出町柳駅の周辺を動き廻り、遅めな昼食を愉しみ、そこから移動しようとしていた。
↓眼に留まった光景だ。賀茂川と高野川の合流地点の三角地帯というような辺りである。
↑川に何となく人々が集まって、各々に身体を動かす、寛ぐというような具合に過ごしている。
所謂「鴨川デルタ」である。京都府立鴨川公園の一部ということだが、1990年代位に辺りの一部の学生等の間で「デルタ」という「三角州」を意味する呼び方が起こり、アニメ化されてヒットした小説作品の作中人物が使った用語ということで人口に膾炙するようになったと言われているようだ。古い時代には「糺河原」(ただすがわら)というような呼び方―近くの下賀茂神社の辺りに「糺の森」(ただすのもり)という場所も在る―が在って、比較的近年でも辺りの人達は単に「三角州」と称するような感じだったようだ。
↓1993年に設置されたという飛び石を伝っている人達の姿が覗く。この時は天の雲の感じ、光の加減が少し面白かった。
夕べに…(2024.01.30)
朝に…(2024.01.30)
『心の旅 敦賀への道』…(2023.12.28)
夕べに…(2024.01.29)
昼に…(2024.01.29)
荒天傾向を免れ、「普通の穏やかな休業日」という様子になっていた。それを善いとして、昼に少し出てみた。
↓昼食を摂ることも兼ねて、少しゆったりと過ごすことにする。
↓時にはこういう飲物をゆったりと頂きたくなる。
↓神戸の流儀らしいのだが、「そばめし」という一皿を頂いてみた。時にはこういうのも美味い。
↓タコの唐揚を頂いた。
↓そして白身魚のフライだ。
↓そしてパフェを頂く。
↓やがて珈琲を頂くことにし、持ち込んだ漫画を読んで寛いだ。
こういうような「休業日の昼」という感じは凄く好い。
↓昼食を摂ることも兼ねて、少しゆったりと過ごすことにする。
↓時にはこういう飲物をゆったりと頂きたくなる。
↓神戸の流儀らしいのだが、「そばめし」という一皿を頂いてみた。時にはこういうのも美味い。
↓タコの唐揚を頂いた。
↓そして白身魚のフライだ。
↓そしてパフェを頂く。
↓やがて珈琲を頂くことにし、持ち込んだ漫画を読んで寛いだ。
こういうような「休業日の昼」という感じは凄く好い。
かなり旧い建物…「であった」場所…(2024.01.29)
時々利用するコインランドリーの辺りで、「何となく眼が向く」という場所が在った。
2022年7月に注目した、使われなくなって久しいと見受けられる、やや傷み方が激しい旧い建物が在った。2023年10月には「崩れかかっている?」という様子になり、2023年12月に至って辺りは雪を被り始めた。
「そう言えば、如何いう様子になっているのだろうか?」と思い出し、近くに至ったので歩み寄ってみた。
↓こういう様子になっていた。
↓「老朽化による半壊」という様相であった旧い建物について、「取壊し」というように決めた様子だ。「立入を御遠慮願う」のコーンも配置されている。
関与した多くの人達を見詰め続けた建物は使われなくなり、過ぎて行く時間の中で傷み、壊れてしまったような中で取壊しが進む。その歩みが終焉に向かおうという様子だ。多分、取壊しの後は空地になるであろうが、その空地が如何なるかは想像し難い。
2022年7月に注目した、使われなくなって久しいと見受けられる、やや傷み方が激しい旧い建物が在った。2023年10月には「崩れかかっている?」という様子になり、2023年12月に至って辺りは雪を被り始めた。
「そう言えば、如何いう様子になっているのだろうか?」と思い出し、近くに至ったので歩み寄ってみた。
↓こういう様子になっていた。
↓「老朽化による半壊」という様相であった旧い建物について、「取壊し」というように決めた様子だ。「立入を御遠慮願う」のコーンも配置されている。
関与した多くの人達を見詰め続けた建物は使われなくなり、過ぎて行く時間の中で傷み、壊れてしまったような中で取壊しが進む。その歩みが終焉に向かおうという様子だ。多分、取壊しの後は空地になるであろうが、その空地が如何なるかは想像し難い。
