前日に敦賀に着いた。そして昼過ぎ迄は敦賀を散策しようということにした。<人道の港 敦賀ムゼウム>や<敦賀市立博物館>等々、前日に観ていない場所を訪ねながら、もう少し街を歩きたかったのだ。
↓気比神宮の鳥居の辺りを通った。
↑独特な拡がり方を見せる雲と鳥居との組み合わさった様子が面白いと思い、暫し足を停めて見入った。
↓初詣で大いに賑わうのであろうが、少しだけ静かな年末の風情が好いと思った。
この気比神宮の大きな鳥居のようなモノは、時季、時間帯、天候が変われば変わった見え方をする筈で、そういう様々な様子をも眺める機会が設けられれば幸いである。
丸型ポスト…:川越商工会議所前(2023.12.25)
↓古風な建物の辺りには、古風な郵便ポストが似合うと思う。
↓川越商工会議所は旧い建物が現役らしいが、このポストも現役である。
↑丸型ポストの脇に、駅や有名な景観の辺りへの矢印が入った道標が据えられている。こういうのを見ると「街が“歩く場所”を規定されている」という感じがする。街は車輌で通過する場所ということではなく、寧ろ歩き廻る場所だと個人的には思うので、こういう案内には交換を抱く。
さり気無く据えられた丸型ポストが何となく似合うような場所というのは、通り掛って心地が好いかもしれない。そんなことを想いながら辺りを通り過ぎた。
↓川越商工会議所は旧い建物が現役らしいが、このポストも現役である。
↑丸型ポストの脇に、駅や有名な景観の辺りへの矢印が入った道標が据えられている。こういうのを見ると「街が“歩く場所”を規定されている」という感じがする。街は車輌で通過する場所ということではなく、寧ろ歩き廻る場所だと個人的には思うので、こういう案内には交換を抱く。
さり気無く据えられた丸型ポストが何となく似合うような場所というのは、通り掛って心地が好いかもしれない。そんなことを想いながら辺りを通り過ぎた。
昼に…(2024.01.08)
休業の月曜日に昼食を摂りに出掛けた。
↓こういうコンビが迎えてくれた。
↑低温の雪は粘り気が弱く、雪ダルマを造るには不向きだ。これは数日前に少し湿り気が多い感じの雪だった時、御店の方が造ってみたのだそうだ。ビール瓶を開けた時の王冠を巧く使っていて、一寸面白い雪ダルマだ。
↓営業中を示す幟に導かれて御店に入った。入口辺りの雪ダルマが面白いと話題にすれば、御店の方は「話題にして頂く方も無く、少し寂しかった」と喜んで頂いた。
↓少しばかり戸外を歩いただけでも、温かい飲物でも欲しくなる氷点下の気温だ。<赤霧島>を御湯割りにして頂いた。何か「芳香が立ち込めるハーブティー」という気分で御湯割りを愉しんだ。
↓カツサンドを頂く。何か「休業日の昼食」という感じで、少し定着して来たかもしれない。
↓薩摩揚を焼いたモノを頂いた。こういうモノを摘みながらお湯割りというのも非常に好い。
↓プリンが載ったパフェを御願いした。
↓このパフェも「休業日の御愉しみ」という感じになって来ている。
↓昼の一時、随分と寛いだ。こういう場所も有難い。
↓こういうコンビが迎えてくれた。
↑低温の雪は粘り気が弱く、雪ダルマを造るには不向きだ。これは数日前に少し湿り気が多い感じの雪だった時、御店の方が造ってみたのだそうだ。ビール瓶を開けた時の王冠を巧く使っていて、一寸面白い雪ダルマだ。
↓営業中を示す幟に導かれて御店に入った。入口辺りの雪ダルマが面白いと話題にすれば、御店の方は「話題にして頂く方も無く、少し寂しかった」と喜んで頂いた。
↓少しばかり戸外を歩いただけでも、温かい飲物でも欲しくなる氷点下の気温だ。<赤霧島>を御湯割りにして頂いた。何か「芳香が立ち込めるハーブティー」という気分で御湯割りを愉しんだ。
↓カツサンドを頂く。何か「休業日の昼食」という感じで、少し定着して来たかもしれない。
↓薩摩揚を焼いたモノを頂いた。こういうモノを摘みながらお湯割りというのも非常に好い。
↓プリンが載ったパフェを御願いした。
↓このパフェも「休業日の御愉しみ」という感じになって来ている。
↓昼の一時、随分と寛いだ。こういう場所も有難い。
<1日乗車券 エンジョイエコカード>…(2023.12.31)
堺筋本町駅にて…(2023.12.31)
気比神宮…(2023.12.27)
敦賀に着いて、宿を求めたのだったが、宿に入る前に是非とも気比神宮を訪ねてみたかった。
敦賀駅には観光案内の窓口も在り、辺りを歩き廻る際に使い易い地図も頂ける。ハッキリ言おう。自身にとっては、その種の紙の地図が最も使い易いのだ。その地図を参照して街を歩き、気比神宮に辿り着いた。
