主に地下鉄を使って街を巡っていた。
↓大阪の地下鉄で見掛けるピクトグラムだ。
↑一般的な御手洗のピクトグラムに手を入れ、御辞儀か会釈という感じにして「ようおこし」と来訪者を迎えているという形にしている。
御世話になった皆様に向けて御辞儀か会釈ということを思った年末の夕べに、こんな画が似合いそうな気がした。色々な事に感謝しながら、少しでも心豊かに暮らしてみたいと思う昨今だ。
駐輪禁止…:JR天満駅(2023.12.30)
大正駅…:長堀鶴見緑地線:大阪メトロ(2023.12.31)
1日乗車券を手に、地下鉄を利用して移動しながら散策をしていた。
↓長堀鶴見緑地線の起点・終点になっている大正駅が近付いた。
↓偶々、酷く空いていた。
↓少し独特な、小ぶりな感じがする車輛だと思う。標準軌ながら従来の車輛より断面積が小さいという。
↑長堀鶴見緑地線は1990年に開業し、1996年、1997年に延伸されている。当初から「鉄輪式リニアモーターミニ地下鉄」という車輛が導入された。日本国内で最初の例ということになったようだ。
↓大正駅に着いた。
↓今般は折り返し運転にはならず、回送となるようだった。「大正止」とホーム上の行先表示に示されている。
↓この長堀鶴見緑地線の駅というのも、デザインが好い駅が多いような気がする。
出先の街で、地下鉄を使って動き回るのは好きだ。
↓長堀鶴見緑地線の起点・終点になっている大正駅が近付いた。
↓偶々、酷く空いていた。
↓少し独特な、小ぶりな感じがする車輛だと思う。標準軌ながら従来の車輛より断面積が小さいという。
↑長堀鶴見緑地線は1990年に開業し、1996年、1997年に延伸されている。当初から「鉄輪式リニアモーターミニ地下鉄」という車輛が導入された。日本国内で最初の例ということになったようだ。
↓大正駅に着いた。
↓今般は折り返し運転にはならず、回送となるようだった。「大正止」とホーム上の行先表示に示されている。
↓この長堀鶴見緑地線の駅というのも、デザインが好い駅が多いような気がする。
出先の街で、地下鉄を使って動き回るのは好きだ。
<0607>…:グランドプラザ前:富山の路面電車(2023.12.26)
氷川神社…:大宮(2023.12.25)
「大宮」という地名は、「武蔵一宮」の雅称に由来するのだという。「武蔵一宮を擁する地域」ということで、江戸時代に辺りが「大宮宿」と呼び習わされたことが起りなのだという。
その「武蔵一宮」たる、“伝説”そのものを含むような由緒を有する氷川神社を訪ねてみたいと思っていた。大宮に到着した前日の夕刻、既に暗くなっていて按配が悪いと思ったので、朝から時間を設けて足を運んだのである。
↓荷物を大宮駅のロッカーに預けてから歩き始め、10分強でこういう看板に行き当たった。
↓大きな木に鳥居という様子で、通路が延びている。長い伝統を誇る大きな神社の参道という様相だ。
↓狛犬が迎えてくれた。吽形だ…
↓狛犬には当然ながら阿形も在る…
↓初詣の時季を控え、その準備が少しずつ進められているという様子も見受けられたが、こうやって立派な鳥居が本格的な境内の入口と示してくれている。
↓境内の木々と朝の光が醸し出す雰囲気が好い。
↓嘗て、帝国海軍の艦艇には艦名に所縁の地域の神社の紙を勧請するようなことが行われていたという。艦内に神棚を設え、艦名を冠して「〇〇神社」と号したらしい。かの戦艦<武蔵>に関しては、「武蔵一宮」たる氷川神社の神職が招かれて儀式を執り行ったのだという。そういう経過を伝える碑が境内に据えられていた。
↓橋の向こうに楼門が見える。朝の清掃も入念に行われている様子だ。
↓凄く貫禄が在る門で、暫し足を停めて見入った。
↓正面で楼門と向き合って、境内の中に歩を進めた。
↓大きな木が散在する感じが、何か面白い。
↓凄く「神社らしい…」と見入ってしまった光景だ。
