夕刻、路線バスで移動しようと停留所を目指した。
↓降雪か地吹雪か判然としない、顔に当たる粒子が細かい雪の中、吹き溜まりで雪を漕ぐ状態になっている歩道は進み悪いと考え、車道の端を慎重に進んで停留所に至った。
↓少し向こうにバスの姿が認められると、強く安堵感を覚えるというような感じだった。
↓乗車しようと待っていたバスで間違いない。
↓こんな中でも運行中という街の路線バスは非常に有難い存在だ。
公衆電話ボックス…(2024.01.21)
波止場横丁の夕べ…(2024.01.21)
↓サウナを利用した後、午後5時台から道草である。
↓御店が並ぶ中、何となく択んで御邪魔する。
↓立寄った御店で、ハイボールを頂きながらドテ煮とキムチとを摘まむ。
↓大阪の流儀のドテ煮が凄く気に入っている。
↓大阪の鶴橋の御店で採用されている仕様のキムチも美味しい。
↓レモンサワーに飲物を切替えた。
↓鶏モモ…
↓ラム…
↓豚バラ新ショウガ…
↓ウズラ…
各種の串カツを摘まんで少し寛いだ。
御店で、拙宅の近隣の宿泊施設に滞在されているという他地域の方達と出くわした。その辺の距離になると、道路状態の好くない事と相俟って、大概はタクシー等で移動するという話題になった。そんな時、「“例外的”にシーズンを問わずに歩く人が…」ということになった。それは自身に他ならない。通り掛ったタクシーを利用という場合も無くはないが、寧ろタクシーに出くわさない場合が多いので、歩く場合が自ずと多くなる。この日も…歩いて引揚げた。
↓御店が並ぶ中、何となく択んで御邪魔する。
↓立寄った御店で、ハイボールを頂きながらドテ煮とキムチとを摘まむ。
↓大阪の流儀のドテ煮が凄く気に入っている。
↓大阪の鶴橋の御店で採用されている仕様のキムチも美味しい。
↓レモンサワーに飲物を切替えた。
↓鶏モモ…
↓ラム…
↓豚バラ新ショウガ…
↓ウズラ…
各種の串カツを摘まんで少し寛いだ。
御店で、拙宅の近隣の宿泊施設に滞在されているという他地域の方達と出くわした。その辺の距離になると、道路状態の好くない事と相俟って、大概はタクシー等で移動するという話題になった。そんな時、「“例外的”にシーズンを問わずに歩く人が…」ということになった。それは自身に他ならない。通り掛ったタクシーを利用という場合も無くはないが、寧ろタクシーに出くわさない場合が多いので、歩く場合が自ずと多くなる。この日も…歩いて引揚げた。
回転寿司…(2024.01.21)
昼頃に…(2024.01.21)
宵に…:中央商店街(2024.01.21)
宵の風情…(2024.01.22)
休業日の朝から天候は優れなかった。それはそれとして、朝から映画を愉しむというような過ごし方で、以降は何処かへ出るのでもなく、拙宅で長閑に過ごしていた。
↓迎えた夕刻に戸外へ出てみた。
↑雪が多く降り積もるというのか、多少の降雪が風に舞うというのか、何やら酷く「吹いている」という様相だ。
こういう感じも非常に「当地らしい」というように思う。
↓迎えた夕刻に戸外へ出てみた。
↑雪が多く降り積もるというのか、多少の降雪が風に舞うというのか、何やら酷く「吹いている」という様相だ。
こういう感じも非常に「当地らしい」というように思う。
映画館へ…(2024.01.22)
休業日の朝、興味を持っている映画の上映が行われている期間であることを思い出した。朝から…やや天候が優れない中、稚内駅のビルに入っている映画館を訪ねてみた。
↓この階段を上がるのは?映画館を訪ねる場合に限られてしまうかもしれない。
↓朝の上映は混み合っているのでもなかった。
↓3つのスクリーンを備える映画館だ。
↓一番乗りで中に入った。
↓「眼前にスクリーンで他は一切眼に入らない」というような辺りに陣取ることを近年は好むようになった。
↓大変に愉しく観た映画の予告編である。
↓パンフレットを求めてしまった。
↓上映後に道草したカフェでゆっくりとパンフレットを愉しく読んだ。
時にはこういうように映画を愉しむのも好い。荒天とは然程関係無く愉しめるのは好い。
↓この階段を上がるのは?映画館を訪ねる場合に限られてしまうかもしれない。
↓朝の上映は混み合っているのでもなかった。
↓3つのスクリーンを備える映画館だ。
↓一番乗りで中に入った。
↓「眼前にスクリーンで他は一切眼に入らない」というような辺りに陣取ることを近年は好むようになった。
↓大変に愉しく観た映画の予告編である。
↓パンフレットを求めてしまった。
↓上映後に道草したカフェでゆっくりとパンフレットを愉しく読んだ。
時にはこういうように映画を愉しむのも好い。荒天とは然程関係無く愉しめるのは好い。
富山の眺望…:富山市役所(2023.12.26)
頻繁に立寄るのでもない他地域の街へ足を運び、随意に過ごすような時間が在った時、「少し高い場所から街を眺めてみたい」という程度のことを思う場合も在る。
そういう場合には「展望台」として知られる高台や、「展望施設」として知られる建物を訪ねてみる。「展望施設」として知られる建物に関しては、街中の一定程度便利な場所に在る例も少なくない。入場料を払って入る施設も色々と在るのだが、特段に入場料を求められない場合も見受けられる。
入場料を求められない例として思い当たるのは、「自治体等の庁舎」という例だ。少し目立つ背が高い設えの建物の上層部に出入出来るようになっていて、そこからの眺望を愉しむ事が叶う訳だ。
富山の街に関しては、富山市役所にそういう眺望を愉しむことが叶う場所が設けられていると聞いていた。朝から色々と動き廻り、午後に宿の居室で一息入れていた時、「早めな夕食の前に富山市役所へ」という程度に思い付いて街へ出た。
