このブログをパソコンで観ると、左側の少し下側に「アーカイブ」というモノが表示される。「20XX年XX月(XX)」と月毎の記事件数が示される。
「20XX年XX月(XX)」という月毎の記事件数は「2桁件/月」が殆どだ。が、例えば「他地域へ出て多くの写真を撮った」というようなことでも在った月は、写真を添えた記事を綴ってみたいという意欲も高まり、「3桁件/月」というようになる場合が見受けられる。
「2023年4月」(=今月)は、既に150件を超える記事を綴ってこのブログに掲載した。これも、4月初めに他地域へ出た経過の結果だと思う。
↓これは滋賀県の長浜で観た桜だ。こういう素晴らしい様子を含め、色々なモノを観て、非常に多くの写真を撮った関係上、記事化して御紹介したいという意欲が強まった訳だ。
↓出先では大阪に陣取り、通うかのように京都に連日出て、滋賀県内へ足を延ばし、兵庫県内にも立寄ったのだった。
↑素晴らしい景色から一寸した看板のようなモノに至る迄、出先でも「何でも…」という感じで気が向くままに写真は撮る…
こうして「2023年4月」(=今月)の様子を観ながら「アーカイブ」というモノに眼を向けた。そして些か驚いた。「2023年2月」は77件と記事件数は「2桁件/月」だ。が、それが「例外的?」に見えてしまう。「2022年8月」から「2023年4月」(=今月)に至る迄、「3桁件/月」の記事という情況が続いているのだ。
とりあえず、こんなにも長く「3桁件/月」の記事という情況が続いているのは、何か不思議である。2022年4月以降は、「他地域へ出て多くの写真を撮った」というようなことに留まらず、地元の稚内に在る場面で、歩き廻って写真を撮る機会が増えたかもしれない。それに伴って記事化の勢いが増した可能性は在る。
「2022年8月」は、他地域へ出掛けて広範囲に動き廻った。
↓滋賀県の草津で観たアートだが、何かこのアートのイメージのように、随分と動き廻ったような気がする「2022年8月」だ。
↓横浜に立寄る場面が在った。
↓鎌倉に立寄る場面も在った。
「2022年9月」は所用で出掛ける場面も在ったが、地元でも積極的に写真は撮っていた。
↓美瑛に立寄る場面も在った「2022年9月」であった。
「2022年10月」は、近隣で積極的に写真を撮っていた感である。
↓こういうような、何気ない辺りの様子が好い感じだ。
「2022年11月」も、近隣で撮った写真が多い。
↓X100Fを提げて辺りを歩き廻る感じが凄く好い。
「2022年12月」は「実に色々と…」というようなことで記憶に残る。一寸、負傷した経過の後に所用で出掛けたが、戻った直後に急用で再度出掛けた。再度の所用から戻った後、少し以前の計画に基いて出掛けた。何か「出てばかり…」という月だった。
↓北海道内では雪も積もり始める中で動き廻ったのだった。
↓地元でも吹雪が見受けられるようになる時季だ。
↓加えて本州方面にまで出ていたのが「2022年12月」だった。
「2023年1月」は、特段に出掛けていないのだが、「2022年12月」に撮った写真で積極的に記事を綴っていた。
↓例えば大阪の画のようなモノを使った記事を綴った。
そして「2023年2月」を挟んで「2023年3月」だ。
↓「2023年3月」は所用で出掛けた場面も在ったが、概ね地元に在った。
長く「3桁件/月」の記事という情況が続くのが不思議で、少し大雑把に振り返ってみた。「2022年8月」から「2023年4月」(=今月)の期間だけで、記事件数は1272件になっている。
記事件数に関して、「数値目標」のようなことを思い描くのでも何でもない。と言うより、こんなことに「数値目標」という筋合いでも何でもない。ドンドン記事を綴ってみようという中で、少し数が多くなったに過ぎないのだ。
今後も、こういうような調子で続けられると好いかもしれない。そして時にはこの記事のような具合に、少し来し方のようなモノを回顧もしてみたい感だ。
第一副港辺りの眺め…:稚内港(2023.04.26)
幾重にも防波堤で囲われたような感の“奥”というような辺りに、稚内港の繋留濠である第一副港は位置している。故に、相対的に浪は穏やかである。
↓そういうことは判っているが、それでも風が弱目で浪も見受けられない感で、船や沿岸の構造物、天の感じが鏡面のようになった海水面に映り込んでいる様子は、頻繁にも視られないかもしれない。
↑この時は静かな海水面で翼を休める海鳥も多く見受けられた。
↓停泊中の船の高くなった辺りは鳥達に人気の場所のようだ。
↑この辺りは、白い海鳥と、黒い街の鳥との勢力が拮抗するような辺りなのかもしれない。或いは、街の鳥の一部が入り込み始めているという感であろうか。