凄く雰囲気の好い場所だった。縁薄かった大宮に、多少の遠回りながらも無事に着いたことに感謝と確り参拝し、御朱印を御願いした。
↓こういう具合、左側の頁に押印で書き込みをして頂いた。
↑窓口で御願いした神職の方が隣の頁を眼に留め、「あっ!?上川神社…」と反応した。実は北海道に所縁が在る方で、上川神社等に色々と御縁が在るということで、少し言葉を交わした。北海道から南下して訪ねた大宮の氷川神社で、北海道に所縁の方と出くわしたというのも強く大きな御縁だ。そういうことにも感謝しながら引揚げることになった。
↓他地域から大宮を訪ねるというようなことは余り聞かない。そしてこの氷川神社を訪ねてみたという話しも、個人的には聞いた記憶が無い。が、それはそれとして、なかなかに興味深い。
そういうことで、冬の好天という中で訪ねた氷川神社は「機会が在れば再訪…。否!再訪機会を是非設けたい」という場所に数え得るようになった。
その「武蔵一宮」たる、“伝説”そのものを含むような由緒を有する氷川神社を訪ねてみたいと思っていた。大宮に到着した前日の夕刻、既に暗くなっていて按配が悪いと思ったので、朝から時間を設けて足を運んだのである。
↓荷物を大宮駅のロッカーに預けてから歩き始め、10分強でこういう看板に行き当たった。
↓大きな木に鳥居という様子で、通路が延びている。長い伝統を誇る大きな神社の参道という様相だ。
↓狛犬が迎えてくれた。吽形だ…
↓狛犬には当然ながら阿形も在る…
↓初詣の時季を控え、その準備が少しずつ進められているという様子も見受けられたが、こうやって立派な鳥居が本格的な境内の入口と示してくれている。
↓境内の木々と朝の光が醸し出す雰囲気が好い。
↓嘗て、帝国海軍の艦艇には艦名に所縁の地域の神社の紙を勧請するようなことが行われていたという。艦内に神棚を設え、艦名を冠して「〇〇神社」と号したらしい。かの戦艦<武蔵>に関しては、「武蔵一宮」たる氷川神社の神職が招かれて儀式を執り行ったのだという。そういう経過を伝える碑が境内に据えられていた。
↓橋の向こうに楼門が見える。朝の清掃も入念に行われている様子だ。
↓凄く貫禄が在る門で、暫し足を停めて見入った。
↓正面で楼門と向き合って、境内の中に歩を進めた。
↓大きな木が散在する感じが、何か面白い。
↓凄く「神社らしい…」と見入ってしまった光景だ。
凄く雰囲気の好い場所だった。縁薄かった大宮に、多少の遠回りながらも無事に着いたことに感謝と確り参拝し、御朱印を御願いした。
↓こういう具合、左側の頁に押印で書き込みをして頂いた。
↑窓口で御願いした神職の方が隣の頁を眼に留め、「あっ!?上川神社…」と反応した。実は北海道に所縁が在る方で、上川神社等に色々と御縁が在るということで、少し言葉を交わした。北海道から南下して訪ねた大宮の氷川神社で、北海道に所縁の方と出くわしたというのも強く大きな御縁だ。そういうことにも感謝しながら引揚げることになった。
↓他地域から大宮を訪ねるというようなことは余り聞かない。そしてこの氷川神社を訪ねてみたという話しも、個人的には聞いた記憶が無い。が、それはそれとして、なかなかに興味深い。
そういうことで、冬の好天という中で訪ねた氷川神社は「機会が在れば再訪…。否!再訪機会を是非設けたい」という場所に数え得るようになった。
「打ち止め」という感…=運行日誌(2023.12.31)
天神橋筋6丁目の宿の居室に在る。日頃から気儘に暮しているとは思っているが、更なる気儘を求めて、随意に過ごす時間というようなモノを設けて、方々を巡っている。回り道を強いられるような様子ながら、当初の思惑どおりに旭川から東京へ飛び、以降は大宮や川越、富山、敦賀というように、これまで縁が薄かった街で過ごし、そこから京都に入り、大阪に至ったのである。
