人の語彙というようなモノは、豊かなようでいて、実は存外に貧しいのかもしれない。
「名状し難い」という言い方が在るのだが、その時の想いを判り易く表現し悪いという場合が意外に多いということに思い至る。
「気持ちに何処となく浪が立ってしまっているような状態」というような、諄い言い方以外に「名状し難い」という気分が強まっているかもしれない。憤りというのとも、歓喜というのとも、その他の何れでもないような、「浪が立ってしまっている」とでも形容する他に無い様子だ。
こういう場合には、その「浪が立ってしまっている」というような様子、経過、その他の思い付きを綴ってみるという程度にするのが善いのかもしれない。
実は翌日の朝から出掛けるということにしている。「気持ちに何処となく浪が立ってしまっているような状態」とは言え、予定は変えない。
時折、「所用の序で」と「半ば強弁?」というように称して、所用の際に少しばかり時間を設けて他地域で過ごしてみる場合が在る。そういうことを仕出かすのが気に入っている。
2023年に入って、3月、5月、7月、9月末から10月冒頭とその「所用の序で」と「半ば強弁?」というように称する方式で、他地域で時間を過ごすことをしている。加えて4月には、「“序で”と強弁」というようなことではなく、正面から「他地域で過ごす時間を設ける運びとした」というようにしていた。「正面から」とは言っても、一部に「所用」と呼び得る内容も無かった訳でもない。
先月の或る日、11月の暦に眼を通した。自身は日曜日と月曜日を休業日としている。11月5・6日が普通の休業日である。が、その前の11月3日が祝日で休業日となる。とすれば?11月4日も休業日という「ことにする」のなら、「11月3日から11月6日の4日間」という時間を設けることが叶うのである。
そういうことに気付いてしまうと、その「11月3日から11月6日の4日間」という時間を設けるということを想い留まることなど全く出来ない状態になった。そして11月4日も休業日という「ことにする」ということを実行することとした。
結局、時間を設けて他地域を何となく訪ね、カメラを提げてふらりと歩き廻るというようなことが止められなくなってしまっていて、或る程度の間隔でそれを実行しなければ気が済まないというようになってしまっているのかもしれない。2023年の場合、1月から2月にはそういう経過が見当たらないが、3月以降は毎月か隔月で何かをしている感じで「度が過ぎる?」というように見えないでもないかもしれないのだが。
今般は「所用の序で」と「半ば強弁?」というように称する方式でもない。「正面から」他地域で過ごす時間を設けるとしておきながら、一部に「所用」と呼び得る内容が混入しているのでもない。かなり純粋に、「時間を設けて他地域を何となく訪ね、カメラを提げてふらりと歩き廻る」ということになったのだ。
そういうことに「期待」が大いに膨らんでいる。他方、俄かに「気持ちに何処となく浪が立ってしまっているような状態」というような情況も生じようとしていることに気付いた。または気付かされた。
例えば、少しだけ手を伸ばせば届く、触れられる、掴めるという程度に思っていたモノが在ったとする。そういうようなモノが、実は「そう思い込んでいた」に過ぎなかったことに気付く、そういう様子であるという事実が突き付けられるということが在るのかもしれない。手を伸ばしても届くというのでもなく、触れられず、掴めない。或いは掴んだと思っていて、指の間から零れてしまう。そのうちにモノは何処かに遠ざかって、簡単に見つけられなくなってしまう。
言い方を少し換えてみる。何事かを始めてみて、それが動き始めたとする。色々と巧く動き始め、順調な経過と見受けられるようになる。そう思って、そのまま当分はその順調な経過が続くものと考えるようになって行く。が、不意に細かい齟齬が方々に積み重なってしまったかもしれないということに気付かされる。やがて始めたみた事案が何だったのか、解ったような、解っていないような感になってしまう。
強いて説けば、上述例のようなな状態という事柄は、時には、または存外に多く在るような気がする。大雑把に捉え過ぎているのかもしれないと同時に、細かく考え過ぎているのかもしれず、何とも「名状し難い」というように感じる。
自身の場合、これまでの歩みの中、巧く説明出来ず、敢えて言えば上述のような感じということを何度も繰り返し、現在に至っているような気がする。或いは、またそういう様子になろうとしている現状なのかもしれない。そういうように感じると同時に、未だ結論めいたことを如何こう言えるのでもない段と観るべきではないのかと考えているということにも思い至ってしまう。本当に「定まらない」という様子で、「気持ちに何処となく浪が立ってしまっているような状態」とでもする他に無い。
そんな中であるからこそ、暦の産み落とした偶然を強引に拾い集めるような真似をして設けた時間を大事にしてみたい。否、何処となく「浪立つ」というような気分だからこそ、少し変わった動きを通じて、それを静穏化してみなければなるまいという気もするのである。或いは「浪立つ」という気分をもたらした事柄は、場合によっては「そのうちに清算」というようになっていくかもしれない。「清算」の入口というような心境に至った頃、折から「気分転換」という予定を入れていたというのは、実は非常に好運であったのかもしれない。
気分が「浪立つ」、他に「名状し難い」というような様子、経過、その他の思い付きを綴ってみるという程度にするのが善いと思い、色々と綴った。何処となく「静穏化」の兆しに行き当たったというような気がしないでもなくなった。これは本当に善かった。
今般は「所用の序でと半ば強弁?」という様子と、「正面から」他地域で過ごす時間を設けるとしておき、場合によってその一部に「所用」と呼び得る内容が混入という様子との「中間?」という感じなのかもしれない。やや遠い地域に飛び出す、全く知らない地域に踏み込むというようなことはしない。寧ろ「多少勝手知った(つもりになっている)他所」という程度の地域に踏み出し、当該地域内で「偶々未だ寄っていない?」という場所へ、または「この時季には寄っていない?」、「こんな時間帯の様子は知らない?」というような既知の場所へ足を運ぶような感じになると思う。
「所用の序でと半ば強弁?」という様子の場合、何となく「運行日誌」という程度に名付ける記事は敢えて綴らない。そういモノは「正面から」他地域で過ごす時間を設けるとして、少し遠い地域へ飛び出す場合に綴るということが専らだ。今般は両者の中間だが、偶々前夜に「一寸綴りたい…」という気分が生じたことを契機に、「運行日誌」というようなモノを綴るようにしようかと考えている。