主に地下鉄を使って街を巡っていた。
↓大阪の地下鉄で見掛けるピクトグラムだ。
↑一般的な御手洗のピクトグラムに手を入れ、御辞儀か会釈という感じにして「ようおこし」と来訪者を迎えているという形にしている。
御世話になった皆様に向けて御辞儀か会釈ということを思った年末の夕べに、こんな画が似合いそうな気がした。色々な事に感謝しながら、少しでも心豊かに暮らしてみたいと思う昨今だ。
駐輪禁止…:JR天満駅(2023.12.30)
大正駅…:長堀鶴見緑地線:大阪メトロ(2023.12.31)
1日乗車券を手に、地下鉄を利用して移動しながら散策をしていた。
↓長堀鶴見緑地線の起点・終点になっている大正駅が近付いた。
↓偶々、酷く空いていた。
↓少し独特な、小ぶりな感じがする車輛だと思う。標準軌ながら従来の車輛より断面積が小さいという。
↑長堀鶴見緑地線は1990年に開業し、1996年、1997年に延伸されている。当初から「鉄輪式リニアモーターミニ地下鉄」という車輛が導入された。日本国内で最初の例ということになったようだ。
↓大正駅に着いた。
↓今般は折り返し運転にはならず、回送となるようだった。「大正止」とホーム上の行先表示に示されている。
↓この長堀鶴見緑地線の駅というのも、デザインが好い駅が多いような気がする。
出先の街で、地下鉄を使って動き回るのは好きだ。
↓長堀鶴見緑地線の起点・終点になっている大正駅が近付いた。
↓偶々、酷く空いていた。
↓少し独特な、小ぶりな感じがする車輛だと思う。標準軌ながら従来の車輛より断面積が小さいという。
↑長堀鶴見緑地線は1990年に開業し、1996年、1997年に延伸されている。当初から「鉄輪式リニアモーターミニ地下鉄」という車輛が導入された。日本国内で最初の例ということになったようだ。
↓大正駅に着いた。
↓今般は折り返し運転にはならず、回送となるようだった。「大正止」とホーム上の行先表示に示されている。
↓この長堀鶴見緑地線の駅というのも、デザインが好い駅が多いような気がする。
出先の街で、地下鉄を使って動き回るのは好きだ。
<0607>…:グランドプラザ前:富山の路面電車(2023.12.26)
氷川神社…:大宮(2023.12.25)
「大宮」という地名は、「武蔵一宮」の雅称に由来するのだという。「武蔵一宮を擁する地域」ということで、江戸時代に辺りが「大宮宿」と呼び習わされたことが起りなのだという。
その「武蔵一宮」たる、“伝説”そのものを含むような由緒を有する氷川神社を訪ねてみたいと思っていた。大宮に到着した前日の夕刻、既に暗くなっていて按配が悪いと思ったので、朝から時間を設けて足を運んだのである。
↓荷物を大宮駅のロッカーに預けてから歩き始め、10分強でこういう看板に行き当たった。
↓大きな木に鳥居という様子で、通路が延びている。長い伝統を誇る大きな神社の参道という様相だ。
↓狛犬が迎えてくれた。吽形だ…
↓狛犬には当然ながら阿形も在る…
↓初詣の時季を控え、その準備が少しずつ進められているという様子も見受けられたが、こうやって立派な鳥居が本格的な境内の入口と示してくれている。
↓境内の木々と朝の光が醸し出す雰囲気が好い。
↓嘗て、帝国海軍の艦艇には艦名に所縁の地域の神社の紙を勧請するようなことが行われていたという。艦内に神棚を設え、艦名を冠して「〇〇神社」と号したらしい。かの戦艦<武蔵>に関しては、「武蔵一宮」たる氷川神社の神職が招かれて儀式を執り行ったのだという。そういう経過を伝える碑が境内に据えられていた。
↓橋の向こうに楼門が見える。朝の清掃も入念に行われている様子だ。
↓凄く貫禄が在る門で、暫し足を停めて見入った。
↓正面で楼門と向き合って、境内の中に歩を進めた。
↓大きな木が散在する感じが、何か面白い。
↓凄く「神社らしい…」と見入ってしまった光景だ。
凄く雰囲気の好い場所だった。縁薄かった大宮に、多少の遠回りながらも無事に着いたことに感謝と確り参拝し、御朱印を御願いした。
↓こういう具合、左側の頁に押印で書き込みをして頂いた。
↑窓口で御願いした神職の方が隣の頁を眼に留め、「あっ!?上川神社…」と反応した。実は北海道に所縁が在る方で、上川神社等に色々と御縁が在るということで、少し言葉を交わした。北海道から南下して訪ねた大宮の氷川神社で、北海道に所縁の方と出くわしたというのも強く大きな御縁だ。そういうことにも感謝しながら引揚げることになった。
↓他地域から大宮を訪ねるというようなことは余り聞かない。そしてこの氷川神社を訪ねてみたという話しも、個人的には聞いた記憶が無い。が、それはそれとして、なかなかに興味深い。
そういうことで、冬の好天という中で訪ねた氷川神社は「機会が在れば再訪…。否!再訪機会を是非設けたい」という場所に数え得るようになった。
その「武蔵一宮」たる、“伝説”そのものを含むような由緒を有する氷川神社を訪ねてみたいと思っていた。大宮に到着した前日の夕刻、既に暗くなっていて按配が悪いと思ったので、朝から時間を設けて足を運んだのである。
↓荷物を大宮駅のロッカーに預けてから歩き始め、10分強でこういう看板に行き当たった。
↓大きな木に鳥居という様子で、通路が延びている。長い伝統を誇る大きな神社の参道という様相だ。
↓狛犬が迎えてくれた。吽形だ…
↓狛犬には当然ながら阿形も在る…
↓初詣の時季を控え、その準備が少しずつ進められているという様子も見受けられたが、こうやって立派な鳥居が本格的な境内の入口と示してくれている。
↓境内の木々と朝の光が醸し出す雰囲気が好い。