眠ければ眠り、起きて居たいのであれば起きて居れば善い。特段に遠慮や配意が要るのでもない。それが「休日」というモノである。正しくそういう要領で天神橋筋6丁目の宿の居室に在って夜を明かした。深く長く眠ったような、短く深く眠ったような、何やら判らない感じで暗い早朝に至ったのだった。出先では「よく在る」ということかもしれない。
朝5時台に戸外に出た。歩いて片道15分弱だと思う。大阪駅に近い地区に<大東洋>というよく知られたサウナが在る。ここへ足を運んだ。サウナは好い。ゆっくりしたと思う。朝7時台にゆっくりと宿へ引揚げ、そのまま宿で供される朝食を摂った。
思い付きで街を散策した。地下鉄の1日券は、土日祝日ということで620円と殊更に安価であった。これを主に使い、地下鉄以外は普通にICOCAを利用することにした訳だ。
地下鉄とモノレールとを乗り継いで万博記念公園迄足を運び、かの<太陽の塔>を眺めたかったが、公園が休園で近付けず、少し遠くから見るだけで終始してしまった。
やがて大正に出て<タグボート大正>を訪ねたが、以前に立寄った御店等が、訪ねた時には開いていなかった。何か食事を摂るのは諦めて辺りを歩いていて、難波へのバスを見付けて乗車してみた。
難波の辺りでお好み焼き、ソバが入ったモダン焼きを頂いた。そこから御堂筋を歩いた。三津寺という場所で参拝し、やがて難波神社に至って、そこでも参拝した。難波神社の辺り迄歩いてしまうと、地下鉄は本町駅が近い。そして本町駅に到ったが、思い付いたのは、東寄りの堺筋本町駅に行って堺筋線の列車を利用すると、乗換え無しで天神橋筋六丁目駅に着くということだった。そして東西に拡がる「船場センタービル」を眺めながら東へ進み、堺筋本町駅に到った。
天神橋筋六丁目駅に着いて、宿の居室に入ったが、居眠りに陥った。気付くと夕刻5時近かった。何となく戸外へ出た。少し静かな感じで、休んでいる御店が目立つ様子だった。回転寿司店が営業中であるのを見付けて、そこで夕食を摂った。そして宿へ引揚げている。
このまま宿の居室で寛ぐということにする。「何となく過ぎてしまった」という1年だったというような気がしている。前年は12月に色々と在って、12月31日には出先から引揚げてえ稚内の拙宅に在った。今年は出先に未だ残っているという訳だ。そういう差異は在るが、この時季に「大過なく過ごした日々」に感謝し、「生かされている」とでもいうようなことに感謝し、日々少しなりとも心豊かに暮らしてみたいという想いを新たにするという辺りに差異は無い。
自身の場合、拙宅の居室も、出先の宿の居室も「何ら変わりは無い」ということになるかもしれない。何れにしても1人で悠然と過ごすのだから。逆に言えば、他に選択の余地も無いのだが。
とりあえず2023年は「打ち止め」という感じになった…
眠ければ眠り、起きて居たいのであれば起きて居れば善い。特段に遠慮や配意が要るのでもない。それが「休日」というモノである。正しくそういう要領で天神橋筋6丁目の宿の居室に在って夜を明かした。深く長く眠ったような、短く深く眠ったような、何やら判らない感じで暗い早朝に至ったのだった。出先では「よく在る」ということかもしれない。
朝5時台に戸外に出た。歩いて片道15分弱だと思う。大阪駅に近い地区に<大東洋>というよく知られたサウナが在る。ここへ足を運んだ。サウナは好い。ゆっくりしたと思う。朝7時台にゆっくりと宿へ引揚げ、そのまま宿で供される朝食を摂った。
思い付きで街を散策した。地下鉄の1日券は、土日祝日ということで620円と殊更に安価であった。これを主に使い、地下鉄以外は普通にICOCAを利用することにした訳だ。
地下鉄とモノレールとを乗り継いで万博記念公園迄足を運び、かの<太陽の塔>を眺めたかったが、公園が休園で近付けず、少し遠くから見るだけで終始してしまった。
