↓なかなかに人出が多い…大阪駅である。
↓こういう様子の中を進んでみた。
↓高い箇所から様子を観た。何か「街の駅」というのを通り越して「街そのもの」という様相を呈してしまっていると思った。
↓高い箇所では、大きな看板が「普通に大きい!」と見えて驚く。普段は下から見上げていて、何となく大きさが判り悪いものだ。
↓色々なモノが集まっている場所で、この種の案内表示が意外に大切だ。
↓列車が行き交う軌道が少し見える箇所が在る。
↓長大なエスカレータが幾つも組み合わさっている不思議な構造の場所である。
↓跨線橋のようになっている箇所も在って、眺めが少し面白い。
「灯りが浮かび上がる」という感の大阪駅を眺めたいというだけのことで、一寸散策に出た夕べであった。
御堂筋…:阪神百貨店(2023.12.30)
注連飾り…(2023.12.30)
阪神百貨店を望む…(2023.12.30)
少しだけ馴染んだ“天六”…=運行日誌(2023.12.30)
「何時でも御休み頂いて結構」という態勢に入っている。宿で使える部屋着に着替えて居室に在る。こうなると、出るには着替えなければならない。故に、居室で「何時でも御休み頂いて結構」ということになる訳だ。
今年の4月、大阪の天神橋筋6丁目の宿を利用した経過が在った。今般、神戸空港から「帰国」の前に大阪や京都で滞在するということを考えた。空いていた宿の中、この天神橋筋6丁目の宿を択んだ。4月に利用した際に、色々な意味で以後ことが好かった。あの時は、滞在期間中に京都を往復するというようなことをして、“北”へ引揚げる途に就く日に姫路を訪れていた。
自身として「やや異例?」なのだが、前夜は宿の居室でテレビを点けた。『必殺!仕事人』の新作2時間ドラマを愉しんだという訳だ。あの種の時代モノは愉しい。「必殺!」の場合は、「時代劇ドラマ風なファンタジー」、「“時代劇”世界を借りた、制作時期、放映時の社会の風刺」という独特な要素も色濃い。所謂“考証”というようなことを如何こう言うのは野暮という感じだ。何本も作られているこのシリーズだが、前作で主要な劇中人物が斃れてしまっているので、新たな劇中人物が登場している。非常に好かったが、未だ新しいコンテンツなので、内容には踏み込まない。
そういうことをして普通に休み、やがて普通に迎えた朝だ。「予定」としては、「大阪の宿へ」ということが在るだけだ。色々と考えたが、京都の宿に関しては、少しゆっくりと過ごしてチェックアウトをすることにした。京都でまた動き回るでもなく、発つ迄はゆったりする。そういうことに決めた。
宿の朝食を頂いた後、少し外に出た。コンビニで、居室用の飲物を求めようとした。戸外は、多分3℃程度の少しだけ冷えた感じだ。この程度なら、少し長く戸外を歩く場合には多少温かくする方が賢明かもしれない。が、「四条通で横断歩道の信号待ちをしている間に動けてしまう」という程度で訪ねられるコンビニと宿との往復なら、半袖Tシャツの上にやや記事が厚い長袖シャツ
というような、屋内風な服装で出歩いても、個人的には抵抗感が薄い。
そして居室で寛ぐこと暫しで、9時半前に宿を出た。気に入っている阪急電車に乗り、淡路駅へ移動した。そして乗換で天神橋筋六丁目駅だ。京都・大阪間の往来で、少し気に入っている経路だ。それを利用して移動したというのは、何か「小さな満足」というようなモノが沸き起こる。
今般、天神橋筋六丁目駅のロッカーに荷物を預け、大阪天満宮を訪ねてみた。と言うよりも、少し迷いながら天神橋筋の辺りを徘徊し、串カツを摘んで寛ぐ場面も設けたという感じだった。「天神橋筋」、「天満」、「天満橋」という具合に、大阪天満宮に縁が在りそうな地名が幾つも在って何やら入り混じるかのように所在しているように、自身に眼には見えた。結局…天神橋筋六丁目駅から商店街の「6丁目」に入って、そのまま「5丁目…4丁目…3丁目…2丁目…」と進んで行けば、「1丁目」の辺りで大阪天満宮の正面へ続く道と交差している場所が在るのだ。途中にあるJR天満駅の界隈でグルグルとして妙な方向に出た。変な回り道で相当に歩いたが、他方で天満駅界隈で頂いた串カツが好かった。