↓嘗て、帝国海軍の艦艇には艦名に所縁の地域の神社の紙を勧請するようなことが行われていたという。艦内に神棚を設え、艦名を冠して「〇〇神社」と号したらしい。かの戦艦<武蔵>に関しては、「武蔵一宮」たる氷川神社の神職が招かれて儀式を執り行ったのだという。そういう経過を伝える碑が境内に据えられていた。
↓橋の向こうに楼門が見える。朝の清掃も入念に行われている様子だ。
↓凄く貫禄が在る門で、暫し足を停めて見入った。
↓正面で楼門と向き合って、境内の中に歩を進めた。
↓大きな木が散在する感じが、何か面白い。
↓凄く「神社らしい…」と見入ってしまった光景だ。
凄く雰囲気の好い場所だった。縁薄かった大宮に、多少の遠回りながらも無事に着いたことに感謝と確り参拝し、御朱印を御願いした。
↓こういう具合、左側の頁に押印で書き込みをして頂いた。
↑窓口で御願いした神職の方が隣の頁を眼に留め、「あっ!?上川神社…」と反応した。実は北海道に所縁が在る方で、上川神社等に色々と御縁が在るということで、少し言葉を交わした。北海道から南下して訪ねた大宮の氷川神社で、北海道に所縁の方と出くわしたというのも強く大きな御縁だ。そういうことにも感謝しながら引揚げることになった。
↓他地域から大宮を訪ねるというようなことは余り聞かない。そしてこの氷川神社を訪ねてみたという話しも、個人的には聞いた記憶が無い。が、それはそれとして、なかなかに興味深い。
そういうことで、冬の好天という中で訪ねた氷川神社は「機会が在れば再訪…。否!再訪機会を是非設けたい」という場所に数え得るようになった。
「打ち止め」という感…=運行日誌(2023.12.31)
天神橋筋6丁目の宿の居室に在る。日頃から気儘に暮しているとは思っているが、更なる気儘を求めて、随意に過ごす時間というようなモノを設けて、方々を巡っている。回り道を強いられるような様子ながら、当初の思惑どおりに旭川から東京へ飛び、以降は大宮や川越、富山、敦賀というように、これまで縁が薄かった街で過ごし、そこから京都に入り、大阪に至ったのである。
眠ければ眠り、起きて居たいのであれば起きて居れば善い。特段に遠慮や配意が要るのでもない。それが「休日」というモノである。正しくそういう要領で天神橋筋6丁目の宿の居室に在って夜を明かした。深く長く眠ったような、短く深く眠ったような、何やら判らない感じで暗い早朝に至ったのだった。出先では「よく在る」ということかもしれない。
朝5時台に戸外に出た。歩いて片道15分弱だと思う。大阪駅に近い地区に<大東洋>というよく知られたサウナが在る。ここへ足を運んだ。サウナは好い。ゆっくりしたと思う。朝7時台にゆっくりと宿へ引揚げ、そのまま宿で供される朝食を摂った。
思い付きで街を散策した。地下鉄の1日券は、土日祝日ということで620円と殊更に安価であった。これを主に使い、地下鉄以外は普通にICOCAを利用することにした訳だ。
地下鉄とモノレールとを乗り継いで万博記念公園迄足を運び、かの<太陽の塔>を眺めたかったが、公園が休園で近付けず、少し遠くから見るだけで終始してしまった。
やがて大正に出て<タグボート大正>を訪ねたが、以前に立寄った御店等が、訪ねた時には開いていなかった。何か食事を摂るのは諦めて辺りを歩いていて、難波へのバスを見付けて乗車してみた。
難波の辺りでお好み焼き、ソバが入ったモダン焼きを頂いた。そこから御堂筋を歩いた。三津寺という場所で参拝し、やがて難波神社に至って、そこでも参拝した。難波神社の辺り迄歩いてしまうと、地下鉄は本町駅が近い。そして本町駅に到ったが、思い付いたのは、東寄りの堺筋本町駅に行って堺筋線の列車を利用すると、乗換え無しで天神橋筋六丁目駅に着くということだった。そして東西に拡がる「船場センタービル」を眺めながら東へ進み、堺筋本町駅に到った。
天神橋筋六丁目駅に着いて、宿の居室に入ったが、居眠りに陥った。気付くと夕刻5時近かった。何となく戸外へ出た。少し静かな感じで、休んでいる御店が目立つ様子だった。回転寿司店が営業中であるのを見付けて、そこで夕食を摂った。そして宿へ引揚げている。
このまま宿の居室で寛ぐということにする。「何となく過ぎてしまった」という1年だったというような気がしている。前年は12月に色々と在って、12月31日には出先から引揚げてえ稚内の拙宅に在った。今年は出先に未だ残っているという訳だ。そういう差異は在るが、この時季に「大過なく過ごした日々」に感謝し、「生かされている」とでもいうようなことに感謝し、日々少しなりとも心豊かに暮らしてみたいという想いを新たにするという辺りに差異は無い。
自身の場合、拙宅の居室も、出先の宿の居室も「何ら変わりは無い」ということになるかもしれない。何れにしても1人で悠然と過ごすのだから。逆に言えば、他に選択の余地も無いのだが。
とりあえず2023年は「打ち止め」という感じになった…
眠ければ眠り、起きて居たいのであれば起きて居れば善い。特段に遠慮や配意が要るのでもない。それが「休日」というモノである。正しくそういう要領で天神橋筋6丁目の宿の居室に在って夜を明かした。深く長く眠ったような、短く深く眠ったような、何やら判らない感じで暗い早朝に至ったのだった。出先では「よく在る」ということかもしれない。
朝5時台に戸外に出た。歩いて片道15分弱だと思う。大阪駅に近い地区に<大東洋>というよく知られたサウナが在る。ここへ足を運んだ。サウナは好い。ゆっくりしたと思う。朝7時台にゆっくりと宿へ引揚げ、そのまま宿で供される朝食を摂った。
思い付きで街を散策した。地下鉄の1日券は、土日祝日ということで620円と殊更に安価であった。これを主に使い、地下鉄以外は普通にICOCAを利用することにした訳だ。