波止場横丁の夕べ…(2024.01.28)
休業日にふらりと歩き、サウナに立寄って、道草をするというようなことが、荒天になると簡単には出来なくなってしまう。そういう程度の荒天を免れた休業日というのが、何やら酷く嬉しかった。
↓サウナを利用した後に道草である。
↑最近になって「午後4時台」が明るめになったということに思い至るようになった。季節は着実に動いている。
↓馴染んだ暖簾を潜る。
↓着席してハイボールを頂く。
↓御通しのチクワを摘まむ。
↓ポークソテーを御願いした。こういうのが美味い。
↓そして手作りの餃子も頂いた。
↓些かの時間経過で、何歩か移動した。
↓こちらの御店では「殊更に好む飲物」ということになっている<さくら白波>を頂いて寛いだ。
↑通常は「25度」だが、この「ペット容器」は「そのまま飲み易い」というように「12度」の「水割り状態」なので、本当に飲み易い。
極々軽く、文字どおりに1杯か2杯飲むという意図であったが、居合わせた皆さんと話して話しが弾み、何となくやや長めに寛いだ。
こういう具合で休業日の夕べに寛ぐのも愉しい。
↓サウナを利用した後に道草である。
↑最近になって「午後4時台」が明るめになったということに思い至るようになった。季節は着実に動いている。
↓馴染んだ暖簾を潜る。
↓着席してハイボールを頂く。
↓御通しのチクワを摘まむ。
↓ポークソテーを御願いした。こういうのが美味い。
↓そして手作りの餃子も頂いた。
↓些かの時間経過で、何歩か移動した。
↓こちらの御店では「殊更に好む飲物」ということになっている<さくら白波>を頂いて寛いだ。
↑通常は「25度」だが、この「ペット容器」は「そのまま飲み易い」というように「12度」の「水割り状態」なので、本当に飲み易い。
極々軽く、文字どおりに1杯か2杯飲むという意図であったが、居合わせた皆さんと話して話しが弾み、何となくやや長めに寛いだ。
こういう具合で休業日の夕べに寛ぐのも愉しい。
ナポリタン…(2024.01.28)
昼頃に…(2024.01.29)
朝に…(2024.01.27)
昼に…(2024.01.26)
延々と続いた風雪は少し落着きを見せ始めていた。が、道路の除雪等が追い付いていない箇所も見受けられるとして早朝から路線バスの「運行見合わせ」が少し続いた。一部は午前中から復旧したが、「見合わせ」が続いてしまった箇所も見受けられた。
そういう様子になってしまっていたので、拙宅で長閑に過ごすようなことにした。そして「天候が落ち着いて来た…」と昼頃に戸外へ出てみた。
↓前日の荒天の中で営業していた御店は、この時は「何事も無い普通の日」という様子で営業中だった。
↓立寄って、ハンバーグカレーを頂いた。
↓なかなかに大きなハンバーグだ。米飯は少し少な目というように御願いしたが、なかなかの量感在る昼食となった。
荒天で動き悪い様子が続き、拙宅で何となく在ったモノ―求めた時期が曖昧なカップの即席麺や缶詰等―を頂くという様子が続き、その合間に営業している場所を見出して外食が交った感だった。
そういう様子になってしまっていたので、拙宅で長閑に過ごすようなことにした。そして「天候が落ち着いて来た…」と昼頃に戸外へ出てみた。
↓前日の荒天の中で営業していた御店は、この時は「何事も無い普通の日」という様子で営業中だった。
↓立寄って、ハンバーグカレーを頂いた。
↓なかなかに大きなハンバーグだ。米飯は少し少な目というように御願いしたが、なかなかの量感在る昼食となった。
荒天で動き悪い様子が続き、拙宅で何となく在ったモノ―求めた時期が曖昧なカップの即席麺や缶詰等―を頂くという様子が続き、その合間に営業している場所を見出して外食が交った感だった。
難波神社…(2023.12.31)
難波から本町の辺り迄、御堂筋を歩いてみた。「12月31日」というのは、賑やかなような、静かなような、何か微妙な空気感だと思いながら歩を進めた。
↓難波神社に至った。