そんなことをして、宿に入る時間には少し間が在ったが天神橋筋六丁目駅のロッカーから荷物を引き取り、駅前のビルに入っているネットカフェで1時間余り休んだ。そこから宿に入る訳である。
宿で一息入れた後、梅田まで日没頃の街を歩いた。梅田では御堂筋辺りや大阪駅辺りを訳も判らずに歩いて景色を少し愉しんだ。そして地下鉄の東梅田駅へ、あの“ダンジョン”(大迷路)と言われる地下通路を歩き廻って、地下鉄で天神橋筋六丁目駅へ動き、宿に引揚げた訳だ。大阪に関しては、複数回利用した宿が在る場所が何箇所か在って、そういう辺りに至ると、何やら安堵感が沸き起こる。最近、天神橋筋六丁目駅辺りもそういう場所になっている感だ。
明日??朝から夜まで“自由時間”で、何を如何するのか、全く考えていない。そのうちに何か思い付くのだろう。全く、宿の居室で缶のハイボールやペットボトルのアイスコーヒー(無糖)を啜りながら、ぼんやりとしている。
今年の4月、大阪の天神橋筋6丁目の宿を利用した経過が在った。今般、神戸空港から「帰国」の前に大阪や京都で滞在するということを考えた。空いていた宿の中、この天神橋筋6丁目の宿を択んだ。4月に利用した際に、色々な意味で以後ことが好かった。あの時は、滞在期間中に京都を往復するというようなことをして、“北”へ引揚げる途に就く日に姫路を訪れていた。
自身として「やや異例?」なのだが、前夜は宿の居室でテレビを点けた。『必殺!仕事人』の新作2時間ドラマを愉しんだという訳だ。あの種の時代モノは愉しい。「必殺!」の場合は、「時代劇ドラマ風なファンタジー」、「“時代劇”世界を借りた、制作時期、放映時の社会の風刺」という独特な要素も色濃い。所謂“考証”というようなことを如何こう言うのは野暮という感じだ。何本も作られているこのシリーズだが、前作で主要な劇中人物が斃れてしまっているので、新たな劇中人物が登場している。非常に好かったが、未だ新しいコンテンツなので、内容には踏み込まない。
そういうことをして普通に休み、やがて普通に迎えた朝だ。「予定」としては、「大阪の宿へ」ということが在るだけだ。色々と考えたが、京都の宿に関しては、少しゆっくりと過ごしてチェックアウトをすることにした。京都でまた動き回るでもなく、発つ迄はゆったりする。そういうことに決めた。
宿の朝食を頂いた後、少し外に出た。コンビニで、居室用の飲物を求めようとした。戸外は、多分3℃程度の少しだけ冷えた感じだ。この程度なら、少し長く戸外を歩く場合には多少温かくする方が賢明かもしれない。が、「四条通で横断歩道の信号待ちをしている間に動けてしまう」という程度で訪ねられるコンビニと宿との往復なら、半袖Tシャツの上にやや記事が厚い長袖シャツ
というような、屋内風な服装で出歩いても、個人的には抵抗感が薄い。
そして居室で寛ぐこと暫しで、9時半前に宿を出た。気に入っている阪急電車に乗り、淡路駅へ移動した。そして乗換で天神橋筋六丁目駅だ。京都・大阪間の往来で、少し気に入っている経路だ。それを利用して移動したというのは、何か「小さな満足」というようなモノが沸き起こる。
今般、天神橋筋六丁目駅のロッカーに荷物を預け、大阪天満宮を訪ねてみた。と言うよりも、少し迷いながら天神橋筋の辺りを徘徊し、串カツを摘んで寛ぐ場面も設けたという感じだった。「天神橋筋」、「天満」、「天満橋」という具合に、大阪天満宮に縁が在りそうな地名が幾つも在って何やら入り混じるかのように所在しているように、自身に眼には見えた。結局…天神橋筋六丁目駅から商店街の「6丁目」に入って、そのまま「5丁目…4丁目…3丁目…2丁目…」と進んで行けば、「1丁目」の辺りで大阪天満宮の正面へ続く道と交差している場所が在るのだ。途中にあるJR天満駅の界隈でグルグルとして妙な方向に出た。変な回り道で相当に歩いたが、他方で天満駅界隈で頂いた串カツが好かった。
