自身、東京に在って鉄道を利用して色々と動き廻っていた経験を有しているが、それもかなり以前のことになってしまっている。現在では新たな路線や運行系統が次々に登場し、見掛ける車輌も変わっている。
朝、氷川神社を参拝の後に大宮駅へ足を運び、川越駅へ移動しようとした。初めて「上野東京ライン」を利用して大宮駅にやって来たのだったが、駅には様々な路線が乗入れていて、大宮駅は広壮である。聞いたことが在る路線や運行系統も在るが、知らなかったモノも多目で驚いていた。
↓川越へ向かう「川越線」は通路の端から階下に階段で下りた辺りのホームで発着していた。
↑左が川越へ向かう列車だ。JR東日本のE233系電車だ。この路線には2013年に登場したようだ。右は「東京臨海高速鉄道」の車輌だという。1996年から2004年の期間で製造された70-000形電車だ。右側の列車は埼京線を経て大崎駅に至り、そこから「りんかい線」に乗入れ、新木場駅に到るのだという。
りんかい線と埼京線との相互乗入は2002年から始まったそうだ。2004年には10輌編成への統一が成り、「東京臨海高速鉄道」の車輌とJR東日本の車輌が相互に川越や大宮と新木場とを往来するようになったようだ。
今般はりんかい線方面へは出なかった。大宮駅を発着する列車の様子も、何時の間にか随分と変わったようだ。
夕べに…(2024.01.09)
波止場横丁の夕べ…(2024.01.08)
夕べに…(2024.01.12)
朝の道草…(2024.01.12)
朝に…(2024.01.12)
大黒3丁目停留所(国道40号側)…(2024.01.11)
↓除雪した雪が堆くなっているというような場所だが、ここはバス停である。
↑街の南側から北側へ進むバスが発着する場所なのだが、停留所であることを示すモノが埋められてしまっている。
近くで駐車スペースに使いたい場所の雪を除けて、それが堆くなってバス停が埋められてしまっている。そんな様子が容認されているのか、毎年のように見受けられる。停留所を利用するバスの乗降客は知れているかもしれないが、駐車スペースも数台という場所で、車輌の出入り等が常時見受けられるのでもない。
↓バス停をバス停として普通に利用することが拒否されるかのような状態は、見る都度に「少し非道い…」ような気がしてならない。
↑街の南側から北側へ進むバスが発着する場所なのだが、停留所であることを示すモノが埋められてしまっている。
近くで駐車スペースに使いたい場所の雪を除けて、それが堆くなってバス停が埋められてしまっている。そんな様子が容認されているのか、毎年のように見受けられる。停留所を利用するバスの乗降客は知れているかもしれないが、駐車スペースも数台という場所で、車輌の出入り等が常時見受けられるのでもない。
↓バス停をバス停として普通に利用することが拒否されるかのような状態は、見る都度に「少し非道い…」ような気がしてならない。
旧い建物…:第一副港周辺(2024.01.11)
繋留濠に近い側は、車輌の通行が存外に多い他方で歩道が雪深い感じで歩き悪い。そこで国道に寄った側に1本入った道路を進む。
↓車輌の通行が非常に少ない車道を歩くようなことがし易かった。旧い建物が見えている。
↑ゴミの収集場所が在って、その辺りの雪は丁寧に除けられていた。
↓特段に利用されているようにも見えない建物が雪を被って佇む様は、少し面白い眺めかもしれない。
↓積雪が少な目な時期とは趣が随分と異なるように思う。
多少は眼に馴染んだ場所が、季節毎に些か様子を変えている様に、時折眼を向けるのも愉しいかもしれない。
↓車輌の通行が非常に少ない車道を歩くようなことがし易かった。旧い建物が見えている。
↑ゴミの収集場所が在って、その辺りの雪は丁寧に除けられていた。
↓特段に利用されているようにも見えない建物が雪を被って佇む様は、少し面白い眺めかもしれない。
↓積雪が少な目な時期とは趣が随分と異なるように思う。
多少は眼に馴染んだ場所が、季節毎に些か様子を変えている様に、時折眼を向けるのも愉しいかもしれない。
稚内港第一副港の辺り…(2024.01.11)
駐機場…:神戸空港(2024.01.02)
<9003>…:富山駅:富山の路面電車(2023.12.26)
路面電車の所謂「一日乗車券」を入手し、「とりあえず路面電車に乗ってみよう」と富山駅の乗場を目指した。富山駅の高架が完成した後、駅の北側の富山港線と南側の路線とが「高架下」で結ばれ、乗降場が出来たということである。ここに足を運べば、各運行系統の路面電車に出会える筈と観た。
↓着いてみれば、こういう車輌が停車中だった。
↑渋い感じなのだが、連接の低床型という車輌である。
↓これは0600形の少し後、2009年に「環状線」の運行が実現した時に登場した9000形である。
↑富山港線に登場した0600形が「ポートラム」という愛称を冠したのに対し、9000形は街の中心を巡るイメージで「セントラム」という愛称が冠せられた。2つの型は、外観の色以外は殆ど同じ仕様であるそうだ。
この車輛は黒い車体で、何か落ち着いた感じがして好かった。路面電車は、新旧様々な車輌が行き交っている感じが凄く面白い。
↓着いてみれば、こういう車輌が停車中だった。
↑渋い感じなのだが、連接の低床型という車輌である。
↓これは0600形の少し後、2009年に「環状線」の運行が実現した時に登場した9000形である。
