烏丸丸太町辺りで護王神社に参拝し、烏丸通を渡って蛤御門を潜って、「京都御苑の反対側」に至った。
↓少し古い歴史を誇る廬山寺(ろざんじ)が在る。
↓廬山寺が在る辺りは、かの紫式部(970年代生まれと考えられ、1019年以降に他界したと見受けられる)の邸宅であったと伝えられている。
「10世紀末から11世紀初頭」というような時代、世界中の様々な国々で「女性が文章を綴り、綴った文章が少し広く愛読され、それが何世代にも亘って、現在までの千年間にも亘って受継がれている」というのは、世界の様々な国々の文化史の中で類例が思い浮かばない。とりあえず「凄いこと!」のいような感じだ…
↓天台宗の流れを汲む高僧達が活動した経過の在る寺が、時代の荒波を潜り抜けた中で、現在の場所に至り、「かの紫式部の邸宅の跡に在る古刹」という具合になって行った訳だ。
↓酷く年季が入った松の古木が記憶に残る感だった…
↓寺の庭や、様々なモノをゆったりと拝観した…
↓こういう場所も意外に好きだ…
↓この廬山寺にも縁が在る元三大師(がんさんだいし)という高徳の僧が、鬼の姿になって災厄や疫病を退けたという言伝えに基づく「角大師御札」というモノが在るという。幾つかの天台宗の流れを汲む寺でこの御札は在るらしい。最近「厄除け?」というようなことを話題にしていたので、知人に向けた土産として、これを入手してみた。
この「角大師御札」というモノに関しては、京都では存外にポピュラーであるというようなことも聞いた。それはそれとして、様々な意味合いで、京都で過ぎた永い歴史の様々な側面を想起させる小さな古刹というような場所を訪ねてみたことは興味深かった。
蛤御門:京都御苑(2022.12.24)
↓こういう標柱が据えられている箇所が在る。
↑「蛤御門」(はまぐりごもん)という場所だ。
1864年の「蛤御門の変」または「禁門の変」と言われる事件の主要な舞台と伝えられる場所だ。前年に政変で不利な立場になって京都から追われてしまった長州が失地回復を目指し、京都守護職等の幕府勢力の排除を目論んで京都に出兵し、幕府勢力に敗れてしまったという一件で、天皇が在る場所である御所を巡る攻防の激戦地であった辺りに因んで「蛤御門の変」と呼ばれる。御所の門は「禁門」と呼び習わされることから、事件を「禁門の変」とも呼ぶ。
この戦闘に際しては、御所の周辺の邸宅で火災が発生し、延焼が拡がってしまい、一条周辺から七条周辺に至る広い範囲で火災に見舞われたという。京都の街の歴史では、「どんどん焼け」として伝えられているそうだ。
↓これがその蛤御門だ。
↑多分、門の傍に京都守護職を担った会津の将士が警備のために陣取って、そこに長州勢が挑みかかって戦闘になったのであろう。画の左側を少し進むと、現在は同志社大学になっている辺り―少し北側ということになると思う―が薩摩島津家の邸宅が設けられていたという。恐らくそこで支度を整えてた薩摩の将士が進んで来て、会津勢を援護して長州勢に攻撃を加えたというような展開であったのであろう。
御所とその周辺はこの蛤御門を含めた幾つかの門も設えた塀で囲まれている。室町時代の後半辺りから、現在も「京都御所」として知られる京都御苑の周辺に御所が設けられ続けていたようである。蛤御門の眼前の烏丸通等、周辺の様子は時代毎に変わっていることであろうが。「蛤御門の変」または「禁門の変」の頃には、門の直近から烏丸通の幅目一杯、または近隣に両陣営の将士が散らばって激しい戦闘が繰り広げられたのであろう。
↓分厚い板で造られた門扉なのだが、経年劣化なのか、1864年の事件で飛び交った銃弾か何かで傷が着いたのか、何とも言い難い雰囲気が在る。
↓「蛤御門の変」または「禁門の変」の頃を舞台にするような小説を多々読んでいる関係で、何やら非常に興味深くこの場所を眺めた。
実を言えば、場所そのものに強い関心も在ったのだが、極めて「実用的な事由」でこの門を潜った。護王神社へ参拝し、烏丸通を横断するとこの蛤御門が直ぐに在る。広い京都御苑の敷地の反対側へ出る場合、日中の京都御苑の通り抜けが可能な時間なのであれば、ゆっくりと京都御苑の敷地を横断するのが近くて早いのである。そういう事由で、この蛤御門を潜り、反対側を目指したのであった。
↑「蛤御門」(はまぐりごもん)という場所だ。
1864年の「蛤御門の変」または「禁門の変」と言われる事件の主要な舞台と伝えられる場所だ。前年に政変で不利な立場になって京都から追われてしまった長州が失地回復を目指し、京都守護職等の幕府勢力の排除を目論んで京都に出兵し、幕府勢力に敗れてしまったという一件で、天皇が在る場所である御所を巡る攻防の激戦地であった辺りに因んで「蛤御門の変」と呼ばれる。御所の門は「禁門」と呼び習わされることから、事件を「禁門の変」とも呼ぶ。
