天神橋筋六丁目駅に近い宿の居室で寛いで居る。大阪の街の北側だ。稚内から文字どおりの“一日仕事”で一気に移動した。
昂り過ぎたのでもないが、午前4時を待たずに起床で、何らの差支えも無く、<青春18きっぷ>を手に早朝5時21分に稚内駅を出る列車に乗り込んだ。存外に車内が賑わった感だったが、多くの出入りが在って、稚内駅から名寄駅まで通して乗車していたのは自身を含めて3名で、途中から乗車した1名が名寄駅まで乗車していた。
「“3時間”を3千円で買う」という厭らしい言い方をしてしまう場合が在るが、<青春18きっぷ>で朝の名寄駅に到って、旭川駅までの乗車券と特急券を求め、素早く旭川駅に出てしまう場合が多く在る。今般もその手を使った。名寄での待ち時間が短くなり、旭川駅での接続も好くなる。概ね3時間程度の待ち時間が酷く短くなる訳だ。
旭川駅からは、滝川駅、岩見沢駅で乗換えながら札幌駅に到った。札幌駅近くで昼食(兼朝食…)をマグロの丼だ。
札幌駅から新千歳空港駅へ移動し、空港に入った。飛行機は窓側席が当たった。そして神戸へのフライトであるが、非常に順調だったと思う。
神戸空港からはポートライナーで三宮に出た。三ノ宮駅(JRは「ノ」が入る…)に歩を進め、「関西のJRと言えば…」という感の<新快速>がホームに停まっていたので飛び乗り、大阪駅へ移動した。ここでも<青春18きっぷ>を使った。
様々な路線が入り乱れる大阪駅だが、地下鉄谷町線に乗換えた。なかなかに歩く…谷町線は東梅田駅という看板になっている。少し探した。その地下鉄谷町線で天神橋筋六丁目駅に到った。天神橋筋六丁目駅には阪急にも乗入れている堺筋線も在り、構内はかなり広く、出口を求めて随分歩いた。やがて天神橋筋に出て、キョロキョロとして宿を見付けた訳だ。
朝5時台から動き始め、午後8時台の半ばに宿に入ったのだ。自身「いい歳…」になってしまっていると思うが、「よくやる…」と自身にほんの少し呆れないでもない。酷く空腹を覚えたので、辺りに出て、何やら定食屋に入って牛肉を焼いたモノをメインにした定食をゆったり頂いた。後は居室で休むばかりだ。
稚内を出た時は2℃を切っていた。大阪は20℃を伺うような感じだ。明朝からは軽やかに動き廻ることも叶うであろう。宿の居室で「後は何時でも御休み頂いて結構…」ということにする。この天神橋筋六丁目駅に近い宿だが、近年の利用機会が多いチェーンで、何処の街でも似たような部屋で勝手も判り、何か酷く居心地も好い。ここが今般の“別宅”となる訳だ。
出先での滞在を愉しむというようなことだが、結局「滞在地」に出る道程が酷く長い。それでもその道程を何となく愉しむ訳だが。
幾春別(いくしゅんべつ)…(2023.03.31)
広大な北海道について、北海道内に住んでいても「そう言えば訪ねたことが無い」は多々在り、地名が登場しても「読み方がよく判らない…」も多々ある。
「幾春別(いくしゅんべつ)」というのも、「そう言えば訪ねたことが無い」や「読み方がよく判らない…」に該当するように思う。
札幌・旭川間の特急列車が札幌駅の手前で停車する岩見沢駅から少し内陸に入ったような辺り、三笠市の域内にこの「幾春別(いくしゅんべつ)」は在る。
↓こういうモノを見付けて、思わず入手してしまった。
↑「幾春別(いくしゅんべつ)」という鉄道駅の看板のミニチュアだ。
札幌駅近くの大きな書店に、鉄道駅のグッズを売っている一画が在った。現在も利用されている駅の他、「廃線になってしまった場所」の駅の関係のモノも在った。主に駅名の看板のミニチュアが目立つ場所だ。何となく冷やかすのが少し愉しい場所で、過日札幌で立寄ったのだった。