↓仁徳天皇(にんとくてんのう)を祭神とし、素盞嗚尊(すさのおのみこと)を配祀している。加えて境内に博労稲荷社を擁し、倉稲魂尊(うかのみたまのみこと)を祀る。その旨が記されている。
↑倉稲魂尊(うかのみたまのみこと)というのは、稲荷社に祀られる稲荷神のことである。
この社の起こりは相当に古いようだが、943(天慶3)年には現在の天王寺区上本町に鎮座していたという。1597(慶長2)年には豊臣秀吉から立退料が支払われ、現在地に遷座したという。
やがて「大坂夏の陣」の後、境内地の多くが幕府に没収されたという。江戸時代には、仁徳天皇等を祀る神社というよりも、「博労稲荷社」として知られ、人々に親しまれていたようだ。商家の多かった船場―地下鉄の本町駅や堺筋本町駅の周辺地域という―が近いことから、商家の関係者の間で、商売に御利益が在るという「稲荷社」として篤い信仰の対象となったようだ。
明治期には「府社」に列せられる。1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまい、1974(昭和49)年に再建されている。
↓「街のど真ん中」というような場所だが、この鳥居の中は少し静かな「神社らしい」という雰囲気が溢れていると思う。
↓明治期に列せられた「府社」と明記されている。
↓空襲で損なわれ、少し長い年月を経て再建が成った社殿だ。
↑大阪で好い時間を過ごしていたこと、無事に2023年が過ぎようとしていたことに感謝の意を表しながら参拝した。
↓境内の木だが、空襲による大火災の中を生き残ったと伝えられる。大変に貴重な木だ。
↓この木を暫し見入っていた。
↓「初詣」の参拝者を迎える時が近付いており、こういう干支の画の様々な飾りが辺りには見受けられた。
こういうような、広壮な公園というような様相でもない境内ながら、街中で存在感を放つという社が、何か凄く好い。
↓難波神社に至った。
↓仁徳天皇(にんとくてんのう)を祭神とし、素盞嗚尊(すさのおのみこと)を配祀している。加えて境内に博労稲荷社を擁し、倉稲魂尊(うかのみたまのみこと)を祀る。その旨が記されている。
↑倉稲魂尊(うかのみたまのみこと)というのは、稲荷社に祀られる稲荷神のことである。
この社の起こりは相当に古いようだが、943(天慶3)年には現在の天王寺区上本町に鎮座していたという。1597(慶長2)年には豊臣秀吉から立退料が支払われ、現在地に遷座したという。
やがて「大坂夏の陣」の後、境内地の多くが幕府に没収されたという。江戸時代には、仁徳天皇等を祀る神社というよりも、「博労稲荷社」として知られ、人々に親しまれていたようだ。商家の多かった船場―地下鉄の本町駅や堺筋本町駅の周辺地域という―が近いことから、商家の関係者の間で、商売に御利益が在るという「稲荷社」として篤い信仰の対象となったようだ。
明治期には「府社」に列せられる。1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまい、1974(昭和49)年に再建されている。
↓「街のど真ん中」というような場所だが、この鳥居の中は少し静かな「神社らしい」という雰囲気が溢れていると思う。
↓明治期に列せられた「府社」と明記されている。
↓空襲で損なわれ、少し長い年月を経て再建が成った社殿だ。
↑大阪で好い時間を過ごしていたこと、無事に2023年が過ぎようとしていたことに感謝の意を表しながら参拝した。
↓境内の木だが、空襲による大火災の中を生き残ったと伝えられる。大変に貴重な木だ。
↓この木を暫し見入っていた。
↓「初詣」の参拝者を迎える時が近付いており、こういう干支の画の様々な飾りが辺りには見受けられた。
こういうような、広壮な公園というような様相でもない境内ながら、街中で存在感を放つという社が、何か凄く好い。
夕べに…(2024.01.24)
強風と降雪が交る状態が執拗な迄に続いていた。「小康状態?」と言って差し支えないのか、そう呼ぶに値しない程度の「少しばかり風が弱まる間隙」というのは見受けられた。が「荒天基調」なままだ。