地下鉄とモノレールとを乗り継いで万博記念公園迄足を運び、かの<太陽の塔>を眺めたかったが、公園が休園で近付けず、少し遠くから見るだけで終始してしまった。
やがて大正に出て<タグボート大正>を訪ねたが、以前に立寄った御店等が、訪ねた時には開いていなかった。何か食事を摂るのは諦めて辺りを歩いていて、難波へのバスを見付けて乗車してみた。
難波の辺りでお好み焼き、ソバが入ったモダン焼きを頂いた。そこから御堂筋を歩いた。三津寺という場所で参拝し、やがて難波神社に至って、そこでも参拝した。難波神社の辺り迄歩いてしまうと、地下鉄は本町駅が近い。そして本町駅に到ったが、思い付いたのは、東寄りの堺筋本町駅に行って堺筋線の列車を利用すると、乗換え無しで天神橋筋六丁目駅に着くということだった。そして東西に拡がる「船場センタービル」を眺めながら東へ進み、堺筋本町駅に到った。
天神橋筋六丁目駅に着いて、宿の居室に入ったが、居眠りに陥った。気付くと夕刻5時近かった。何となく戸外へ出た。少し静かな感じで、休んでいる御店が目立つ様子だった。回転寿司店が営業中であるのを見付けて、そこで夕食を摂った。そして宿へ引揚げている。
このまま宿の居室で寛ぐということにする。「何となく過ぎてしまった」という1年だったというような気がしている。前年は12月に色々と在って、12月31日には出先から引揚げてえ稚内の拙宅に在った。今年は出先に未だ残っているという訳だ。そういう差異は在るが、この時季に「大過なく過ごした日々」に感謝し、「生かされている」とでもいうようなことに感謝し、日々少しなりとも心豊かに暮らしてみたいという想いを新たにするという辺りに差異は無い。
自身の場合、拙宅の居室も、出先の宿の居室も「何ら変わりは無い」ということになるかもしれない。何れにしても1人で悠然と過ごすのだから。逆に言えば、他に選択の余地も無いのだが。
とりあえず2023年は「打ち止め」という感じになった…
階段に「北陸新幹線」…:敦賀駅(2023.12.28)
嘗ての「北陸道」:「国道8号」:敦賀にて…(2023.12.28)
古めな建物の角…(2023.12.28)
8階の眺望…:敦賀(2023.12.28)
<義經>=7100形蒸気機関車:<京都鉄道博物館>(2023.12.29)
↓扇形蒸気機関車庫の転車台側から見て左端だ。他の機関車よりも小柄で、古風な機関車が在る。
↑機関車のメンテナンスを手掛けるような、見学者が自由に出入り出来ない箇所に在るのだが、古風な姿が酷く目立つ。
↓小樽に在る<しづか>の同型機である<義經>である。
1880年製造の1号機が<義經>(義経)、2号機が<辯慶>(弁慶)と、1882年製造の3号機が<比羅夫>、4号機が<光圀>と、1884年製造の5号機が<信廣>、1885年製造の6号機は<しづか>と各々愛称を与えられた。間隔が少し開き、1889年に2輛製造されているが、これらには愛称は冠せられていなかった。同型が計8輛在ったのだ。
「平泉で自決した」とされる源義経に関しては、現在の北海道へ落ち延び、大陸に渡って活躍したという伝説が在る。その伝説の地である北海道で活動した機関車に<義經>の名が与えられていたのだ。
↓確か小学生の頃だった。当時は神戸の工場に在った<義經>を小樽迄運んで、<しづか>と「再会」という催しが在った。“親父殿”に小樽迄連れて行って頂いて見学したというようなことを微かに憶えている。
↑序でに右奥に写っているC56については、これも小学生の頃、札幌へ運び込んで札幌・小樽間で客車を牽引するというイベント列車が運行され、未だ幼かった“賢弟”を引き連れて乗車してみた記憶も在る。
そういう個人的な思い入れも在る車輛に、こうやって京都鉄道博物館で対面出来るのは嬉しい。米国生まれで“西部劇”風という独特な風貌で北海道に現れた蒸気機関車は、神戸の工場へ行った後に大阪の博物館に入り、京都の博物館の開設時に移っているのである。
「1880年」という次元の旧い車輛は、とにかく貴重だと思う。
↑機関車のメンテナンスを手掛けるような、見学者が自由に出入り出来ない箇所に在るのだが、古風な姿が酷く目立つ。
↓小樽に在る<しづか>の同型機である<義經>である。
1880年製造の1号機が<義經>(義経)、2号機が<辯慶>(弁慶)と、1882年製造の3号機が<比羅夫>、4号機が<光圀>と、1884年製造の5号機が<信廣>、1885年製造の6号機は<しづか>と各々愛称を与えられた。間隔が少し開き、1889年に2輛製造されているが、これらには愛称は冠せられていなかった。同型が計8輛在ったのだ。
「平泉で自決した」とされる源義経に関しては、現在の北海道へ落ち延び、大陸に渡って活躍したという伝説が在る。その伝説の地である北海道で活動した機関車に<義經>の名が与えられていたのだ。
↓確か小学生の頃だった。当時は神戸の工場に在った<義經>を小樽迄運んで、<しづか>と「再会」という催しが在った。“親父殿”に小樽迄連れて行って頂いて見学したというようなことを微かに憶えている。
↑序でに右奥に写っているC56については、これも小学生の頃、札幌へ運び込んで札幌・小樽間で客車を牽引するというイベント列車が運行され、未だ幼かった“賢弟”を引き連れて乗車してみた記憶も在る。
そういう個人的な思い入れも在る車輛に、こうやって京都鉄道博物館で対面出来るのは嬉しい。米国生まれで“西部劇”風という独特な風貌で北海道に現れた蒸気機関車は、神戸の工場へ行った後に大阪の博物館に入り、京都の博物館の開設時に移っているのである。
「1880年」という次元の旧い車輛は、とにかく貴重だと思う。
マンホールの蓋…:大阪(2022.12.30)