↓何となく面白い様子だと思いながら、繋留濠の脇で歩を進めた。
↓船が海水面に映り込む様子が面白いと思いながら眺めた。
↓やや雲が多目だった天の様子も海水面に映り込んでいる。
↓クレーンを載せたというような作業船の独特な形も海水面に映り込んでいる。
↓作業船やタグボートが並んで繋留されている濠の感じ、そしてそれが海水面に映り込む感じが面白い。
こんな様子を眺めて愉しんだが、少し経つと弱目な雨が交るようになった日であった。
↓そういうことは判っているが、それでも風が弱目で浪も見受けられない感で、船や沿岸の構造物、天の感じが鏡面のようになった海水面に映り込んでいる様子は、頻繁にも視られないかもしれない。
↑この時は静かな海水面で翼を休める海鳥も多く見受けられた。
↓停泊中の船の高くなった辺りは鳥達に人気の場所のようだ。
↑この辺りは、白い海鳥と、黒い街の鳥との勢力が拮抗するような辺りなのかもしれない。或いは、街の鳥の一部が入り込み始めているという感であろうか。
↓何となく面白い様子だと思いながら、繋留濠の脇で歩を進めた。
↓船が海水面に映り込む様子が面白いと思いながら眺めた。
↓やや雲が多目だった天の様子も海水面に映り込んでいる。
↓クレーンを載せたというような作業船の独特な形も海水面に映り込んでいる。
↓作業船やタグボートが並んで繋留されている濠の感じ、そしてそれが海水面に映り込む感じが面白い。
こんな様子を眺めて愉しんだが、少し経つと弱目な雨が交るようになった日であった。
朝に…(2023.04.26)
真宗本廟=東本願寺(2023.04.05)
四条通周辺から烏丸通に入り、何となく京都駅辺り迄、南下しながら歩いた。
↓それ程の時間も要さず、五条通の辺りに至ってしまう。
↑京都市内で、この種の「周辺観光案内図」というモノを時々見掛けるが、存外に好きだ。こういう図は判り易く、例えば「あの辺に見えているのが図に在る○○らしい…」という程度に見当を付けて動く際に便利だと思う。文字を入れ過ぎず、「漢字の読み仮名代り」(京都の中の地名は、難しい字ではなくても、読み方が不慣れな者には判り悪いかもしれない例が多く在るように思う…)にアルファベットが在るだけで、スッキリしているのも好い。図は上が北、下が南だ。この図の最も南の辺りは、京都駅が視えるような辺りに在る<ヨドバシカメラ>だ。
↓何やら「一口標語」のようなモノが掲出されていた。
↓「南無阿弥陀仏」と言えば浄土真宗で、東本願寺の敷地の辺りに何時の間にか至った。
↓この「一口標語」のようなモノは「法語行灯」と呼ばれるそうだ。
↓北側から歩を進めると、最初に視える東本願寺の「らしい…」感じの建築物がこれだと思う。勅使門だ。普段は使っていない特別な門である。
↑東本願寺の部内では、扉の菊の紋に因んで「菊の御門」という呼び方もされているという。
↓巨大な御影堂門(ごえいどうもん)だ。幅21m、奥行き13m、高さ27mということで「木造による寺の門」としては世界最大級であると言われているそうだ。
↑こちらに「真宗本廟」(しんしゅうほんびょう)と額が掲げられている。これが東本願寺の公式名であるそうだ。
御影堂門の画の左端に大型バスの一部が写っている。この時、何台かのバスが停車し、乗客グループが乗り降りして、境内に入って行くグループや、境内から出て来るグループを幾つか見掛けた。今年は浄土真宗の開祖である親鸞聖人が誕生して850年であり、親鸞聖人が浄土真宗を開いて800年とも言われる記念すべき年であるという。そこで本願寺では催事を行っている。見掛けたバスは“京都ナンバー”ではない「方々の県のバス」というナンバープレートを付けていた。方々の皆さんが催事に参加(=参拝)している様子だった。
↓御影堂門の辺りで大きな提灯を見掛た。提灯に描かれているのが、東本願寺の紋だ。
↑これは牡丹の紋で、江戸時代に出来た公家の近衛家との縁で用いるようになったと考えられるらしい。
↓濠が在って、京都タワーが視えるというこの辺りの風景はなかなかに好い。
↓少し南寄りに歩を進めると、阿弥陀堂門が在る。
↓塀に今年の催事に関連してテーマの看板が掲出されていた。
今般、人の出入りがやや多かったので境内には敢えて入らなかったが、この東本願寺の辺りを何度か通って、京都で少し愉しく過ごせたことに感謝の意を表し、御影堂門の手前から祈った…
浄土真宗は信徒が多いことで知られている訳だが、この東本願寺のような場所を通り掛ると、そういうことを実感し、また篤い信心を有する人達が多いことに気付かされる。或いは、そういうのが少し新鮮である。
↓それ程の時間も要さず、五条通の辺りに至ってしまう。
