<しづか>=7100形蒸気機関車:小樽市総合博物館(2023.05.14)

小樽駅前からバスに乗って祝津へ移動した際、バスが手宮の博物館の傍を通ることに気付いた。

手宮の博物館については3月にも立寄った経過が在ったのだが、その時は屋外の展示が積雪の為に休止中で、寧ろ企画展を興味深く観た。少し様子が違うような感じであったように思う。

そういうことなので、祝津からバスに乗って小樽駅方向に引揚げようとした際、手宮の博物館の傍で下車し、博物館に寄ることを思い付いたのだった。

↓博物館に入って直ぐ、この明治時代の機関車には目を奪われてしまう…
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↑明治時代に北海道に鉄道が走り始めた頃、米国企業の工場に発注した蒸気機関車が導入されたのだが、後に「7100形」という呼称が与えられた一連の機関車の1輛が館内の展示室出入口辺りに鎮座している。

↓機関車の正面の「6」は「6号機」ということである。
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1880年製造の1号機が<義經>(義経)、2号機が<辯慶>(弁慶)と、1882年製造の3号機が<比羅夫>、4号機が<光圀>と、1884年製造の5号機が<信廣>と各々愛称を与えられた。1885年製造の6号機は<しづか>と命名された。間隔が少し開き、1889年に2輛製造されているが、これらには愛称は冠せられていなかった。同型が計8輛在ったのだ。

↓運転台の辺りに「SHIZUKA」と在る。<しづか>の名である。
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↓テンダーにも<しづか>と名が入っている。
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↓国内の蒸気機関車の中では小柄な感じになるのだとは思うが、米国生まれで“西部劇”風という独特な風貌とも相俟って、近くで観ると意外に迫力も在る。
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↓一頻り博物館内を観て、出口へ向かう前に再度眺めてしまった。この明治時代の蒸気機関車は貴重なモノである訳だが、なかなかに味わいが在って気に入っている。
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旧 第百十三国立銀行 小樽支店 周辺:小樽・堺町通:早朝(2023.05.14)

↓何か「堺町通の早朝…」という風情が溢れる感じで気に入っている。
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↑右側の石壁の建物は<第百十三国立銀行>の支店であった建物だという。「木骨石造」という独特な構造だ。1895(明治28)年の建物だそうだ。平屋で大きくはない。

<第百十三国立銀行>とは函館で起こった銀行だった。

明治期には1872(明治4)年の「国立銀行条例」に依拠して各地で銀行が起こった。1879(明治12)年迄に153の銀行が起こり、設立順に「第〇〇銀行」と数字が入っている。現在迄に、銀行関係では合併や廃業等の様々な経過が在った訳だが、今でもこの「国立銀行条例」に依拠して各地で銀行が起こった頃の「第〇〇銀行」を名乗っている銀行も見受けられる。

<第百十三国立銀行>は1878(明治11)年に起こっているが、「北海道内に本店を構える銀行」としては最初の例になるようだ。1879(明治12)年から営業を始めている。法改正で「国立銀行」を名乗らないことになってからは「第百十三銀行」と称した。1928(昭和3)年には現在の同名の会社とは無関係な当時の<北海道銀行>に吸収されて歴史を閉じた。

<第百十三国立銀行>の画の建物に入った支店は、十数年を経て、この建物から銀行は移転し、会社の事務所等として利用されたそうだ。現在も店舗が入っている。

↓こういう家並を写真に撮れば、当然ながら現在の色々なモノも写るが、何となく「明治時代の末頃?」という雰囲気も漂って面白い。
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旧 名取高三郎商店:小樽・堺町通:早朝(2023.05.14)

街が興って行く経過の中、「2つの地区の境界」という意味合いで「堺町」という呼び方になった辺りが、現在に至っても「堺町通」と呼び習わされている。小樽の街では「散策するのが愉しい」という感じの場所だ。

少し見れば2020年3月に立寄った経過が在ったが、今般は「早朝に散策…」という中で同じ場所の辺りで提げていたカメラを使った。

↓建物の写真を撮り悪い感じの光加減かもしれない。が、逆に「濃い陰影で面白い」という側面も在る。少しシャッターを押す回数が増えたかもしれない。
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1904(明治37)年に辺りで大きな火災が発生した経過が在ったそうだ。その少し後に、防火の見地も加わって、鉄骨や石材を使って造った建物なのだそうだ。画の建物は、防火の意味も在るという“卯建”(うだつ)の大きなモノが設えられているのが少し面白いと思った。

鰊漁場建築(旧田中家)=小樽市鰊御殿(2023.05.14)