そんなことをして、宿に入る時間には少し間が在ったが天神橋筋六丁目駅のロッカーから荷物を引き取り、駅前のビルに入っているネットカフェで1時間余り休んだ。そこから宿に入る訳である。
宿で一息入れた後、梅田まで日没頃の街を歩いた。梅田では御堂筋辺りや大阪駅辺りを訳も判らずに歩いて景色を少し愉しんだ。そして地下鉄の東梅田駅へ、あの“ダンジョン”(大迷路)と言われる地下通路を歩き廻って、地下鉄で天神橋筋六丁目駅へ動き、宿に引揚げた訳だ。大阪に関しては、複数回利用した宿が在る場所が何箇所か在って、そういう辺りに至ると、何やら安堵感が沸き起こる。最近、天神橋筋六丁目駅辺りもそういう場所になっている感だ。
明日??朝から夜まで“自由時間”で、何を如何するのか、全く考えていない。そのうちに何か思い付くのだろう。全く、宿の居室で缶のハイボールやペットボトルのアイスコーヒー(無糖)を啜りながら、ぼんやりとしている。
淡路駅にて…(2023.12.30)
↓淡路駅で列車から下りた。
↑「天下茶屋行は下りた5号線でお待ちください」というアナウンスが車内で、そして駅で流れた。それを受けてその辺りに佇んでいた。
↓阪急の列車は車輛が美しいと思う。大阪梅田駅を目指して出発した様子も、何やら画になる。
↓列車は遠ざかった。
↓程無く「5号線に電車が参ります」と注意喚起のアナウンスで列車が現れた。
↓阪急では列車が着くホームを「〇号線」と呼ぶのが特徴的だが、それ以上に製造された時期も異なる様々な形式の車輛に関して、悉く丁寧に同じ色が塗られているのが際立った特徴のように思う。烏丸・淡路間で乗車した車輛と形が違う車輛だが、塗装は殆ど同じだ。こういうのも好いかもしれないと何時も思う。
この淡路駅に現れた列車は準急で、1駅通過で直ぐに天神橋筋六丁目駅に着いたのだった。
↑「天下茶屋行は下りた5号線でお待ちください」というアナウンスが車内で、そして駅で流れた。それを受けてその辺りに佇んでいた。
↓阪急の列車は車輛が美しいと思う。大阪梅田駅を目指して出発した様子も、何やら画になる。
↓列車は遠ざかった。
↓程無く「5号線に電車が参ります」と注意喚起のアナウンスで列車が現れた。
↓阪急では列車が着くホームを「〇号線」と呼ぶのが特徴的だが、それ以上に製造された時期も異なる様々な形式の車輛に関して、悉く丁寧に同じ色が塗られているのが際立った特徴のように思う。烏丸・淡路間で乗車した車輛と形が違う車輛だが、塗装は殆ど同じだ。こういうのも好いかもしれないと何時も思う。
この淡路駅に現れた列車は準急で、1駅通過で直ぐに天神橋筋六丁目駅に着いたのだった。
烏丸駅にて…(2023.12.30)
串カツ…:<七福神>:天満(2023.12.30)
烏丸から天神橋筋6丁目へ、阪急の列車を乗り継いで移動した。天神橋筋6丁目に宿を取っていて、そこに滞在する。そこでとりあえず動いたが、宿に入ることが叶う迄にやや間が在る。
天神橋筋の商店街を何気なく歩いて、何やらJR天満駅の界隈に出た。
↓こういう御店を眼に留めた。が、未だ準備中だった。後から、開店した頃を見計らって立寄ってみようと思い付いた。
↓そして辺りを巡って、再度近くを通ると御店は開店していた。
↓立ち寄った。
↓どて焼きを御願いした。
↓「七福神セット」の7点の最初のモノであるエビ餅が登場した。
↓アスパラ、タコ、キス、子持ち昆布、豚ヘレと6本の串カツだ。
↓子持ち昆布をもう1本…そして牛カツ3本セットという「定番」を頂いた。