トイレのピクトグラム…(2023.12.29)
社會油石ドーダンタス育紐=紐育スタンダード石油會社…(2023.12.28)
↓古い煉瓦造の倉庫の建物である。壁の上側に、文字が書き込まれていた痕跡が見受けられる。
↑何やら読み悪いのだが「社會油石ドーダンタス育紐」と在る。往年の「右から左へ横書き」という方式だ。「紐育(ニューヨーク)スタンダード石油會社」ということである。
倉庫の建物は1905(明治38)年に「ニューヨーク・スタンダード石油」が石油の倉庫として建てたのだという。現在は<エクソン・モービル>がこの「ニューヨーク・スタンダード石油」の流れを汲んでいるそうだ。この会社は1940(昭和40)年頃に撤退したという。その後は軍の被服倉庫として使用され、戦後には昆布の貯蔵倉庫として使われていた経過も在る場所であるという。
↓建物はこういうような感じだ。
↑現在は<敦賀赤レンガ>として利用されている。展示が在って、レストランも在るという。
少し時間が少ないと見て、中は見学しなかった。
↓明治時代後期に積まれた煉瓦である。貴重なモノだと思う。
↓脇の歩道に少し面白いオブジェが在った。
港の歴史を思わせる建物だと思う。こういうモノを眺めながら歩き廻るのは好い。
↑何やら読み悪いのだが「社會油石ドーダンタス育紐」と在る。往年の「右から左へ横書き」という方式だ。「紐育(ニューヨーク)スタンダード石油會社」ということである。
倉庫の建物は1905(明治38)年に「ニューヨーク・スタンダード石油」が石油の倉庫として建てたのだという。現在は<エクソン・モービル>がこの「ニューヨーク・スタンダード石油」の流れを汲んでいるそうだ。この会社は1940(昭和40)年頃に撤退したという。その後は軍の被服倉庫として使用され、戦後には昆布の貯蔵倉庫として使われていた経過も在る場所であるという。
↓建物はこういうような感じだ。
↑現在は<敦賀赤レンガ>として利用されている。展示が在って、レストランも在るという。
少し時間が少ないと見て、中は見学しなかった。
↓明治時代後期に積まれた煉瓦である。貴重なモノだと思う。
↓脇の歩道に少し面白いオブジェが在った。
港の歴史を思わせる建物だと思う。こういうモノを眺めながら歩き廻るのは好い。
11階の眺望…:富山(2023.12.26)
マンホールの蓋…:川越(2022.12.25)
大阪駅にて…(2023.12.30)
↓なかなかに人出が多い…大阪駅である。
↓こういう様子の中を進んでみた。
↓高い箇所から様子を観た。何か「街の駅」というのを通り越して「街そのもの」という様相を呈してしまっていると思った。
↓高い箇所では、大きな看板が「普通に大きい!」と見えて驚く。普段は下から見上げていて、何となく大きさが判り悪いものだ。
↓色々なモノが集まっている場所で、この種の案内表示が意外に大切だ。
↓列車が行き交う軌道が少し見える箇所が在る。
↓長大なエスカレータが幾つも組み合わさっている不思議な構造の場所である。
↓跨線橋のようになっている箇所も在って、眺めが少し面白い。
「灯りが浮かび上がる」という感の大阪駅を眺めたいというだけのことで、一寸散策に出た夕べであった。
↓こういう様子の中を進んでみた。
↓高い箇所から様子を観た。何か「街の駅」というのを通り越して「街そのもの」という様相を呈してしまっていると思った。
↓高い箇所では、大きな看板が「普通に大きい!」と見えて驚く。普段は下から見上げていて、何となく大きさが判り悪いものだ。
↓色々なモノが集まっている場所で、この種の案内表示が意外に大切だ。
↓列車が行き交う軌道が少し見える箇所が在る。
↓長大なエスカレータが幾つも組み合わさっている不思議な構造の場所である。
↓跨線橋のようになっている箇所も在って、眺めが少し面白い。
「灯りが浮かび上がる」という感の大阪駅を眺めたいというだけのことで、一寸散策に出た夕べであった。
御堂筋…:阪神百貨店(2023.12.30)
注連飾り…(2023.12.30)
阪神百貨店を望む…(2023.12.30)
少しだけ馴染んだ“天六”…=運行日誌(2023.12.30)
「何時でも御休み頂いて結構」という態勢に入っている。宿で使える部屋着に着替えて居室に在る。こうなると、出るには着替えなければならない。故に、居室で「何時でも御休み頂いて結構」ということになる訳だ。
今年の4月、大阪の天神橋筋6丁目の宿を利用した経過が在った。今般、神戸空港から「帰国」の前に大阪や京都で滞在するということを考えた。空いていた宿の中、この天神橋筋6丁目の宿を択んだ。4月に利用した際に、色々な意味で以後ことが好かった。あの時は、滞在期間中に京都を往復するというようなことをして、“北”へ引揚げる途に就く日に姫路を訪れていた。
自身として「やや異例?」なのだが、前夜は宿の居室でテレビを点けた。『必殺!仕事人』の新作2時間ドラマを愉しんだという訳だ。あの種の時代モノは愉しい。「必殺!」の場合は、「時代劇ドラマ風なファンタジー」、「“時代劇”世界を借りた、制作時期、放映時の社会の風刺」という独特な要素も色濃い。所謂“考証”というようなことを如何こう言うのは野暮という感じだ。何本も作られているこのシリーズだが、前作で主要な劇中人物が斃れてしまっているので、新たな劇中人物が登場している。非常に好かったが、未だ新しいコンテンツなので、内容には踏み込まない。
そういうことをして普通に休み、やがて普通に迎えた朝だ。「予定」としては、「大阪の宿へ」ということが在るだけだ。色々と考えたが、京都の宿に関しては、少しゆっくりと過ごしてチェックアウトをすることにした。京都でまた動き回るでもなく、発つ迄はゆったりする。そういうことに決めた。
