↓東寄りな空の明るさに誘われて、早朝の戸外に少し出てみた…
↓日出時刻までの間に、天の様子は随分と変わるものである…
↓少し感心しながら、ぼんやりと天や海を眺めて過ごしていた…
↓霞むような薄い雲に光が跳ね返って、何か独特な空気感を醸し出すようになって行った…
↓やがて朝陽の一部が覗く…
↓朝陽が少しずつ高くなり、海面に「光の路」が姿を見せる…
麗しい時間に巡り合えた早朝だったと思う…こんな時間が愛おしい…
地下鉄伏見駅の入口…(2022.08.03)
地下鉄名古屋駅…(2022.08.03)
道標…:草津宿(2022.08.03)
↓この辺りが、「草津宿」の中心的な辺りであったと考えられるそうだ。大きな道標が残り、文化財になっている。
↑立派な燈籠が据えられ、常夜燈という様相だ。(この燈籠の部分は何度も修理、交換されているようだ…)左が中山道で美濃へ向かう道、右が東海道で伊勢へ向かう道ということである…
東海道に関しては、三重県内の関や桑名に立寄ったことが在った。正しく伊勢である。
草津から“右”へ進んだ旅人は、関や桑名を通り、桑名からは船を使うか、時代が下って利用頻度が高まった陸路で現在の名古屋市内を経て、更に東へ向かったということなのであろう。
この1本の標柱が、何やら酷く面白いと思い、暫し眺めてしまった。道路の端のような場所ではあったが…
↑立派な燈籠が据えられ、常夜燈という様相だ。(この燈籠の部分は何度も修理、交換されているようだ…)左が中山道で美濃へ向かう道、右が東海道で伊勢へ向かう道ということである…
東海道に関しては、三重県内の関や桑名に立寄ったことが在った。正しく伊勢である。
草津から“右”へ進んだ旅人は、関や桑名を通り、桑名からは船を使うか、時代が下って利用頻度が高まった陸路で現在の名古屋市内を経て、更に東へ向かったということなのであろう。
この1本の標柱が、何やら酷く面白いと思い、暫し眺めてしまった。道路の端のような場所ではあったが…
草津宿本陣…(2022.08.03)
所謂「旧街道」というモノは江戸時代に整い、沿道の宿場町等も江戸時代を通じて栄えたのである。
「旧街道」で最も知名度が高いのは、恐らくは東海道か中山道であると思われる。何れも江戸と京とを結ぶのだが、太平洋側を通る東海道に対し、内陸部を通るのが中山道だ。
その東海道と中山道とが合流または分岐する場所が在る。草津宿だ。現在は滋賀県草津市であり、京都駅から列車に乗れば北東側へ走って直ぐだ。
↓草津駅の前にこういう標柱が据えられている。
↑「左 中山道」ということだ。
↓眼を転ずると「右 東海道」というようになっている。
この駅前の標柱だが、高架になっていて、人が行き交う広場的な設えの場所に据えられていた。「東海道と中山道が交差した草津」というイメージで据えられているのであろうと思った。
↓高架を下りると、直ぐにこういうような「本陣」を案内する標柱に出くわす。
↓標柱は幾つか据えられているので、素直に辿って行けば「本陣」に至る。
旧街道は、江戸時代を通じてモノや人の往来に利用された訳だが、それが発展していった事情の一つに「参勤交代」が在った。各地の大名が、各々の知行地を江戸とを往来し、知行地と江戸の屋敷に隔年で住むという仕組みである。当時の大名は行列を組んで街道を進んで、江戸を目指すか、各々の知行地を目指すかという旅をした。当然、途中の宿場町に宿泊しなければならない。その大名等の宿泊に用いられた場所を「本陣」と称した訳だ。
↓これが草津宿の本陣である。
草津宿には2件の本陣が在ったそうだ。その中、1軒は建物が綺麗に残っていて、公開されているのだ。
↓中を見学させて頂くこととした。
↑なかなか広い建物だと思った。
本陣というのは、宿場町の豊かな家の所有する建物を利用する例が多かったようだ。そして、本陣という“宿泊事業”で利潤が得られるという程でもなかったそうだ。