「他所の地域の人達が勝手に作り上げたイメージ」という一面も否定はし悪いかもしれないが、「串カツ」とでも言えば凄く「大阪らしい」というようなことになるのかもしれない。大阪に着いて、早速にその「らしい」という感じの串カツを頂いた。
天神橋筋の商店街を何気なく歩いて、何やらJR天満駅の界隈に出た。
↓こういう御店を眼に留めた。が、未だ準備中だった。後から、開店した頃を見計らって立寄ってみようと思い付いた。
↓そして辺りを巡って、再度近くを通ると御店は開店していた。
↓立ち寄った。
↓どて焼きを御願いした。
↓「七福神セット」の7点の最初のモノであるエビ餅が登場した。
↓アスパラ、タコ、キス、子持ち昆布、豚ヘレと6本の串カツだ。
↓子持ち昆布をもう1本…そして牛カツ3本セットという「定番」を頂いた。
「他所の地域の人達が勝手に作り上げたイメージ」という一面も否定はし悪いかもしれないが、「串カツ」とでも言えば凄く「大阪らしい」というようなことになるのかもしれない。大阪に着いて、早速にその「らしい」という感じの串カツを頂いた。
<敦賀倉庫>…(2023.12.28)
昼にでも列車に乗って発とうと考えていたが、その前に敦賀を歩き廻ることとした。
↓港の辺りにこういう感じで倉庫が並んでいた。同じような形で大きさが違う建物が並んでいる様子が面白いと思った。
↑港町である敦賀には様々な倉庫が古くから在った。戦災で損なわれ、昭和20年代頃に港を再興しようという中で倉庫が建てられたというが、画の倉庫はその昭和20年代頃のモノであるようだ。
↓この堅牢そうなコンクリート造の倉庫は1930年代のモノであるらしい。
↓敦賀港の歩みと共に在るような倉庫群だ。
こうした倉庫を建て、運営して来た会社の歴史は1899(明治32)年に敦賀港が開港(国外との貿易を取扱う港となること)した前後辺りから起こっている。色々な機会に経営は切り替わり、会社の体裁も移ろっているようではある。が、実際にこの倉庫で貨物を扱っている様子は現在でも見受けられる。
この時の天、雲の感じの故に、少し面白い感じに見えていた倉庫群だ。
↓港の辺りにこういう感じで倉庫が並んでいた。同じような形で大きさが違う建物が並んでいる様子が面白いと思った。
↑港町である敦賀には様々な倉庫が古くから在った。戦災で損なわれ、昭和20年代頃に港を再興しようという中で倉庫が建てられたというが、画の倉庫はその昭和20年代頃のモノであるようだ。
↓この堅牢そうなコンクリート造の倉庫は1930年代のモノであるらしい。
↓敦賀港の歩みと共に在るような倉庫群だ。
こうした倉庫を建て、運営して来た会社の歴史は1899(明治32)年に敦賀港が開港(国外との貿易を取扱う港となること)した前後辺りから起こっている。色々な機会に経営は切り替わり、会社の体裁も移ろっているようではある。が、実際にこの倉庫で貨物を扱っている様子は現在でも見受けられる。
この時の天、雲の感じの故に、少し面白い感じに見えていた倉庫群だ。
からしそば…:<ハマムラ>(2023.12.29)
京都駅辺りに至ると、やや遅い昼食の時間帯だった。
あの巨大なビルには様々な御店が入居している。南西側に飲食店街が在ったのを思い出し、そこに足を運んだ。
ほんの数分、御店の前で待って席に御案内頂いた。そして「これ!」と料理を御願いした。
↓頂いたのはこの「からしそば」だ。
↓所謂「町中華」ということになるのであろう。京都の中華料理店としては老舗の<ハマムラ>が、京都駅のビルに御店を出している。
↓“からし”が利いたソースで作るあんかけ焼きそばのような感じの料理である。
「からしそば」というのは、他地域では聞かない。京都に独特なモノかもしれない。そういうのは如何でも構わないが、これがなかなかに気に入っている。
あの巨大なビルには様々な御店が入居している。南西側に飲食店街が在ったのを思い出し、そこに足を運んだ。
ほんの数分、御店の前で待って席に御案内頂いた。そして「これ!」と料理を御願いした。