富山という街は、古くから海路や陸路の交通の要衝で、戦国時代に城も築かれていて、江戸時代には北陸に大きな知行地を有した前田家の分家が在って、その城下町というような経過も在った場所だと思う。明治期以降は、嘗ては城であった辺り等が官公署やオフィス街になっていると見受けられる。実はその城であった辺りも昼前に動き廻ったが、「展望施設というような風情も在る高層建築」という程度の何かが目立っていたというようにも見受けられなかった。
そういう程度のことを考えながら路面電車で移動し、地図で確かめていた富山市役所を探した。
↓これが富山市役所の本庁舎なのだという。
↑四角いビルの真中に突き出た塔が在る。この塔に上ると展望室が在るようだ。
↓とりあえず平日の午後の開庁となっている時間帯なので、普通に出入りは可能だ。
↓中に入ると、地上階から屋上の側迄、広壮な吹き抜けが設えられている。少し見上げて見入ってしまった。
↓エレベータの中の1基が「展望塔」という場所へ通じている。これを利用した。
↓エレベータが到着すると「立山あおぐ特等席」という、この展望塔のキャッチコピーが掲出されている。
↓立山連峰に抱かれるような富山の街並みだ。
↓富山駅へ通じる辺りの街並みだ。富山駅の一部や周辺の高層建築が見え、遠くに日本海も覗いている。
↓公園として整備されている城跡の側である。
↓条件が好い時の写真を使って、ここから見える立山連峰に関することも掲示されていた。
↓展望塔は地上から70mの高さであるようだ。
↓少し経つと、やや雲が流れ込んで来たという様子になった。
今般は立山に抱かれた景色の、古くから海運で栄えた富山というような様子に親しんだが、こうして高い場所から景色を眺めると、改めて訪ねた地域を好きになるという気がする。訪ねて善かった場所だ。
そういう場合には「展望台」として知られる高台や、「展望施設」として知られる建物を訪ねてみる。「展望施設」として知られる建物に関しては、街中の一定程度便利な場所に在る例も少なくない。入場料を払って入る施設も色々と在るのだが、特段に入場料を求められない場合も見受けられる。
入場料を求められない例として思い当たるのは、「自治体等の庁舎」という例だ。少し目立つ背が高い設えの建物の上層部に出入出来るようになっていて、そこからの眺望を愉しむ事が叶う訳だ。
富山の街に関しては、富山市役所にそういう眺望を愉しむことが叶う場所が設けられていると聞いていた。朝から色々と動き廻り、午後に宿の居室で一息入れていた時、「早めな夕食の前に富山市役所へ」という程度に思い付いて街へ出た。
富山という街は、古くから海路や陸路の交通の要衝で、戦国時代に城も築かれていて、江戸時代には北陸に大きな知行地を有した前田家の分家が在って、その城下町というような経過も在った場所だと思う。明治期以降は、嘗ては城であった辺り等が官公署やオフィス街になっていると見受けられる。実はその城であった辺りも昼前に動き廻ったが、「展望施設というような風情も在る高層建築」という程度の何かが目立っていたというようにも見受けられなかった。
そういう程度のことを考えながら路面電車で移動し、地図で確かめていた富山市役所を探した。
↓これが富山市役所の本庁舎なのだという。
↑四角いビルの真中に突き出た塔が在る。この塔に上ると展望室が在るようだ。
↓とりあえず平日の午後の開庁となっている時間帯なので、普通に出入りは可能だ。
↓中に入ると、地上階から屋上の側迄、広壮な吹き抜けが設えられている。少し見上げて見入ってしまった。
↓エレベータの中の1基が「展望塔」という場所へ通じている。これを利用した。
↓エレベータが到着すると「立山あおぐ特等席」という、この展望塔のキャッチコピーが掲出されている。
↓立山連峰に抱かれるような富山の街並みだ。
↓富山駅へ通じる辺りの街並みだ。富山駅の一部や周辺の高層建築が見え、遠くに日本海も覗いている。
↓公園として整備されている城跡の側である。
↓条件が好い時の写真を使って、ここから見える立山連峰に関することも掲示されていた。
↓展望塔は地上から70mの高さであるようだ。
↓少し経つと、やや雲が流れ込んで来たという様子になった。
今般は立山に抱かれた景色の、古くから海運で栄えた富山というような様子に親しんだが、こうして高い場所から景色を眺めると、改めて訪ねた地域を好きになるという気がする。訪ねて善かった場所だ。
大黒3丁目停留所(国道40号側)…(2024.01.20)
朝に…(2024.01.20)
↓戸外を少しだけ歩けば、酷く手が冷たかったが、気温は下がっている。
↓「手が冷たい…」と「氷点下8℃」という次元の気温が表示されるのを見て、別段の愉しい気分になる訳でもないが、それでも「気になるから確かめたい」という思いには応えて頂いている訳だ。
↓緩く粉雪が舞うような按配だった。他方で風は弱めだった。多少の「冷たい…」を堪えると、佇んでいる分には然程キツくはないかもしれない。
↓何か「低温傾向」が推し進められたというような気がする朝だった。
聞けば「大寒」の朝ということだった。当地としては「最も寒い」という程度の低温になってはいる。が、こういう傾向は続き、「立春」になっても当分は「氷点下の気温」という感じだ。
↓「手が冷たい…」と「氷点下8℃」という次元の気温が表示されるのを見て、別段の愉しい気分になる訳でもないが、それでも「気になるから確かめたい」という思いには応えて頂いている訳だ。
↓緩く粉雪が舞うような按配だった。他方で風は弱めだった。多少の「冷たい…」を堪えると、佇んでいる分には然程キツくはないかもしれない。
