札幌へ移動すべく、何も考えずに朝の旭川駅へ足を運べば、次に現れる列車が<オホーツク>だった。網走から旭川を経て札幌へ向かう特急列車である。これに乗車した。
↓列車は札幌駅に定刻で到着した。下車して車輛を眺めた。
↑ヘッドマークは素早く「回送」に切り替わっていた。
↓先頭車の側面に、<オホーツク>が走る沿線各地をイメージしたイラストが入っている。
この車輛はキハ283系ディーゼルカーだ。1997年に登場し、札幌・釧路間の特急列車で運用され、増車されてからは札幌・函館間でも運用された。が、各特急列車をキハ261系ディーゼルカーに揃えたので、キハ283系ディーゼルカーは引退に近い状態となった。その後、キハ183系ディーゼルカーが引退となったことから、それを運用していた網走方面の列車にこのキハ283系ディーゼルカーを投入することとなった。嘗ての長大な編成ではなく、3輛が基本となった。
↓振り返ると、このキハ283系ディーゼルカーには初めて乗車したような気がする。
時には、余り乗らない車輛に乗ってみるのも愉しいものだと思う。
H100形:旭川駅(2023.12.10)
旭川駅を発つ…(2023.12.10)
他地域との間を往来する際、旭川に寄道をする。自身にはそういう感じが程好い。
↓そんな訳で、寄道をした旭川から更に先へ進もうと旭川駅へ向かった。
↓旭川・札幌間は特急列車が多く運行されている。余り細かいことを考えずに何となく駅へ向かえば、現れる列車に乗車出来る場合が殆どだと思う。限られた列車の発車時刻を把握して動くのではない、こういう「気楽さ」が好きだ。
↓午前9時台は列車が少ない?網走から札幌を目指す<オホーツク>が旭川を通る。それに乗車可能だ。
↓列車に乗る迄、些かの間が在ると考え、川が見える側へ出て何となく寛いだ。
↑「12月10日」にこんなに雪が少ないというのも、余り例が無いかもしれないと思いながら眺めた様子だった。
↓<オホーツク>は3輛で運行されている。
↑自由席は先頭の3号車だ。3号車に乗車する辺りに陣取って待つことにした。
↓列車は順調に走っていたようで、定刻に現れた。
↓流氷の海に「オホーツク」という文字の、電光掲示のヘッドマークが輝く車輛はキハ283系ディーゼルカーだ。
↓入口から中へ進む。
↓旭川では未だ然程混み合っていない感じで、楽に席を見付けた。
<オホーツク>は深川、滝川、岩見沢、札幌の順に停車する。<カムイ>や<ライラック>が停車する砂川や美唄は通過だ。車内では何度もその旨の案内が流れた。滝川より先は、何となく車内が賑わい、座席は概ね全部埋まった。
随分と以前、札幌・旭川間で網走に向かう列車の自由席に乗車したような記憶が在るが、当時はキハ183系ディーゼルカーだった。キハ283系ディーゼルカーには初めて乗車したような気がする。時には好い感じだ。
↓そんな訳で、寄道をした旭川から更に先へ進もうと旭川駅へ向かった。
↓旭川・札幌間は特急列車が多く運行されている。余り細かいことを考えずに何となく駅へ向かえば、現れる列車に乗車出来る場合が殆どだと思う。限られた列車の発車時刻を把握して動くのではない、こういう「気楽さ」が好きだ。
↓午前9時台は列車が少ない?網走から札幌を目指す<オホーツク>が旭川を通る。それに乗車可能だ。
↓列車に乗る迄、些かの間が在ると考え、川が見える側へ出て何となく寛いだ。
↑「12月10日」にこんなに雪が少ないというのも、余り例が無いかもしれないと思いながら眺めた様子だった。
↓<オホーツク>は3輛で運行されている。
↑自由席は先頭の3号車だ。3号車に乗車する辺りに陣取って待つことにした。
↓列車は順調に走っていたようで、定刻に現れた。
↓流氷の海に「オホーツク」という文字の、電光掲示のヘッドマークが輝く車輛はキハ283系ディーゼルカーだ。
↓入口から中へ進む。
↓旭川では未だ然程混み合っていない感じで、楽に席を見付けた。
<オホーツク>は深川、滝川、岩見沢、札幌の順に停車する。<カムイ>や<ライラック>が停車する砂川や美唄は通過だ。車内では何度もその旨の案内が流れた。滝川より先は、何となく車内が賑わい、座席は概ね全部埋まった。
随分と以前、札幌・旭川間で網走に向かう列車の自由席に乗車したような記憶が在るが、当時はキハ183系ディーゼルカーだった。キハ283系ディーゼルカーには初めて乗車したような気がする。時には好い感じだ。
華やぐ…:クリスマスツリー:旭川駅の傍(2023.12.10)
建設中…(2023.12.10)
↓早朝に歩き廻って眼に留めた様子だ。
↑旭川駅の真前のような場所が広い空地になっていて、「タワーマンションの建設」という話しが在った。高層建築のためのクレーンが設えられ、作業が続けられているようだ。
眺めながら、信号機の脇の標識が眼に留まった。「1条通7丁目」と在って、下に「1jodori 7chome」と在る。日本語の数字の「1=いち」や「7=なな」をよく判らない方は、これは読めないのではないだろうか?米国辺りでは、東西か南北かの何れかの道を「ストリート」、交わる道を「アヴェニュー」としていたような記憶が在る。そういう方式にでもした方が好さそうな気がする。或いは「Ichi-Jo」と「Nana-Chome」と書くのも手か?
