「あの新聞の縮刷版で、古いモノは何年頃から在りますかね?」と問い合わせを受けた図書館の方は、「37年が一番古いようですね…」と応じた。すると「どの“37年”ですかね?」と重ねて問われ、図書館の方は「“昭和37年”ですね…」と応じたのだという。
これを聞いて思った。「元号XX年」という言い方の場合、“37”という数字が出れば「“昭和”ですね?」と即座に出て来ても不自然ではないように思う。“令和”は未だ5年で、“平成”は31年だった。遡って“大正”は15年である。となると、図書館に資料として保存されている新聞で「37年」とでも言えば、「64年の1月」に“平成”へ改元した“昭和”と考えるのが自然だ。末年が1912年と古いが、“明治”も45年であったので、「37年」は在り得る。が、図書館等の場合には、相当に収蔵資料が多いような限られた場所でもなければ、“明治”の刊行物は余り見られないような気もする。
“明治”以降は、一代の天皇の下に用いる元号を原則的に1つということにしているので、改元の機会はそれ以前より大きく減っている。少し気になって歴代の元号の一覧を見たが、数年で改元している例が殆どで、時々20年程度の期間で使われた例が散見する。だから「元号XX年」という言い方の場合の“37”という数字は、即座に“昭和”、場合によって“明治”も在り得るという理解で、間違っているのでもない。
この図書館の方と雑談をしていて、「元号XX年」となって“37”という数字が出れば、即座に“昭和”、場合によって“明治”も在り得るという理解で、間違っているのでもないというようなことを話題にした。すると「思い出した!」ということになった。そしてモノを見せて頂いた。
↓図書館にこういう資料が在って、閲覧可能なのだという。上側の縁に「日三月六年八十三治明」とある。「明治38年6月3日」の新聞だ。「明治38年」は1905年ということになる。
↑昭和30年代位迄、場合によって昭和40年前後と見受けられるが、何らかの契機で収集された明治38年の新聞が集められた綴りが在って、図書館に収められ、現在に受継がれているのだ。
↓紙面上側の記事について「変にカタカナが目立つ?」と思って気になって注目した。そして少し驚いた。「ロジェストウェンスキー提督を捕虜とせり」と在ったのだ。
↑記事冒頭の「東電」は恐らく「東京発の電信」というようなことであろう。そして内容は、5月27日から5月28日であったと伝わる日本海海戦(外国語では「対馬の海戦」というような呼び方になるようだ。)の決着が着き、壊滅してしまったロシア側艦隊の司令官以下の将兵が捕虜として収容された旨等が伝えられているのだ。
明治時代は電信が使用され始めている時代で、「明治三十七八年戦役」とも呼ばれた日露戦争の頃ともなれば、何処かの記者が聴いて取材した内容が電信で方々に送られ、それが各地の新聞等に記事として掲載されることも普通になっていたのであろう。海戦の後の出来事が公に発表されてから数日を要しているようだが、これでも「対馬での出来事が、稚内で出ていた新聞に数日で記事となる」というのは、少し古い時代には考え悪かったのではないかと思う。
日本海海戦に関しては、『海の史劇』という小説が在る。同作は、明治38年の新聞で「ロジェストウェンスキー」と標記されているロジェストヴェンスキー提督が困難に満ちた半年にも及ぶ航海で対馬沖の戦場に至る迄のことも含めた、非常に興味深い内容だ。
↓少し先走るように「稚内で出ていた新聞」とした。<北光新聞>なる題字の下に「北光新聞社」という、新聞を出していた会社の住所が在る。「北見國宗谷郡稚内町大字稚内本通南二丁目十一番地」となっている。
↑現在は「稚内市〇〇X丁目」という程度の住所の記載だが、当時は「北見國宗谷郡稚内町大字」である。確か「本通」は、現在では市内線の路線バスが走っている道道(北海道が管理する道路)だった筈だ。「南二丁目」は、多分、7階建ての市立病院の建物が目立つ中央4丁目周辺だと思う。が、何度か住所表示が変わっているので、少しよく判らない…
↓紙面を捲った。「稚内町役場公文」として、何やら予防接種の御案内が出ている。そして、日露戦争の日本海海戦に関する記事が続いていた。
↑当時はロシアを「露」とではなく「魯」という字で略する場合が多かったようである。その、やや見慣れない「魯」の字が散見する。
ロジェストヴェンスキー提督は、日本海海戦の戦闘中に負傷して昏倒し、指揮を執ることが出来ない状態に陥り、降伏したロシア艦隊側の負傷者として収容されて、佐世保の病院に入院した。負傷したロシア艦隊側将兵の多くは提督同様に病院に入って治療を受け、一定程度の恢復の後に各地の捕虜収容施設に送られている。そうした捕虜収容施設の一つが在ったという松山で、収容中に他界してしまった将兵の墓地を訪ねてみた経過も在った。海戦の他、地上の戦いでも降伏将兵が在って、彼らは一様に捕虜として収容されていたのだった。当時は、「捕虜は罪人ではない」とし、松山では捕虜のロシア将兵を「縁在ってやって来ることになり、滞在している外国人達」という程度に迎えていたようである。松山の収容所では、居合わせた将兵の中で上位の階級に在った海軍のボイスマン大佐が、収容者達の代表格と目されていたようで、墓地ではボイスマン大佐の墓石が他の人達より大きい。この墓地で、御近所の人達や近隣の中学校の生徒達が草むしりや清掃をして、場所を大切にしているという話しがロシアの人達に伝わり、ロシアの人達からボイスマン大佐の胸像が贈られ、それも現地に据えられている。因みに松山の墓地では、他界した将兵の名を記した辺りに「露国兵卒」というような方が気が添えられ、ロシアを「露」という字で略するようになっていたようだ。
何か「一寸した雑談」が切っ掛けで、なかなかに興味深い“発見”が在った。