旭川に着いて
<ちろる>で一息入れてから更に歩いた。
↓「寺だ…」と思えば、何やら英語の看板が掲出されている。

↑「Shingon-Buddhism Chisan-sect」というのは?「真言宗智山派」のことだ。こういう英訳になるのであろうが、「「Shingon-Buddhism」が英語話者の間で如何程に「判る」のかが不明だ。更に「Chisan-sect」の「智山派」である。そういう余計な事も思ったが、旭川の真言宗智山派の寺というのは興味深い。
「真言宗智山派」だが、これは空海が開いた真言宗の一派で、興教大師覚鑁(かくばん)(1095-1144)による「新義真言宗」に根を持つ一派だ。高野山の内部での対立が深まり、後に「新義真言宗」というように呼ばれた考え方の人達は
根来寺に拠るようになった。時代が下り、
根来寺は地域の一大勢力となるのだが、豊臣秀吉政権によって制圧されて荒廃した。そういう中で「新義真言宗」の活動を続けた人達は在った。徳川家康の時代になって、
京都の智積院が起り、そこを本山とする活動をする人達が「真言宗智山派」というようになって行く。
その智山派は、明治期に開拓が進められる北海道での活動を企図した。1892(明治25)年に旭川村で寺が起り、1907(明治40)年に「成田山眞久寺」と号するようになった。それがこの、旭川の街に在る眞久寺が登場した経過ということになる。
↓何か「真言宗の寺」という雰囲気が濃い本堂だ。

↓無事に旭川に着いたが、日頃の安寧に感謝しながら参拝をした。

↓独特な趣が在る建物だ。

↓脇の六角堂も美しかった。

↓寺務所に立寄って御朱印も頂いた。

↓北海道内の霊場巡りの御朱印が在る。

↓そして大黒天で3種の御朱印が基本だ。

↓そして限定の切り絵の不動明王が在って、現在こちらで頂ける計4種の御朱印を集めてしまった。

眞久寺の礎が築かれたという1892(明治25)年頃と言えば、旭川辺りの開拓が本格化するような時代であったのだと思う。開拓されて行く各地では、その開拓の比較的早い時期に社寺も起こされている。そういう経過を想い起させる眞久寺だ。同時に、「成田山」の不動明王信仰の流れを色濃く汲むのが「真言宗智山派」の寺で、眞久寺もそういう流れの寺なのだと思う。
何となく辺りを歩き廻って、少し興味深い場所に出逢うことが叶った。こういう出逢いには感謝したい。