↓頂いたのはこの「からしそば」だ。
↓所謂「町中華」ということになるのであろう。京都の中華料理店としては老舗の<ハマムラ>が、京都駅のビルに御店を出している。
↓“からし”が利いたソースで作るあんかけ焼きそばのような感じの料理である。
「からしそば」というのは、他地域では聞かない。京都に独特なモノかもしれない。そういうのは如何でも構わないが、これがなかなかに気に入っている。
「たばこ」…(2023.12.29)
<C55 1>:<京都鉄道博物館>(2023.12.29)
↓美しい動輪だと思う。
↓<C55 1>である。
C55形は1935年から62輛が製造されている。63輛目以降は設計変更が多岐に亘ったことから、C57形ということになっている。各地で活躍しているが、北海道でも動いていて、宗谷線の旅客列車も牽引していた。稚内辺りでも見られた型の蒸気機関車である。
↓C55形は保存例が意外に少ない。この<京都鉄道博物館>で好い状態で保存されているのが観られるのは少し嬉しい。
実は稚内にも静態保存のC55形が在ったのだが、戸外に置いていて、風雪で傷んで解体の憂き目を見ている。そんな訳でこの型の蒸気機関車には個人的な思い入れが在る。
↓左がC55形だ。右はC58形である。嘗ては北海道でも、こういう感じでC55形とC58形とが並ぶ様子が観られたかもしれない。
↑因みにC58形は431両製造されていて、一部は樺太でも使われたという。
こういう古い車輛が保存されている様子を観るというような機会を設けるのは好い。今般、思い付いて眺めに行って善かった。
↓<C55 1>である。
C55形は1935年から62輛が製造されている。63輛目以降は設計変更が多岐に亘ったことから、C57形ということになっている。各地で活躍しているが、北海道でも動いていて、宗谷線の旅客列車も牽引していた。稚内辺りでも見られた型の蒸気機関車である。
↓C55形は保存例が意外に少ない。この<京都鉄道博物館>で好い状態で保存されているのが観られるのは少し嬉しい。
実は稚内にも静態保存のC55形が在ったのだが、戸外に置いていて、風雪で傷んで解体の憂き目を見ている。そんな訳でこの型の蒸気機関車には個人的な思い入れが在る。
↓左がC55形だ。右はC58形である。嘗ては北海道でも、こういう感じでC55形とC58形とが並ぶ様子が観られたかもしれない。
↑因みにC58形は431両製造されていて、一部は樺太でも使われたという。
こういう古い車輛が保存されている様子を観るというような機会を設けるのは好い。今般、思い付いて眺めに行って善かった。
<C62 2>:<京都鉄道博物館>(2023.12.29)
<京都鉄道博物館>では、蒸気機関車を動態保存している。石炭や水を積み込んで、火を焚いて蒸気を起し、動かすことが出来るようになっている車輛が在るのだ。
↓その動態保存の蒸気機関車の1輛の<C62 2>である。
↑「SLスチーム号」と名付けて<京都鉄道博物館>の敷地の軌道で蒸気機関車を動かしている。客席が在る車輛を牽引し、入館料と別に有料でm来館者が客席に乗ることも出来る。現在、その「SLスチーム号」として動いているのが<C62 2>である。
「シロクニ」という通称も知られるC62形蒸気機関車は1948(昭和23)年から1949(昭和24)年に49輛が製造されている。当時は、貨物用の蒸気機関車が多数在ったが、貨物用総需要が減った中で旅客列車用の蒸気機関車は需要が高まるという状況が生じていた。そこで貨物用のD52形をC62に改造したのである。ボイラー以外の部分は、C57形やC59形の設計が流用されている。
↓「SLスチーム号」が動く様子を観ようと佇んでいた。蒸気が出て、動く準備が始まった。
↓そして煙も出し始めた。