↓何か「低温傾向」が推し進められたというような気がする朝だった。
聞けば「大寒」の朝ということだった。当地としては「最も寒い」という程度の低温になってはいる。が、こういう傾向は続き、「立春」になっても当分は「氷点下の気温」という感じだ。
<7ELEVEN>…:天神橋筋六丁目駅周辺(2023.12.30)
KOBAN…:天神橋筋4丁目(2023.12.30)
大阪天満宮を訪ねた後、天神橋筋六丁目駅の方へ進もうと歩いた。
↓何やら話し掛けている幼稚園に通うような年恰好に見える子どもに、膝を折って姿勢を低くし、目線を子どもに合わせるようにして「どうしたのや?」と話しを聴く警察官という様子の画が描かれた看板を眼に留めた。
↑天神橋筋4丁目、商店街の辺りで見掛けた。大阪府警の交番である。
大阪の街中で、交番にはこの「子どもの話しを聴こうとする警察官」という画の看板が目印のように使われていた。看板を観て、「子どもから御年寄り迄、街の人達の訴えを聴くので気軽に御声掛けを」というような感じなのだと思った。
↓国内の警察は、都道府県が運営する機関なので、ここで見掛けた看板のようなモノは都道府県が異なると様子が変わる。この看板も大阪府警の独自のモノだと見受けられる。
↓建物の壁に「駐輪禁止」である。大阪は自転車が多い。そして何処にでも自転車が置かれるのであろう。
大切な仕事に熱心に取組む関係者に感謝すべきであろうというようなことも思いながら脇をゆっくりと通り過ぎた。
↓何やら話し掛けている幼稚園に通うような年恰好に見える子どもに、膝を折って姿勢を低くし、目線を子どもに合わせるようにして「どうしたのや?」と話しを聴く警察官という様子の画が描かれた看板を眼に留めた。
↑天神橋筋4丁目、商店街の辺りで見掛けた。大阪府警の交番である。
大阪の街中で、交番にはこの「子どもの話しを聴こうとする警察官」という画の看板が目印のように使われていた。看板を観て、「子どもから御年寄り迄、街の人達の訴えを聴くので気軽に御声掛けを」というような感じなのだと思った。
↓国内の警察は、都道府県が運営する機関なので、ここで見掛けた看板のようなモノは都道府県が異なると様子が変わる。この看板も大阪府警の独自のモノだと見受けられる。
↓建物の壁に「駐輪禁止」である。大阪は自転車が多い。そして何処にでも自転車が置かれるのであろう。
大切な仕事に熱心に取組む関係者に感謝すべきであろうというようなことも思いながら脇をゆっくりと通り過ぎた。
大阪市北区某所…(2023.12.30)
天神橋筋六丁目駅で大阪天満宮を訪ねようと思い立った。天神橋筋商店街に入って「6丁目、5丁目、4丁目…」と1丁目の辺りへ直進すれば大阪天満宮の直ぐ傍に至る。それを知らずに、途中で脇の方の路へ出てしまい、何やらぐるりと大きく廻って随分と歩いてしまった。
↓何やら高層マンションや、何かの専門学校と見受けられる建物等が冬の蒼天の下に佇む様を見上げた。「何処?!」という感じで、とりあえず通行量が多そうな辺りを探して進むことにしたのだった。
↑大阪駅を擁する街の北側で、様々な地下鉄路線が入り交じっている辺りの雰囲気は、何となくこういうような感じだと思う。
「何となくこういうような感じ…」を眺めながら、「然程急ぐでもない…」と散策する感じを出先ではよくやってしまう。「散策」と号してはいるものの、「不慣れな場所で迷っている」に過ぎないかもしれないのだが。
↓何やら高層マンションや、何かの専門学校と見受けられる建物等が冬の蒼天の下に佇む様を見上げた。「何処?!」という感じで、とりあえず通行量が多そうな辺りを探して進むことにしたのだった。
↑大阪駅を擁する街の北側で、様々な地下鉄路線が入り交じっている辺りの雰囲気は、何となくこういうような感じだと思う。
「何となくこういうような感じ…」を眺めながら、「然程急ぐでもない…」と散策する感じを出先ではよくやってしまう。「散策」と号してはいるものの、「不慣れな場所で迷っている」に過ぎないかもしれないのだが。
(気付くと)9200件超え…(2024.01.20)
地元であっても、出先であっても、愛用のカメラを提げて何となく外を歩き廻る。随意に動く時間の中であろうと、所用の合間であろうと差異は無い。歩き廻って眼に留まった、面白いと思った様子は写真に撮ってしまう。撮った写真を観て、気に入ったモノを取上げて、少し纏めておこうとブログ記事を綴る。
こういうような営為は長く続いてしまっていて、自身にとって「殆ど唯一の道楽」というような様子になっていると思う。そして、近い将来に止めるというような意図は全く無い。何か、「物理的に可能である」という限り続けてみようかという気にさえなっているかもしれない。
或る時、使っていたカメラで簡単にモノクロ写真を撮ることも可能と気付いて、撮ってみると愉しかった。そういう写真が少し集まって、展示する場が欲しくなり、このブログを2016年4月に始めたのだった。そして2017年9月に<X100F>を入手し、2018年9月には<X-Pro2>も加え(以降に幾分の交換レンズは加わった…)、新たな機材に切替えて行った経過が在るのだが、その中でモノクロ写真を撮る割合が次第に増えた。
<X100F>や、<X-Pro2>には新旧様々なフィルムで撮る画の調子を再現するという「フィルムシミュレーション」という機能が備えられている。その機能で「モノクロフィルムのACROS」というモノが在って、気に入って多用するようになって行った。そのうちに、普段からそのモノクロフィルムの調子で写真を撮り、気が向いた時に「フィルムシミュレーション」を切り替えてカラー写真を撮るというような感じになって行った。何時の間にか、例えば「100枚撮った日に、カラーは15枚で残り85枚がモノクロ」という様子も頻発するようになっていた。