↓利用する人達の要望に合わせて、部屋の仕切りを色々と変えながら利用した様子が伺える。
↓宿泊する一行の中で、身分が高い人達が入るような場所であるらしい。少し高く設えられているという。
大名行列のような一行の場合、一行の人員規模は様々であった訳だが、本陣は概ね大名その人と上席の随行者、身分の高い人達の手近な事を手掛けるような人達が入る場所であったように見受けられる。
↓所謂“チャンバラ”な時代劇ドラマで主人公が悪漢達と闘う場所のような…そういう江戸時代の少し広い屋敷の部屋という風情だ。
↓最も奥まった辺りに、一行の最上位の人物が居室として使う場所が設えられていた。
↓これが浴室だという…湯を張る桶が、壁際でもない部屋の真中のような場所に敢えて据えられている。入浴中に襲撃を受け悪いようにということらしい。この桶の周辺には、入浴時の介助をする人や警護の人が入ることにもなる。4人や5人で入っても違和感が無いような広さの部屋だ。
↓大人数が利用する場所に特徴的な、大きな台所も確り在った。
何かで聞いたような気がするが、大名行列というようなモノは、「日出前から日没後」というような感じで1日に40㎞やそれ以上をずうっと歩くことを何日間も続けるモノなのだそうだ。「〇〇と江戸との間はXX日」という標準的な行程が在って、それに沿って動こうとしていたようだ。それ故、この本陣のような場所に入っても、長く逗留するのでもなかったのであろう。
草津宿に関しては、東海道も中山道も通じていることから、江戸と京またはそれより西の地域とを往来した経過が在る、少し知られた史上の人物達の記録が随分と多く在るようだ。各地の大名行列の他、幕府の公用ということで旅した人達や、江戸等へ嫁いだ公家の姫様というような人達の本陣での宿泊例も在るようだ。そんな様々な人達が在ったであろう場所の感じを愉しんだ。
草津は2つの旧街道が出会う場であった訳だが、過ぎた日々と現在とが出くわすような感じも在るのかもしれないと思った。
「旧街道」で最も知名度が高いのは、恐らくは東海道か中山道であると思われる。何れも江戸と京とを結ぶのだが、太平洋側を通る東海道に対し、内陸部を通るのが中山道だ。
その東海道と中山道とが合流または分岐する場所が在る。草津宿だ。現在は滋賀県草津市であり、京都駅から列車に乗れば北東側へ走って直ぐだ。
↓草津駅の前にこういう標柱が据えられている。
↑「左 中山道」ということだ。
↓眼を転ずると「右 東海道」というようになっている。
この駅前の標柱だが、高架になっていて、人が行き交う広場的な設えの場所に据えられていた。「東海道と中山道が交差した草津」というイメージで据えられているのであろうと思った。
↓高架を下りると、直ぐにこういうような「本陣」を案内する標柱に出くわす。
↓標柱は幾つか据えられているので、素直に辿って行けば「本陣」に至る。
旧街道は、江戸時代を通じてモノや人の往来に利用された訳だが、それが発展していった事情の一つに「参勤交代」が在った。各地の大名が、各々の知行地を江戸とを往来し、知行地と江戸の屋敷に隔年で住むという仕組みである。当時の大名は行列を組んで街道を進んで、江戸を目指すか、各々の知行地を目指すかという旅をした。当然、途中の宿場町に宿泊しなければならない。その大名等の宿泊に用いられた場所を「本陣」と称した訳だ。
↓これが草津宿の本陣である。
草津宿には2件の本陣が在ったそうだ。その中、1軒は建物が綺麗に残っていて、公開されているのだ。
↓中を見学させて頂くこととした。
↑なかなか広い建物だと思った。
本陣というのは、宿場町の豊かな家の所有する建物を利用する例が多かったようだ。そして、本陣という“宿泊事業”で利潤が得られるという程でもなかったそうだ。
↓利用する人達の要望に合わせて、部屋の仕切りを色々と変えながら利用した様子が伺える。