↓非常に大きな鳥居で、凄い存在感だ。
↑既に嵯峨天皇の時代である810(弘仁元)年には鳥居が設けられたと伝わる。そういう古い鳥居は災害等で損なわれた経過が在って、1645(正保2)年に礎石を現在位置に移して大きな鳥居を建てた。それが現在に伝わる鳥居であるのだという。扁額は有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)(1862-1913)の筆であるそうだ。
↓明治期以降に神社の格付けをしているが、「官幣大社」とは、「全ての神社の上に在り、社格のない特別な存在」とされた伊勢神宮を除いて、最上級の格付けである。
↑古くから「北陸道総鎮守」、「越前国一宮」とされて崇敬された神社だ。
『古事記』や『日本書紀』では仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の時期にこの気比神宮の場所い纏わる記述が在るのだという。こういうような時代に関しては「西暦XXX年」と言い悪い面も在るが、西暦200年よりも以前に神社が起こっているというような話しになる。要は、相当に古くから在る神社という訳だ。そして古代、中世、近世と神社の経過が在って、明治期以降の近代になる。更に現代に迄、神社は受継がれている。
↓大きな鳥居を潜った後、社殿の辺りに至った。
↓国内外からの来訪者が散見した境内ではあったが、人通りが途切れる間隙も在った。「茅の輪くぐり」の設えが在る社殿の美しい様子を眺めていた。
↓少し前に雪が降り積もった日は在ったのだろう。些か雪は残っていたが、気になる程でもなかった。
↑重要な港を要する敦賀は第2次大戦期の戦禍で色々と古い建物等が損なわれている経過も在るという。気比神宮の建物も戦後の再建が多いそうだ。
↓確り参拝した。左側が気比神宮の御朱印だ。
↓気比神宮に立寄ることが出来て善かった。こういう眺めが「忘れ難い眺め」に数えられるようになると思う。
敦賀駅には観光案内の窓口も在り、辺りを歩き廻る際に使い易い地図も頂ける。ハッキリ言おう。自身にとっては、その種の紙の地図が最も使い易いのだ。その地図を参照して街を歩き、気比神宮に辿り着いた。
↓非常に大きな鳥居で、凄い存在感だ。
↑既に嵯峨天皇の時代である810(弘仁元)年には鳥居が設けられたと伝わる。そういう古い鳥居は災害等で損なわれた経過が在って、1645(正保2)年に礎石を現在位置に移して大きな鳥居を建てた。それが現在に伝わる鳥居であるのだという。扁額は有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)(1862-1913)の筆であるそうだ。
↓明治期以降に神社の格付けをしているが、「官幣大社」とは、「全ての神社の上に在り、社格のない特別な存在」とされた伊勢神宮を除いて、最上級の格付けである。
↑古くから「北陸道総鎮守」、「越前国一宮」とされて崇敬された神社だ。
『古事記』や『日本書紀』では仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の時期にこの気比神宮の場所い纏わる記述が在るのだという。こういうような時代に関しては「西暦XXX年」と言い悪い面も在るが、西暦200年よりも以前に神社が起こっているというような話しになる。要は、相当に古くから在る神社という訳だ。そして古代、中世、近世と神社の経過が在って、明治期以降の近代になる。更に現代に迄、神社は受継がれている。
↓大きな鳥居を潜った後、社殿の辺りに至った。
↓国内外からの来訪者が散見した境内ではあったが、人通りが途切れる間隙も在った。「茅の輪くぐり」の設えが在る社殿の美しい様子を眺めていた。
↓少し前に雪が降り積もった日は在ったのだろう。些か雪は残っていたが、気になる程でもなかった。
↑重要な港を要する敦賀は第2次大戦期の戦禍で色々と古い建物等が損なわれている経過も在るという。気比神宮の建物も戦後の再建が多いそうだ。
↓確り参拝した。左側が気比神宮の御朱印だ。
↓気比神宮に立寄ることが出来て善かった。こういう眺めが「忘れ難い眺め」に数えられるようになると思う。
朝に…(2024.01.09)
夕べに…(2024.01.06)
<船場センタービル>…(2023.12.31)
大阪では南北に延びる道を「筋」、東西に延びる道を「通」と呼び習わす。こういう区別が、存外に合理的で好いというように思う場合も多い。
その「筋」の代表的なモノである御堂筋で、南側の難波辺りを起点に北上し、本町に至った。