↑京都市内で、この種の「周辺観光案内図」というモノを時々見掛けるが、存外に好きだ。こういう図は判り易く、例えば「あの辺に見えているのが図に在る○○らしい…」という程度に見当を付けて動く際に便利だと思う。文字を入れ過ぎず、「漢字の読み仮名代り」(京都の中の地名は、難しい字ではなくても、読み方が不慣れな者には判り悪いかもしれない例が多く在るように思う…)にアルファベットが在るだけで、スッキリしているのも好い。図は上が北、下が南だ。この図の最も南の辺りは、京都駅が視えるような辺りに在る<ヨドバシカメラ>だ。
↓何やら「一口標語」のようなモノが掲出されていた。
↓「南無阿弥陀仏」と言えば浄土真宗で、東本願寺の敷地の辺りに何時の間にか至った。
↓この「一口標語」のようなモノは「法語行灯」と呼ばれるそうだ。
↓北側から歩を進めると、最初に視える東本願寺の「らしい…」感じの建築物がこれだと思う。勅使門だ。普段は使っていない特別な門である。
↑東本願寺の部内では、扉の菊の紋に因んで「菊の御門」という呼び方もされているという。
↓巨大な御影堂門(ごえいどうもん)だ。幅21m、奥行き13m、高さ27mということで「木造による寺の門」としては世界最大級であると言われているそうだ。
↑こちらに「真宗本廟」(しんしゅうほんびょう)と額が掲げられている。これが東本願寺の公式名であるそうだ。
御影堂門の画の左端に大型バスの一部が写っている。この時、何台かのバスが停車し、乗客グループが乗り降りして、境内に入って行くグループや、境内から出て来るグループを幾つか見掛けた。今年は浄土真宗の開祖である親鸞聖人が誕生して850年であり、親鸞聖人が浄土真宗を開いて800年とも言われる記念すべき年であるという。そこで本願寺では催事を行っている。見掛けたバスは“京都ナンバー”ではない「方々の県のバス」というナンバープレートを付けていた。方々の皆さんが催事に参加(=参拝)している様子だった。
↓御影堂門の辺りで大きな提灯を見掛た。提灯に描かれているのが、東本願寺の紋だ。
↑これは牡丹の紋で、江戸時代に出来た公家の近衛家との縁で用いるようになったと考えられるらしい。
↓濠が在って、京都タワーが視えるというこの辺りの風景はなかなかに好い。
↓少し南寄りに歩を進めると、阿弥陀堂門が在る。
↓塀に今年の催事に関連してテーマの看板が掲出されていた。
今般、人の出入りがやや多かったので境内には敢えて入らなかったが、この東本願寺の辺りを何度か通って、京都で少し愉しく過ごせたことに感謝の意を表し、御影堂門の手前から祈った…
浄土真宗は信徒が多いことで知られている訳だが、この東本願寺のような場所を通り掛ると、そういうことを実感し、また篤い信心を有する人達が多いことに気付かされる。或いは、そういうのが少し新鮮である。
夕べに…(2023.04.25)
夕食を愉しもうと、御近所の御店に立寄った。
何を御願いしようかと考えていれば、「冬の味覚」が未だ愉しめることに気付いた。
↓「たち」である。タラの白子(精巣)だ。
↑この「たち」をゴボウ等と合わせて<柳川鍋>にして頂く。
↓概ね6分間程という目安のようだが、鍋を火に掛けて溶き卵を加える。
↓こういう具合に小皿に取って、一味唐辛子を振って頂く。
「たち」は北海道内では一定程度広く親しまれているようだが、御近所の御店では、この食材を愉しむということで工夫し、長くこの「たちの柳川鍋」を供している。時々、立寄って頂きたくなる。「たち」という食材自体、自身にとっては何か凄く懐かしいような感じがするモノである。
↓モノが変わって…これは蛸に味付けをして揚げる「タコザンギ」だ。
↓こちらは「ザンギ」だ。鶏肉を使う。この御店のモノは「家庭の味」という風も少し在って、凄く美味い!
こんな料理を摘み、<白霧島>を少しばかり…好い感じの夕べだった。
何を御願いしようかと考えていれば、「冬の味覚」が未だ愉しめることに気付いた。
↓「たち」である。タラの白子(精巣)だ。
↑この「たち」をゴボウ等と合わせて<柳川鍋>にして頂く。
↓概ね6分間程という目安のようだが、鍋を火に掛けて溶き卵を加える。
↓こういう具合に小皿に取って、一味唐辛子を振って頂く。
「たち」は北海道内では一定程度広く親しまれているようだが、御近所の御店では、この食材を愉しむということで工夫し、長くこの「たちの柳川鍋」を供している。時々、立寄って頂きたくなる。「たち」という食材自体、自身にとっては何か凄く懐かしいような感じがするモノである。
↓モノが変わって…これは蛸に味付けをして揚げる「タコザンギ」だ。
↓こちらは「ザンギ」だ。鶏肉を使う。この御店のモノは「家庭の味」という風も少し在って、凄く美味い!
こんな料理を摘み、<白霧島>を少しばかり…好い感じの夕べだった。