」と応諾したそうだ。
↓そこで荒川区の図書館も含めた複合的な文化施設である<ゆいの森あらかわ>が登場する際に<吉村昭記念文学館>が設けられることとなったのだ。
↓入口にこういう具合に<吉村昭記念文学館>の案内が在る訳だ。
吉村昭の作品は色々と読んでいるのだが、様々な作品を巡って方々へ取材旅行に出た経過というような展示が興味深かった。そして、時季毎にテーマを設けた展示を行うようにしているようだが、現在は『大黒屋光太夫』という作品を巡る事柄の展示であった。大変に興味深く読んだ作品に纏わることで、また作品の主人公となっている大黒屋光太夫に関することも興味深い訳で、大変に愉しく展示を拝見した。
都電の「荒川2丁目」停留所の直ぐ傍に設けられた施設だ。ここを偶々知って、思い付いて訪ねる機会を設けられたというのは大変に幸いだった…
↓「読むべき…」を集めて読み込み、自分なりの「取材の旅」も重ねて作品を綴ったという作家、吉村昭の部屋を再現した場所を訪ねることが叶った。
吉村昭の作品は色々と、大変に興味深く読んでいる。その吉村昭の記念館に関して知ったのは極最近だった。
↓荒川区の施設の一隅に、「施設の常設的展示スペース」という雰囲気で設置されているのが<吉村昭記念文学館>である。
吉村昭は現在の荒川区ということになる場所で生まれ育っている。少年時代の事等を何かに綴っていて、現在の荒川区である郷里を愛していたということも知られている。
数々の作品で、吉村昭は高名な作家となった。荒川区では「地元出身の高名な作家のことを紹介する展示施設」という話しが持ち上がり、吉村昭本人に伝えたが御本人は「自身のことに関連して、公的資金で施設など…」と固辞したのだという。
それでも荒川区の側としては、地元に所縁の吉村昭に関して事績や人物を伝える場を設けたいという想いを抱き続けて来た。話し合いが続く中、吉村昭としては「図書館のような施設の中に展示コーナーを設けるというような感じであれば、活動経過や作品等を御紹介頂くことで構わない」と応諾したそうだ。
↓そこで荒川区の図書館も含めた複合的な文化施設である<ゆいの森あらかわ>が登場する際に<吉村昭記念文学館>が設けられることとなったのだ。
↓入口にこういう具合に<吉村昭記念文学館>の案内が在る訳だ。
吉村昭の作品は色々と読んでいるのだが、様々な作品を巡って方々へ取材旅行に出た経過というような展示が興味深かった。そして、時季毎にテーマを設けた展示を行うようにしているようだが、現在は『大黒屋光太夫』という作品を巡る事柄の展示であった。大変に興味深く読んだ作品に纏わることで、また作品の主人公となっている大黒屋光太夫に関することも興味深い訳で、大変に愉しく展示を拝見した。
都電の「荒川2丁目」停留所の直ぐ傍に設けられた施設だ。ここを偶々知って、思い付いて訪ねる機会を設けられたというのは大変に幸いだった…