↓高速道路の高架の下に建物が在って、<船場センタービル>と称している。
↓大晦日なので、<船場センタービル>のテナントも閉まっている。が、それはそれとして、空間と光の醸し出す雰囲気は好い。
この辺りでは、地下鉄御堂筋線の本町駅が近いので、そこから地下鉄を利用して滞在中の宿に引揚げることが出来ると思った。が、一寸思った。御堂筋から東側の堺筋に進み、地下鉄の堺筋線を利用すると、特段に乗換えも無く、目指したい天神橋筋六丁目駅に至ることが叶うのである。
↓この辺りで東西を結ぶ道である中央大通に入って、東寄りを目指すこととした。
↓中央大通と並行するような高速道路の高架下には、相当に長い範囲で建物が建っている。何となく見ると「延々と続いている?」というようにも見える。
↓<船場センタービル>の「9」というような表示が在った。
↓少し進むと<船場センタービル>の「8」というような表示で「心斎橋筋」とも示されている。
<船場センタービル>は1970(昭和45)年にオープンしたという。辺りの東西を結ぶ道を拡幅して中央大通を整備しようとした際、移転をせねばならない様々な沿道の用地利用者の補償のため、従前利用していた面積が利用可能になることを目指し、高速道路の高架の下に10棟のビルを建てたというモノなのだ。「1号館」から「10号館」まで在り、写真は「9号館」や「8号館」ということになる。
↓進み続ける。「7」は「7号館」だ。「丼池筋」(どぶいけすじ)という表示も在る。
↓「6」は「6号館」だ。「三休橋筋」(さんきゅうばしすじ)という表示も在る。
↓「5」は「5号館」で「中橋筋」(なかばしすじ)となっている。
↓「4」は「4号館」で「藤中橋筋」(ふじなかばしすじ)となっているが、古くは難波橋筋(なにわばしすじ)と呼ばれた。街の変遷の中で難波橋が架け替えられて辺りに無くなり、新しい藤中橋が架かったことから藤中橋筋という呼び方が登場したのだという。
↓漸く地下鉄堺筋線の堺筋本町駅の出入口が見えた。
↓堺筋の辺りも、先程見ている御堂筋辺りと同じような設えが見受けられる。
結局、御堂筋から堺筋へ向けて中央大通を歩き、中央大通と交わる何本もの「筋」を見たということになった。他方、後から考えると御堂筋辺りの本町駅と堺筋本町駅とは地下鉄の中央線で結ばれて1駅間だった。それに乗車しても好かった訳だが、その時は「一寸だけ歩けば…」というようにしか考えなかったのだ。
<船場センタービル>について、御堂筋の辺りで中を通って地下鉄御堂筋線の駅に出入した、または館内の御店で食事を摂ったということは在った。が、高速道路の高架下に拡がる様子をゆっくり眺めるという機会は、設けられそうで設け悪いかもしれない。そういう意味で、何となく歩いて面白かった。出先では、こういうような「何となく面白い」を少しずつ重ねる程度の過ごし方をするのが好いのかもしれない。
その「筋」の代表的なモノである御堂筋で、南側の難波辺りを起点に北上し、本町に至った。
↓高速道路の高架の下に建物が在って、<船場センタービル>と称している。
↓大晦日なので、<船場センタービル>のテナントも閉まっている。が、それはそれとして、空間と光の醸し出す雰囲気は好い。
この辺りでは、地下鉄御堂筋線の本町駅が近いので、そこから地下鉄を利用して滞在中の宿に引揚げることが出来ると思った。が、一寸思った。御堂筋から東側の堺筋に進み、地下鉄の堺筋線を利用すると、特段に乗換えも無く、目指したい天神橋筋六丁目駅に至ることが叶うのである。
↓この辺りで東西を結ぶ道である中央大通に入って、東寄りを目指すこととした。
↓中央大通と並行するような高速道路の高架下には、相当に長い範囲で建物が建っている。何となく見ると「延々と続いている?」というようにも見える。
↓<船場センタービル>の「9」というような表示が在った。
↓少し進むと<船場センタービル>の「8」というような表示で「心斎橋筋」とも示されている。
<船場センタービル>は1970(昭和45)年にオープンしたという。辺りの東西を結ぶ道を拡幅して中央大通を整備しようとした際、移転をせねばならない様々な沿道の用地利用者の補償のため、従前利用していた面積が利用可能になることを目指し、高速道路の高架の下に10棟のビルを建てたというモノなのだ。「1号館」から「10号館」まで在り、写真は「9号館」や「8号館」ということになる。
↓進み続ける。「7」は「7号館」だ。「丼池筋」(どぶいけすじ)という表示も在る。
