帰着…=運行日誌(2023.04.08)

拙宅の居室に在る。稚内は曇天で湿っている。風は然程強くはない。

「寝坊厳禁!」と少しだけ気持ち張ったかもしれない。が、寧ろサウナで身体も解れていて、適度に身体も動かす期間が続いていて、寛ぎながら食事も愉しむ時間が設けられ、気が向くままに呑んでいるような具合で、何やら酷く深く眠ったということなのかもしれない。時刻は確認していなかったが、日付が変わる前には寝入っていて、4時頃には起床するに至った。

雨が些か交るような早朝となっていた旭川である。ゆったりと支度をして、旭川駅へ向かった。途中のコンビニで飲物を幾分仕入れた。

車中では、確か比布駅に着いたのは記憶しているが、以降は名寄駅の手前まで記憶が無い。眠ってしまった。名寄駅では「2輛目」を切り離す作業が在って、少し長く停まるので、ホームで外の空気に触れた。やがて名寄から動き始めたが、余り停車駅の記憶が無い。気付くと南幌延駅だった。そして幌延駅に到って、少し長く停車をする。

こういう訳で「御休み中に移動」という様相だった。無事に着いた。

今般のように、時間を設けて随意に動くというのも好い。前年5月以来の流れも在って、関西方面に入ることを繰り返しているが、また少し先に計画しようと思っている。

ところで、宿の朝食のずうっと前に出ているので、朝食は摂っていない。出てから旭川駅周辺のコンビニで飲物は仕入れた。そして車内で飲んだ。が、何も食べていない。とりあえず昼食を愉しみに出たい…

眺望…:デッキ:姫路駅(2023.04.06)

姫路駅には南北に出入口が設えられている。北側の出口には少し高い辺りに「デッキ」が設えられている。

想い起すと、全く初めて姫路駅に立寄ったのは、2009年頃だったであろうか。<青春18きっぷ>を手に横浜の関内駅から広島駅迄、途中に一息入れながら早朝から夜遅くで移動した際のことで、当時は未だ駅舎が古い建物だったと思う。列車の行先表示に出る駅名がどの辺りなのか、個人的にはなじみが酷く薄くなったので、それを知るべく小さな全国版時刻表を求めた。そして「ヘレカツ定食」を頂いたと思う。既に記憶があいまいになっているが、駅の建物に入っていたテナントで買物と食事とをしたと思う。何時の間にかその時の建物から切り替わっていたが。

↓現行の駅舎になって以降も、何度も姫路駅には寄っているが、北側の出口のデッキに初めて上がってみた。
06-04-2023 X100F (108)

↓有名な姫路城の威容が視える…
06-04-2023 X100F (106)

↓改札口へ向かう段階でこういう掲示が在る姫路駅だ。
06-04-2023 X100F (16)

↓本当に姫路城の姿が覗くのだから、間違いなく「姫路城口」である。
06-04-2023 X100F (17)

↓画の上側がデッキだ。
06-04-2023 X100F (18)

↓姫路城そのものは現在の立派な建物が登場するずっと以前からの経過が在る。現在の立派な建物が出来て以降、この辺りで少し見上げると建物の威容が視えた訳だが、そこは現在に至っても変わらず、「世界遺産」というようなことになって、未来へ受継ぐという約束にもなっている訳だ。
06-04-2023 X100F (107)

神戸空港に入るべき頃までに時間が在って、何となく姫路に寄ってみた。駅からも姿が見える姫路城を見学、辺りを散策ということで、国外の人達の姿も少し多く見受けられるような様子になっていた。

それにしても、この「姫路駅の北側の出口を出た時の眺め」は少し驚かされる。そして「この眺め」を目当てに、「何となく姫路駅に寄る」という意義が生じるかもしれない。初めてこの姫路駅に到った時、「デッキの眺望」ということでもなかったが、姫路城の姿は視えた。その後改修工事等の事情も在って、少し時間を経てから姫路城を訪ねてみた経過が在ったと記憶している。

未だ、寄ってから然程の時間は経ていないが、早くも「是非、また何時か…」という気分になる場所だ。
posted by Charlie at 03:44Comment(0)兵庫県

桜…:長浜城周辺の豊公園にて(2023.04.03)

京都駅や山科駅を起点とすれば、大津駅の方へ進んで琵琶湖東岸に延びる軌道を進む列車に乗って滋賀県内を北上し続け、岐阜県方面への軌道が伸びる米原駅を経て、更に進んだ辺りが「湖北地方」と呼び習わされる辺りであるようだ。その湖北地方の街の代表的な駅が長浜駅ということになる。

長浜は、かの豊臣秀吉(未だ“羽柴秀吉”と名乗っていた頃だが…)が城と城下町を築いた経過が知られる街だ。豊臣秀吉は主君であった織田信長の“長”の字に因んで当時の「今浜」という地名を「長浜」に改めたらしい。その名が現在に至って受継がれているということになる。後に“天下人”となる豊臣秀吉が、初めて「城持ち大名」ということになったのが長浜であった。

長浜城は後に地震で傷んでしまうような経過も経て、江戸時代の政策で城の数が減らされて行く中で、城としては廃止される。が、辺りは水陸の交通の要衝として一定の存在感を保ち続けたようだ。明治期以降も、鉄道駅が設けられるというようなことで、一定の存在感を示していたようだ。

現在、この長浜には琵琶湖を行き交う遊覧船が行き交う港が在る。その遊覧船に乗ってみようと長浜にやって来たが、船に乗る迄に少し時間が生じた。琵琶湖を渡る風がやや冷たい場面も在ったが、好天に恵まれた中、少し辺りを散策することにした。

↓桜が素晴らしい公園に行き当たった…
03-04-2023 X-Pro2 (93)
↑今季は「開花や満開の時季が例年以上に早い」という様子だった。が、この長浜では見事な様子だった。

↓嘗て長浜城であった辺りで、その天守閣を再現している。その辺りを豊臣秀吉に因んで<豊公園>(ほうこうえん)と呼んでいて、桜が多く植えられている。
03-04-2023 X-Pro2 (97)

↓見事に花が咲く桜に囲まれるように、城の建物というのは実に美しい。
03-04-2023 X-Pro2 (99)

聞けば、戦国時代の末期に石垣や壮麗な建物の城が築かれるようになり、江戸時代にも受継がれたが、往時は城に盛んに桜を植えたという訳でもなかったらしい。明治期以降に、城の場所が公的施設の用地として、街の公演として利用されるようになって以降に、好んで桜が植えられるようになったらしい。

↓色々なことが思い浮かぶが、それはそれとして、眼前の桜は素晴らしい…
03-04-2023 X-Pro2 (96)

↓咲き誇る桜と、城の建物というのは酷く好い。
03-04-2023 X-Pro2 (121)

↓少し強めな風に桜の花弁が散る「花吹雪」のような様子も些か見受けられた。
03-04-2023 X-Pro2 (123)

生の花卉を扱う花屋で、花を冷蔵庫に入れて保管している例が在ると思う。花が長持ちするのだという。長浜辺りは、琵琶湖を渡る冷たい風の故に、近隣の地域よりも気温がやや低い。故に開花が少しだけ遅いが、同時に咲いた花が周辺の地域よりも「長持ち?」という傾向が在るらしい。

↓初めて訪ねてみた長浜だが、色々な意味合いで「忘れ難い…」ということになった。他所が「盛りを少し過ぎた?」というような様子の桜を確り観て愉しむことも叶ったのだ。
03-04-2023 X-Pro2 (127)
posted by Charlie at 00:00Comment(0)滋賀県