祝津を歩き廻っていた。

↓岬の小高い場所、灯台の辺りを見上げると大きな建物が在る。
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↓聞けば幅が30m弱で、奥行きが13mというような程度の建物であるという。単純計算で出る1階部分の総面積としては100坪以上にもなる。
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↓大きな建物で、近付くとなかなかの迫力だ。
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実はこの建物は、所謂「鰊御殿」または「鰊番屋」である。網元の住む部分と、漁場で働く人達が滞在する部分とを大きな建物の中に併せて備えた独特な様式の建物である。

祝津では古い「鰊番屋」の建物外観が概ね本来の位置に遺っている例が観られる。この種のモノは海岸部の平地という感じの場所に建てるのが自然だ。海を眺める等するのであれば、建物の上階から望むか、誰かが近くの高台に走った筈で、高い場所に建物が建っている必然性も無い。

↓実はこの建物は、祝津の高台に移築された建物である。
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積丹半島に古宇郡泊村(ふるうぐんとまりむら)が在る。1897(明治30)年頃と伝えられるが、積丹半島を代表した網元であった田中福松がこの建物を建てたのだそうだ。田中福松は1854(安政元)年頃に叔父を頼って津軽から北海道へ渡り、働きながら資金を貯め、漁場の権利を得て網元になって行ったそうだ。

この田中家の建物が、1958(昭和33)年に現在地に移築されて小樽市に寄贈されて、鰊漁が隆盛を誇ったというような地域の歴史を伝える市の施設として、現在も運営されているのだ。

↓漁の最盛期に働く人達が多数寝泊まりしていたような場所が在った。
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↑建物内での写真撮影は構わないということになっていたので、眼に留まったモノを一部撮った。

↓中の様子が図解で説明されていた。
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↓こういう古い建物らしい急な階段も設えられていた。
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↓上階の部屋は来客用であったようだ。
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こういう様子だが、建物の内外装や構造に関して、現在では用意し悪いような長く太い材木等、有力な網元ならではの「惜しみなく資金を投じて番屋を建てた」という様子が垣間見える。

↓こういう樽を用意した経過も在ったようだ。(<北の誉>は小樽にも起源を求められる会社で、醸造所も在ったそうだ。長い経過の中、幾つかの会社の合併等が繰り返され、2016年に大きなグループに吸収され、小樽に在った醸造所は廃止されたそうだ。)
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小樽や積丹半島等、辺りの地域の建築様式を伝える、総二階造の堂々たる建物が、岬の上から辺りを睥睨するように佇む様は少し独特で面白い。そして鰊漁を巡る経過を始めとした興味深い展示が観られる。そして好天であれば景色も素晴らしい。興味深い場所だ。

朝に…(2023.05.17)

小樽や札幌に出て、旭川に立寄って稚内に戻るという経過が在った。戻ってみて、「少し温かくなった?」というように思っていた。

↓朝に何時もの感じでデータを観た。この場所で「20」という気温を随分と暫く振りに見掛けた気がした。
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↓温かい服を着過ぎても暑い感の気温だが、何か風除けに1枚引っ掛けるというようなことをしたい感じではある。
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↓「20℃」が新鮮な感じだった。
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朝からこういう調子で、日中も寒い感じではなかったが…夕刻から気温が下がり始めたという一日になったのだった。

旧白鳥永作番屋…:小樽 祝津(2023.05.14)

青山家、茨木家、白鳥家が祝津の「御三家」として知られる網元であった。

↓その「御三家」の一つである白鳥家の番屋だ。白鳥家関係者の住む場所と、漁場で働く人達の場所とが大きな屋根の下に設えられている。
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↑1870年代後半から1880年代の建築と見受けられる。

建物は料理店として利用された経過も在るらしいが、それらしい雰囲気は判らなかった。

好天に恵まれた中で海に近い辺りを歩き廻って、こういうモノを眺めながら過ごしたのだった。

旧茨木邸(旧茨木輿八郎番屋)&旧茨木家中出張番屋…:小樽 祝津(2023.05.14)

鰊漁で大変に栄えたという祝津には、独特な漁場建築が伝わっている。そして古くからの建物の集まり方から、鰊漁を生業とした集落の様子をも窺い知ることが叶う。

祝津では「御三家」と呼ばれたことに知られた網元が在り、関連の建物等が見受けられる。青山家、茨木家、白鳥家が「御三家」として知られる。蝦夷地で特別な利権を有した大名の松前家による規制が廃された明治初期以降、この「御三家」のような民間の人達が鰊漁を推進していたのだった。

↓「祝津漁港」というバス停の傍に、やや目立つ建物が在る。
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↓祝津の「御三家」の一つである茨木家の礎を築いたとされる、山形県出身の茨木輿八郎が建てた邸宅であるという。
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↑道路に面した建物と、奥側の建物を組合わせたモノである。道路との区切りに石柱を立て、奥側を囲むように板塀が設えられている。家族用と来客用だったらしいが、玄関も複数設けられている。