↓「6」は「6号館」だ。「三休橋筋」(さんきゅうばしすじ)という表示も在る。
↓「5」は「5号館」で「中橋筋」(なかばしすじ)となっている。
↓「4」は「4号館」で「藤中橋筋」(ふじなかばしすじ)となっているが、古くは難波橋筋(なにわばしすじ)と呼ばれた。街の変遷の中で難波橋が架け替えられて辺りに無くなり、新しい藤中橋が架かったことから藤中橋筋という呼び方が登場したのだという。
↓漸く地下鉄堺筋線の堺筋本町駅の出入口が見えた。
↓堺筋の辺りも、先程見ている御堂筋辺りと同じような設えが見受けられる。
結局、御堂筋から堺筋へ向けて中央大通を歩き、中央大通と交わる何本もの「筋」を見たということになった。他方、後から考えると御堂筋辺りの本町駅と堺筋本町駅とは地下鉄の中央線で結ばれて1駅間だった。それに乗車しても好かった訳だが、その時は「一寸だけ歩けば…」というようにしか考えなかったのだ。
<船場センタービル>について、御堂筋の辺りで中を通って地下鉄御堂筋線の駅に出入した、または館内の御店で食事を摂ったということは在った。が、高速道路の高架下に拡がる様子をゆっくり眺めるという機会は、設けられそうで設け悪いかもしれない。そういう意味で、何となく歩いて面白かった。出先では、こういうような「何となく面白い」を少しずつ重ねる程度の過ごし方をするのが好いのかもしれない。
大正橋停留所…:大阪(2023.12.31)
大正駅の界隈を訪ねてみた。以前に立寄っているような御店を訪ねて昼食を摂るようなことを思い付いたのだったが、大晦日なので変則的な営業で開いていない感じだった。そこで駅の辺りで何となく一息入れていた。
↓バス停が在った。
↓幾つもの運行系統のバスが発着する大正駅傍には、運行系統別に停留所が設けられている。
大正区の鉄道駅については、JR大阪環状線の駅と、地下鉄の長堀鶴見緑地線の駅が在るばかりだ。従って古くから「区内はバスを利用」という様子で、「区内と少し先の交通結節点とをバスで結ぶ」ということでもある。そういう流れでバスの運行系統も多彩で、運行便数も多目だ。
↓鉄道高架を潜ってバスが近付く。
↓やって来たバスに乗って、なんば駅の辺りに出てみることにした。
この大阪市内のバスだが、特に何をするのでもなく後側から乗車し、下車時に均一運賃の210円を支払う。現金もICカード乗車券も使用可能だ。ICカード乗車券は乗車時と下車時の2回のタッチではなく、下車時に1階タッチだ。均一料金なので、寧ろ電子マネーで210円が単純に引き去られるというような様子だ。
大正橋停留所からなんば駅を目指すバスだが、<京セラドーム大阪>を望むような辺りから桜川駅辺りに至り、JR難波駅に通じる湊町を抜けて南海なんば駅を望むような辺りに到る経路を進んだ。
地下鉄で動き廻って、着いた駅から歩き廻るというようなことをするのが好きだが、時には街の路線バスも悪くはない。
↓バス停が在った。
↓幾つもの運行系統のバスが発着する大正駅傍には、運行系統別に停留所が設けられている。
大正区の鉄道駅については、JR大阪環状線の駅と、地下鉄の長堀鶴見緑地線の駅が在るばかりだ。従って古くから「区内はバスを利用」という様子で、「区内と少し先の交通結節点とをバスで結ぶ」ということでもある。そういう流れでバスの運行系統も多彩で、運行便数も多目だ。
↓鉄道高架を潜ってバスが近付く。
↓やって来たバスに乗って、なんば駅の辺りに出てみることにした。
この大阪市内のバスだが、特に何をするのでもなく後側から乗車し、下車時に均一運賃の210円を支払う。現金もICカード乗車券も使用可能だ。ICカード乗車券は乗車時と下車時の2回のタッチではなく、下車時に1階タッチだ。均一料金なので、寧ろ電子マネーで210円が単純に引き去られるというような様子だ。
大正橋停留所からなんば駅を目指すバスだが、<京セラドーム大阪>を望むような辺りから桜川駅辺りに至り、JR難波駅に通じる湊町を抜けて南海なんば駅を望むような辺りに到る経路を進んだ。
地下鉄で動き廻って、着いた駅から歩き廻るというようなことをするのが好きだが、時には街の路線バスも悪くはない。
地下鉄一日券…:京都(2023.12.29)
↓この券が在ると、京都の地下鉄の烏丸線と東西線に朝から夜迄、何回でも随意に乗降可能だ。「一日券」である。
↑今般、四条駅でこの券を求めて利用した。
京都の街では様々な行先に細かく行けるバスの人気が非常に高いように思う。地下鉄は「線の動き」で大雑把なのに対し、バスは「面の動き」で隅々に届き易いということだと思う。