そういうようになると、このブログに画とコメントの記事を綴って掲載する機会が多くなり、記事件数も自ずと増えては行く。こういう営為は「面白いから続けている」という以上でも以下でもない。可能な範囲で出来るようにやっていることで、“背伸び”のような無理をしているのではない。そういうのが続く中で、何時の間にか「X千件」というように記事件数が積み上る。
このブログを2016年4月に始めた頃から、7年が過ぎている。その期間で、記事件数は9200件を超えていた。昨2023年12月、「もう直ぐ9千件?」ということに気付いてはいた。が、特段い話題にしてみるという程のこともせず、放っておくと9200件を超えていたのだった。単純な計算ではあるが、このブログを始めた頃から最近迄の期間で「年間に千件以上」ということで記事を綴ったことになる。「年間に千件」としても「毎日3件弱」という感じだ。
こういうような様子に関して、何か目標のようなモノ―例えば「毎日3件の記事を綴ると年間で千件」というようなことを意識するようなこと…―を持ちながら臨んでこうなった訳ではない。気が向くように、気が済むように記事を綴り続けていれば「何時の間にか」ということでこういう水準になってしまったのだ。
このブログを2016年4月に始めた頃には、その時点で溜まっていたモノクロ写真に関する記事を、気が向くままに綴って出し続けていた。やがて、地元の稚内や、その他の出先で撮った画で気に入ったモノを順次取上げるようになって行ったのだ。
写真を出して何事かを綴って記事化する際、「カテゴリ」を設定した。「写真撮影地の都道府県」という「カテゴリ」を設定することにしてみた。北海道に関しては、「過ぎる程に広い」という様子、「或る程度、頻繁に出入りする複数の地域が在る」ことに鑑み、例えば「北海道/札幌」、「北海道/旭川」という具合に「北海道/〇〇」と北海道内の地域名を添える形にした。と言って、然程記事件数が増えるでもない地域の名を取上げてカテゴリを設けるのも際限無いので、「北海道/その他」というカテゴリも設定している。結果的に、北海道内で移動する場面の様子の画が集まるようになっていると思う。
そして「カテゴリ」を設定する際の原則ということにした「写真撮影地の都道府県」という事柄を明らかに逸脱する画が少し増え始めた。国外で活動する機会が多少増えた時期が在り、その際に撮った写真をこちらで記事化し始めた。それらの記事を収めたのが「ロシア/サハリン州」、「ロシア/沿海地方」である。これらはサハリンの諸地域やウラジオストクを訪ねた際の画を使った記事を収めた「カテゴリ」だ。
これら以外は概ね「カテゴリ」を設定する際の原則に沿った「写真撮影地の都道府県」ということで設定している。北海道の他に国内には1都2府43県在る。未だそれら全ての「カテゴリ」が設けられているのでもない。「そう言えば訪ねていない…通過した経過も無い…」という場所や、「随分以前に訪ねているが、このブログに掲載する写真が無い」という場所、「列車で通り過ぎた…筈…」または「飛行機で上空を通過した…筈…」という次元の場所も意外に多く在るかもしれない。そういう場所に関しては、訪ねて写真を撮って、綴りたい事柄が生じた段階で「カテゴリ」を新設し、新設した「カテゴリ」に記事を投稿している。
最近、新たに「埼玉県」、「富山県」、「石川県」、「福井県」の各「カテゴリ」が加わった。「石川県」については、移動の途次の金沢駅で撮った画に関する5件の記事を収めたに留まるが、他は「この地域に出会って善かった」と振り返るような内容を含んでいると思う。
「写真撮影地の都道府県」ということで設定している「カテゴリ」の内容も様々であると思う。
具体的には駅や空港等の画ということになる「移動の様子」、移動中に何処かで少し動き廻ったというような「移動の途次の見聞」ということに留まり、記事件数が少な目な例が在る。「宮城県」、「岐阜県」、「徳島県」がそういう例に相当すると思う。
記事件数が少な目な例として、「数件が何回か繰り返されて現時点の件数に至る」という例も見受けられる。これらには「移動の途次の見聞」というように断定もし悪いような内容が交る。「千葉県」、「神奈川県」、「三重県」がそういう例に相当すると思う。
更に、やや旧い限られた数の画を掲載する際に設けられた「カテゴリ」で、当該地域を再訪するような機会を設けられず、画や記事が増えていないという例も在る。「北海道/根室」、「熊本県」、「宮崎県」がそういう例に相当すると思う。
こういう記事件数が少ない「カテゴリ」という例の他方に、記事件数の多さが際立つ「カテゴリ」が見受けられる。
「北海道/稚内」は、地元でさり気なく撮る写真を含むので、記事件数としては圧倒的に多い。これは他地域へ転出するということでもなければ、このまま記事件数が増えるのであろう。
「転出」ということでもないが、一時的にユジノサハリンスクで活動する日が多かった時期が在る。「ロシア/サハリン州」はその時期の画による記事が大半だ。
「北海道/稚内」と「ロシア/サハリン州」は、現在時点で「4桁の記事件数」で両者が全記事の56%程度を占めている。
最初に話題にした少し記事件数が少ない「カテゴリ」、記事件数の多さが際立つ「カテゴリ」との間に、各々の積み重ねで現在に至っている様々な「カテゴリ」が在る訳だ。