↓宿泊する一行の中で、身分が高い人達が入るような場所であるらしい。少し高く設えられているという。
大名行列のような一行の場合、一行の人員規模は様々であった訳だが、本陣は概ね大名その人と上席の随行者、身分の高い人達の手近な事を手掛けるような人達が入る場所であったように見受けられる。
↓所謂“チャンバラ”な時代劇ドラマで主人公が悪漢達と闘う場所のような…そういう江戸時代の少し広い屋敷の部屋という風情だ。
↓最も奥まった辺りに、一行の最上位の人物が居室として使う場所が設えられていた。
↓これが浴室だという…湯を張る桶が、壁際でもない部屋の真中のような場所に敢えて据えられている。入浴中に襲撃を受け悪いようにということらしい。この桶の周辺には、入浴時の介助をする人や警護の人が入ることにもなる。4人や5人で入っても違和感が無いような広さの部屋だ。
↓大人数が利用する場所に特徴的な、大きな台所も確り在った。
何かで聞いたような気がするが、大名行列というようなモノは、「日出前から日没後」というような感じで1日に40㎞やそれ以上をずうっと歩くことを何日間も続けるモノなのだそうだ。「〇〇と江戸との間はXX日」という標準的な行程が在って、それに沿って動こうとしていたようだ。それ故、この本陣のような場所に入っても、長く逗留するのでもなかったのであろう。
草津宿に関しては、東海道も中山道も通じていることから、江戸と京またはそれより西の地域とを往来した経過が在る、少し知られた史上の人物達の記録が随分と多く在るようだ。各地の大名行列の他、幕府の公用ということで旅した人達や、江戸等へ嫁いだ公家の姫様というような人達の本陣での宿泊例も在るようだ。そんな様々な人達が在ったであろう場所の感じを愉しんだ。
草津は2つの旧街道が出会う場であった訳だが、過ぎた日々と現在とが出くわすような感じも在るのかもしれないと思った。
「仁丹」の住所表示…(2022.08.02)
「M」…(2022.08.12)
底曳船の帰還…:稚内港第一副港周辺(2022.08.12)
降り注いだ光…:稚内港中央埠頭側を望む…(2022.08.12)
孔雀…:DAIMARU(2022.08.02)
マダマダ静かな早朝に四条通を東寄りから西寄りへ向かって歩くこととなった。
↓コレを眼に留めて、何となく足も停めた…
↑「DAIMARU」は百貨店の「大丸」に他ならないが、その上の孔雀が凄く立派で目立つと思った。
大丸では百貨店にこういう孔雀を飾るようなことをして、顧客サービスに「くじゃく〇〇」と命名する、または出資する会社に「ピーコック」(=孔雀)という名を入れるというように、何か思い入れが在るようである。
大丸の店としては、1925(大正14)年に大阪・心斎橋の店の建物を新装していた時に玄関の上に陶製の孔雀を掲げたのが「初めての事例」であるという。
何故、孔雀か?
江戸時代、心斎橋の大丸の近くに、長崎から密かに持ち込まれた孔雀の剥製を秘蔵して「孔雀屋敷」と呼ばれていた故事に因むという説が在るらしい。他方、建物の建築時、米国の業者に飾るための鳥の像を頼んで、不死鳥(=フェニックス)を想定していたのが、如何いう訳か孔雀になったという話しも在るらしい。
何れにしても、壮麗な孔雀は大丸がシンボルとして長く使っている訳だ。京都でも孔雀は四条通を行き交う人々を静かい見詰め続けている…
↓コレを眼に留めて、何となく足も停めた…
↑「DAIMARU」は百貨店の「大丸」に他ならないが、その上の孔雀が凄く立派で目立つと思った。
大丸では百貨店にこういう孔雀を飾るようなことをして、顧客サービスに「くじゃく〇〇」と命名する、または出資する会社に「ピーコック」(=孔雀)という名を入れるというように、何か思い入れが在るようである。
大丸の店としては、1925(大正14)年に大阪・心斎橋の店の建物を新装していた時に玄関の上に陶製の孔雀を掲げたのが「初めての事例」であるという。
何故、孔雀か?