自身は、京都ではバスに乗る場合も在るのだが、寧ろ「地下鉄の駅まで出て、後はゆっくり歩く」というようなことをして方々を訪ねてみる場合が相対的に多い。今般の京都では地下鉄には乗ったが、バスには乗車しなかった。そんな場合も在る。
京都に限らず、こういう「地下鉄一日券」というようなモノは好きだ。この種の券を手に、気儘に、気楽に動き回ることが叶うような街が好いと思う。
↑今般、四条駅でこの券を求めて利用した。
京都の街では様々な行先に細かく行けるバスの人気が非常に高いように思う。地下鉄は「線の動き」で大雑把なのに対し、バスは「面の動き」で隅々に届き易いということだと思う。
自身は、京都ではバスに乗る場合も在るのだが、寧ろ「地下鉄の駅まで出て、後はゆっくり歩く」というようなことをして方々を訪ねてみる場合が相対的に多い。今般の京都では地下鉄には乗ったが、バスには乗車しなかった。そんな場合も在る。
京都に限らず、こういう「地下鉄一日券」というようなモノは好きだ。この種の券を手に、気儘に、気楽に動き回ることが叶うような街が好いと思う。
こんばんは…:稚内市役所前(2024.01.09)
<ホテルロイヤルクラシック大阪>…(2023.12.31)
↓南海なんば駅に近い辺りで御堂筋に足を踏み入れると、酷く目立つ建物を眼に留めた。
↑大掛かりな和風の設えの上にビルが載っているような感じだ。
この辺りには1958年から2009年まで<新歌舞伎座>という劇場が在って知られていた。劇場が閉館して移転した後、用地と旧い建物がそのままになっていたが、2015年にそれが解体され、そして結婚式場とホテルなどの複合施設<ホテルロイヤルクラシック大阪>が建てられた。2019年に開業したそうだ。
↓建物の一部は、劇場の和風の意匠が継承されているとのことだ。
こういうような、古く在ったモノの意匠を取り込んで新たなモノを建てるというようなやり方は面白いと思った。今般は横断し悪い場所を歩いていて、反対側から「酷く目立つ建物?」とこの建物を観ていたのだった。
↑大掛かりな和風の設えの上にビルが載っているような感じだ。
この辺りには1958年から2009年まで<新歌舞伎座>という劇場が在って知られていた。劇場が閉館して移転した後、用地と旧い建物がそのままになっていたが、2015年にそれが解体され、そして結婚式場とホテルなどの複合施設<ホテルロイヤルクラシック大阪>が建てられた。2019年に開業したそうだ。
↓建物の一部は、劇場の和風の意匠が継承されているとのことだ。
こういうような、古く在ったモノの意匠を取り込んで新たなモノを建てるというようなやり方は面白いと思った。今般は横断し悪い場所を歩いていて、反対側から「酷く目立つ建物?」とこの建物を観ていたのだった。
ミックスモダン焼…:<ぼてぢゅう>(2023.12.31)
↓難波で眼に留めた看板だ。昼食の時間帯なので立寄ってみた。
「“ぼてっ”としたお好み焼きを“ぢゅうっ”と焼く」ということで<ぼてぢゅう>という店名になったという。1953(昭和28)年に創業したそうだ。
↓こんな具合に箸等が登場する。待つこと暫しという感じだ。
↓左から2番目が標準の“オリジナル”だ。左端が“甘口”で右側は“辛口”、“ピリ辛口”となって、計4種のソースから好みのモノを使う。
↑大阪辺りではソースについて、様々な種類のモノが出回って、各々に好みのソースを使うというような感じになっているようだ。
↓御願いしていた「ミックスモダン焼」が登場だ。
↑「モダン焼」と言う場合、「お好み焼き」に焼きそば麺が入る。相対的に「新しい」のが、焼きそば麺の入った「モダン焼」だ。老舗の<ぼてぢゅう>は、「発祥の店の一つ?」という説も在るらしい。
↓“ピリ辛口”のソースとマヨネーズを点けて「モダン焼」を頂いた。
↓ヘラで適当に切り分けた「モダン焼」を小皿に取って頂く。
「大阪で食べる…」とでも言えば、大阪以外の地域に在ると串カツやお好み焼きを思い浮かべるかもしれない。特段に意図したのでもないが、今般は双方共に頂いた。時にはこういうのも好い。
「“ぼてっ”としたお好み焼きを“ぢゅうっ”と焼く」ということで<ぼてぢゅう>という店名になったという。1953(昭和28)年に創業したそうだ。
↓こんな具合に箸等が登場する。待つこと暫しという感じだ。
↓左から2番目が標準の“オリジナル”だ。左端が“甘口”で右側は“辛口”、“ピリ辛口”となって、計4種のソースから好みのモノを使う。
↑大阪辺りではソースについて、様々な種類のモノが出回って、各々に好みのソースを使うというような感じになっているようだ。