↑富山港線に登場した0600形が「ポートラム」という愛称を冠したのに対し、9000形は街の中心を巡るイメージで「セントラム」という愛称が冠せられた。2つの型は、外観の色以外は殆ど同じ仕様であるそうだ。
この車輛は黒い車体で、何か落ち着いた感じがして好かった。路面電車は、新旧様々な車輌が行き交っている感じが凄く面白い。
<7020>&<7017>…:電鉄富山駅/エスタ前・富山駅 間:富山の路面電車(2023.12.26)
遠くに立山連峰を望む辺りに併用軌道が敷設されて路面電車が行き交っているという富山の風情が好く、暫しそれを見入って写真を撮っていた。
↓左側の車輌が少し面白いと思った。長く走り続けている型の車輌だが、屋根の上に「広告スペース」を設けるような感じになっている。
↑左奥の富山駅から出て道路に出ようとしているが、右は富山駅側へ進む電車で同じ型と見受けられる車輌だ。双方ともに信号停車で、多くの人達が歩いて道路を横断中だ。
↓双方の路面電車が概ね真直ぐ向き合うような位置関係になった。
↓信号が変わって道路を横断する人達が見えなくなった。電車は各々に動き始める。
こういうような様子が、富山を離れた直ぐ後から既に懐かしい感じになっている。大変に気に入った眺めだ。
↓左側の車輌が少し面白いと思った。長く走り続けている型の車輌だが、屋根の上に「広告スペース」を設けるような感じになっている。
↑左奥の富山駅から出て道路に出ようとしているが、右は富山駅側へ進む電車で同じ型と見受けられる車輌だ。双方ともに信号停車で、多くの人達が歩いて道路を横断中だ。
↓双方の路面電車が概ね真直ぐ向き合うような位置関係になった。
↓信号が変わって道路を横断する人達が見えなくなった。電車は各々に動き始める。
こういうような様子が、富山を離れた直ぐ後から既に懐かしい感じになっている。大変に気に入った眺めだ。
大阪天満宮…(2023.12.30)
大阪では「天満」、「天満橋」、「天神橋筋」というように、大阪天満宮に関連が在るらしい地名の場所が多く見受けられる。大阪天満宮の素材感が大きいということが伺える。他方、考えてみると大阪天満宮に立寄ってみた経過が無かった。
天神橋筋六丁目駅周辺に滞在しようと大阪に入った際、大阪天満宮を訪ねることを思い付いた。天神橋筋六丁目駅のロッカーにモノを預けて身軽になり、好天に恵まれた街を歩き始めた。
「正解」としては、天神橋筋商店街を6丁目から1丁目迄、順にゆっくり進めば大阪天満宮の傍に至った。が、何となくJR天満駅の辺りに出る等して、少し変な方向に進んでしまった。
↓何か中途半端に廻り込んで、漸く「直ぐ近くらしい…」という辺りに至った。
↓天神橋筋商店街を延々と進めば善かったのだと気付かされた。
↓回り道でも何でも、目指してみた大阪天満宮に辿り着いたのは善かった。表大門を望んだ。
↓門の辺りに周辺案内図のようなモノが在って、郵便ポストが据えられていた。
↓境内案内図が、何かイラスト的で感じが好いと思った。
↓初詣で夥しい数の人々がやって来るということで、それへの備えが整う中、歳末の好天という中で少し賑わうような様子だった。
↑「御賽銭を遠くから投げないで下さい」と掲示が出ている。
↓社殿が金網で護られるというような様子になっていた。
↓無事に大阪に着いて、大阪天満宮を訪ねられたことに感謝の意を表し、辺りを一回りした。
神社そのものは、難波宮の北西を守護するとして650年に起こっている。<大将軍社>と呼ばれた。
901(延喜元)年、大宰府へ行くことになってしまった菅原道真が、この<大将軍社>に立寄って旅の安全を祈願したと伝わる。
やがて菅原道真に関連した天神信仰が拡がって行く。949(天暦3)年には、菅原道真が立寄ったと伝わる<大将軍社>の前に7本の松が生えて霊光を放っているという奇譚が囁かれ、都にも伝わる。それを聞いた村上天皇の勅命で<天満宮>が建立された。従前の<大将軍社>は摂社ということになり、この場所は<天満宮>を中心とする社になって行く。
永くこの<天満宮>は受継がれる。火災等で建物が損なわれることも在ったが、再建が繰り返されている。1724(享保9)年の火災で損なわれて再建された建物は、1837(天保8)年の大塩平八郎の乱に伴う火災で損なわれた。そして1843(天保14)年に建物が再建されているのだが、この建物は第2次大戦時の戦禍を免れて現在に受継がれているのだという。
↓右の頁が大阪天満宮の御朱印だ。確り頂いた。
↓表大門を潜って出ようとすれば、真上にこういうような干支で方角を示すようなモノが飾られていることに気付いた。
↑干支が美しいのだが、「酉」は鶏というよりも鳳凰のような姿で少し面白い。
↓そしてこういう<御神酒笑姿>(おみきえびす)という像も在る。
↓境内に蛭子遷殿を擁することに因むモノで人気が在るようだ。
↑2007年から<天満天神えびす祭>という催しも行われているようだ。戦後長く途絶えていた催事を復興したということであるという。
今般、大阪天満宮を訪ねてみて、大阪がより身近に感じられるようになった気もする。神社は一度訪ねて御終いではない。何度でも参拝に立寄る場所でもある。またゆっくりと訪ねてみたいものだ。
天神橋筋六丁目駅周辺に滞在しようと大阪に入った際、大阪天満宮を訪ねることを思い付いた。天神橋筋六丁目駅のロッカーにモノを預けて身軽になり、好天に恵まれた街を歩き始めた。
「正解」としては、天神橋筋商店街を6丁目から1丁目迄、順にゆっくり進めば大阪天満宮の傍に至った。が、何となくJR天満駅の辺りに出る等して、少し変な方向に進んでしまった。