↓降る雪が酷く多いというようには感じないが、何やら吹溜りが凄い。御近所の御店の看板が埋まっている。が、灯りは確り点いていた。
↓とりあえず営業中なので立寄った。
↓気に入っている唐揚を頂いた。
↓気分が沈みがちになる荒天な日には、ビーフカレーというようなモノが好いと思って頂いた。
↓デザート感覚で、色々と薬味を載せた冷奴を頂いた。
荒天になると、食事を供するような場所等、関係者が動き悪くなる場合も在って、臨時休業を余儀なくされてしまう例も見受けられる。それでも店舗前の出入り等が確保される限り営業しようとしてくれる有難い御店も在る。
普通の活動が妨げられる場合も在り得るという次元の荒天が、概ね1週間に亘って継続したというような例は、冬季の天候が好くない地域とは言え、少しばかり珍しいかもしれない。そういうことも思いながら、荒天の夕べに愉しんだ「御気に入り」を振り返っていた。
↓降る雪が酷く多いというようには感じないが、何やら吹溜りが凄い。御近所の御店の看板が埋まっている。が、灯りは確り点いていた。
↓とりあえず営業中なので立寄った。
↓気に入っている唐揚を頂いた。
↓気分が沈みがちになる荒天な日には、ビーフカレーというようなモノが好いと思って頂いた。
↓デザート感覚で、色々と薬味を載せた冷奴を頂いた。
荒天になると、食事を供するような場所等、関係者が動き悪くなる場合も在って、臨時休業を余儀なくされてしまう例も見受けられる。それでも店舗前の出入り等が確保される限り営業しようとしてくれる有難い御店も在る。
普通の活動が妨げられる場合も在り得るという次元の荒天が、概ね1週間に亘って継続したというような例は、冬季の天候が好くない地域とは言え、少しばかり珍しいかもしれない。そういうことも思いながら、荒天の夕べに愉しんだ「御気に入り」を振り返っていた。
昼に…(2024.01.22)
休業日であった。午前中に映画館へ足を運んだが、昼の時点で荒天傾向が始まっていた。やや離れた場所へ出ることを断念し、御近所を歩き廻って昼食を摂る場所を探してみることにした。
↓降雪が交る強風という様子で、降り積もったような、吹き溜まったような雪で辺りが覆われるような様子が見受けられた。
↓「営業中」である。こちらに立寄った。
↓ハイボールを御願いして、飲んで寛ぎながら料理の登場を待った。
↓チキンソテーを御願いした。
↓適当にナイフで切って、独特なソースの鶏肉を美味しく頂いた。
↓食後に珈琲も頂いた。
御近所の、かなり長い経過が在る御店で時々立寄る場所だ。好い時間を過ごした。
後から振り返ると、前日の日曜日夕刻には些かの強風という様子は見受けられたが、この月曜日辺りから降雪も交る様子が断続的に続くような感じになった。降雪と強風が入り交じる荒天は木曜日まで継続し、金曜日も吹き溜まり等の影響が残ってしまっていた。交通の乱れの一部は土曜日に至っても残っている。
そうした「記憶」を記録に留めるべく、この月曜日の昼の様子を思い出していた。
↓降雪が交る強風という様子で、降り積もったような、吹き溜まったような雪で辺りが覆われるような様子が見受けられた。
↓「営業中」である。こちらに立寄った。
↓ハイボールを御願いして、飲んで寛ぎながら料理の登場を待った。
↓チキンソテーを御願いした。
↓適当にナイフで切って、独特なソースの鶏肉を美味しく頂いた。
↓食後に珈琲も頂いた。
御近所の、かなり長い経過が在る御店で時々立寄る場所だ。好い時間を過ごした。
後から振り返ると、前日の日曜日夕刻には些かの強風という様子は見受けられたが、この月曜日辺りから降雪も交る様子が断続的に続くような感じになった。降雪と強風が入り交じる荒天は木曜日まで継続し、金曜日も吹き溜まり等の影響が残ってしまっていた。交通の乱れの一部は土曜日に至っても残っている。
そうした「記憶」を記録に留めるべく、この月曜日の昼の様子を思い出していた。
吹き溜まり…(2024.01.23)
昼に…(2024.01.25)