この戦闘に際しては、御所の周辺の邸宅で火災が発生し、延焼が拡がってしまい、一条周辺から七条周辺に至る広い範囲で火災に見舞われたという。京都の街の歴史では、「どんどん焼け」として伝えられているそうだ。
↓これがその蛤御門だ。
↑多分、門の傍に京都守護職を担った会津の将士が警備のために陣取って、そこに長州勢が挑みかかって戦闘になったのであろう。画の左側を少し進むと、現在は同志社大学になっている辺り―少し北側ということになると思う―が薩摩島津家の邸宅が設けられていたという。恐らくそこで支度を整えてた薩摩の将士が進んで来て、会津勢を援護して長州勢に攻撃を加えたというような展開であったのであろう。
御所とその周辺はこの蛤御門を含めた幾つかの門も設えた塀で囲まれている。室町時代の後半辺りから、現在も「京都御所」として知られる京都御苑の周辺に御所が設けられ続けていたようである。蛤御門の眼前の烏丸通等、周辺の様子は時代毎に変わっていることであろうが。「蛤御門の変」または「禁門の変」の頃には、門の直近から烏丸通の幅目一杯、または近隣に両陣営の将士が散らばって激しい戦闘が繰り広げられたのであろう。
↓分厚い板で造られた門扉なのだが、経年劣化なのか、1864年の事件で飛び交った銃弾か何かで傷が着いたのか、何とも言い難い雰囲気が在る。
↓「蛤御門の変」または「禁門の変」の頃を舞台にするような小説を多々読んでいる関係で、何やら非常に興味深くこの場所を眺めた。
実を言えば、場所そのものに強い関心も在ったのだが、極めて「実用的な事由」でこの門を潜った。護王神社へ参拝し、烏丸通を横断するとこの蛤御門が直ぐに在る。広い京都御苑の敷地の反対側へ出る場合、日中の京都御苑の通り抜けが可能な時間なのであれば、ゆっくりと京都御苑の敷地を横断するのが近くて早いのである。そういう事由で、この蛤御門を潜り、反対側を目指したのであった。
護王神社…(2022.12.24)
烏丸丸太町の辺りを少し歩いた。
↓猪だ…
↓猪が左右で対になっている…
↓対の猪が在る神社である…
↓足腰に御利益が在るとされる護王神社である。
↓中にも猪が在る。
↓これも対になった猪だ。
↓嘗ての「10円紙幣」に、古代の朝廷の忠臣であったと伝わる和気清麻呂の肖像画が使われていたという。その和気清麻呂は猪に導かれ、悩んでいた足の萎える症状が恢復して元気になったと伝えられる。護王神社はその故事に因む神社だ。
↓手水鉢の辺りにも猪だ…
↓猪のマスコットを大量に並べている場所が在った…
↓丸太町駅周辺を歩いて場所は承知していた護王神社だった。体調が十全でもない身近な人が在るので、参拝したいと思ったこと、加えて何処でも元気に歩き廻るということが出来ている自身に関して感謝の意を表したいと、この神社に立寄ったのだった。
↓大変に大きく立派な生け花が飾られていた。有名社寺で時々見掛けるように思うが、こういうモノを眺めるのも存外に好きだ。
↓休憩コーナーに掛けてみれば、何やら猪の立派な彫刻が在った…
猪は力強く山野を駆けるというような感であろうか?そこから健脚というような連想で、和気清麻呂の言伝えが産れたのか?なかなかに興味深い。そして、今般立寄って、何となくこの護王神社が気に入った。
↓猪だ…
↓猪が左右で対になっている…
↓対の猪が在る神社である…
↓足腰に御利益が在るとされる護王神社である。
↓中にも猪が在る。
↓これも対になった猪だ。
↓嘗ての「10円紙幣」に、古代の朝廷の忠臣であったと伝わる和気清麻呂の肖像画が使われていたという。その和気清麻呂は猪に導かれ、悩んでいた足の萎える症状が恢復して元気になったと伝えられる。護王神社はその故事に因む神社だ。
↓手水鉢の辺りにも猪だ…
↓猪のマスコットを大量に並べている場所が在った…
↓丸太町駅周辺を歩いて場所は承知していた護王神社だった。体調が十全でもない身近な人が在るので、参拝したいと思ったこと、加えて何処でも元気に歩き廻るということが出来ている自身に関して感謝の意を表したいと、この神社に立寄ったのだった。
↓大変に大きく立派な生け花が飾られていた。有名社寺で時々見掛けるように思うが、こういうモノを眺めるのも存外に好きだ。
↓休憩コーナーに掛けてみれば、何やら猪の立派な彫刻が在った…
猪は力強く山野を駆けるというような感であろうか?そこから健脚というような連想で、和気清麻呂の言伝えが産れたのか?なかなかに興味深い。そして、今般立寄って、何となくこの護王神社が気に入った。