↓何か中途半端に廻り込んで、漸く「直ぐ近くらしい…」という辺りに至った。
↓天神橋筋商店街を延々と進めば善かったのだと気付かされた。
↓回り道でも何でも、目指してみた大阪天満宮に辿り着いたのは善かった。表大門を望んだ。
↓門の辺りに周辺案内図のようなモノが在って、郵便ポストが据えられていた。
↓境内案内図が、何かイラスト的で感じが好いと思った。
↓初詣で夥しい数の人々がやって来るということで、それへの備えが整う中、歳末の好天という中で少し賑わうような様子だった。
↑「御賽銭を遠くから投げないで下さい」と掲示が出ている。
↓社殿が金網で護られるというような様子になっていた。
↓無事に大阪に着いて、大阪天満宮を訪ねられたことに感謝の意を表し、辺りを一回りした。
神社そのものは、難波宮の北西を守護するとして650年に起こっている。<大将軍社>と呼ばれた。
901(延喜元)年、大宰府へ行くことになってしまった菅原道真が、この<大将軍社>に立寄って旅の安全を祈願したと伝わる。
やがて菅原道真に関連した天神信仰が拡がって行く。949(天暦3)年には、菅原道真が立寄ったと伝わる<大将軍社>の前に7本の松が生えて霊光を放っているという奇譚が囁かれ、都にも伝わる。それを聞いた村上天皇の勅命で<天満宮>が建立された。従前の<大将軍社>は摂社ということになり、この場所は<天満宮>を中心とする社になって行く。
永くこの<天満宮>は受継がれる。火災等で建物が損なわれることも在ったが、再建が繰り返されている。1724(享保9)年の火災で損なわれて再建された建物は、1837(天保8)年の大塩平八郎の乱に伴う火災で損なわれた。そして1843(天保14)年に建物が再建されているのだが、この建物は第2次大戦時の戦禍を免れて現在に受継がれているのだという。
↓右の頁が大阪天満宮の御朱印だ。確り頂いた。
↓表大門を潜って出ようとすれば、真上にこういうような干支で方角を示すようなモノが飾られていることに気付いた。
↑干支が美しいのだが、「酉」は鶏というよりも鳳凰のような姿で少し面白い。
↓そしてこういう<御神酒笑姿>(おみきえびす)という像も在る。
↓境内に蛭子遷殿を擁することに因むモノで人気が在るようだ。
↑2007年から<天満天神えびす祭>という催しも行われているようだ。戦後長く途絶えていた催事を復興したということであるという。
今般、大阪天満宮を訪ねてみて、大阪がより身近に感じられるようになった気もする。神社は一度訪ねて御終いではない。何度でも参拝に立寄る場所でもある。またゆっくりと訪ねてみたいものだ。
芭蕉像…:気比神宮:敦賀(2023.12.27)
気比神宮を訪ねて参拝し、広い境内の一部を歩き廻った。
↓こんな像が在ることに気付いた。
↑「誰?」と思ったが、何か「江戸時代辺りの文化人?」というような雰囲気だと感じられた。
↓「芭蕉像」とのことである。俳句の松尾芭蕉である。
↑松尾芭蕉は1702年に登場したという『おくのほそ道』の紀行で敦賀にも立寄っている。その時の句が『おくのほそ道』に在るようだが、そこから択んだ「月清し 遊行の持てる 砂の上」という句が像の台座等に刻まれている。
「月清し 遊行の持てる 砂の上」とは、歴代の遊行上人が持ち込んだと伝わる砂の上に、清らかな月光が放たれている、月光で砂が美しいというような意味であるらしい。
気比神宮は、松尾芭蕉の時代には既に「気比明神」と知られる神社であった。ここでは、嘗て遊行上人が辺りの葦を刈って、土砂持ち込んでぬかるんだ地面を整えて参道を改修したと伝えられている。そうしたことから歴代の上人が白い砂を神前に運ぶ習わしが在ったのだそうだ。そうした故事を踏まえ、秋の日の夜に気比明神を訪れて観た、月光が彩った景色の美しさを詠っている訳だ。
『おくのほそ道』の紀行は江戸から始まって、東北地方の太平洋岸寄りを北上し、仙台周辺の松島から平泉に至り、山を越えて日本海側に出て、日本海岸を南下して北陸に至っている。その中で敦賀にも立寄っている。越前国から近江国に入り、美濃国へ抜ける。美濃国の大垣から発つという辺り迄が『おくのほそ道』に綴られているのだそうだ。
↓150日間で2400㎞程を歩いたそうだ。単純に計算すると「1日に16㎞」となるが、方々で数日間滞在しながらの旅なのでそういう計算になるというだけで、毎日歩き続けた訳でもない。「Aを発ってBを目指す」と明確に決めて動く場合は40㎞弱を歩くのが江戸時代の旅立ったようである。松尾芭蕉もそうしたのであろう。
↑『おくのほそ道』の紀行は、なかなかの大旅行で、そして松尾芭蕉もそこを歩き抜いた訳で、何やら凄いと改めて思った。
自身、福井県内の敦賀から滋賀県内を通り抜けて京都に移動しているので、松尾芭蕉が辿った経路を半ば真似たような感じになった。自身の場合は。徒歩ではなく、列車に乗っているが…
こんな銅像を介して、思いも掛けず、少し知られた先人の事績に触れられた訳である。興味深いことだ。
↓こんな像が在ることに気付いた。
↑「誰?」と思ったが、何か「江戸時代辺りの文化人?」というような雰囲気だと感じられた。
↓「芭蕉像」とのことである。俳句の松尾芭蕉である。
↑松尾芭蕉は1702年に登場したという『おくのほそ道』の紀行で敦賀にも立寄っている。その時の句が『おくのほそ道』に在るようだが、そこから択んだ「月清し 遊行の持てる 砂の上」という句が像の台座等に刻まれている。