結局は「多目な回数の訪問」で、「訪問時に随分と写真を撮った」という場所に纏わる「カテゴリ」に記事件数は多くなる。「北海道/〇〇」の中にそれに該当する例が幾分在る。他に「奈良県」、「大阪府」、「京都府」も該当するであろう。
本当に「何時の間にか」で随分と記事件数が積み上ったブログだが、振り返って以前の記事を見ると、現在では視る機会が少ないモノ、間もなく観られなくなるモノが写っているという「半ば史料?」も見受けられるようになっていて興味深い。が、何と言っても各々の画に在る様子に出くわした場面が生き生きと蘇って愉しい。このブログを綴る、最大にして唯一の理由らしい理由かもしれない。
こういうような営為は長く続いてしまっていて、自身にとって「殆ど唯一の道楽」というような様子になっていると思う。そして、近い将来に止めるというような意図は全く無い。何か、「物理的に可能である」という限り続けてみようかという気にさえなっているかもしれない。
或る時、使っていたカメラで簡単にモノクロ写真を撮ることも可能と気付いて、撮ってみると愉しかった。そういう写真が少し集まって、展示する場が欲しくなり、このブログを2016年4月に始めたのだった。そして2017年9月に<X100F>を入手し、2018年9月には<X-Pro2>も加え(以降に幾分の交換レンズは加わった…)、新たな機材に切替えて行った経過が在るのだが、その中でモノクロ写真を撮る割合が次第に増えた。
<X100F>や、<X-Pro2>には新旧様々なフィルムで撮る画の調子を再現するという「フィルムシミュレーション」という機能が備えられている。その機能で「モノクロフィルムのACROS」というモノが在って、気に入って多用するようになって行った。そのうちに、普段からそのモノクロフィルムの調子で写真を撮り、気が向いた時に「フィルムシミュレーション」を切り替えてカラー写真を撮るというような感じになって行った。何時の間にか、例えば「100枚撮った日に、カラーは15枚で残り85枚がモノクロ」という様子も頻発するようになっていた。
そういうようになると、このブログに画とコメントの記事を綴って掲載する機会が多くなり、記事件数も自ずと増えては行く。こういう営為は「面白いから続けている」という以上でも以下でもない。可能な範囲で出来るようにやっていることで、“背伸び”のような無理をしているのではない。そういうのが続く中で、何時の間にか「X千件」というように記事件数が積み上る。
このブログを2016年4月に始めた頃から、7年が過ぎている。その期間で、記事件数は9200件を超えていた。昨2023年12月、「もう直ぐ9千件?」ということに気付いてはいた。が、特段い話題にしてみるという程のこともせず、放っておくと9200件を超えていたのだった。単純な計算ではあるが、このブログを始めた頃から最近迄の期間で「年間に千件以上」ということで記事を綴ったことになる。「年間に千件」としても「毎日3件弱」という感じだ。
こういうような様子に関して、何か目標のようなモノ―例えば「毎日3件の記事を綴ると年間で千件」というようなことを意識するようなこと…―を持ちながら臨んでこうなった訳ではない。気が向くように、気が済むように記事を綴り続けていれば「何時の間にか」ということでこういう水準になってしまったのだ。
このブログを2016年4月に始めた頃には、その時点で溜まっていたモノクロ写真に関する記事を、気が向くままに綴って出し続けていた。やがて、地元の稚内や、その他の出先で撮った画で気に入ったモノを順次取上げるようになって行ったのだ。
写真を出して何事かを綴って記事化する際、「カテゴリ」を設定した。「写真撮影地の都道府県」という「カテゴリ」を設定することにしてみた。北海道に関しては、「過ぎる程に広い」という様子、「或る程度、頻繁に出入りする複数の地域が在る」ことに鑑み、例えば「北海道/札幌」、「北海道/旭川」という具合に「北海道/〇〇」と北海道内の地域名を添える形にした。と言って、然程記事件数が増えるでもない地域の名を取上げてカテゴリを設けるのも際限無いので、「北海道/その他」というカテゴリも設定している。結果的に、北海道内で移動する場面の様子の画が集まるようになっていると思う。
そして「カテゴリ」を設定する際の原則ということにした「写真撮影地の都道府県」という事柄を明らかに逸脱する画が少し増え始めた。国外で活動する機会が多少増えた時期が在り、その際に撮った写真をこちらで記事化し始めた。それらの記事を収めたのが「ロシア/サハリン州」、「ロシア/沿海地方」である。これらはサハリンの諸地域やウラジオストクを訪ねた際の画を使った記事を収めた「カテゴリ」だ。
これら以外は概ね「カテゴリ」を設定する際の原則に沿った「写真撮影地の都道府県」ということで設定している。北海道の他に国内には1都2府43県在る。未だそれら全ての「カテゴリ」が設けられているのでもない。「そう言えば訪ねていない…通過した経過も無い…」という場所や、「随分以前に訪ねているが、このブログに掲載する写真が無い」という場所、「列車で通り過ぎた…筈…」または「飛行機で上空を通過した…筈…」という次元の場所も意外に多く在るかもしれない。そういう場所に関しては、訪ねて写真を撮って、綴りたい事柄が生じた段階で「カテゴリ」を新設し、新設した「カテゴリ」に記事を投稿している。
最近、新たに「埼玉県」、「富山県」、「石川県」、「福井県」の各「カテゴリ」が加わった。「石川県」については、移動の途次の金沢駅で撮った画に関する5件の記事を収めたに留まるが、他は「この地域に出会って善かった」と振り返るような内容を含んでいると思う。