江戸時代、心斎橋の大丸の近くに、長崎から密かに持ち込まれた孔雀の剥製を秘蔵して「孔雀屋敷」と呼ばれていた故事に因むという説が在るらしい。他方、建物の建築時、米国の業者に飾るための鳥の像を頼んで、不死鳥(=フェニックス)を想定していたのが、如何いう訳か孔雀になったという話しも在るらしい。
何れにしても、壮麗な孔雀は大丸がシンボルとして長く使っている訳だ。京都でも孔雀は四条通を行き交う人々を静かい見詰め続けている…
<東華菜館 本店>…(2022.08.02)
祇園辺りから四条烏丸へ引揚げようと、未だ早朝で静かな四条大橋をゆったりと渡った。
↓非常に美しい建物であると、視る都度に思う…
↑<東華菜館>(とうかさいかん)という中華料理店、「北京料理」を謳っているレストランであるという。
1924(大正13)年に着手で、1926(大正15)年に現在の店の前にやっていた洋食の店が開業したそうだ。建物の設計等を手掛けたのはウィリアム・メレル・ヴォーリズである。所謂「ヴォーリズ建築」となるのだが、商業施設系統の例が少ない中、レストランは唯一の事例であるという。
視る都度に「中を…」と思うのだが、なかなか機会を設けられずに居る。今般も「何時か…」と思いながら、何となく眺めて横を通過したのだった…
↓非常に美しい建物であると、視る都度に思う…
↑<東華菜館>(とうかさいかん)という中華料理店、「北京料理」を謳っているレストランであるという。
1924(大正13)年に着手で、1926(大正15)年に現在の店の前にやっていた洋食の店が開業したそうだ。建物の設計等を手掛けたのはウィリアム・メレル・ヴォーリズである。所謂「ヴォーリズ建築」となるのだが、商業施設系統の例が少ない中、レストランは唯一の事例であるという。
視る都度に「中を…」と思うのだが、なかなか機会を設けられずに居る。今般も「何時か…」と思いながら、何となく眺めて横を通過したのだった…
丸型ポスト…:祇園・花見小路(2022.08.02)
↓以前にも眼に留めて写真を撮った経過が在るモノなのだが、それでも好いと思った…
↑程好く年季が入っている感じが好ましい…
四条烏丸から八坂神社辺りに到り、東大路を南下して八坂の塔を望む辺りまで出て、そこから引揚げる際に花見小路に入ってこのポストに出くわした。
ポストの横に貼られた「火廼要慎」(ひのようじん)で「火廼ち慎重を要する」という意味だというが、何か凄く「京都の流儀」というような気がする。
こういうようなモノに眼を向けて何となく歩くというようなことが面白い…
↑程好く年季が入っている感じが好ましい…
四条烏丸から八坂神社辺りに到り、東大路を南下して八坂の塔を望む辺りまで出て、そこから引揚げる際に花見小路に入ってこのポストに出くわした。
ポストの横に貼られた「火廼要慎」(ひのようじん)で「火廼ち慎重を要する」という意味だというが、何か凄く「京都の流儀」というような気がする。
こういうようなモノに眼を向けて何となく歩くというようなことが面白い…
京都市本庁舎…(2022.08.01)
5月にも近くを通ったのだったが…
↓今般もまた通り掛った…
↑手前に「2」と書かれた何かが在るが、自転車を入れるようになっている場所らしい。利用方法はよく判らなかったが…
↓1930年代に入るような頃の建物である訳だが、重厚で好い感じだと思う。
振り返ると、今般はこの京都市の庁舎の他、名古屋市庁舎、静岡市庁舎と1930年代位の面白い建物を眺める機会が在った。
↓今回は、何やら強めな光線に照らし出されて、そんな様が美しいと思った。
一寸聞いたのだが、この京都市本庁舎を望む反対側の歩道に佇むと、祇園祭の山鉾巡行が観易いらしい。そんなことも憶えておきたい気がした…
↓今般もまた通り掛った…
↑手前に「2」と書かれた何かが在るが、自転車を入れるようになっている場所らしい。利用方法はよく判らなかったが…
↓1930年代に入るような頃の建物である訳だが、重厚で好い感じだと思う。
振り返ると、今般はこの京都市の庁舎の他、名古屋市庁舎、静岡市庁舎と1930年代位の面白い建物を眺める機会が在った。
↓今回は、何やら強めな光線に照らし出されて、そんな様が美しいと思った。
一寸聞いたのだが、この京都市本庁舎を望む反対側の歩道に佇むと、祇園祭の山鉾巡行が観易いらしい。そんなことも憶えておきたい気がした…
「意匠変更中」…:三条河原町(2022.07.31)
蝉…:御池通(2022.08.01)