「月清し 遊行の持てる 砂の上」とは、歴代の遊行上人が持ち込んだと伝わる砂の上に、清らかな月光が放たれている、月光で砂が美しいというような意味であるらしい。
気比神宮は、松尾芭蕉の時代には既に「気比明神」と知られる神社であった。ここでは、嘗て遊行上人が辺りの葦を刈って、土砂持ち込んでぬかるんだ地面を整えて参道を改修したと伝えられている。そうしたことから歴代の上人が白い砂を神前に運ぶ習わしが在ったのだそうだ。そうした故事を踏まえ、秋の日の夜に気比明神を訪れて観た、月光が彩った景色の美しさを詠っている訳だ。
『おくのほそ道』の紀行は江戸から始まって、東北地方の太平洋岸寄りを北上し、仙台周辺の松島から平泉に至り、山を越えて日本海側に出て、日本海岸を南下して北陸に至っている。その中で敦賀にも立寄っている。越前国から近江国に入り、美濃国へ抜ける。美濃国の大垣から発つという辺り迄が『おくのほそ道』に綴られているのだそうだ。
↓150日間で2400㎞程を歩いたそうだ。単純に計算すると「1日に16㎞」となるが、方々で数日間滞在しながらの旅なのでそういう計算になるというだけで、毎日歩き続けた訳でもない。「Aを発ってBを目指す」と明確に決めて動く場合は40㎞弱を歩くのが江戸時代の旅立ったようである。松尾芭蕉もそうしたのであろう。
↑『おくのほそ道』の紀行は、なかなかの大旅行で、そして松尾芭蕉もそこを歩き抜いた訳で、何やら凄いと改めて思った。
自身、福井県内の敦賀から滋賀県内を通り抜けて京都に移動しているので、松尾芭蕉が辿った経路を半ば真似たような感じになった。自身の場合は。徒歩ではなく、列車に乗っているが…
こんな銅像を介して、思いも掛けず、少し知られた先人の事績に触れられた訳である。興味深いことだ。
<LAWSON>…(2024.01.11)
久し振りに朝の稚内を歩き廻った。
↓道草をして一息入れることにした。
↓現在の時点で、このチェーン店の御店としては、「日本国内で最北に在る」御店ということになるらしい…(※稚内にはそういう例は幾つも在ると思うが…)
↓これを利用した。
↓記憶が確かなら、レジで精算してカップを頂き、マシンを使ってカップに珈琲を注ぐというのは、このチェーンで導入されたのが早かったような気がする。最初は店員さんが珈琲を準備するような方式だったと記憶している。
↓何時の間にか、こういうような珈琲も「コンビニと言えば…」ということで連想するモノの1つになったかもしれない。
この手頃な珈琲を啜りながら、足元が好くない、低温の街を歩き廻った朝だった。
↓道草をして一息入れることにした。
↓現在の時点で、このチェーン店の御店としては、「日本国内で最北に在る」御店ということになるらしい…(※稚内にはそういう例は幾つも在ると思うが…)
↓これを利用した。
↓記憶が確かなら、レジで精算してカップを頂き、マシンを使ってカップに珈琲を注ぐというのは、このチェーンで導入されたのが早かったような気がする。最初は店員さんが珈琲を準備するような方式だったと記憶している。
↓何時の間にか、こういうような珈琲も「コンビニと言えば…」ということで連想するモノの1つになったかもしれない。
この手頃な珈琲を啜りながら、足元が好くない、低温の街を歩き廻った朝だった。
朝に…(2024.01.11)
<ニューヨーク・キューバンズ>のキャップ…(2024.01.07)
街並み…:岩瀬:富山(2023.12.26)
↓「北陸銀行」と看板は上がっているが、何か不思議な感じがする。江戸時代や明治時代の商家のような外観だ。
↑「北陸銀行」は富山に本店を構える地方銀行である。この建物も、奥を一寸覗けば普通に「銀行の支店」という様子だった。「北陸銀行」の前身の一つに「高岡銀行」が在り、その「高岡銀行」に収斂した幾つかの銀行の1つに「岩瀬銀行」が在る。建物の場所には、嘗てその「岩瀬銀行」が在ったようだ。
↓辺りには古くからの設えの建物が並ぶ。右は年季が入っているが、左は改築または新築の建物について、敢えて古くからの様式で設えた様子だ。
↓製品を試飲するような機会は設けられなかったが、酒造会社も立地していた。
↓色々な商品を販売する店舗であったが、何か古風な設えの建物だ。
↓真前に車輌を停めている人が在って、建物の全景を取り悪かったが、「富山信用金庫」も古風な設えの建物になっていた。
↑これでも中に入ってみれば、平日の日中は全国の信用金庫のカードで口座の資金を手数料無しで引き出せるという、普通のATMが在った。普通に利用してみた。何か、こういう建物の中でATMを利用すると少し不思議だが、内部は「普通な小規模な信用金庫の支店」という様子だった。
↓これは新聞販売店らしい。多分、普通な現代の建物なのだろうが、通に面した部分を「古い建物のような見掛けを意図して、板を貼って、戸を昔風に設えた」ということなのだと思う。
幾つかの例を見たが、辺りでは「古くからの街並み」というものを凄く大切にしている様子が伺える。訪ねた先で、こういうような様子に触れるのも少し面白い。
↑「北陸銀行」は富山に本店を構える地方銀行である。この建物も、奥を一寸覗けば普通に「銀行の支店」という様子だった。「北陸銀行」の前身の一つに「高岡銀行」が在り、その「高岡銀行」に収斂した幾つかの銀行の1つに「岩瀬銀行」が在る。建物の場所には、嘗てその「岩瀬銀行」が在ったようだ。
↓辺りには古くからの設えの建物が並ぶ。右は年季が入っているが、左は改築または新築の建物について、敢えて古くからの様式で設えた様子だ。