特段に見学は出来なかったが、古い神社にも近く、鰊漁を生業とした集落の雰囲気が伝わる。

↓こちらは旧茨木家中出張番屋だ。鰊漁関係者が集まっていた伝統的な番屋の様子を伝える建物だ。
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↑傷んでしまっていたモノが修復されたそうだ。

こういうモノを眺めながら、好天に恵まれた中で海に近い辺りを歩き廻って過ごしたのだった。

<にしん御殿 小樽貴賓館>(旧青山別邸)…:小樽 祝津(2023.05.14)

↓小樽駅前からバスに乗り、「祝津3丁目」という停留所に到った。下りて直ぐ、美しい海が視える場所が在った。
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祝津は、鰊漁の故に相対的に早く拓けた地区で、明治期以降は鰊漁が大変な隆盛を誇るようになり、祝津の「御三家」として知られる、青山家、茨木家、白鳥家というような有力な網元も登場した

↓「御三家」の一つである青山家が遺したモノを伝える場が在る。富裕な鰊の網元は、大きく立派な番屋や邸宅を持っていて、そういう建物は「鰊御殿」と通称された。そこで施設に<にしん御殿 小樽貴賓館>と名付けているのだ。
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↓文化財建築が在る旨が掲出されている。
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↓敷地が塀に囲われている。塀に沿って歩を進めた。
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↓入口だ。左側の奥は、現代の建築であり、料理店になっている。右側が青山家の別邸である。
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↓青山別邸の外側からの眺めだ。中は原則的に撮影禁止になっている。実際、観れば貴重な美術品と呼び得るモノが溢れ、美術館同様にモノを保護する見地で「御遠慮願います」としていることが判るのだが。
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↓この種の、富裕な家の旧い邸宅というようなモノは、用意し得る最良の材料を使って丁寧に建てている訳で、非常に重厚である。
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↓瓦が屋外に展示されていた。
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↓肥料に用いる鰊の“しめ粕”を炊く時に用いた大釜であるとのことだ。
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↑最盛期には、時季の3ヶ月間程で100万トンに迫る漁獲が在ったという鰊だが、その多くは各地の農業で用いる肥料の材料になっていたのだった。

↓料理店になっている部分のエントランスホールは、少し豪華な設えで驚いた。
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青山家は非常に富裕な網元であった。大正期、山形県の本間家との交際で彼の地で邸宅建築に触れた青山家の後継者が、高価な材料を用意させて築いたのがこの別邸だ。高価な材料を使うに留まらず、細かい細工を施した場所が溢れており、当代一流の書画が飾られている。何やら「美術館の展示の中で暮らす??」という様相だ。新宿の百貨店のビルが50万円で建った時代、延べ6年半の工事でこの別邸に費やしたのが31万円であったという。現在の貨幣価値なら数十億円、または殆ど百億円となるであろうか?

↓そんな別邸だが、「ここは写真を撮って構いません」となっていたのが庭である。
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↓中央奥、やや右寄りな松が、「天から下りる龍」を思わせるとして、それが視える庭を「パワースポット」としている。
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結局、1955(昭和30)年頃迄に、或いはそれより以前に鰊は不漁となって行き、肥料としての需要も激減しており、鰊漁が隆盛であった時代は去ってしまった。非常に富裕であった網元も。所謂「鰊御殿」を手放すような状況となって行ったようだ。

それにしても「凄いモノ」を見学させて頂いた…今般、祝津は思い出深い場所となった。

早朝に…:小樽運河(2023.05.14)

「街が貸切!?」という気分で、早朝に小樽で散策を愉しんだ。国道5号から浅草通に入り、堺町通を経て臨港線に出て、小樽運河の辺りに到った。

↓運河沿いの歩道も未だ静かな感じだ。
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↓朝の光が強くなり、水面に建物が映り込む運河の辺りは陰影が強かった。
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↓本当に「貸切?!」という感じだった。
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↓多様な形の建物が連なっている感じが好いように思った。
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↓これは写真を見る機会が多い建物のように思う。
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↓奥側に八重桜の木も見えている。
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今般、朝の小樽が好かったことで、「出先では早朝に歩いてみる」というような傾向が強まるのかもしれないと思うようになった。

<旧 北海道拓殖銀行小樽支店>…(2023.05.14)

↓交差点に佇む美しいビルだと思う。辺りを通る都度に眼を奪われる。
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↑隆盛を誇った小樽は「北のウォール街」という異名を持っていた。その「金融の街」を代表する銀行が集まる辺りの交差点のビルも、<北海道拓殖銀行>の支店で、貸事務所も備えるモノだったという。(因みに<北海道拓殖銀行>は北海道の銀行では最大のモノであったが、1998年に活動を終えてしまっている…)