「写真撮影地の都道府県」ということで設定している「カテゴリ」の内容も様々であると思う。
具体的には駅や空港等の画ということになる「移動の様子」、移動中に何処かで少し動き廻ったというような「移動の途次の見聞」ということに留まり、記事件数が少な目な例が在る。「宮城県」、「岐阜県」、「徳島県」がそういう例に相当すると思う。
記事件数が少な目な例として、「数件が何回か繰り返されて現時点の件数に至る」という例も見受けられる。これらには「移動の途次の見聞」というように断定もし悪いような内容が交る。「千葉県」、「神奈川県」、「三重県」がそういう例に相当すると思う。
更に、やや旧い限られた数の画を掲載する際に設けられた「カテゴリ」で、当該地域を再訪するような機会を設けられず、画や記事が増えていないという例も在る。「北海道/根室」、「熊本県」、「宮崎県」がそういう例に相当すると思う。
こういう記事件数が少ない「カテゴリ」という例の他方に、記事件数の多さが際立つ「カテゴリ」が見受けられる。
「北海道/稚内」は、地元でさり気なく撮る写真を含むので、記事件数としては圧倒的に多い。これは他地域へ転出するということでもなければ、このまま記事件数が増えるのであろう。
「転出」ということでもないが、一時的にユジノサハリンスクで活動する日が多かった時期が在る。「ロシア/サハリン州」はその時期の画による記事が大半だ。
「北海道/稚内」と「ロシア/サハリン州」は、現在時点で「4桁の記事件数」で両者が全記事の56%程度を占めている。
最初に話題にした少し記事件数が少ない「カテゴリ」、記事件数の多さが際立つ「カテゴリ」との間に、各々の積み重ねで現在に至っている様々な「カテゴリ」が在る訳だ。
結局は「多目な回数の訪問」で、「訪問時に随分と写真を撮った」という場所に纏わる「カテゴリ」に記事件数は多くなる。「北海道/〇〇」の中にそれに該当する例が幾分在る。他に「奈良県」、「大阪府」、「京都府」も該当するであろう。
本当に「何時の間にか」で随分と記事件数が積み上ったブログだが、振り返って以前の記事を見ると、現在では視る機会が少ないモノ、間もなく観られなくなるモノが写っているという「半ば史料?」も見受けられるようになっていて興味深い。が、何と言っても各々の画に在る様子に出くわした場面が生き生きと蘇って愉しい。このブログを綴る、最大にして唯一の理由らしい理由かもしれない。
朝に…(2024.01.19)
<OSAKA STATION CITY>…:大阪駅を望む(2023.12.30)
大阪駅を望み易いような場所を求めて辺りを歩いた。
↓こんな看板に出くわした。
↑色々なテナントが入っているので、大阪駅を総称して「ステーションシティー」と称しているのだろうとは思う。が、1日の利用者数が58万人にも及ぶという、関西では群を抜いて大きな駅は、最早「大阪駅“市”」とでも呼びたいような人の出入りだと思う。日本国内の数多くの“市”を見渡せば、大阪駅の1日の利用者数に遠く及ばないような場所の方が多数派ではないかという気がする。
↓夥しい数の人やモノが流れ、多くの列車が間断無く発着し、バスやタクシーや、その他の車輌も多々行き交っている大阪駅だ。何か“街”という巨大な生物の“血流”が滲む場所というような気もした。
時にはぼんやりとこういう様子を眺めてみるのも悪くはない。
↓こんな看板に出くわした。
↑色々なテナントが入っているので、大阪駅を総称して「ステーションシティー」と称しているのだろうとは思う。が、1日の利用者数が58万人にも及ぶという、関西では群を抜いて大きな駅は、最早「大阪駅“市”」とでも呼びたいような人の出入りだと思う。日本国内の数多くの“市”を見渡せば、大阪駅の1日の利用者数に遠く及ばないような場所の方が多数派ではないかという気がする。
↓夥しい数の人やモノが流れ、多くの列車が間断無く発着し、バスやタクシーや、その他の車輌も多々行き交っている大阪駅だ。何か“街”という巨大な生物の“血流”が滲む場所というような気もした。
時にはぼんやりとこういう様子を眺めてみるのも悪くはない。
通路…:阪神電車梅田駅&大阪駅周辺(2023.12.30)
新風館…(2023.12.29)
↓何か、少し古くからの歴史を誇る大学か何かの建物を想わせる雰囲気だ。
↓南北に延びる烏丸通と東西に延びる御池通が交差する辺りの地下鉄の烏丸御池駅から少し南側、御池通と三条通との間辺りというような場所に建っている建物だ。
この建物は1926年に竣工し、1931年に増築されたという「京都中央電話局」である。「電話局」の名のとおり電話交換業務が行われる場所であったそうだ。やがてNTTの前身である電電公社が利用していた。その後、改築されて<新風館>という商業施設となり、2001年から2016年迄営業した。2020年に再度の改築で、商業施設として開業して現在に至っている。
↓地下2階、地上7階で高さは31mも在るそうだ。
↓「中庭」というような設えの場所も在って、面白い場所だ。
現在は各種の小売店やカフェ、そしてホテルが入っている。京都では何度か立寄っている。少し雰囲気が好い場所だ。
↓南北に延びる烏丸通と東西に延びる御池通が交差する辺りの地下鉄の烏丸御池駅から少し南側、御池通と三条通との間辺りというような場所に建っている建物だ。
この建物は1926年に竣工し、1931年に増築されたという「京都中央電話局」である。「電話局」の名のとおり電話交換業務が行われる場所であったそうだ。やがてNTTの前身である電電公社が利用していた。その後、改築されて<新風館>という商業施設となり、2001年から2016年迄営業した。2020年に再度の改築で、商業施設として開業して現在に至っている。
