「遅過ぎな昼食」と「早い夕食」との隙間というような、何か妙な時間に食事を摂ろうと歩き廻り、回転寿司の店に入った。利用客が多く集まる時間の“間隙”という感で、直ぐに席に案内されて落ち着いた。
↓率直に、こういうのを久し振りに視たような気がする。
↑最近は、カウンターに据えられたタブレットを使う、紙に書くで注文し、寿司が順次届くような感じの場所が目立つと思う。本当に「回転寿司」で、小皿に載った寿司がレーンを回っていた。
席に案内されると、店員さんは「スマホにアプリを」と、自身にとっては「全く意味不明…」なことを言い出す。“スマホ”なるモノを持っていない…使わないとすれば、レーンのモノを取って頂くことになる。それで大いに結構!実は同行者が「御無沙汰している“回転寿司”が好いかもしれない…」と言うので、希望を叶えて差し上げようということも考えたのだった。自身は12月に回転寿司の店に入った経過が在ったが、そこはカウンターのタブレットで注文という仕掛けだった。こういうレーンは酷く久々な感じであった。
↓“一貫”の単位で供するマグロが在った…
↓所謂「光物」系統の魚は好きだ…
↓眼に留まったネタを色々と試してみた。何れも好かった!
↓こんな海老も好かった。
ゆったりと寿司を摘まんでいる間、「御来店です!」という店員さん達の声は途切れず、何時の間にか「御待ち頂ければ…」というような声も交る程度に店は賑わった。辺りでは評判の好い店なのだと思った。肝心の店名を確り記録していない。どうも鮮魚等を扱う会社で手掛けている御店と見受けられた。偶然ながら好い御店に出くわしたと喜んでいる。
久し振りに「非常に“らしい”!!」という感じの回転寿司で、朝に宿でサラダと若干のおかずを摘まんだ程度で空腹であったことにも気付き、何やらたっぷりと頂いてしまった。
何となく「京都に住む者が大坂に一寸遊びに…」という気分で過ごした日だったかもしれないが、こんな食事も含めて、何もかもが記憶に残る感だった。
道頓堀の界隈…:大阪・難波(2022.12.26)
大阪城公園から森ノ宮駅へ出て、地下鉄の長堀鶴見緑地線の列車に乗って心斎橋駅へ移動した。そして御堂筋を歩いて若干南下した。同行した友人は、大阪城公園や周辺に比して、何やら落着きの無い街路のような気がすると感想を漏らしていた。
↓そしてこの「グリコ」が視える辺りに至った。
↓この「グリコ」が視える様子は「大坂の街中」というようなことで知名度が高い。年末で、何となく人出も多かったが、看板の人物のように両腕を挙げて記念写真を撮っているというような様子も随分と見掛けた。
↓何やら「中途半端な時間帯…」という感だった。この辺りへ出てみたのは、「とりあえず食事…」という趣旨だった。
↓少しばかり奇抜な大看板が目立つというのが、この道頓堀の界隈の特徴かもしれない。
↓「派手!」が創り上げられた感じもする場所だ。
↓様々な種類の飲食店が見受けられ、目移りが甚だしい。
↓「大阪の難波」という、他地域にまで流布された“イメージ”が四方八方から降り注ぐようにも思った。
↓確か「くいだおれ太郎」と言ったか?有名なキャラクターの人形だ。
暫し、こうしてキョロキョロとしながら歩き廻ったのだった。
↓そしてこの「グリコ」が視える辺りに至った。
↓この「グリコ」が視える様子は「大坂の街中」というようなことで知名度が高い。年末で、何となく人出も多かったが、看板の人物のように両腕を挙げて記念写真を撮っているというような様子も随分と見掛けた。
↓何やら「中途半端な時間帯…」という感だった。この辺りへ出てみたのは、「とりあえず食事…」という趣旨だった。
↓少しばかり奇抜な大看板が目立つというのが、この道頓堀の界隈の特徴かもしれない。
↓「派手!」が創り上げられた感じもする場所だ。
↓様々な種類の飲食店が見受けられ、目移りが甚だしい。
↓「大阪の難波」という、他地域にまで流布された“イメージ”が四方八方から降り注ぐようにも思った。
↓確か「くいだおれ太郎」と言ったか?有名なキャラクターの人形だ。
暫し、こうしてキョロキョロとしながら歩き廻ったのだった。
豊臣秀吉公像…:大阪城豊國神社(2022.12.26)
大阪城天守閣の辺りから、幾つか選択肢が在る地下鉄の駅を目掛けて歩こうとした。往路はJR京橋駅を利用したので、復路は少し違う駅をと思い、結局は森ノ宮駅を目指すこととした。
↓途中でこの像に出会った。
↓何となく暫く振りにこの像を見上げたような気がした。
↑手元の記録を紐解けば、2020年に立寄った経過が在るようだが、大阪城に在る豊國神社(とよくにじんじゃ)の豊臣秀吉公像だ。