↓製品を試飲するような機会は設けられなかったが、酒造会社も立地していた。
↓色々な商品を販売する店舗であったが、何か古風な設えの建物だ。
↓真前に車輌を停めている人が在って、建物の全景を取り悪かったが、「富山信用金庫」も古風な設えの建物になっていた。
↑これでも中に入ってみれば、平日の日中は全国の信用金庫のカードで口座の資金を手数料無しで引き出せるという、普通のATMが在った。普通に利用してみた。何か、こういう建物の中でATMを利用すると少し不思議だが、内部は「普通な小規模な信用金庫の支店」という様子だった。
↓これは新聞販売店らしい。多分、普通な現代の建物なのだろうが、通に面した部分を「古い建物のような見掛けを意図して、板を貼って、戸を昔風に設えた」ということなのだと思う。
幾つかの例を見たが、辺りでは「古くからの街並み」というものを凄く大切にしている様子が伺える。訪ねた先で、こういうような様子に触れるのも少し面白い。
森家…馬場家…:岩瀬:富山(2023.12.26)
富山の岩瀬は、北前船による交易で栄えた経過が在る地域だ。岩瀬は、古く「三津七湊」(さんしんしちそう)と呼ばれた各地の重要な港の1つに数えられていた。
北前船による交易は、積んで出た品物を寄港地で売り、寄港地で積んだ品物を次の寄港地で売るというような、「移動する百貨店」というような様子も在ったようだが、他方に主軸となる取引が在った。岩瀬等の北陸の船は、北陸の米を積み込んで、米を作っていなかった蝦夷地(現在の北海道等)へ持ち込んで売り、肥料として農業を支える鰊粕を仕入れるというようなことで大きな利益を上げていたそうだ。鰊粕は肥料として重要視され、北陸に戻ってから方々に高く売れたようだ。船が動く先々で、その積荷が高く売れれば、北陸から蝦夷地の往路でも、蝦夷地から北陸の復路でも取引が成立するのなら、そうした取引を運営する商人は莫大な利益を得られる訳である。
↓北前船による交易を手掛けていたという森家の店舗兼住宅の建物が岩瀬に伝わっている。
↓有料だが中も見学可能だ。
↓森家の関係者が着用したらしい半纏が飾られていた。
↓伝えられている細々としたモノが展示されていた。
↓更に馬場家が在る。こちらも有料だが中も見学可能だ。隣接していて、森家、馬場家の共通券というモノも在る。今般はその共通券を利用した。
↓馬場家は、岩瀬で北前船の交易に携わっていた家では、最も大きな事業を手掛けていたという。
↓馬場家の建物には大きな広間が設えられていた。
↓蔵に往年の金庫が並べられていた様子が面白かった。
↓重厚な設えが凄く興味深い。
馬場家については、北前船が廃れて以降も汽船による海運業を手掛けていたという。更に、富山の近代化の中で、教育機関を興す際に大きな寄付を行った経過が伝えられ、地域の歴史を創るような大きな存在感を示した。
北前船で栄えたという地域の面影が伝わる場所を訪ねてみるというのも非常に興味深い。
北前船による交易は、積んで出た品物を寄港地で売り、寄港地で積んだ品物を次の寄港地で売るというような、「移動する百貨店」というような様子も在ったようだが、他方に主軸となる取引が在った。岩瀬等の北陸の船は、北陸の米を積み込んで、米を作っていなかった蝦夷地(現在の北海道等)へ持ち込んで売り、肥料として農業を支える鰊粕を仕入れるというようなことで大きな利益を上げていたそうだ。鰊粕は肥料として重要視され、北陸に戻ってから方々に高く売れたようだ。船が動く先々で、その積荷が高く売れれば、北陸から蝦夷地の往路でも、蝦夷地から北陸の復路でも取引が成立するのなら、そうした取引を運営する商人は莫大な利益を得られる訳である。
↓北前船による交易を手掛けていたという森家の店舗兼住宅の建物が岩瀬に伝わっている。
↓有料だが中も見学可能だ。
↓森家の関係者が着用したらしい半纏が飾られていた。
↓伝えられている細々としたモノが展示されていた。
↓更に馬場家が在る。こちらも有料だが中も見学可能だ。隣接していて、森家、馬場家の共通券というモノも在る。今般はその共通券を利用した。
↓馬場家は、岩瀬で北前船の交易に携わっていた家では、最も大きな事業を手掛けていたという。
↓馬場家の建物には大きな広間が設えられていた。
↓蔵に往年の金庫が並べられていた様子が面白かった。
↓重厚な設えが凄く興味深い。
馬場家については、北前船が廃れて以降も汽船による海運業を手掛けていたという。更に、富山の近代化の中で、教育機関を興す際に大きな寄付を行った経過が伝えられ、地域の歴史を創るような大きな存在感を示した。
北前船で栄えたという地域の面影が伝わる場所を訪ねてみるというのも非常に興味深い。
大避神社…:坂越(2024.01.02)
↓「大避神社」という字で「おおさけじんじゃ」と読む。
↓坂越の宝珠山の麓辺りに在る神社だ。
↓立寄って参拝した。
倭国へ渡来した秦氏の一族であった秦河勝は、厩戸皇子(聖徳太子)の下で活躍していたが、皇子の死後となる644年頃に海路で坂越に移ったと伝えられる。そして坂越で他界してしまった後、坂越浦の生島(いきしま)に墓が設けられ、祀られたことがこの神社の起こりとされている。生島は神社の神域であり、現在でも原則的に人の立入が禁じられている。
そうした相当に古い時期の起ったとされる大避神社は既に中世から辺りの有力な神社として知られていたという。汐待の船が多数出入りし、北前船の寄港も見受けられ、赤穂の塩の搬送等の海運業で栄えた坂越で広く崇敬され続けた神社である。