酷い強風に降雪が交り、市内線の路線バスも運休となってしまった日だった。他地域とを結ぶ各種の交通も軒並み動いていない日だった。動き悪く、無理に動いても危険なので、拙宅で長閑に過ごしていた。
そんな日の昼頃、何となく御近所に出てみた。
↓関係者も動き悪いという様子で休業している御店等が目立ったのだが、それでも営業している御店を見付けた。
↑立寄ってみた。
↓戸外の強風と無関係に、中は静かで穏やかに寛ぐことが叶った。
↓カツカレーをゆったりと頂いた。
↑米飯は少な目ということで御願いした。それでも十分な量感の昼食となった。
この日は、強風の他方で降雪は然程多いのでもなかった。この前日は少し降雪も多く、もっと視界が悪かった。立寄った御店の方と少し言葉を交わしたが、視界が悪かった前日は御店を休み、この日は何とか出来そうだと考えたのだそうだ。他にも存外に来店客が見受けられる様子であった。
荒天でも営業という感じは嬉しい。
そんな日の昼頃、何となく御近所に出てみた。
↓関係者も動き悪いという様子で休業している御店等が目立ったのだが、それでも営業している御店を見付けた。
↑立寄ってみた。
↓戸外の強風と無関係に、中は静かで穏やかに寛ぐことが叶った。
↓カツカレーをゆったりと頂いた。
↑米飯は少な目ということで御願いした。それでも十分な量感の昼食となった。
この日は、強風の他方で降雪は然程多いのでもなかった。この前日は少し降雪も多く、もっと視界が悪かった。立寄った御店の方と少し言葉を交わしたが、視界が悪かった前日は御店を休み、この日は何とか出来そうだと考えたのだそうだ。他にも存外に来店客が見受けられる様子であった。
荒天でも営業という感じは嬉しい。
「特殊簡易公衆電話」=所謂「ピンク電話」…(2024.01.21)
休業日に一寸出掛けて、バスに乗車して引揚げようとしていた。
潮見5丁目停留所の辺りに、バス会社の窓口が設けられ、待合室も在る小さな建物が在る。乗車するバスを待つ間、少々寛ごうとした。
↓そしてこんなモノを眼に留めた。
↑「ダイヤル式」な電話機だ。
↓受話器を取って、10円硬貨を投入し、ダイヤルを回して架電である。
↑これが「特殊簡易公衆電話」というモノだ。色に因んで「ピンク電話」とも呼ばれる。店舗の運営者等が設置するモノであるが、公衆電話の料金が適用される。そして通信事業者からの請求を受けて、設置者が通話料金を支払うのである。
↓こんな風に設置されていた。
「ダイヤル式」な電話機は、最近は余り見掛けない。この「特殊簡易公衆電話」についても、色々と新しい機器が登場していて、最近はその新しいモノが主流だと思う。久し振りに見掛けて少し驚き、そして写真に収めてしまった。
潮見5丁目停留所の辺りに、バス会社の窓口が設けられ、待合室も在る小さな建物が在る。乗車するバスを待つ間、少々寛ごうとした。
↓そしてこんなモノを眼に留めた。
↑「ダイヤル式」な電話機だ。
↓受話器を取って、10円硬貨を投入し、ダイヤルを回して架電である。
↑これが「特殊簡易公衆電話」というモノだ。色に因んで「ピンク電話」とも呼ばれる。店舗の運営者等が設置するモノであるが、公衆電話の料金が適用される。そして通信事業者からの請求を受けて、設置者が通話料金を支払うのである。
↓こんな風に設置されていた。
「ダイヤル式」な電話機は、最近は余り見掛けない。この「特殊簡易公衆電話」についても、色々と新しい機器が登場していて、最近はその新しいモノが主流だと思う。久し振りに見掛けて少し驚き、そして写真に収めてしまった。
宵の風情…(2024.01.24)
夕刻:大黒3丁目停留所周辺…(2024.01.24)
普段より少しだけ早めな時間帯にバスで移動しようということになり、バス停へ向かった。
歩き易い場所が殆ど無い。積雪が推し固まってガタガタになっているような車道の端を慎重に歩く他無かった。歩道は吹き溜まった雪で覆われている場合が殆どだった。朝からの「降雪+吹溜り」が日中に進行してしまっているという様相だった。