この像は1903(明治36)年に大坂城内に登場した。そして中之島に在った豊國神社の境内に遷って広く親しまれていたが、戦時下の1943(昭和18)年に「金属類回収令」で供出されて姿を消したという。やがて1961(昭和36)年に神社が現在の大阪城に遷って以降、豊臣秀吉公像の再興が願い続けられ、2007(平成19)年にこの像が登場した。写真記録に在る嘗ての像の感じも参考にしながら制作された、高さ5.2mの像であるという。「数多の戦に勝利し天下統一を果たした」というイメージであるということだ。
こんな像を眺め、大阪城で少し愉しい想い出が出来たということに感謝し、御朱印を頂いたのだった。
↓途中でこの像に出会った。
↓何となく暫く振りにこの像を見上げたような気がした。
↑手元の記録を紐解けば、2020年に立寄った経過が在るようだが、大阪城に在る豊國神社(とよくにじんじゃ)の豊臣秀吉公像だ。
この像は1903(明治36)年に大坂城内に登場した。そして中之島に在った豊國神社の境内に遷って広く親しまれていたが、戦時下の1943(昭和18)年に「金属類回収令」で供出されて姿を消したという。やがて1961(昭和36)年に神社が現在の大阪城に遷って以降、豊臣秀吉公像の再興が願い続けられ、2007(平成19)年にこの像が登場した。写真記録に在る嘗ての像の感じも参考にしながら制作された、高さ5.2mの像であるという。「数多の戦に勝利し天下統一を果たした」というイメージであるということだ。
こんな像を眺め、大阪城で少し愉しい想い出が出来たということに感謝し、御朱印を頂いたのだった。
<MIRAIZA OSAKA-JO>(ミライザ大阪城)=旧第四師団司令部庁舎…(2022.12.26)
↓現在の大阪城天守閣と殆ど同時期に登場したという、天守閣の直ぐ傍に在る建物だ。
↓大阪を本拠地としていた陸軍の第四師団が司令部として使った建物だというが、「如何にも…」というように感じる。
↓この天井の照明も「1930年代頃のモノ」と強く感じられる。
この建物は、現在では<MIRAIZA OSAKA-JO>(ミライザ大阪城)と称し、物販や飲食のテナントが入っている。
↓館内はなかなかに趣深い…
大阪城天守閣の見学に夢中になり「数分で午後3時…」という辺りまで昼食も摂らずに居た。ここの館内で昼食を摂ることを思い付いたのだが、ランチタイムの営業が終わったという時間帯になってしまっていた。そこで、街に出て食事を摂るという相談になった訳である。そういう少し変わった動きもまた、好い想い出かもしれない。
↓大阪を本拠地としていた陸軍の第四師団が司令部として使った建物だというが、「如何にも…」というように感じる。
↓この天井の照明も「1930年代頃のモノ」と強く感じられる。
この建物は、現在では<MIRAIZA OSAKA-JO>(ミライザ大阪城)と称し、物販や飲食のテナントが入っている。
↓館内はなかなかに趣深い…
大阪城天守閣の見学に夢中になり「数分で午後3時…」という辺りまで昼食も摂らずに居た。ここの館内で昼食を摂ることを思い付いたのだが、ランチタイムの営業が終わったという時間帯になってしまっていた。そこで、街に出て食事を摂るという相談になった訳である。そういう少し変わった動きもまた、好い想い出かもしれない。
大阪城天守閣を望む…(2022.12.26)
友人と連れ立って出掛けたというのは「大阪城を見学に…」という話しからだった。京都の山科駅から大坂の京橋駅へ列車で移動し、京橋駅から大阪城公園の天守閣を目掛けて歩いた。
↓広い公園の中でも、天守閣は大きな建物なので、少し離れた辺りからでも一寸目立つ。
↓少しずつ大きな天守閣に近付く。
↓その威容を見上げるような位置に至った。
「石山本願寺」であった場所に豊臣秀吉が城を築いた。「大坂の陣」で城が消失してしまった。徳川幕府が改めて築城した。天守閣等、一部の建物は火災で焼失している。幕末期を経て、明治期以降は陸軍が城の用地を利用していた。昭和の初め頃、江戸時代の基礎の上に、現在の天守閣が「街のシンボル」として建てられ、城の用地の一部が公園化された。そして戦後、用地が色々と利用される経過が重なりながら現在に至っているが、大阪城天守閣は現在でも「街のシンボル」として親しまれている。
同行した友人と、こういうような場所の経過を語らいながら、建物の様子を眺めた他に辺りの景色も愉しみ、資料館になっている天守閣の中にも入り、展示等をゆったりと観ていたのだった。
↓江戸幕府が建てた天守閣の土台を利用しているが、伝わっている豊臣時代の様子を想定して建てたのが現在の天守閣であるという。
↑館内展示に、江戸幕府が建てたモノを想定した模型が在るのだが「あの辺りの階段?入る時に上った様子と同じでは?」という様子が判る。江戸幕府が建てた天守閣は58m程度であったらしい。現在のモノは54m程であるという。大阪城公園を囲むように大きな高層ビルも多々見受けられるので、天守閣は相対的に小さく感じる場合も無いではないが。