↓社殿である。
↓1769年の建物と伝わるそうだが、細かい彫刻が見事だと思った。
↓氏子が供えた提灯が多数飾られていた。美しい様子だと思った。
↓色々な時代に奉納された画が掛けられていた。興味深く拝見した。
↓虎と龍だ。
↓海の仕事に携わる人達が、こうした画を奉納したのであろう。
↓「平成」という元号が入ったモノも眼にした。今でもこういう奉納は行われているのであろう。
↓「清めの塩」を頂いた。
↓海と、神域の生島を望む辺りに鎮座する神社だ。
↓坂越浦と共に在り続ける大避神社である。何か強く記憶に残る。
↓坂越の宝珠山の麓辺りに在る神社だ。
↓立寄って参拝した。
倭国へ渡来した秦氏の一族であった秦河勝は、厩戸皇子(聖徳太子)の下で活躍していたが、皇子の死後となる644年頃に海路で坂越に移ったと伝えられる。そして坂越で他界してしまった後、坂越浦の生島(いきしま)に墓が設けられ、祀られたことがこの神社の起こりとされている。生島は神社の神域であり、現在でも原則的に人の立入が禁じられている。
そうした相当に古い時期の起ったとされる大避神社は既に中世から辺りの有力な神社として知られていたという。汐待の船が多数出入りし、北前船の寄港も見受けられ、赤穂の塩の搬送等の海運業で栄えた坂越で広く崇敬され続けた神社である。
↓社殿である。
↓1769年の建物と伝わるそうだが、細かい彫刻が見事だと思った。
↓氏子が供えた提灯が多数飾られていた。美しい様子だと思った。
↓色々な時代に奉納された画が掛けられていた。興味深く拝見した。
↓虎と龍だ。
↓海の仕事に携わる人達が、こうした画を奉納したのであろう。
↓「平成」という元号が入ったモノも眼にした。今でもこういう奉納は行われているのであろう。
↓「清めの塩」を頂いた。
↓海と、神域の生島を望む辺りに鎮座する神社だ。
↓坂越浦と共に在り続ける大避神社である。何か強く記憶に残る。
坂越駅…(2024.01.02)
大阪駅から乗車した列車は「新快速」だった。停車駅は少なく、姫路駅迄は1時間余りだった。姫路駅で車輌の切り離しで少し長く停車する。以降は各駅に停車し、赤穂線に入って坂越駅まで30分弱という感じだ。
↓「ここまで運んでくれて有難う!」という感じで、播州赤穂駅へ向かう列車を見送った。
↑8輌の列車が停まるようなホームで、なかなかに長い。
↓坂越駅こういう駅だ。
↑駅員さんが居たが、不在の時間帯も在るようだ。券売機も在るが、窓口で切符を販売している。ICカード乗車券の改札機が設置されている。御手洗は在るが、ロッカーは見当たらなかった。
↓地域のことを紹介するパネルが掲出されていた。
↓こういう身軽な荷物で坂越を歩き廻り、坂越駅に引揚げた。
↓駅員さんが居ない時間帯になっていた。
↓券売機の辺りに路線図と運賃だ。
↑隣の駅が播州赤穂で播磨国だが、次の次は備前福河で備前国だ。「国境」である。そして兵庫県の県庁所在地の神戸に向かうよりも、隣県の県庁所在地である岡山に向かう方が運賃が安い。岡山県にかなり近い。辺りは兵庫県の西端辺りという感じになる。
↓日中の「1時間に各方向の列車が各1本」という時間帯に入っていた。
↓姫路駅を経て、三ノ宮駅を目指す事にした。
↓存外に賑わっていたように感じた。やって来た列車に乗って移動だ。
こんな小さな駅の風情が好い。「列車で一寸訪ねて歩き廻る」というには程好いような感じである場所だとも思った。
↓「ここまで運んでくれて有難う!」という感じで、播州赤穂駅へ向かう列車を見送った。
↑8輌の列車が停まるようなホームで、なかなかに長い。
↓坂越駅こういう駅だ。
↑駅員さんが居たが、不在の時間帯も在るようだ。券売機も在るが、窓口で切符を販売している。ICカード乗車券の改札機が設置されている。御手洗は在るが、ロッカーは見当たらなかった。
↓地域のことを紹介するパネルが掲出されていた。
↓こういう身軽な荷物で坂越を歩き廻り、坂越駅に引揚げた。
↓駅員さんが居ない時間帯になっていた。
↓券売機の辺りに路線図と運賃だ。
↑隣の駅が播州赤穂で播磨国だが、次の次は備前福河で備前国だ。「国境」である。そして兵庫県の県庁所在地の神戸に向かうよりも、隣県の県庁所在地である岡山に向かう方が運賃が安い。岡山県にかなり近い。辺りは兵庫県の西端辺りという感じになる。
↓日中の「1時間に各方向の列車が各1本」という時間帯に入っていた。
↓姫路駅を経て、三ノ宮駅を目指す事にした。
↓存外に賑わっていたように感じた。やって来た列車に乗って移動だ。
こんな小さな駅の風情が好い。「列車で一寸訪ねて歩き廻る」というには程好いような感じである場所だとも思った。
大阪駅にて…(2024.01.02)
↓大阪駅に立寄った。
↓新今宮駅から大阪環状線の列車で大阪駅に着いたのだった。
↓各方面への様々な種類の列車が発着する大阪駅である。列車の案内も判り易く掲出されている。
↑大阪以北、京都等へ向かう線を「京都線」、大阪以西、神戸等へ向かう線を「神戸線」と呼び習わしている。停車駅が多い順番に「普通」、「快速」、「新快速」である。今般は播州赤穂駅へ向かう列車に乗る。
↓関西空港への列車の乗車位置を案内する掲示が何となく眼に留まった。大阪駅から乗車する国内外の乗客が多いのであろう。
↓列車がやって来た。
↓12輌編成だが、姫路駅で4輌切り離すということなので、姫路以遠に進む側の乗車口から乗り込んだ。