やがて大正に出て<タグボート大正>を訪ねたが、以前に立寄った御店等が、訪ねた時には開いていなかった。何か食事を摂るのは諦めて辺りを歩いていて、難波へのバスを見付けて乗車してみた。
難波の辺りでお好み焼き、ソバが入ったモダン焼きを頂いた。そこから御堂筋を歩いた。三津寺という場所で参拝し、やがて難波神社に至って、そこでも参拝した。難波神社の辺り迄歩いてしまうと、地下鉄は本町駅が近い。そして本町駅に到ったが、思い付いたのは、東寄りの堺筋本町駅に行って堺筋線の列車を利用すると、乗換え無しで天神橋筋六丁目駅に着くということだった。そして東西に拡がる「船場センタービル」を眺めながら東へ進み、堺筋本町駅に到った。
天神橋筋六丁目駅に着いて、宿の居室に入ったが、居眠りに陥った。気付くと夕刻5時近かった。何となく戸外へ出た。少し静かな感じで、休んでいる御店が目立つ様子だった。回転寿司店が営業中であるのを見付けて、そこで夕食を摂った。そして宿へ引揚げている。
このまま宿の居室で寛ぐということにする。「何となく過ぎてしまった」という1年だったというような気がしている。前年は12月に色々と在って、12月31日には出先から引揚げてえ稚内の拙宅に在った。今年は出先に未だ残っているという訳だ。そういう差異は在るが、この時季に「大過なく過ごした日々」に感謝し、「生かされている」とでもいうようなことに感謝し、日々少しなりとも心豊かに暮らしてみたいという想いを新たにするという辺りに差異は無い。
自身の場合、拙宅の居室も、出先の宿の居室も「何ら変わりは無い」ということになるかもしれない。何れにしても1人で悠然と過ごすのだから。逆に言えば、他に選択の余地も無いのだが。
とりあえず2023年は「打ち止め」という感じになった…
階段に「北陸新幹線」…:敦賀駅(2023.12.28)
嘗ての「北陸道」:「国道8号」:敦賀にて…(2023.12.28)
古めな建物の角…(2023.12.28)
8階の眺望…:敦賀(2023.12.28)
<義經>=7100形蒸気機関車:<京都鉄道博物館>(2023.12.29)
↓扇形蒸気機関車庫の転車台側から見て左端だ。他の機関車よりも小柄で、古風な機関車が在る。
↑機関車のメンテナンスを手掛けるような、見学者が自由に出入り出来ない箇所に在るのだが、古風な姿が酷く目立つ。
↓小樽に在る<しづか>の同型機である<義經>である。
1880年製造の1号機が<義經>(義経)、2号機が<辯慶>(弁慶)と、1882年製造の3号機が<比羅夫>、4号機が<光圀>と、1884年製造の5号機が<信廣>、1885年製造の6号機は<しづか>と各々愛称を与えられた。間隔が少し開き、1889年に2輛製造されているが、これらには愛称は冠せられていなかった。同型が計8輛在ったのだ。
「平泉で自決した」とされる源義経に関しては、現在の北海道へ落ち延び、大陸に渡って活躍したという伝説が在る。その伝説の地である北海道で活動した機関車に<義經>の名が与えられていたのだ。
↓確か小学生の頃だった。当時は神戸の工場に在った<義經>を小樽迄運んで、<しづか>と「再会」という催しが在った。“親父殿”に小樽迄連れて行って頂いて見学したというようなことを微かに憶えている。
↑序でに右奥に写っているC56については、これも小学生の頃、札幌へ運び込んで札幌・小樽間で客車を牽引するというイベント列車が運行され、未だ幼かった“賢弟”を引き連れて乗車してみた記憶も在る。
そういう個人的な思い入れも在る車輛に、こうやって京都鉄道博物館で対面出来るのは嬉しい。米国生まれで“西部劇”風という独特な風貌で北海道に現れた蒸気機関車は、神戸の工場へ行った後に大阪の博物館に入り、京都の博物館の開設時に移っているのである。
「1880年」という次元の旧い車輛は、とにかく貴重だと思う。
↑機関車のメンテナンスを手掛けるような、見学者が自由に出入り出来ない箇所に在るのだが、古風な姿が酷く目立つ。