↓1923(大正12)年に登場した、鉄筋コンクリート造で4階建のビルだ。
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角が曲面を描く美しい壁に、朝の光が跳ね返って好い感じだった。この建物は、現在は美術館として活用されているという。機会が在れば見学もしたい。この時は美術館の開館前、未だ街が動いていないような早朝だったので見学も出来なかったが。

<旧 北海道銀行本店>…(2023.05.14)

↓<日本銀行旧小樽支店金融資料館>の建物に近い辺りは、旧い重厚な建物が比較的多く見受けられると思う。
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↓これは足を停めて眺めてみたくなるような建物だ。
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↑これは1912(明治45)年に登場した建物で、正面は創建時の面影をよく伝えているそうだ。

これは<北海道銀行>という銀行の本店であった建物であるという。 現在も「北海道銀行」という銀行は在るのだが、この建物を本店としていた<北海道銀行>とは違う。

この建物を本店としていた<北海道銀行>とは、1891(明治24)年に札幌で起こった銀行と、1894(明治27)年に余市で起こった銀行とが合併し、小樽に本店を設置したものであるという。1903(明治36)年から<北海道銀行>と称したのだという。1944(昭和19)年に至り、戦時金融統制を受けて北海道拓殖銀行に吸収合併ということになった。そしてこの<北海道銀行>は姿を消したということだ。

現在の「北海道銀行」は、1950(昭和25)年に起こった銀行である。この頃に各地で地方銀行が色々と起こっているようで「戦後地銀」と呼ばれている。現在の「北海道銀行」とは、その戦後地銀の1つということになり、上述のモノとは無関係だ。

小樽を歩いてみると、こういう「経済界の動きの経過」というようなことに眼が向く場合も在る。

早朝:<日本銀行旧小樽支店金融資料館>の建物…(2023.05.14)

↓様々な旧い建物が残る小樽の街で、一際の威容を誇る建物であるように思う。
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↑嘗ては日本銀行の支店であった建物だ。現在は「金融資料館」という博物館になっている。

明治時代の終わり頃から、金融機関関係の様々な建物が小樽には登場している。日本銀行の小樽支店もその一つである。著名な建築家で、東京駅の設計等で広く知られる辰野金吾や他の建築家達が取り組んだ建物であり、1912(大正元)年に竣工している。

北海道の諸都市は沿岸部の方が歴史が古い。明治時代から大正時代には、それらの沿岸部の諸都市の中には、近年の様子からは想像し難い程度の隆盛を誇った場所も在る。 北海道の物流の要である港を擁し、様々な取引の都合で金融機関が多々立地し、加えて水産業や関連の加工業等も盛んであった小樽は、そういう「隆盛を誇った」という経過が在る街なのだ。日本銀行の北海道に於ける支店の場所も、その隆盛の故に小樽だったのだ。(現在の北海道では札幌が圧倒的に大きく隆盛で、他の各都市は然程でもない感が否定出来ないかもしれない…)

↓この建物については、視る都度に強く惹かれる。何度も写真を撮っている。が、それでも撮りたくなる。
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↑今般は、未だ街が動いていないような感の早朝に、殆ど初夏のような光線を受けて佇む建物が美しいと思った。

丸型ポスト…:小樽・龍宮通(2023.05.13)

小樽の街を歩いてみようと、龍宮神社に立寄ってみた。そこから運河の側へ延びる「龍宮通」に歩を進めた。通の名は、多分、龍宮神社に因む命名なのだろう。

↓静かな辺りだと思うが、丸型ポストに出くわした。
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↑「少し年季が入っている?」というような雰囲気であるのが好い…

↓反対側から丸型ポストを眺めた。この向きで直進すると、龍宮神社へ上る鳥居に出くわすことになる。
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少し古くからの経過を誇る街には、こういう丸型ポストのようなモノが似合うのかもしれない。そんなことを思いながら歩を進めた。

波止場横丁の夕べ…(2023.05.16)

出先から稚内に戻った。

↓午後をこちらで過ごした…
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↑他地域へ出ていた間は精力的に動いている。「後は休むばかり…」という情況の、出先から戻った午後は、こういう場所でサウナでも利用するのが好い…

そんなことをして、休憩室で極々短い居眠りも生じた。そして退出した。

↓午後4時頃に出るが、この時季の午後4時は未だかなり明るい。
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↓暖簾が掲げられていたので、少し道草を…
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↓ハイボールを御願いした。
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↓御通しを摘まんで、料理の登場を待つ。
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↓御通しはポテトサラダだった…
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↓こちらの御店に寄ると、手羽先焼を御願いするのが欠かせない…
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↓鉄板を使って、豪快に鶏肉を焼く…
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↓付け合わせに野菜も在るチキンソテーだ。
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↓こういうのが凄く好い…
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↓そして明太子のおにぎりだ…
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こういう御馴染な場所で過ごす時間も非常に好い。殊に他所から戻った直後に過ごすような時間は好い感じだ…