↓車道側を廻り込んでバス停辺りに至った。歩道の吹溜りが凄い。脚を踏み入れれば膝の辺り迄が雪に埋まりそうな深さの吹溜りになっていた。
↓些かの降雪、風に舞う雪という中、それでもバスは走っていた。
↓様々な交通機関が運休し、街を動き回る配達関係で「荒天により休止」の例も生じていた様子だが、それでも市内線のバスは動いていた。
やって来たバスに乗り、拙宅に近い辺りの停留所まで乗車しながら、このバスは有難いと思っていた。
歩き易い場所が殆ど無い。積雪が推し固まってガタガタになっているような車道の端を慎重に歩く他無かった。歩道は吹き溜まった雪で覆われている場合が殆どだった。朝からの「降雪+吹溜り」が日中に進行してしまっているという様相だった。
↓車道側を廻り込んでバス停辺りに至った。歩道の吹溜りが凄い。脚を踏み入れれば膝の辺り迄が雪に埋まりそうな深さの吹溜りになっていた。
↓些かの降雪、風に舞う雪という中、それでもバスは走っていた。
↓様々な交通機関が運休し、街を動き回る配達関係で「荒天により休止」の例も生じていた様子だが、それでも市内線のバスは動いていた。
やって来たバスに乗り、拙宅に近い辺りの停留所まで乗車しながら、このバスは有難いと思っていた。
朝に…(2024.01.24)
万博記念公園駅周辺…(2023.12.31)
一心寺 三千佛堂…(2024.01.01)
一心寺の境内から天王寺駅へ通じる道路へ向かおうとした。
↓通りから半ば見えるような様子に少し驚かされた。
外側で十二神将と千躰佛を並べた堂の中に弥陀三尊図を祀っているのだという。戦禍で損なわれた堂であったが、時を経て2002(平成14)年、通に面して参拝し易い形で改めて起こした堂であるということだ。
↓専用の蝋燭を求め、点火専用ライターを拝借して御参りした。専用蝋燭は慎重に見ずに浮かべるような形になっている。浮かべて点火する訳だ。愛用の、煙草を点けるライターでは火を点け悪い。
↑大阪で好い時間を過ごせていることに感謝の意を表した。
↓長い伝統を汲む古刹ということになるが、それ以上に多くの人達の信心の拠所であり、色々と文化活動が展開されているような様子が興味深い。
この一心寺、並びに三千佛堂については、大阪から引揚げて程無く「再訪を希望…」と頭の中に思い浮かぶようになった。
↓通りから半ば見えるような様子に少し驚かされた。
外側で十二神将と千躰佛を並べた堂の中に弥陀三尊図を祀っているのだという。戦禍で損なわれた堂であったが、時を経て2002(平成14)年、通に面して参拝し易い形で改めて起こした堂であるということだ。
↓専用の蝋燭を求め、点火専用ライターを拝借して御参りした。専用蝋燭は慎重に見ずに浮かべるような形になっている。浮かべて点火する訳だ。愛用の、煙草を点けるライターでは火を点け悪い。
↑大阪で好い時間を過ごせていることに感謝の意を表した。
↓長い伝統を汲む古刹ということになるが、それ以上に多くの人達の信心の拠所であり、色々と文化活動が展開されているような様子が興味深い。
この一心寺、並びに三千佛堂については、大阪から引揚げて程無く「再訪を希望…」と頭の中に思い浮かぶようになった。
一心寺…(2024.01.01)
動物園前駅の辺りに求めた宿で過ごす夕べに向け、駅のロッカーに似持ちを預けて動き廻ることとした。そして天王寺駅の界隈に至り、辺りを歩き廻った。
↓天王寺駅から、辺りの地名の由来になっているらしい四天王寺へ向かう道筋の途中、少し入った辺りに少し不思議な感じのモノが在る。
↓少し「前衛芸術?」という風ではあるが、これは寺の門に見受けられる金剛力士像である。画は“阿形”だ。
↓そしてこちらは“吽形”である。これは一心寺の門だ。
↓正月の門松が飾られていたが、一心寺は大勢の参拝者で賑わっていた。
一心寺は1185(文治元)年い法然上人が開いたと伝わる古刹である。法然上人は草庵を結んで「日想観」、夕陽を見ながら極楽浄土を観想するという「観無量寿経」に説かれる修法に勤しんだのだという。やがて草庵が一心寺になって行った。