宿の朝食を頂いた後、少し外に出た。コンビニで、居室用の飲物を求めようとした。戸外は、多分3℃程度の少しだけ冷えた感じだ。この程度なら、少し長く戸外を歩く場合には多少温かくする方が賢明かもしれない。が、「四条通で横断歩道の信号待ちをしている間に動けてしまう」という程度で訪ねられるコンビニと宿との往復なら、半袖Tシャツの上にやや記事が厚い長袖シャツ
というような、屋内風な服装で出歩いても、個人的には抵抗感が薄い。
そして居室で寛ぐこと暫しで、9時半前に宿を出た。気に入っている阪急電車に乗り、淡路駅へ移動した。そして乗換で天神橋筋六丁目駅だ。京都・大阪間の往来で、少し気に入っている経路だ。それを利用して移動したというのは、何か「小さな満足」というようなモノが沸き起こる。
今般、天神橋筋六丁目駅のロッカーに荷物を預け、大阪天満宮を訪ねてみた。と言うよりも、少し迷いながら天神橋筋の辺りを徘徊し、串カツを摘んで寛ぐ場面も設けたという感じだった。「天神橋筋」、「天満」、「天満橋」という具合に、大阪天満宮に縁が在りそうな地名が幾つも在って何やら入り混じるかのように所在しているように、自身に眼には見えた。結局…天神橋筋六丁目駅から商店街の「6丁目」に入って、そのまま「5丁目…4丁目…3丁目…2丁目…」と進んで行けば、「1丁目」の辺りで大阪天満宮の正面へ続く道と交差している場所が在るのだ。途中にあるJR天満駅の界隈でグルグルとして妙な方向に出た。変な回り道で相当に歩いたが、他方で天満駅界隈で頂いた串カツが好かった。
そんなことをして、宿に入る時間には少し間が在ったが天神橋筋六丁目駅のロッカーから荷物を引き取り、駅前のビルに入っているネットカフェで1時間余り休んだ。そこから宿に入る訳である。
宿で一息入れた後、梅田まで日没頃の街を歩いた。梅田では御堂筋辺りや大阪駅辺りを訳も判らずに歩いて景色を少し愉しんだ。そして地下鉄の東梅田駅へ、あの“ダンジョン”(大迷路)と言われる地下通路を歩き廻って、地下鉄で天神橋筋六丁目駅へ動き、宿に引揚げた訳だ。大阪に関しては、複数回利用した宿が在る場所が何箇所か在って、そういう辺りに至ると、何やら安堵感が沸き起こる。最近、天神橋筋六丁目駅辺りもそういう場所になっている感だ。
明日??朝から夜まで“自由時間”で、何を如何するのか、全く考えていない。そのうちに何か思い付くのだろう。全く、宿の居室で缶のハイボールやペットボトルのアイスコーヒー(無糖)を啜りながら、ぼんやりとしている。
今年の4月、大阪の天神橋筋6丁目の宿を利用した経過が在った。今般、神戸空港から「帰国」の前に大阪や京都で滞在するということを考えた。空いていた宿の中、この天神橋筋6丁目の宿を択んだ。4月に利用した際に、色々な意味で以後ことが好かった。あの時は、滞在期間中に京都を往復するというようなことをして、“北”へ引揚げる途に就く日に姫路を訪れていた。
自身として「やや異例?」なのだが、前夜は宿の居室でテレビを点けた。『必殺!仕事人』の新作2時間ドラマを愉しんだという訳だ。あの種の時代モノは愉しい。「必殺!」の場合は、「時代劇ドラマ風なファンタジー」、「“時代劇”世界を借りた、制作時期、放映時の社会の風刺」という独特な要素も色濃い。所謂“考証”というようなことを如何こう言うのは野暮という感じだ。何本も作られているこのシリーズだが、前作で主要な劇中人物が斃れてしまっているので、新たな劇中人物が登場している。非常に好かったが、未だ新しいコンテンツなので、内容には踏み込まない。
そういうことをして普通に休み、やがて普通に迎えた朝だ。「予定」としては、「大阪の宿へ」ということが在るだけだ。色々と考えたが、京都の宿に関しては、少しゆっくりと過ごしてチェックアウトをすることにした。京都でまた動き回るでもなく、発つ迄はゆったりする。そういうことに決めた。
宿の朝食を頂いた後、少し外に出た。コンビニで、居室用の飲物を求めようとした。戸外は、多分3℃程度の少しだけ冷えた感じだ。この程度なら、少し長く戸外を歩く場合には多少温かくする方が賢明かもしれない。が、「四条通で横断歩道の信号待ちをしている間に動けてしまう」という程度で訪ねられるコンビニと宿との往復なら、半袖Tシャツの上にやや記事が厚い長袖シャツ
というような、屋内風な服装で出歩いても、個人的には抵抗感が薄い。
そして居室で寛ぐこと暫しで、9時半前に宿を出た。気に入っている阪急電車に乗り、淡路駅へ移動した。そして乗換で天神橋筋六丁目駅だ。京都・大阪間の往来で、少し気に入っている経路だ。それを利用して移動したというのは、何か「小さな満足」というようなモノが沸き起こる。
今般、天神橋筋六丁目駅のロッカーに荷物を預け、大阪天満宮を訪ねてみた。と言うよりも、少し迷いながら天神橋筋の辺りを徘徊し、串カツを摘んで寛ぐ場面も設けたという感じだった。「天神橋筋」、「天満」、「天満橋」という具合に、大阪天満宮に縁が在りそうな地名が幾つも在って何やら入り混じるかのように所在しているように、自身に眼には見えた。結局…天神橋筋六丁目駅から商店街の「6丁目」に入って、そのまま「5丁目…4丁目…3丁目…2丁目…」と進んで行けば、「1丁目」の辺りで大阪天満宮の正面へ続く道と交差している場所が在るのだ。途中にあるJR天満駅の界隈でグルグルとして妙な方向に出た。変な回り道で相当に歩いたが、他方で天満駅界隈で頂いた串カツが好かった。
そんなことをして、宿に入る時間には少し間が在ったが天神橋筋六丁目駅のロッカーから荷物を引き取り、駅前のビルに入っているネットカフェで1時間余り休んだ。そこから宿に入る訳である。