↓地下2階、地上7階で高さは31mも在るそうだ。
↓「中庭」というような設えの場所も在って、面白い場所だ。
現在は各種の小売店やカフェ、そしてホテルが入っている。京都では何度か立寄っている。少し雰囲気が好い場所だ。
烏丸御池駅…(2023.12.29)
↓地下鉄駅の通路というモノは、何処であっても独特な“雰囲気”が在る。
↑京都の街を行き交う地下鉄は烏丸線と東西線との2路線だが、両路線が交差する乗換駅が烏丸御池駅だ。
↓「埋蔵文化財」について紹介している銘板が在った。
↑長い歴史を経ていて、様々なモノが土中に埋まっているという京都だ。「地下鉄工事」となると、そういう埋まっているモノの中に混じる「文化財」の調査が必要で、なかなかに苦労が多かったらしい。
何となく思ったのは、「埋蔵文化財」そのものも大切だが、「発掘調査のようなことをしながら工事を進めた地下鉄」という「歴史」が興味深い。何処の地域でも、地下を掘れば意外なモノが出て来る場合は多かろうが、京都は格別であるように思える。
各地でこういう様子に触れるのも興味深い。
↑京都の街を行き交う地下鉄は烏丸線と東西線との2路線だが、両路線が交差する乗換駅が烏丸御池駅だ。
↓「埋蔵文化財」について紹介している銘板が在った。
↑長い歴史を経ていて、様々なモノが土中に埋まっているという京都だ。「地下鉄工事」となると、そういう埋まっているモノの中に混じる「文化財」の調査が必要で、なかなかに苦労が多かったらしい。
何となく思ったのは、「埋蔵文化財」そのものも大切だが、「発掘調査のようなことをしながら工事を進めた地下鉄」という「歴史」が興味深い。何処の地域でも、地下を掘れば意外なモノが出て来る場合は多かろうが、京都は格別であるように思える。
各地でこういう様子に触れるのも興味深い。
「海抜2.3m」…自販機…(2024.01.18)
朝に…(2024.01.18)
夕べに…(2024.01.17)
映り込み…:大阪駅周辺(2023.12.30)
六孫王神社…(2023.12.29)
JRまたは近鉄の京都駅で昼食を愉しんだ後に戸外へ出れば、駅の南西寄りな辺りに在った。「JR京都駅」については、京都タワーが視易い側が北寄りで、反対側は南寄りだ。更にその南北の後に東西を考えるような感じだと個人的には思う。昼食を愉しんだ辺りは、近鉄の列車が発着するやや西寄りな辺りから地上に降りたような、少し西寄りな辺りであった。
↓その京都駅の南西寄りな辺りを少し西側へ進むとこういうようなモノに行き当たる。
↑「六孫王神社」は「ろくそんのうじんじゃ」と読む。
「六孫王」とは源経基(生年不詳―961年)という人物のことであるという。他界した時は45歳であったとも伝えられる。
源経基は清和天皇の第6皇子の子であり、皇族として「六孫王」と称していて、後に臣籍に下って源姓を賜って源経基と名乗ったのだという。源経基は、所謂「清和源氏」の始祖とされる。
↓鳥居や社殿が見える辺りに歩を進めた。
↓無事のここを訪ねられたことに感謝の意を評しながら参拝した。
↓清和源氏の始祖を祀った神社で、何か「強い力」というような何かを感じる場所でもあった。
↓参拝して御朱印を頂いた。右の頁である。
何か「“貴族”としての“武家”」という独自な存在感を示していた源氏の一族の根源を感じさせるような神社であると感じた。この種の場所に寄ってみるのは興味深いものだ。
↓その京都駅の南西寄りな辺りを少し西側へ進むとこういうようなモノに行き当たる。
↑「六孫王神社」は「ろくそんのうじんじゃ」と読む。
「六孫王」とは源経基(生年不詳―961年)という人物のことであるという。他界した時は45歳であったとも伝えられる。
源経基は清和天皇の第6皇子の子であり、皇族として「六孫王」と称していて、後に臣籍に下って源姓を賜って源経基と名乗ったのだという。源経基は、所謂「清和源氏」の始祖とされる。
↓鳥居や社殿が見える辺りに歩を進めた。
↓無事のここを訪ねられたことに感謝の意を評しながら参拝した。
↓清和源氏の始祖を祀った神社で、何か「強い力」というような何かを感じる場所でもあった。
↓参拝して御朱印を頂いた。右の頁である。
何か「“貴族”としての“武家”」という独自な存在感を示していた源氏の一族の根源を感じさせるような神社であると感じた。この種の場所に寄ってみるのは興味深いものだ。
粟田神社…(2023.12.29)
「京の七口」と呼ばれるモノが在る。厳格に定まっているのでもないが、京都と他地域とを結ぶ経路の出入口となっている場所を指し示す。“鞍馬口”、“大原口”、“荒神口”、“粟田口”、“竹田口”、“丹波口”、“長坂口”等がそうした場所として知られている。
“粟田口”は三条通に面していて、近世の東海道や中山道に通じる道筋であったのだが、古くから関も設けられていて「粟田口」という呼び方が在ったという。
↓その“粟田口”に粟田神社は在る。
↓青蓮院門跡に近い辺りに鎮座する神社ということにもなる。
↓石段と坂道を合わせたような場所を上って参拝する。
↓立派な御神馬も在る。
↓古くから「旅立ちの神」ともされるのが、この粟田神社であるらしい。
↓粟田神社と、辺りで活動した刀鍛冶に関する神社の御朱印を合わせて頂いた。
この粟田神社は、青蓮院を訪ねた際に「近くに少し大きな神社…」と気付いて立寄った場所だ。出くわして善かったと思う。社寺が多い地域では、こういう「半ば偶然の出会い」が多いように思うが、そういうのも好いと思う。