↓御願いしていた「ミックスモダン焼」が登場だ。
↑「モダン焼」と言う場合、「お好み焼き」に焼きそば麺が入る。相対的に「新しい」のが、焼きそば麺の入った「モダン焼」だ。老舗の<ぼてぢゅう>は、「発祥の店の一つ?」という説も在るらしい。
↓“ピリ辛口”のソースとマヨネーズを点けて「モダン焼」を頂いた。
↓ヘラで適当に切り分けた「モダン焼」を小皿に取って頂く。
「大阪で食べる…」とでも言えば、大阪以外の地域に在ると串カツやお好み焼きを思い浮かべるかもしれない。特段に意図したのでもないが、今般は双方共に頂いた。時にはこういうのも好い。
<大東洋>…(2023.12.31)
早朝、宿の朝食前の午前5時台に散策に出た。天神橋筋六丁目辺りから、概ね地下鉄谷町線の上に相当するような箇所をゆっくり歩けば、中崎町駅の出入口を経て、梅田地区というような辺りに15分要するか如何かという感じで辿り着いてしまう。
↓その「梅田の辺り…」に至ると、こういう看板が目に入る。
↓サウナ、浴場にカプセルホテルが在って、建物内にはレストランも在る場所だ。
↓サウナ、浴場については、カプセルホテル滞在以外に日帰りでの利用も可能だ。早朝時間帯限定で、日中から夜の通常料金より少し安くなっている。勿論、深夜料金の加算も無い。そういう訳で一寸利用してみたのだ。
出先で、ゆっくりとサウナを利用するのも心地好い。ここは各々に温度帯が違うサウナが3つ設えられている。非常に好かった。
利用して、少し明るくなった頃に戸外に出れば、看板の灯りは「消灯時間」になっていた。こういうような施設は、記憶に留めたい。
↓その「梅田の辺り…」に至ると、こういう看板が目に入る。
↓サウナ、浴場にカプセルホテルが在って、建物内にはレストランも在る場所だ。
↓サウナ、浴場については、カプセルホテル滞在以外に日帰りでの利用も可能だ。早朝時間帯限定で、日中から夜の通常料金より少し安くなっている。勿論、深夜料金の加算も無い。そういう訳で一寸利用してみたのだ。
出先で、ゆっくりとサウナを利用するのも心地好い。ここは各々に温度帯が違うサウナが3つ設えられている。非常に好かった。
利用して、少し明るくなった頃に戸外に出れば、看板の灯りは「消灯時間」になっていた。こういうような施設は、記憶に留めたい。
清明神社のトートバッグ…(2023.12.31)
↓清明神社を訪ねた際に求めてしまった。
↑五芒星の形の清明桔梗という紋や、清明神社の社殿の画が入っている。
連泊することになっていた大阪の宿で、朝食前の早朝に少々散策しようと思い付き、これを引っ張り出して使った。何か気に入った。
※ 写真は大阪の宿で撮ったが、モノは京都での想い出に纏わるので、記事は「京都府」のカテゴリに入れる。
↑五芒星の形の清明桔梗という紋や、清明神社の社殿の画が入っている。
連泊することになっていた大阪の宿で、朝食前の早朝に少々散策しようと思い付き、これを引っ張り出して使った。何か気に入った。
※ 写真は大阪の宿で撮ったが、モノは京都での想い出に纏わるので、記事は「京都府」のカテゴリに入れる。
500系新幹線…:<京都鉄道博物館>(2023.12.29)
菅原院天満宮神社…(2023.12.29)
辰巳大明神…:祇園白川:京都(2023.12.28)
京都駅…駅前の京都タワー…(2023.12.28)
敦賀から列車で移動して京都に入った。湖西線を経由する列車で、94kmの移動であった。
↓改札口を出て、コレを眼にした。
↑以前、初めて京都に入る同行者を伴い、東京の新宿から夜行バスに乗って京都に着いた。着いて直ぐにコレを眼に留めた。「京都に着いた!ここに確り“京都”と書いてある」というような話しをしたのを覚えている。
↓何度見ても、この京都駅の建物は広壮な空間を擁している。
↓高い天井や、日中は光が入るのは好い。
↑建物が登場して日が浅い頃の特撮映画で、怪獣“ガメラ”がこの場所で戦っていた作品が在ったことを、見る都度に何となく思い出す様子だ。
↓駅前へ歩を進めれば京都タワーの姿が覗く。
↓好天の中に京都に着くことが出来たと、暫し一息入れていた。
何時の間にか、京都も「時々立寄る、少し馴染んだ街」という感じになっているかもしれない。
↓改札口を出て、コレを眼にした。
↑以前、初めて京都に入る同行者を伴い、東京の新宿から夜行バスに乗って京都に着いた。着いて直ぐにコレを眼に留めた。「京都に着いた!ここに確り“京都”と書いてある」というような話しをしたのを覚えている。
↓何度見ても、この京都駅の建物は広壮な空間を擁している。