↓小樽に在る<しづか>の同型機である<義經>である。
1880年製造の1号機が<義經>(義経)、2号機が<辯慶>(弁慶)と、1882年製造の3号機が<比羅夫>、4号機が<光圀>と、1884年製造の5号機が<信廣>、1885年製造の6号機は<しづか>と各々愛称を与えられた。間隔が少し開き、1889年に2輛製造されているが、これらには愛称は冠せられていなかった。同型が計8輛在ったのだ。
「平泉で自決した」とされる源義経に関しては、現在の北海道へ落ち延び、大陸に渡って活躍したという伝説が在る。その伝説の地である北海道で活動した機関車に<義經>の名が与えられていたのだ。
↓確か小学生の頃だった。当時は神戸の工場に在った<義經>を小樽迄運んで、<しづか>と「再会」という催しが在った。“親父殿”に小樽迄連れて行って頂いて見学したというようなことを微かに憶えている。
↑序でに右奥に写っているC56については、これも小学生の頃、札幌へ運び込んで札幌・小樽間で客車を牽引するというイベント列車が運行され、未だ幼かった“賢弟”を引き連れて乗車してみた記憶も在る。
そういう個人的な思い入れも在る車輛に、こうやって京都鉄道博物館で対面出来るのは嬉しい。米国生まれで“西部劇”風という独特な風貌で北海道に現れた蒸気機関車は、神戸の工場へ行った後に大阪の博物館に入り、京都の博物館の開設時に移っているのである。
「1880年」という次元の旧い車輛は、とにかく貴重だと思う。
マンホールの蓋…:大阪(2022.12.30)
トイレのピクトグラム…(2023.12.29)
社會油石ドーダンタス育紐=紐育スタンダード石油會社…(2023.12.28)
↓古い煉瓦造の倉庫の建物である。壁の上側に、文字が書き込まれていた痕跡が見受けられる。
↑何やら読み悪いのだが「社會油石ドーダンタス育紐」と在る。往年の「右から左へ横書き」という方式だ。「紐育(ニューヨーク)スタンダード石油會社」ということである。
倉庫の建物は1905(明治38)年に「ニューヨーク・スタンダード石油」が石油の倉庫として建てたのだという。現在は<エクソン・モービル>がこの「ニューヨーク・スタンダード石油」の流れを汲んでいるそうだ。この会社は1940(昭和40)年頃に撤退したという。その後は軍の被服倉庫として使用され、戦後には昆布の貯蔵倉庫として使われていた経過も在る場所であるという。
↓建物はこういうような感じだ。
↑現在は<敦賀赤レンガ>として利用されている。展示が在って、レストランも在るという。
少し時間が少ないと見て、中は見学しなかった。
↓明治時代後期に積まれた煉瓦である。貴重なモノだと思う。
↓脇の歩道に少し面白いオブジェが在った。
港の歴史を思わせる建物だと思う。こういうモノを眺めながら歩き廻るのは好い。
↑何やら読み悪いのだが「社會油石ドーダンタス育紐」と在る。往年の「右から左へ横書き」という方式だ。「紐育(ニューヨーク)スタンダード石油會社」ということである。
倉庫の建物は1905(明治38)年に「ニューヨーク・スタンダード石油」が石油の倉庫として建てたのだという。現在は<エクソン・モービル>がこの「ニューヨーク・スタンダード石油」の流れを汲んでいるそうだ。この会社は1940(昭和40)年頃に撤退したという。その後は軍の被服倉庫として使用され、戦後には昆布の貯蔵倉庫として使われていた経過も在る場所であるという。
↓建物はこういうような感じだ。
↑現在は<敦賀赤レンガ>として利用されている。展示が在って、レストランも在るという。
少し時間が少ないと見て、中は見学しなかった。
↓明治時代後期に積まれた煉瓦である。貴重なモノだと思う。
↓脇の歩道に少し面白いオブジェが在った。
港の歴史を思わせる建物だと思う。こういうモノを眺めながら歩き廻るのは好い。