何十年もこういう看板を見ては色々と想う。それはそれとして、この辺りもタワーマンションが出来ると、随分と景色が変わりそうだ。
↑旭川駅の真前のような場所が広い空地になっていて、「タワーマンションの建設」という話しが在った。高層建築のためのクレーンが設えられ、作業が続けられているようだ。
眺めながら、信号機の脇の標識が眼に留まった。「1条通7丁目」と在って、下に「1jodori 7chome」と在る。日本語の数字の「1=いち」や「7=なな」をよく判らない方は、これは読めないのではないだろうか?米国辺りでは、東西か南北かの何れかの道を「ストリート」、交わる道を「アヴェニュー」としていたような記憶が在る。そういう方式にでもした方が好さそうな気がする。或いは「Ichi-Jo」と「Nana-Chome」と書くのも手か?
何十年もこういう看板を見ては色々と想う。それはそれとして、この辺りもタワーマンションが出来ると、随分と景色が変わりそうだ。
凍っている…:千鳥が池:常盤公園:旭川(2023.12.10)
<7 ELEVEN>…(2023.12.10)
<LAWSON>…(2023.12.10)
凍て付く路面…(2023.12.10)
旭橋…:早朝(2023.12.10)
旭川に何軒か在る「馴染んだ宿」と呼び得る場所の一つ、旭川駅に近く、昭和通に近い宿でゆったりと過ごし、迎えた早朝に散策に出た。
「12月」という時季、「早朝の散策」と言っても、何やら「深夜の徘徊」という雰囲気にもなるかもしれない。早朝6時前が妙に暗いのだ。
↓旭橋の辺りに至った。
↓早朝の「よい子はまねをしないでね」という具合で、この1932年竣工という橋梁の真正面の写真を撮ってしまった。
↓旭川で大変に気に入っている風景の一つだ。
↓幾つもの川が交わる辺りに拓けた旭川の街では、こういう大きな橋梁は、街を象徴するような存在感を放っているかもしれない。
↓嘗ては、この橋の真中に路面電車が走っていたらしい。
↓なかなかに好い風景だ。
この旭橋の場所へ行き易い宿で久し振りに過ごし、思い付いて0℃を少し切った気温の中で出てみたが、好かったと思う。
「12月」という時季、「早朝の散策」と言っても、何やら「深夜の徘徊」という雰囲気にもなるかもしれない。早朝6時前が妙に暗いのだ。
↓旭橋の辺りに至った。
↓早朝の「よい子はまねをしないでね」という具合で、この1932年竣工という橋梁の真正面の写真を撮ってしまった。
↓旭川で大変に気に入っている風景の一つだ。
↓幾つもの川が交わる辺りに拓けた旭川の街では、こういう大きな橋梁は、街を象徴するような存在感を放っているかもしれない。
↓嘗ては、この橋の真中に路面電車が走っていたらしい。
↓なかなかに好い風景だ。
この旭橋の場所へ行き易い宿で久し振りに過ごし、思い付いて0℃を少し切った気温の中で出てみたが、好かったと思う。
藤田邸…(2023.12.09)
『氷点』という小説を読んだ。小説は「辻口家の人々の物語」ということになる。そして一家の“娘”である陽子がヒロインということになるであろう。一家の主は病院長を務めている医師の辻口啓造で、<外国樹種見本林>の傍、リスも居る林が半ば庭のような場所に在る邸宅に一家が住んで居ると設定されている。
実際、<外国樹種見本林>の傍に邸宅という感じの家が在るのではない。そこは創作である。が、作中の邸宅の外観等に関してモデルとなった建物は存在する。作家の作品や人生を紹介する<三浦綾子記念文学館>のウェブサイトで話題になっているのを読んだ。
↓この建物をモデルとしたそうだ。
作中、辻口啓造の病院は父親が開いたモノで、邸宅も父親が建てたということになっている。そういう訳で、和洋の建物を組合わせたような、酒造会社を営んでいた方が1930(昭和5)年に建てたという家が好いイメージということで参考にしたのだそうだ。三浦綾子は、この家を訪ねて英語を習った経過や、催された句会に参加したということが在ったのだそうだ。
↓「なるほど!」と少し見て、直ぐに移動した。
↓右側が和風で、左側が洋風というように見える。昭和初期に邸宅という風情だ。
こういう場所を一寸見るのも、なかなかに興味深いものだ。
実際、<外国樹種見本林>の傍に邸宅という感じの家が在るのではない。そこは創作である。が、作中の邸宅の外観等に関してモデルとなった建物は存在する。作家の作品や人生を紹介する<三浦綾子記念文学館>のウェブサイトで話題になっているのを読んだ。
↓この建物をモデルとしたそうだ。
作中、辻口啓造の病院は父親が開いたモノで、邸宅も父親が建てたということになっている。そういう訳で、和洋の建物を組合わせたような、酒造会社を営んでいた方が1930(昭和5)年に建てたという家が好いイメージということで参考にしたのだそうだ。三浦綾子は、この家を訪ねて英語を習った経過や、催された句会に参加したということが在ったのだそうだ。
↓「なるほど!」と少し見て、直ぐに移動した。
↓右側が和風で、左側が洋風というように見える。昭和初期に邸宅という風情だ。
こういう場所を一寸見るのも、なかなかに興味深いものだ。