↓身軽に動き廻っている。
↓1時間半余りの乗車という予定だ。ゆっくりと車中で過ごす。
この日は、夕方に神戸空港に入って新千歳空港に発つ前の時間を利用して、坂越(兵庫県赤穂市)を訪ねてみることにして<青春18きっぷ>を使った。こういうような感じが気に入っている。
↓新今宮駅から大阪環状線の列車で大阪駅に着いたのだった。
↓各方面への様々な種類の列車が発着する大阪駅である。列車の案内も判り易く掲出されている。
↑大阪以北、京都等へ向かう線を「京都線」、大阪以西、神戸等へ向かう線を「神戸線」と呼び習わしている。停車駅が多い順番に「普通」、「快速」、「新快速」である。今般は播州赤穂駅へ向かう列車に乗る。
↓関西空港への列車の乗車位置を案内する掲示が何となく眼に留まった。大阪駅から乗車する国内外の乗客が多いのであろう。
↓列車がやって来た。
↓12輌編成だが、姫路駅で4輌切り離すということなので、姫路以遠に進む側の乗車口から乗り込んだ。
↓身軽に動き廻っている。
↓1時間半余りの乗車という予定だ。ゆっくりと車中で過ごす。
この日は、夕方に神戸空港に入って新千歳空港に発つ前の時間を利用して、坂越(兵庫県赤穂市)を訪ねてみることにして<青春18きっぷ>を使った。こういうような感じが気に入っている。
白海老のかき揚げ丼…(2023.12.26)
富山で朝から動き廻っていて「昼食?」という時間帯に至った。
↓何やら食事を摂ることが出来そうな御店に出くわした。
↓色々と選択の幅も在りそうで、中に入ってみた。
↓白海老のかき揚げ丼を御願いした。米飯は若干少な目ということにした。
白海老はホタルイカやブリと並んで、富山を代表する海産物とされ、「富山湾の宝石」とも言われているそうだ。淡白でありながら、甘味が感じられる上品な味わいの海老だ。
↓こういうような様子で供された。
↓材料の美味さが束になったようなかき揚げが素晴らしかった。
↓ランチのメニューからは外れているらしいが、ホタルイカの沖漬けを御願いして摘まんでしまった。これも富山を代表するモノだ。
↓序にこういう飲物も頂いた。
休業の期間、出先に在っての昼食を確り愉しんだという感だ。
↓何やら食事を摂ることが出来そうな御店に出くわした。
↓色々と選択の幅も在りそうで、中に入ってみた。
↓白海老のかき揚げ丼を御願いした。米飯は若干少な目ということにした。
白海老はホタルイカやブリと並んで、富山を代表する海産物とされ、「富山湾の宝石」とも言われているそうだ。淡白でありながら、甘味が感じられる上品な味わいの海老だ。
↓こういうような様子で供された。
↓材料の美味さが束になったようなかき揚げが素晴らしかった。
↓ランチのメニューからは外れているらしいが、ホタルイカの沖漬けを御願いして摘まんでしまった。これも富山を代表するモノだ。
↓序にこういう飲物も頂いた。
休業の期間、出先に在っての昼食を確り愉しんだという感だ。
川越八幡宮…(2023.12.25)
↓川越にも八幡宮が在る。
↓街を歩き回り、JR川越駅へ向かう途中で出会った。
↓小さめながら、何か重厚な感じがした社だった。
↓「あと六年」という幟が見受けられる。川越八幡宮は、1030(長元3)年に源頼信が平忠常との戦に勝利することを祈願し、願いが叶って勝利したことを受けて創祀したと伝えられる。とすると?2030年で「創祀千年」である。それを踏まえた「あと六年」だ。
↑殆ど千年に及ぶ歴史が詰まった場所が、この川越八幡宮である。
↓何か雰囲気の好い神社だった。
↓参拝し、御朱印も頂いた。今般は川越に出くわし、好天の中で歩き廻り、愉しく過ごせたことが非常に好かった。
↓鳥居と光とが醸し出す雰囲気というようなモノを神社で眺めるのが一寸好きだ。
川越に関しては「列車で辿り着いて、何となく歩き廻るという感じの場所」というのが、個人的には酷く気に入った。戻って、然程の時日を経ていないが、早くも「何時かまた…」という程度に思っていることに気付かされる。
↓街を歩き回り、JR川越駅へ向かう途中で出会った。
↓小さめながら、何か重厚な感じがした社だった。
↓「あと六年」という幟が見受けられる。川越八幡宮は、1030(長元3)年に源頼信が平忠常との戦に勝利することを祈願し、願いが叶って勝利したことを受けて創祀したと伝えられる。とすると?2030年で「創祀千年」である。それを踏まえた「あと六年」だ。
↑殆ど千年に及ぶ歴史が詰まった場所が、この川越八幡宮である。
↓何か雰囲気の好い神社だった。
↓参拝し、御朱印も頂いた。今般は川越に出くわし、好天の中で歩き廻り、愉しく過ごせたことが非常に好かった。
↓鳥居と光とが醸し出す雰囲気というようなモノを神社で眺めるのが一寸好きだ。
川越に関しては「列車で辿り着いて、何となく歩き廻るという感じの場所」というのが、個人的には酷く気に入った。戻って、然程の時日を経ていないが、早くも「何時かまた…」という程度に思っていることに気付かされる。
朝に…(2024.01.10)
TSURUGA2024…(2023.12.28)
敦賀の街をゆっくり歩き、敦賀駅を目指していた。少し静かな商店街を通っていた。
↓こういう看板、またはポスターが掲出されていることに気付いた。
↑「何だろう?」と足を停めたのだが、辺りに説明か何かのようなモノは見当たらなかった。「TSURUGA2024」とは「敦賀2024」であろうか?2023年が残り少なくなっていた中、放っておいても2024年は程無くやって来る訳だが。