宿で一息入れた後、梅田まで日没頃の街を歩いた。梅田では御堂筋辺りや大阪駅辺りを訳も判らずに歩いて景色を少し愉しんだ。そして地下鉄の東梅田駅へ、あの“ダンジョン”(大迷路)と言われる地下通路を歩き廻って、地下鉄で天神橋筋六丁目駅へ動き、宿に引揚げた訳だ。大阪に関しては、複数回利用した宿が在る場所が何箇所か在って、そういう辺りに至ると、何やら安堵感が沸き起こる。最近、天神橋筋六丁目駅辺りもそういう場所になっている感だ。
明日??朝から夜まで“自由時間”で、何を如何するのか、全く考えていない。そのうちに何か思い付くのだろう。全く、宿の居室で缶のハイボールやペットボトルのアイスコーヒー(無糖)を啜りながら、ぼんやりとしている。
淡路駅にて…(2023.12.30)
↓淡路駅で列車から下りた。
↑「天下茶屋行は下りた5号線でお待ちください」というアナウンスが車内で、そして駅で流れた。それを受けてその辺りに佇んでいた。
↓阪急の列車は車輛が美しいと思う。大阪梅田駅を目指して出発した様子も、何やら画になる。
↓列車は遠ざかった。
↓程無く「5号線に電車が参ります」と注意喚起のアナウンスで列車が現れた。
↓阪急では列車が着くホームを「〇号線」と呼ぶのが特徴的だが、それ以上に製造された時期も異なる様々な形式の車輛に関して、悉く丁寧に同じ色が塗られているのが際立った特徴のように思う。烏丸・淡路間で乗車した車輛と形が違う車輛だが、塗装は殆ど同じだ。こういうのも好いかもしれないと何時も思う。
この淡路駅に現れた列車は準急で、1駅通過で直ぐに天神橋筋六丁目駅に着いたのだった。
↑「天下茶屋行は下りた5号線でお待ちください」というアナウンスが車内で、そして駅で流れた。それを受けてその辺りに佇んでいた。
↓阪急の列車は車輛が美しいと思う。大阪梅田駅を目指して出発した様子も、何やら画になる。
↓列車は遠ざかった。
↓程無く「5号線に電車が参ります」と注意喚起のアナウンスで列車が現れた。
↓阪急では列車が着くホームを「〇号線」と呼ぶのが特徴的だが、それ以上に製造された時期も異なる様々な形式の車輛に関して、悉く丁寧に同じ色が塗られているのが際立った特徴のように思う。烏丸・淡路間で乗車した車輛と形が違う車輛だが、塗装は殆ど同じだ。こういうのも好いかもしれないと何時も思う。
この淡路駅に現れた列車は準急で、1駅通過で直ぐに天神橋筋六丁目駅に着いたのだった。
烏丸駅にて…(2023.12.30)
串カツ…:<七福神>:天満(2023.12.30)
烏丸から天神橋筋6丁目へ、阪急の列車を乗り継いで移動した。天神橋筋6丁目に宿を取っていて、そこに滞在する。そこでとりあえず動いたが、宿に入ることが叶う迄にやや間が在る。
天神橋筋の商店街を何気なく歩いて、何やらJR天満駅の界隈に出た。
↓こういう御店を眼に留めた。が、未だ準備中だった。後から、開店した頃を見計らって立寄ってみようと思い付いた。
↓そして辺りを巡って、再度近くを通ると御店は開店していた。
↓立ち寄った。
↓どて焼きを御願いした。
↓「七福神セット」の7点の最初のモノであるエビ餅が登場した。
↓アスパラ、タコ、キス、子持ち昆布、豚ヘレと6本の串カツだ。
↓子持ち昆布をもう1本…そして牛カツ3本セットという「定番」を頂いた。
「他所の地域の人達が勝手に作り上げたイメージ」という一面も否定はし悪いかもしれないが、「串カツ」とでも言えば凄く「大阪らしい」というようなことになるのかもしれない。大阪に着いて、早速にその「らしい」という感じの串カツを頂いた。
天神橋筋の商店街を何気なく歩いて、何やらJR天満駅の界隈に出た。
↓こういう御店を眼に留めた。が、未だ準備中だった。後から、開店した頃を見計らって立寄ってみようと思い付いた。
↓そして辺りを巡って、再度近くを通ると御店は開店していた。
↓立ち寄った。
↓どて焼きを御願いした。
↓「七福神セット」の7点の最初のモノであるエビ餅が登場した。
↓アスパラ、タコ、キス、子持ち昆布、豚ヘレと6本の串カツだ。
↓子持ち昆布をもう1本…そして牛カツ3本セットという「定番」を頂いた。
「他所の地域の人達が勝手に作り上げたイメージ」という一面も否定はし悪いかもしれないが、「串カツ」とでも言えば凄く「大阪らしい」というようなことになるのかもしれない。大阪に着いて、早速にその「らしい」という感じの串カツを頂いた。
<敦賀倉庫>…(2023.12.28)
昼にでも列車に乗って発とうと考えていたが、その前に敦賀を歩き廻ることとした。
↓港の辺りにこういう感じで倉庫が並んでいた。同じような形で大きさが違う建物が並んでいる様子が面白いと思った。
↑港町である敦賀には様々な倉庫が古くから在った。戦災で損なわれ、昭和20年代頃に港を再興しようという中で倉庫が建てられたというが、画の倉庫はその昭和20年代頃のモノであるようだ。
↓この堅牢そうなコンクリート造の倉庫は1930年代のモノであるらしい。
↓敦賀港の歩みと共に在るような倉庫群だ。
こうした倉庫を建て、運営して来た会社の歴史は1899(明治32)年に敦賀港が開港(国外との貿易を取扱う港となること)した前後辺りから起こっている。色々な機会に経営は切り替わり、会社の体裁も移ろっているようではある。が、実際にこの倉庫で貨物を扱っている様子は現在でも見受けられる。
この時の天、雲の感じの故に、少し面白い感じに見えていた倉庫群だ。
↓港の辺りにこういう感じで倉庫が並んでいた。同じような形で大きさが違う建物が並んでいる様子が面白いと思った。