「幾春別(いくしゅんべつ)」という駅は、1987年に廃止された幌内線の駅だった。
幌内線は1882年に開業した北海道最初の鉄道の流れを汲む。石炭を積んで港に運び、需要先へ送り出すという役目を担う鉄道だった。やがて炭鉱が活動しなくなる中で輸送需要も減っていたのだが、国鉄の民営化から日を経ずに廃止されることになった幌内線である。
実を言えば、自身の母方の祖父母がこの幌内線の端に在る幾春別駅から歩いて10分位の辺りに住んでいた。祖父の他界後、祖母が長く幾春別に在った。そういう訳で「幾春別の祖母ちゃん」というのが、家族の会話の中でよく登場した。「幾春別」というマイナーな地名も、自身の家族の中では一定程度の頻度で出ていた訳だ。(この「幾春別の祖母ちゃん」が他界してからもかなり年月が経った…)
この幾春別に関して、“親父殿”の愛車で往来というのが多かった。それでも1回か2回だが、列車に乗ってみた記憶も在る。本当に「民営化後、直ぐに廃止された国鉄のローカル線」という風情の場所だった。
↓駅の看板のミニチュアを見て、「手近に置いておきたい!!」と非常に強く思った。そして入手した訳である。居室の小さな棚に何となく飾って在る。
「北海道の歴史」の中で存在感を放つ幌内線の駅に据えられた看板だが、極々私的な「家族の歴史」にも関連が深い駅名である。こんな小さなモノだが、一寸大切にしたい感だ。
「幾春別(いくしゅんべつ)」というのも、「そう言えば訪ねたことが無い」や「読み方がよく判らない…」に該当するように思う。
札幌・旭川間の特急列車が札幌駅の手前で停車する岩見沢駅から少し内陸に入ったような辺り、三笠市の域内にこの「幾春別(いくしゅんべつ)」は在る。
↓こういうモノを見付けて、思わず入手してしまった。
↑「幾春別(いくしゅんべつ)」という鉄道駅の看板のミニチュアだ。
札幌駅近くの大きな書店に、鉄道駅のグッズを売っている一画が在った。現在も利用されている駅の他、「廃線になってしまった場所」の駅の関係のモノも在った。主に駅名の看板のミニチュアが目立つ場所だ。何となく冷やかすのが少し愉しい場所で、過日札幌で立寄ったのだった。
「幾春別(いくしゅんべつ)」という駅は、1987年に廃止された幌内線の駅だった。
幌内線は1882年に開業した北海道最初の鉄道の流れを汲む。石炭を積んで港に運び、需要先へ送り出すという役目を担う鉄道だった。やがて炭鉱が活動しなくなる中で輸送需要も減っていたのだが、国鉄の民営化から日を経ずに廃止されることになった幌内線である。
実を言えば、自身の母方の祖父母がこの幌内線の端に在る幾春別駅から歩いて10分位の辺りに住んでいた。祖父の他界後、祖母が長く幾春別に在った。そういう訳で「幾春別の祖母ちゃん」というのが、家族の会話の中でよく登場した。「幾春別」というマイナーな地名も、自身の家族の中では一定程度の頻度で出ていた訳だ。(この「幾春別の祖母ちゃん」が他界してからもかなり年月が経った…)
この幾春別に関して、“親父殿”の愛車で往来というのが多かった。それでも1回か2回だが、列車に乗ってみた記憶も在る。本当に「民営化後、直ぐに廃止された国鉄のローカル線」という風情の場所だった。
↓駅の看板のミニチュアを見て、「手近に置いておきたい!!」と非常に強く思った。そして入手した訳である。居室の小さな棚に何となく飾って在る。
「北海道の歴史」の中で存在感を放つ幌内線の駅に据えられた看板だが、極々私的な「家族の歴史」にも関連が深い駅名である。こんな小さなモノだが、一寸大切にしたい感だ。