所謂「大坂冬の陣」では、徳川家康の本陣が布かれたのはこの一心寺の辺りであったという。以降、江戸時代を通じて盛んな活動が続いた寺である。明治20年に「御骨佛」の造立を手掛け、以降は「御骨佛の寺」として広く信仰を集めた。
第2次大戦期の戦禍で、この寺の伽藍等は大きく損なわれてしまったが、戦後に再建が行われて現在に至っている。そういう中で、大胆なデザインの像を備えた門等が登場している。
↓酷く賑わう境内を歩き廻った。
↓幾つかの御堂で手を合わせた。
↓屋根の瓦の一部が、低い場所に飾られていて、少し興味深く眺めた。
↓何か凄く「有難い場所」に足を踏み入れたような気もした。
事前に知識が在ったのでもないが、法然上人が修法に励んだ草庵を起源とする古刹に出くわし、多くの人達の信心の拠所になっているという場所の初春の雰囲気の中で少し過ごすことが叶ったのは大変に幸いだった。
↓天王寺駅から、辺りの地名の由来になっているらしい四天王寺へ向かう道筋の途中、少し入った辺りに少し不思議な感じのモノが在る。
↓少し「前衛芸術?」という風ではあるが、これは寺の門に見受けられる金剛力士像である。画は“阿形”だ。
↓そしてこちらは“吽形”である。これは一心寺の門だ。
↓正月の門松が飾られていたが、一心寺は大勢の参拝者で賑わっていた。
一心寺は1185(文治元)年い法然上人が開いたと伝わる古刹である。法然上人は草庵を結んで「日想観」、夕陽を見ながら極楽浄土を観想するという「観無量寿経」に説かれる修法に勤しんだのだという。やがて草庵が一心寺になって行った。
所謂「大坂冬の陣」では、徳川家康の本陣が布かれたのはこの一心寺の辺りであったという。以降、江戸時代を通じて盛んな活動が続いた寺である。明治20年に「御骨佛」の造立を手掛け、以降は「御骨佛の寺」として広く信仰を集めた。
第2次大戦期の戦禍で、この寺の伽藍等は大きく損なわれてしまったが、戦後に再建が行われて現在に至っている。そういう中で、大胆なデザインの像を備えた門等が登場している。
↓酷く賑わう境内を歩き廻った。
↓幾つかの御堂で手を合わせた。
↓屋根の瓦の一部が、低い場所に飾られていて、少し興味深く眺めた。
↓何か凄く「有難い場所」に足を踏み入れたような気もした。
事前に知識が在ったのでもないが、法然上人が修法に励んだ草庵を起源とする古刹に出くわし、多くの人達の信心の拠所になっているという場所の初春の雰囲気の中で少し過ごすことが叶ったのは大変に幸いだった。
道頓堀…(2023.12.31)
朝に…(2024.01.23)
押しボタン…:朝の横断歩道にて(2024.01.23)
夕べに…(2024.01.22)
休業日なのだが、昼頃には既に「無理に出歩かないのが好かろう…」という様子になっていた。そんな訳で、拙宅で昼寝も交るゆったりとした午後を過ごした。
↓夕刻に食事を摂りたいと戸外へ出てみた。御近所の御店に灯りは見えたが、降雪と地吹雪とが入り交じった様子であった。
↓営業中であったので御邪魔した。
↓シーザーサラダを頂いた。
↓玉子焼きも時には好い。
↓手前の豚串に奥の鳥串を愉しむ。
↓鰊切込を摘まむ。
↓タコめしが外せない。
↓暫し寛いだ後、塩辛を使った御茶漬けを頂いた。
夕食を愉しんでいた間、降雪と強風で、何やら「雪が酷く吹溜りになって…」という様相が戸外では展開していた。そういうことで、やや増えた雪の中を慎重な足取りで引揚げたのだった。
↓夕刻に食事を摂りたいと戸外へ出てみた。御近所の御店に灯りは見えたが、降雪と地吹雪とが入り交じった様子であった。
↓営業中であったので御邪魔した。
↓シーザーサラダを頂いた。
↓玉子焼きも時には好い。
↓手前の豚串に奥の鳥串を愉しむ。
↓鰊切込を摘まむ。
↓タコめしが外せない。
↓暫し寛いだ後、塩辛を使った御茶漬けを頂いた。
夕食を愉しんでいた間、降雪と強風で、何やら「雪が酷く吹溜りになって…」という様相が戸外では展開していた。そういうことで、やや増えた雪の中を慎重な足取りで引揚げたのだった。