「視える」というよりも「聞こえる」ということで“存在感”を示す存在が在るように思う。蝉のような「無く虫」がそういうモノの典型のように思う。
所用を足そうと御池通を歩いた。好奇心旺盛な同行者が「何?」と眼に留めたモノに歩み寄った。
↓歩道の脇にこんなモノが転がっていた…
御池通の街路樹の上には、姿は余り見えないが多数の蝉が在ることが判る。音が少し凄かった…
↓一寸引っ繰り返してみた…
↓夏らしいやや強い陽射しを避けようと、街路樹の木陰を択ぶ様に歩んだ…
蝉は?地下で育って地上に出て、木に上って鳴き、泣き続けて力尽きると、辺りに落ちてしまうということか…
↓京都の街だが、広い街路が整っているような場所では街路樹も存外に多いような気がする。
所用を足そうと御池通を歩いた。好奇心旺盛な同行者が「何?」と眼に留めたモノに歩み寄った。
↓歩道の脇にこんなモノが転がっていた…
御池通の街路樹の上には、姿は余り見えないが多数の蝉が在ることが判る。音が少し凄かった…
↓一寸引っ繰り返してみた…
↓夏らしいやや強い陽射しを避けようと、街路樹の木陰を択ぶ様に歩んだ…
蝉は?地下で育って地上に出て、木に上って鳴き、泣き続けて力尽きると、辺りに落ちてしまうということか…
↓京都の街だが、広い街路が整っているような場所では街路樹も存外に多いような気がする。
国際会館駅…:京都市営地下鉄(2022.07.31)
銀閣を訪ねてみた後、何気なくバスに乗車した。
「何処か…地下鉄の駅へ連れて行って下さい…」という気分でぼんやりとバスに乗車していた。
↓こういう場所に辿り着いた…
↑国際会館駅…京都の街を南北に縦断する地下鉄烏丸線の北側の起点・終点だ。列車の行先表示で「国際会館」を見掛けるが、初めて現地に至った。
バスでやって来ると、画の場所の裏側に幾つかの運行系統のバスが発着する広場風な、複数の停留所が集まった場所に着く。駅名の由来になっている「国際会館」なる施設は、何処か少し離れた場所なのであろう。
陽が少し高くなり、やや暑さが厳しくなって来たという程度に想いながら、少しこの画のような様子を眺めてぼんやりとしていた。何か「郊外風」でありながら、何となく「街の端側」という感もする。他の街でも、こういうような雰囲気の場所は在りそうだと思っていた…
↓長い階段やエスカレータを通ってホームへ下りた…
↑到着した列車が、暫く待機して折り返し運転となる形が多い様子だ。実際「折り返し、竹田行となります」ということで、これに乗車した。列車には、市営交通が110年となった旨のマークが掲出されていた。
今般、漠然と立寄って列車に乗ったという国際会館駅ではあったが、「そう言えば、全然利用していない?」という駅に何となく寄るのも悪くないものだと思う。
「何処か…地下鉄の駅へ連れて行って下さい…」という気分でぼんやりとバスに乗車していた。
↓こういう場所に辿り着いた…
↑国際会館駅…京都の街を南北に縦断する地下鉄烏丸線の北側の起点・終点だ。列車の行先表示で「国際会館」を見掛けるが、初めて現地に至った。
バスでやって来ると、画の場所の裏側に幾つかの運行系統のバスが発着する広場風な、複数の停留所が集まった場所に着く。駅名の由来になっている「国際会館」なる施設は、何処か少し離れた場所なのであろう。
陽が少し高くなり、やや暑さが厳しくなって来たという程度に想いながら、少しこの画のような様子を眺めてぼんやりとしていた。何か「郊外風」でありながら、何となく「街の端側」という感もする。他の街でも、こういうような雰囲気の場所は在りそうだと思っていた…
↓長い階段やエスカレータを通ってホームへ下りた…
↑到着した列車が、暫く待機して折り返し運転となる形が多い様子だ。実際「折り返し、竹田行となります」ということで、これに乗車した。列車には、市営交通が110年となった旨のマークが掲出されていた。
今般、漠然と立寄って列車に乗ったという国際会館駅ではあったが、「そう言えば、全然利用していない?」という駅に何となく寄るのも悪くないものだと思う。
道元禅師示寂の地…(2022.07.31)
朝から銭湯を利用し、宿へ引揚げようとゆったりと歩いていた。
↓建物一軒が建つか如何かという程度の、一寸した用地が半ば空地のようになっていて、石碑が据えられている様子であるのが眼に留まった。
↓「何?」と思えば、石碑に関して説いている看板が在った。道元禅師に所縁の場所であるということだ。
道元(1200-1253)は鎌倉時代初期の禅僧で、曹洞宗を開いたという人物だ。