↓高い天井や、日中は光が入るのは好い。
↑建物が登場して日が浅い頃の特撮映画で、怪獣“ガメラ”がこの場所で戦っていた作品が在ったことを、見る都度に何となく思い出す様子だ。
↓駅前へ歩を進めれば京都タワーの姿が覗く。
↓好天の中に京都に着くことが出来たと、暫し一息入れていた。
何時の間にか、京都も「時々立寄る、少し馴染んだ街」という感じになっているかもしれない。
<曽根崎お初天神通り>…(2023.12.30)
夕刻に梅田辺り、大阪駅に近い地区を何となく歩き廻ってみた。
↓こういう様子に眼を奪われた。
↓商店街のアーケードに、文楽の人形が在る。これは『曽根崎心中』のヒロインである「お初」であるようだ。
『曽根崎心中』との関係で「お初天神」の通称で知られる「露天神社」(つゆのてんじんじゃ)が近くに在る辺りに、第2次大戦後に飲食店等が集まるようになった。そこが商店街となって行く。1964(昭和39)年には「曽根崎センター街」ということでアーケードが完成している。1986(昭和61)年に至り、アーケードを改修する契機に「曽根崎お初天神通り商店街」と名称を変更してげ現在に至っているのだそうだ。
↓何か慌ただしく通り過ぎたが、ゆっくりと散策してみたいような、独特な雰囲気が放たれていたようにも思った。
↓こういう様子に眼を奪われた。
↓商店街のアーケードに、文楽の人形が在る。これは『曽根崎心中』のヒロインである「お初」であるようだ。
『曽根崎心中』との関係で「お初天神」の通称で知られる「露天神社」(つゆのてんじんじゃ)が近くに在る辺りに、第2次大戦後に飲食店等が集まるようになった。そこが商店街となって行く。1964(昭和39)年には「曽根崎センター街」ということでアーケードが完成している。1986(昭和61)年に至り、アーケードを改修する契機に「曽根崎お初天神通り商店街」と名称を変更してげ現在に至っているのだそうだ。
↓何か慌ただしく通り過ぎたが、ゆっくりと散策してみたいような、独特な雰囲気が放たれていたようにも思った。
北前船…:岩瀬:富山(2023.12.26)
宵に…:中央商店街(2024.01.07)
宵の雪…(2024.01.07)
愛用し始めて日が浅いジーンズの洗濯を終えた…(2024.01.07)
年末は出掛けていて、洗濯に勤しむでもなかった。そこでその分の作業に勤しもうと、休業日の朝から動いた。
↓入手後にそのまま使い始めて、使い続けていたジーンズを始めて洗った。
↓出先でもこれをそのまま使い続け、流石に汗が付く等で汚れていたと思い、洗ってみたのだが、デニム生地に特有な、それも厚めな生地に特徴的な色落ちの傾向が既に解る。
↓何か「出番が多い」という感じになりそうだ。
↓際立って厚めな生地で、外観も少し特徴的だと思う。
今後も大切に愛用し続けたい感だ…
↓入手後にそのまま使い始めて、使い続けていたジーンズを始めて洗った。
↓出先でもこれをそのまま使い続け、流石に汗が付く等で汚れていたと思い、洗ってみたのだが、デニム生地に特有な、それも厚めな生地に特徴的な色落ちの傾向が既に解る。
↓何か「出番が多い」という感じになりそうだ。
↓際立って厚めな生地で、外観も少し特徴的だと思う。
今後も大切に愛用し続けたい感だ…
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<TRAVELER'S notebook>(トラベラーズノート)と万年筆…(2024.01.06)
2021年12月下旬に京都で入手の手帳ということになる<TRAVELER'S notebook>(トラベラーズノート)を現在も使い続けている。
↓現在はこういうような感じだ。
↑入手の翌年に「KYOTO」というメダルを入手して付けていて、翌々年にブラスの万年筆を入手している。モノは毎年、京都の御店で求めている。
↓万年筆はキャップを開けて、ペン先と逆側に嵌めて軸のようにして使うようになっている。試しに少し書いたが、なかなかに好い感じだと思った。
↓「2024年用」の予定表を使い始めた。「2022年用」、「2023年用」に続いて3冊目ということになった。
結局、こういうような紙の手帳を持っていて使うのが安心で、今後もこういうのを使い続けることになると思う。
↓現在はこういうような感じだ。
↑入手の翌年に「KYOTO」というメダルを入手して付けていて、翌々年にブラスの万年筆を入手している。モノは毎年、京都の御店で求めている。