“粟田口”は三条通に面していて、近世の東海道や中山道に通じる道筋であったのだが、古くから関も設けられていて「粟田口」という呼び方が在ったという。
↓その“粟田口”に粟田神社は在る。
↓青蓮院門跡に近い辺りに鎮座する神社ということにもなる。
↓石段と坂道を合わせたような場所を上って参拝する。
↓立派な御神馬も在る。
↓古くから「旅立ちの神」ともされるのが、この粟田神社であるらしい。
↓粟田神社と、辺りで活動した刀鍛冶に関する神社の御朱印を合わせて頂いた。
この粟田神社は、青蓮院を訪ねた際に「近くに少し大きな神社…」と気付いて立寄った場所だ。出くわして善かったと思う。社寺が多い地域では、こういう「半ば偶然の出会い」が多いように思うが、そういうのも好いと思う。
朝に…(2024.01.17)
青蓮院門跡…(2023.12.29)
何度か辺りを通り過ぎていて、訪ねてみた経過は無い。そういう場所が気になれば、何とか機会を設けて訪ねてみたくなる。
↓そういう訳で訪ねてみた場所だ。
「門跡」というのは、皇族や摂関家等の身分が非常に高い家の子弟が入って代表というような地位に就く寺を指し示す表現である。比叡山の中に在った僧房に起源を持つとされる青蓮院もそうした「門跡」の一つだ。
1150年頃に現在の場所で鳥羽上皇の祈願所の一つとしての位置を固めて「門跡」というようになって行ったようだ。時代が下って、1788(天明8)年に大きな火災が在った際、当時の後桜町上皇の仮の仙洞御所が青蓮院に置かれた経過が在り、地名に因んで「粟田御所」とも呼ばれているそうだ。因みに後桜町上皇は、2023年現在、「女性の天皇」の「最後の例」ということになるようだ。
↓こうした史跡をゆっくりと拝観する、参拝するというようなことは興味深いものだ。
↓建物の改修等も行われ、史跡を、貴重な旧い建物を後世に伝える努力が重ねられている。
↓写真撮影は原則的に認めていないという様子も伺える屋内を見学し、庭の側に出てみた。
↓この種の竹林は北海道では見受けられないので一寸注目する。
↓境内や辺りの楠は「青蓮院の楠」として少し知られている。
↓これはやや驚く。
↓鐘楼の鐘を随意に撞いて構わないことになっている。
実は殆ど開門と同時に青蓮院門跡に入った。施設管理の仕事に携わっている方が「お待たせしました…」と開門して、来訪者に声を掛けている。自身も話し掛けられたが、「中へ入られるなら鐘に注目して頂きたい。京都の数在る古刹で鐘を随意に撞いて構わないことになっている例は殆ど無い」と御紹介頂いた。「有難うございます!」と中に入って見学したが、なるほど、随意に撞いて構わないことになっている。
↓こういうように注意書きは在った。出鱈目に鐘を鳴らすものでもない…
自身が無事に京都へ至ってゆったりと過ごしていることに感謝の意を表しながら、仏の心で不穏な世界情勢が安定するようにというようなことを祈りながら、慎重に金を撞いてみた。大きな反響の音も響く様子を聞いて、手を合わせて祈った。
「青蓮院」という名に関しては、幕末の歴史に登場する中川宮が青蓮院に在って「青蓮院宮」とも呼ばれたというようなことが記憶に残っていて、場所に少し興味が在った。そういうことで、ここを訪ねられて善かったと思う。
地下鉄東山駅から近い、訪ね易い場所でもあるので、また訪ねてみたいというように思う。
↓そういう訳で訪ねてみた場所だ。
「門跡」というのは、皇族や摂関家等の身分が非常に高い家の子弟が入って代表というような地位に就く寺を指し示す表現である。比叡山の中に在った僧房に起源を持つとされる青蓮院もそうした「門跡」の一つだ。
1150年頃に現在の場所で鳥羽上皇の祈願所の一つとしての位置を固めて「門跡」というようになって行ったようだ。時代が下って、1788(天明8)年に大きな火災が在った際、当時の後桜町上皇の仮の仙洞御所が青蓮院に置かれた経過が在り、地名に因んで「粟田御所」とも呼ばれているそうだ。因みに後桜町上皇は、2023年現在、「女性の天皇」の「最後の例」ということになるようだ。
↓こうした史跡をゆっくりと拝観する、参拝するというようなことは興味深いものだ。
↓建物の改修等も行われ、史跡を、貴重な旧い建物を後世に伝える努力が重ねられている。
↓写真撮影は原則的に認めていないという様子も伺える屋内を見学し、庭の側に出てみた。
↓この種の竹林は北海道では見受けられないので一寸注目する。
↓境内や辺りの楠は「青蓮院の楠」として少し知られている。
↓これはやや驚く。
↓鐘楼の鐘を随意に撞いて構わないことになっている。
実は殆ど開門と同時に青蓮院門跡に入った。施設管理の仕事に携わっている方が「お待たせしました…」と開門して、来訪者に声を掛けている。自身も話し掛けられたが、「中へ入られるなら鐘に注目して頂きたい。京都の数在る古刹で鐘を随意に撞いて構わないことになっている例は殆ど無い」と御紹介頂いた。「有難うございます!」と中に入って見学したが、なるほど、随意に撞いて構わないことになっている。
↓こういうように注意書きは在った。出鱈目に鐘を鳴らすものでもない…
自身が無事に京都へ至ってゆったりと過ごしていることに感謝の意を表しながら、仏の心で不穏な世界情勢が安定するようにというようなことを祈りながら、慎重に金を撞いてみた。大きな反響の音も響く様子を聞いて、手を合わせて祈った。
「青蓮院」という名に関しては、幕末の歴史に登場する中川宮が青蓮院に在って「青蓮院宮」とも呼ばれたというようなことが記憶に残っていて、場所に少し興味が在った。そういうことで、ここを訪ねられて善かったと思う。
地下鉄東山駅から近い、訪ね易い場所でもあるので、また訪ねてみたいというように思う。