比叡山で出家し、建仁寺で学ぶ等した後に宋(中国大陸)へ渡って学び、曹洞宗を起こして行き、やがて越前国の永平寺を本拠地とするようになって行く。最晩年に至って永平寺を後身に託し、道元自身は京都に出て病気療養をしていて、この世紀費の辺りで他界したというのだ。高僧が他界する場合に「示寂」という用語を用いる場合が在るようだが…
「不思議な空地?」と惹かれたが、偶々少し前に『親鸞と道元』という本を読んでいて、「道元」という名に注目した訳である。
↓京都というのは、こういうような少し知られた史上の人物達に所縁の場所というようなモノに「実にさり気ない…」という様子で出くわす場合が在る街だと、改めて思った。
↓建物一軒が建つか如何かという程度の、一寸した用地が半ば空地のようになっていて、石碑が据えられている様子であるのが眼に留まった。
↓「何?」と思えば、石碑に関して説いている看板が在った。道元禅師に所縁の場所であるということだ。
道元(1200-1253)は鎌倉時代初期の禅僧で、曹洞宗を開いたという人物だ。
比叡山で出家し、建仁寺で学ぶ等した後に宋(中国大陸)へ渡って学び、曹洞宗を起こして行き、やがて越前国の永平寺を本拠地とするようになって行く。最晩年に至って永平寺を後身に託し、道元自身は京都に出て病気療養をしていて、この世紀費の辺りで他界したというのだ。高僧が他界する場合に「示寂」という用語を用いる場合が在るようだが…
「不思議な空地?」と惹かれたが、偶々少し前に『親鸞と道元』という本を読んでいて、「道元」という名に注目した訳である。
↓京都というのは、こういうような少し知られた史上の人物達に所縁の場所というようなモノに「実にさり気ない…」という様子で出くわす場合が在る街だと、改めて思った。
白山湯 高辻店…(2022.07.31)
京都の街中には存外に銭湯が多く在るという話しを聞いている。他方で、順次廃業が増えているとも聞くが、それでも意外に賑わっていて利用するのが愉しいようではある。
滞在した宿が立地する四条烏丸辺りからも「片道が徒歩10分程度」という範囲に銭湯が在って、しかも日曜日は朝7時から開いていて好評を博しているということを聞いた。
トートバッグ―一寸いた買い物の際に使う、モノを買って持ち運ぶ際に使うということで、旅先には畳んでバッグに入れて何時も持って行く…―にタオルを入れて、何となく歩いてその銭湯を訪ねてみることにした。
↓地図を見て「この辺りの道を抜けて?」と行きつ戻りつで進むと、それらしい建物に巡り合った。
↑京都の街中には、こういう按配の風景はマダマダ残っているようにも思う…
↓白山湯(はくさんゆ)という屋号の看板だ…
↓「危険な暑さ」が囁かれた日の朝、7時の開店の少し後を目掛けて訪ねた次第だ。
正しく銭湯で、料金は「450円」である。が、中は各種の浴槽と熱いサウナ―最近利用したモノの中では最も高温な100℃か、それを少し出ていたかもしれなかったと思う…―が備わっていて、意外に賑わっていた。そしてなかなかに好かった。タオルは持って出て正解だった。ボディーソープやシャンプーは使用可能なモノが浴場に在ったので、特段に不便は無い。
「普通の銭湯」というモノまで利用してみると、何か京都が更に身近になったような気もする…朝からサッパリだった。
>>白山湯のウェブサイト
滞在した宿が立地する四条烏丸辺りからも「片道が徒歩10分程度」という範囲に銭湯が在って、しかも日曜日は朝7時から開いていて好評を博しているということを聞いた。
トートバッグ―一寸いた買い物の際に使う、モノを買って持ち運ぶ際に使うということで、旅先には畳んでバッグに入れて何時も持って行く…―にタオルを入れて、何となく歩いてその銭湯を訪ねてみることにした。
↓地図を見て「この辺りの道を抜けて?」と行きつ戻りつで進むと、それらしい建物に巡り合った。
↑京都の街中には、こういう按配の風景はマダマダ残っているようにも思う…
↓白山湯(はくさんゆ)という屋号の看板だ…
↓「危険な暑さ」が囁かれた日の朝、7時の開店の少し後を目掛けて訪ねた次第だ。
正しく銭湯で、料金は「450円」である。が、中は各種の浴槽と熱いサウナ―最近利用したモノの中では最も高温な100℃か、それを少し出ていたかもしれなかったと思う…―が備わっていて、意外に賑わっていた。そしてなかなかに好かった。タオルは持って出て正解だった。ボディーソープやシャンプーは使用可能なモノが浴場に在ったので、特段に不便は無い。
「普通の銭湯」というモノまで利用してみると、何か京都が更に身近になったような気もする…朝からサッパリだった。
>>白山湯のウェブサイト