↑港町である敦賀には様々な倉庫が古くから在った。戦災で損なわれ、昭和20年代頃に港を再興しようという中で倉庫が建てられたというが、画の倉庫はその昭和20年代頃のモノであるようだ。
↓この堅牢そうなコンクリート造の倉庫は1930年代のモノであるらしい。
↓敦賀港の歩みと共に在るような倉庫群だ。
こうした倉庫を建て、運営して来た会社の歴史は1899(明治32)年に敦賀港が開港(国外との貿易を取扱う港となること)した前後辺りから起こっている。色々な機会に経営は切り替わり、会社の体裁も移ろっているようではある。が、実際にこの倉庫で貨物を扱っている様子は現在でも見受けられる。
この時の天、雲の感じの故に、少し面白い感じに見えていた倉庫群だ。
からしそば…:<ハマムラ>(2023.12.29)
京都駅辺りに至ると、やや遅い昼食の時間帯だった。
あの巨大なビルには様々な御店が入居している。南西側に飲食店街が在ったのを思い出し、そこに足を運んだ。
ほんの数分、御店の前で待って席に御案内頂いた。そして「これ!」と料理を御願いした。
↓頂いたのはこの「からしそば」だ。
↓所謂「町中華」ということになるのであろう。京都の中華料理店としては老舗の<ハマムラ>が、京都駅のビルに御店を出している。
↓“からし”が利いたソースで作るあんかけ焼きそばのような感じの料理である。
「からしそば」というのは、他地域では聞かない。京都に独特なモノかもしれない。そういうのは如何でも構わないが、これがなかなかに気に入っている。
あの巨大なビルには様々な御店が入居している。南西側に飲食店街が在ったのを思い出し、そこに足を運んだ。
ほんの数分、御店の前で待って席に御案内頂いた。そして「これ!」と料理を御願いした。
↓頂いたのはこの「からしそば」だ。
↓所謂「町中華」ということになるのであろう。京都の中華料理店としては老舗の<ハマムラ>が、京都駅のビルに御店を出している。
↓“からし”が利いたソースで作るあんかけ焼きそばのような感じの料理である。
「からしそば」というのは、他地域では聞かない。京都に独特なモノかもしれない。そういうのは如何でも構わないが、これがなかなかに気に入っている。
「たばこ」…(2023.12.29)
<C55 1>:<京都鉄道博物館>(2023.12.29)
↓美しい動輪だと思う。
↓<C55 1>である。
C55形は1935年から62輛が製造されている。63輛目以降は設計変更が多岐に亘ったことから、C57形ということになっている。各地で活躍しているが、北海道でも動いていて、宗谷線の旅客列車も牽引していた。稚内辺りでも見られた型の蒸気機関車である。
↓C55形は保存例が意外に少ない。この<京都鉄道博物館>で好い状態で保存されているのが観られるのは少し嬉しい。
実は稚内にも静態保存のC55形が在ったのだが、戸外に置いていて、風雪で傷んで解体の憂き目を見ている。そんな訳でこの型の蒸気機関車には個人的な思い入れが在る。
↓左がC55形だ。右はC58形である。嘗ては北海道でも、こういう感じでC55形とC58形とが並ぶ様子が観られたかもしれない。
↑因みにC58形は431両製造されていて、一部は樺太でも使われたという。
こういう古い車輛が保存されている様子を観るというような機会を設けるのは好い。今般、思い付いて眺めに行って善かった。
↓<C55 1>である。
C55形は1935年から62輛が製造されている。63輛目以降は設計変更が多岐に亘ったことから、C57形ということになっている。各地で活躍しているが、北海道でも動いていて、宗谷線の旅客列車も牽引していた。稚内辺りでも見られた型の蒸気機関車である。
↓C55形は保存例が意外に少ない。この<京都鉄道博物館>で好い状態で保存されているのが観られるのは少し嬉しい。
実は稚内にも静態保存のC55形が在ったのだが、戸外に置いていて、風雪で傷んで解体の憂き目を見ている。そんな訳でこの型の蒸気機関車には個人的な思い入れが在る。
↓左がC55形だ。右はC58形である。嘗ては北海道でも、こういう感じでC55形とC58形とが並ぶ様子が観られたかもしれない。
↑因みにC58形は431両製造されていて、一部は樺太でも使われたという。
こういう古い車輛が保存されている様子を観るというような機会を設けるのは好い。今般、思い付いて眺めに行って善かった。
<C62 2>:<京都鉄道博物館>(2023.12.29)
<京都鉄道博物館>では、蒸気機関車を動態保存している。石炭や水を積み込んで、火を焚いて蒸気を起し、動かすことが出来るようになっている車輛が在るのだ。
↓その動態保存の蒸気機関車の1輛の<C62 2>である。
↑「SLスチーム号」と名付けて<京都鉄道博物館>の敷地の軌道で蒸気機関車を動かしている。客席が在る車輛を牽引し、入館料と別に有料でm来館者が客席に乗ることも出来る。現在、その「SLスチーム号」として動いているのが<C62 2>である。
「シロクニ」という通称も知られるC62形蒸気機関車は1948(昭和23)年から1949(昭和24)年に49輛が製造されている。当時は、貨物用の蒸気機関車が多数在ったが、貨物用総需要が減った中で旅客列車用の蒸気機関車は需要が高まるという状況が生じていた。そこで貨物用のD52形をC62に改造したのである。ボイラー以外の部分は、C57形やC59形の設計が流用されている。
↓「SLスチーム号」が動く様子を観ようと佇んでいた。蒸気が出て、動く準備が始まった。
↓そして煙も出し始めた。
↓「往年の列車」という風情だ。C62形は各地で特急列車や急行列車を牽引したことで知られる。