気になったので「TSURUGA2024」を調べた。敦賀市役所に「新幹線誘客課」という部署が在って、「つるがキャンペーン」というインスタグラムのアカウントを設けて情報発信をしているそうだ。それがここで見掛けた「TSURUGA2024」の意味だと思う。
最近は、何かを広く紹介するとなれば「インスタグラムのアカウント」という感じなのだろうか?個人的には、「TSURUGA2024」が酷く漠然としていて「何だろう?」と注目した。
北陸新幹線の敦賀開業が近付き、地元では期待が高まっている様子が感じられた。何処かから敦賀を訪ねるのも好いが、「敦賀から始まる旅」ということで好い思い出が出来るという考え方も面白いのかもしれないと個人的には思う。
今般、敦賀に立寄って色々と興味深かった。多分、遠からず再訪を計画し、実行するというような気がする。
↓こういう看板、またはポスターが掲出されていることに気付いた。
↑「何だろう?」と足を停めたのだが、辺りに説明か何かのようなモノは見当たらなかった。「TSURUGA2024」とは「敦賀2024」であろうか?2023年が残り少なくなっていた中、放っておいても2024年は程無くやって来る訳だが。
気になったので「TSURUGA2024」を調べた。敦賀市役所に「新幹線誘客課」という部署が在って、「つるがキャンペーン」というインスタグラムのアカウントを設けて情報発信をしているそうだ。それがここで見掛けた「TSURUGA2024」の意味だと思う。
最近は、何かを広く紹介するとなれば「インスタグラムのアカウント」という感じなのだろうか?個人的には、「TSURUGA2024」が酷く漠然としていて「何だろう?」と注目した。
北陸新幹線の敦賀開業が近付き、地元では期待が高まっている様子が感じられた。何処かから敦賀を訪ねるのも好いが、「敦賀から始まる旅」ということで好い思い出が出来るという考え方も面白いのかもしれないと個人的には思う。
今般、敦賀に立寄って色々と興味深かった。多分、遠からず再訪を計画し、実行するというような気がする。
氷川神社…:川越(2023.12.25)
↓川越で大きな存在感を示す神社として氷川神社が在る。
↑大宮にも氷川神社が在るが、相当古い時代に勧請されたと伝えられる神社で、歴代のこの地域を治めた人達の崇敬を受け、寄進も受けた経過が在る神社である。故に「総鎮守」とされる。更に<川越まつり>という催事は、本来はこの神社の祭礼ということになる<川越氷川祭>である。
↓街を歩き廻って、辿り着いた辺りから境内に進んだ。
↓趣深い額が鳥居に掛けられていた。
↓地域の人達に敬愛され、祈祷も色々と行われている様子である。
↓手水鉢の辺りの雰囲気が好かった。
↓龍が美しい。
↓存外に賑わっていて、写真はやや撮り悪い感ではあったが、確り参拝した。川越の地に辿り着き、心地好く、愉しく過ごす機会を設けられたことに大感謝である。御朱印も頂いた。
↑大宮にも氷川神社が在るが、相当古い時代に勧請されたと伝えられる神社で、歴代のこの地域を治めた人達の崇敬を受け、寄進も受けた経過が在る神社である。故に「総鎮守」とされる。更に<川越まつり>という催事は、本来はこの神社の祭礼ということになる<川越氷川祭>である。
↓街を歩き廻って、辿り着いた辺りから境内に進んだ。
↓趣深い額が鳥居に掛けられていた。
↓地域の人達に敬愛され、祈祷も色々と行われている様子である。
↓手水鉢の辺りの雰囲気が好かった。
↓龍が美しい。
↓存外に賑わっていて、写真はやや撮り悪い感ではあったが、確り参拝した。川越の地に辿り着き、心地好く、愉しく過ごす機会を設けられたことに大感謝である。御朱印も頂いた。
波止場横丁の夕べ…(2024.01.07)
↓「午後4時頃」に多少の明るさが残るような様子になって来たと思う。サウナを利用した後の道草である。
↓馴染んでいる暖簾を潜る。
↓御通しを摘まんでハイボールを頂く。
↓御通しの素麺が凄く好かった。
↓大変に気に入っている手羽先焼を頂く。
↓そして明太子のおにぎりだ。
↓戸外に出て数歩動く。
↓もう1軒立寄った。
↓切らしてしまった、この御店の「チケット」を求め、<さくら白波>を所望した。
↓こういう具合に頂くのが好い。
↓また戸外に出て数歩動く。
↓更に1軒立寄った。
↓着席してハイボールを頂く。
↓大阪の流儀のドテ煮を摘みながらハイボールという感じが気に入っている。
↓タコ…
↓エビ…
↓豚バラ新しょうが…
↓ウズラ…
という具合に各種串カツを愉しんだ。
↓やがて冷奴を頂きながら寛いだ。
波止場横丁に現在は3軒の御店だ。3軒各々に立寄ってしまった夕べだった。こういうのも好い。
↓馴染んでいる暖簾を潜る。
↓御通しを摘まんでハイボールを頂く。
↓御通しの素麺が凄く好かった。
↓大変に気に入っている手羽先焼を頂く。
↓そして明太子のおにぎりだ。
↓戸外に出て数歩動く。
↓もう1軒立寄った。
↓切らしてしまった、この御店の「チケット」を求め、<さくら白波>を所望した。
↓こういう具合に頂くのが好い。
↓また戸外に出て数歩動く。
↓更に1軒立寄った。
↓着席してハイボールを頂く。
↓大阪の流儀のドテ煮を摘みながらハイボールという感じが気に入っている。
↓タコ…
↓エビ…
↓豚バラ新しょうが…
↓ウズラ…
という具合に各種串カツを愉しんだ。
↓やがて冷奴を頂きながら寛いだ。
波止場横丁に現在は3軒の御店だ。3軒各々に立寄ってしまった夕べだった。こういうのも好い。