↓「往年の列車」という風情だ。C62形は各地で特急列車や急行列車を牽引したことで知られる。
↑更に、、漫画やアニメの『銀河鉄道999』では、宇宙を往く特急列車を牽引する「大昔の機関車の姿」をしたメカが登場する。その「大昔の機関車の姿」がC62形そのものである。今般、<京都鉄道博物館>では所蔵するC62形に、漫画やアニメの『銀河鉄道999』に登場するマーキングを施すような展示をしていた。その一環で、この<C62 2>には<999>のヘッドマークが掲出されている。
↓やがて<C62 2>は動き始める。
↑暫くバックで運転し、やがて正面から走ってこの「SLスチーム号」の乗降場所に戻る。
↓C62形はボイラー部分が太目なためか、発する音が低く重厚だと思う。
<C62 2>は特急<つばめ>を牽引していた経過が在って、除煙板に<つばめ>のマークが取り付けられている。東海道線で稼働し、電化後に余剰となっていたが、<C62 2>は北海道へ渡る。急行<ニセコ>の牽引で知られている。
↓やがてゆっくりと<C62 2>はバックで遠ざかった。
この「蒸気機関車を動かす」というのは、「古い機械を実際に動かして見せる」という「展示」だと思う。牽引する客車に座れば「経験」を伴う「展示」ということになるであろう。今般、何か「無性に観たい…」と眺めに行ってしまった。<京都鉄道博物館>では、ローテーションで様々な蒸気機関車を「SLスチーム号」として動かしている。こういう「展示」は愉しい。
↓その動態保存の蒸気機関車の1輛の<C62 2>である。
↑「SLスチーム号」と名付けて<京都鉄道博物館>の敷地の軌道で蒸気機関車を動かしている。客席が在る車輛を牽引し、入館料と別に有料でm来館者が客席に乗ることも出来る。現在、その「SLスチーム号」として動いているのが<C62 2>である。
「シロクニ」という通称も知られるC62形蒸気機関車は1948(昭和23)年から1949(昭和24)年に49輛が製造されている。当時は、貨物用の蒸気機関車が多数在ったが、貨物用総需要が減った中で旅客列車用の蒸気機関車は需要が高まるという状況が生じていた。そこで貨物用のD52形をC62に改造したのである。ボイラー以外の部分は、C57形やC59形の設計が流用されている。
↓「SLスチーム号」が動く様子を観ようと佇んでいた。蒸気が出て、動く準備が始まった。
↓そして煙も出し始めた。
↓「往年の列車」という風情だ。C62形は各地で特急列車や急行列車を牽引したことで知られる。
↑更に、、漫画やアニメの『銀河鉄道999』では、宇宙を往く特急列車を牽引する「大昔の機関車の姿」をしたメカが登場する。その「大昔の機関車の姿」がC62形そのものである。今般、<京都鉄道博物館>では所蔵するC62形に、漫画やアニメの『銀河鉄道999』に登場するマーキングを施すような展示をしていた。その一環で、この<C62 2>には<999>のヘッドマークが掲出されている。
↓やがて<C62 2>は動き始める。
↑暫くバックで運転し、やがて正面から走ってこの「SLスチーム号」の乗降場所に戻る。
↓C62形はボイラー部分が太目なためか、発する音が低く重厚だと思う。
<C62 2>は特急<つばめ>を牽引していた経過が在って、除煙板に<つばめ>のマークが取り付けられている。東海道線で稼働し、電化後に余剰となっていたが、<C62 2>は北海道へ渡る。急行<ニセコ>の牽引で知られている。
↓やがてゆっくりと<C62 2>はバックで遠ざかった。
この「蒸気機関車を動かす」というのは、「古い機械を実際に動かして見せる」という「展示」だと思う。牽引する客車に座れば「経験」を伴う「展示」ということになるであろう。今般、何か「無性に観たい…」と眺めに行ってしまった。<京都鉄道博物館>では、ローテーションで様々な蒸気機関車を「SLスチーム号」として動かしている。こういう「展示」は愉しい。