↑更に、、漫画やアニメの『銀河鉄道999』では、宇宙を往く特急列車を牽引する「大昔の機関車の姿」をしたメカが登場する。その「大昔の機関車の姿」がC62形そのものである。今般、<京都鉄道博物館>では所蔵するC62形に、漫画やアニメの『銀河鉄道999』に登場するマーキングを施すような展示をしていた。その一環で、この<C62 2>には<999>のヘッドマークが掲出されている。
↓やがて<C62 2>は動き始める。
↑暫くバックで運転し、やがて正面から走ってこの「SLスチーム号」の乗降場所に戻る。
↓C62形はボイラー部分が太目なためか、発する音が低く重厚だと思う。
<C62 2>は特急<つばめ>を牽引していた経過が在って、除煙板に<つばめ>のマークが取り付けられている。東海道線で稼働し、電化後に余剰となっていたが、<C62 2>は北海道へ渡る。急行<ニセコ>の牽引で知られている。
↓やがてゆっくりと<C62 2>はバックで遠ざかった。
この「蒸気機関車を動かす」というのは、「古い機械を実際に動かして見せる」という「展示」だと思う。牽引する客車に座れば「経験」を伴う「展示」ということになるであろう。今般、何か「無性に観たい…」と眺めに行ってしまった。<京都鉄道博物館>では、ローテーションで様々な蒸気機関車を「SLスチーム号」として動かしている。こういう「展示」は愉しい。
↓その動態保存の蒸気機関車の1輛の<C62 2>である。
↑「SLスチーム号」と名付けて<京都鉄道博物館>の敷地の軌道で蒸気機関車を動かしている。客席が在る車輛を牽引し、入館料と別に有料でm来館者が客席に乗ることも出来る。現在、その「SLスチーム号」として動いているのが<C62 2>である。
「シロクニ」という通称も知られるC62形蒸気機関車は1948(昭和23)年から1949(昭和24)年に49輛が製造されている。当時は、貨物用の蒸気機関車が多数在ったが、貨物用総需要が減った中で旅客列車用の蒸気機関車は需要が高まるという状況が生じていた。そこで貨物用のD52形をC62に改造したのである。ボイラー以外の部分は、C57形やC59形の設計が流用されている。
↓「SLスチーム号」が動く様子を観ようと佇んでいた。蒸気が出て、動く準備が始まった。
↓そして煙も出し始めた。
↓「往年の列車」という風情だ。C62形は各地で特急列車や急行列車を牽引したことで知られる。
↑更に、、漫画やアニメの『銀河鉄道999』では、宇宙を往く特急列車を牽引する「大昔の機関車の姿」をしたメカが登場する。その「大昔の機関車の姿」がC62形そのものである。今般、<京都鉄道博物館>では所蔵するC62形に、漫画やアニメの『銀河鉄道999』に登場するマーキングを施すような展示をしていた。その一環で、この<C62 2>には<999>のヘッドマークが掲出されている。
↓やがて<C62 2>は動き始める。
↑暫くバックで運転し、やがて正面から走ってこの「SLスチーム号」の乗降場所に戻る。
↓C62形はボイラー部分が太目なためか、発する音が低く重厚だと思う。
<C62 2>は特急<つばめ>を牽引していた経過が在って、除煙板に<つばめ>のマークが取り付けられている。東海道線で稼働し、電化後に余剰となっていたが、<C62 2>は北海道へ渡る。急行<ニセコ>の牽引で知られている。
↓やがてゆっくりと<C62 2>はバックで遠ざかった。
この「蒸気機関車を動かす」というのは、「古い機械を実際に動かして見せる」という「展示」だと思う。牽引する客車に座れば「経験」を伴う「展示」ということになるであろう。今般、何か「無性に観たい…」と眺めに行ってしまった。<京都鉄道博物館>では、ローテーションで様々な蒸気機関車を「SLスチーム号」として動かしている。こういう「展示」は愉しい。
極々簡単に…=運行日誌(2023.12.29)
敦賀を歩き廻って、湖西線を経由する列車で京都に移動し、宿に入った後に一息入れ、夜は「想い出の御店」を訪ねることもした。そこから宿へ引揚げたのだが、深く長く眠ることが叶った。それでも「普通に早起き」かもしれない。そして、早起きで6時やその少し前に起き出すと、未だ窓の外が暗いので「深夜に御手洗を使う」という場面のような、変な気分になってしまう。
今日は青蓮院門跡、粟田神社、清明神社、護王神社、菅原院天満宮、六孫王神社と社寺を巡り、京都鉄道博物館を訪ねた。朝から「京都の休日」という感じだ。何やら充実したが、様々な見聞は後日ゆっくりと綴りたい。
ところで…特筆すべき事態が生じた。宿の居室でテレビを点けた。『必殺!仕事人』の新作2時間ドラマを愉しんでいる…
神戸空港から新千歳空港へ飛ぶ計画の「帰国」迄、ゆっくりと過ごすばかりだ。今日立寄った社寺の中、青蓮院門跡は「行こうとして機会を設けられなかった」ということで、敢えて機会を設けた。が、他は「流れ…」でフラフラと動いた。鉄道博物館に関しては、「今年最後の開館」と聞いての思い付きだ。
こんな過ごし方というのも、時には好いかもしれない…
今日は青蓮院門跡、粟田神社、清明神社、護王神社、菅原院天満宮、六孫王神社と社寺を巡り、京都鉄道博物館を訪ねた。朝から「京都の休日」という感じだ。何やら充実したが、様々な見聞は後日ゆっくりと綴りたい。
ところで…特筆すべき事態が生じた。宿の居室でテレビを点けた。『必殺!仕事人』の新作2時間ドラマを愉しんでいる…
神戸空港から新千歳空港へ飛ぶ計画の「帰国」迄、ゆっくりと過ごすばかりだ。今日立寄った社寺の中、青蓮院門跡は「行こうとして機会を設けられなかった」ということで、敢えて機会を設けた。が、他は「流れ…」でフラフラと動いた。鉄道博物館に関しては、「今年最後の開館」と聞いての思い付きだ。
こんな過ごし方というのも、時には好いかもしれない…