↓何度も立寄ってみた経過が在る大阪城天守閣だが、友人と語らいながら、昼食を摂るのも半ば忘れて時間を掛けて見学したという出来事は、忘れ難い想い出になったと思う。
辺りに花が咲く木が多く植えられていることを話題にすると、友人は「その花の時季に再訪してみたい」としていた。色々な事が在った史跡でもあるが、人々に愛される憩いの場となっているという感を強くした。
「ど定番!」で「今更?」という場所かもしれないが、この天守閣が聳え立つ大阪城公園は好い…
↓広い公園の中でも、天守閣は大きな建物なので、少し離れた辺りからでも一寸目立つ。
↓少しずつ大きな天守閣に近付く。
↓その威容を見上げるような位置に至った。
「石山本願寺」であった場所に豊臣秀吉が城を築いた。「大坂の陣」で城が消失してしまった。徳川幕府が改めて築城した。天守閣等、一部の建物は火災で焼失している。幕末期を経て、明治期以降は陸軍が城の用地を利用していた。昭和の初め頃、江戸時代の基礎の上に、現在の天守閣が「街のシンボル」として建てられ、城の用地の一部が公園化された。そして戦後、用地が色々と利用される経過が重なりながら現在に至っているが、大阪城天守閣は現在でも「街のシンボル」として親しまれている。
同行した友人と、こういうような場所の経過を語らいながら、建物の様子を眺めた他に辺りの景色も愉しみ、資料館になっている天守閣の中にも入り、展示等をゆったりと観ていたのだった。
↓江戸幕府が建てた天守閣の土台を利用しているが、伝わっている豊臣時代の様子を想定して建てたのが現在の天守閣であるという。
↑館内展示に、江戸幕府が建てたモノを想定した模型が在るのだが「あの辺りの階段?入る時に上った様子と同じでは?」という様子が判る。江戸幕府が建てた天守閣は58m程度であったらしい。現在のモノは54m程であるという。大阪城公園を囲むように大きな高層ビルも多々見受けられるので、天守閣は相対的に小さく感じる場合も無いではないが。
↓何度も立寄ってみた経過が在る大阪城天守閣だが、友人と語らいながら、昼食を摂るのも半ば忘れて時間を掛けて見学したという出来事は、忘れ難い想い出になったと思う。
辺りに花が咲く木が多く植えられていることを話題にすると、友人は「その花の時季に再訪してみたい」としていた。色々な事が在った史跡でもあるが、人々に愛される憩いの場となっているという感を強くした。
「ど定番!」で「今更?」という場所かもしれないが、この天守閣が聳え立つ大阪城公園は好い…
『名探偵コナン』…:大阪城公園周辺(2022.12.26)
少し進めば大阪城公園の、天守閣が遠くに視えそうな辺りに至る筈と思いながら歩を進めた。
↓こんなモノが在った…何やら子ども達の像だ…
↑『名探偵コナン』という人気アニメの劇中人物達であるという。奥のビルはテレビ局の本社で、制作されるアニメに放映に携わっているということになる。
『名探偵コナン』は1994年に登場の漫画を原案に1996年からテレビアニメになっている。漫画もアニメも、現在に至っても続いている。
上記の画の左側、眼鏡を掛けている少年が主人公のコナンだ。優れた頭脳を持つ高校生であったが、悪の組織の手で飲まされた謎の毒薬の副作用で身体が幼児化してしまい、小学1年生ということで幼馴染の家に居候しているということである。周囲の子ども達は、劇中に登場する仲間達、<少年探偵団>というのであろうか。
偶々、然程通行量が多いでもない中で通ったのだが、それなりに人気の記念写真撮影場所かもしれない。ここで写真を撮ると「出くわした子ども達と触れ合う…」というような画になるかもしれないが…
↓こんなモノが在った…何やら子ども達の像だ…
↑『名探偵コナン』という人気アニメの劇中人物達であるという。奥のビルはテレビ局の本社で、制作されるアニメに放映に携わっているということになる。
『名探偵コナン』は1994年に登場の漫画を原案に1996年からテレビアニメになっている。漫画もアニメも、現在に至っても続いている。
上記の画の左側、眼鏡を掛けている少年が主人公のコナンだ。優れた頭脳を持つ高校生であったが、悪の組織の手で飲まされた謎の毒薬の副作用で身体が幼児化してしまい、小学1年生ということで幼馴染の家に居候しているということである。周囲の子ども達は、劇中に登場する仲間達、<少年探偵団>というのであろうか。
偶々、然程通行量が多いでもない中で通ったのだが、それなりに人気の記念写真撮影場所かもしれない。ここで写真を撮ると「出くわした子ども達と触れ合う…」というような画になるかもしれないが…