↓万年筆はキャップを開けて、ペン先と逆側に嵌めて軸のようにして使うようになっている。試しに少し書いたが、なかなかに好い感じだと思った。
↓「2024年用」の予定表を使い始めた。「2022年用」、「2023年用」に続いて3冊目ということになった。
結局、こういうような紙の手帳を持っていて使うのが安心で、今後もこういうのを使い続けることになると思う。
「日本・莫斯科・羅馬・伯林・倫敦・巴里間聯絡」:敦賀鉄道資料館(2023.12.28)
敦賀という場所は、ウラジオストクとの間を船で結び、シベリア鉄道を経て欧州との連絡が行われる場所であった経過が在る。
↓その「欧州へ向かう」という経路に関する時刻表が伝えられ、展示されていた。少し見入ってしまった。
↑「日本・莫斯科・羅馬・伯林・倫敦・巴里間聯絡」という往時の書き方であるが、「日本・モスクワ・ローマ・ベルリン・ロンドン・パリ間連絡」ということである。
「浦鹽経由」と在る―「鹽」は「塩」である―のは「ウラジオストク経由」のことで、これに敦賀が関連する。他に「朝鮮経由」というのが在って、これは下関から海を渡る。
金曜日に東京を発って、土曜日に米原を経て敦賀港に至る。そして船に乗ると月曜日にはウラジオストクに至る。
火曜日にウラジオストクを発つと、水曜日にハバロフスクに至り、金曜日にチタである。チタを土曜日に発つと、モスクワは金曜日だ。ここまでで2週間要している。年代が明確に解り悪いが、なかなかの長い旅だ。それでも日本から欧州へ船を使うよりも速い訳だ。
モスクワを金曜日に発てば、ワルシャワが翌日の土曜日で、ベルリンはその後の日曜日だ。日曜日にベルリンを発つと、翌日の月曜日にパリである。
昭和の初め頃、外交等で欧州諸国を訪ねている事例が在るが、そういうのはこの「ウラジオストクに渡って列車」という経路も使っていたようだ。何か物凄く興味深い。
↓その「欧州へ向かう」という経路に関する時刻表が伝えられ、展示されていた。少し見入ってしまった。
↑「日本・莫斯科・羅馬・伯林・倫敦・巴里間聯絡」という往時の書き方であるが、「日本・モスクワ・ローマ・ベルリン・ロンドン・パリ間連絡」ということである。
「浦鹽経由」と在る―「鹽」は「塩」である―のは「ウラジオストク経由」のことで、これに敦賀が関連する。他に「朝鮮経由」というのが在って、これは下関から海を渡る。
金曜日に東京を発って、土曜日に米原を経て敦賀港に至る。そして船に乗ると月曜日にはウラジオストクに至る。
火曜日にウラジオストクを発つと、水曜日にハバロフスクに至り、金曜日にチタである。チタを土曜日に発つと、モスクワは金曜日だ。ここまでで2週間要している。年代が明確に解り悪いが、なかなかの長い旅だ。それでも日本から欧州へ船を使うよりも速い訳だ。
モスクワを金曜日に発てば、ワルシャワが翌日の土曜日で、ベルリンはその後の日曜日だ。日曜日にベルリンを発つと、翌日の月曜日にパリである。
昭和の初め頃、外交等で欧州諸国を訪ねている事例が在るが、そういうのはこの「ウラジオストクに渡って列車」という経路も使っていたようだ。何か物凄く興味深い。
旧 敦賀港駅舎:敦賀鉄道資料館(2023.12.28)
旧 大和田銀行本店:敦賀市立博物館(2023.12.28)
↓敦賀の街で、大変に目立つ建物を眼に留めた。
↓直ぐに「昔の銀行の建物?」と思い浮かぶような感じだ。
↓嘗ては大和田銀行という銀行の本店であった建物だ。1927(昭和2)年に竣工している。現在は敦賀市立博物館となっている。
↓こういう建物は中を確り見学したいので、博物館の入館券を求めて中に入った。ケースに入った展示物でもない、建物の写真撮影は可能ということだった。
↑方々で見たような設えだが、こういう感じが好い。
↓この時代の建物の、何か名状し難い独特な雰囲気に溢れていた。
大和田銀行は1892(明治25)年に、敦賀の有力な商人であった大和田荘七が個人経営の形式で設立した。支店網を拡げる等して積極的に活動を続けていて、県内の銀行としては福井銀行と並び称されていたそうだ。事業も拡大はしていたが、福井銀行には及ばず、次第に差が開いたという。やがて戦時下に「一県に銀行は一行」ということを目指すようになった際、合併の方式で福井銀行との話し合いが纏まらなかったようである。やがて1945(昭和20)年10月に三和銀行による吸収ということになり、大和田銀行の歴史は幕を閉じた。大和田銀行は53年間の経過だった。
大和田銀行の福井県内や石川県内の支店は福井銀行に営業譲渡となった。本店は三和銀行敦賀支店として暫く続いたが、やがて廃止に伴い、福井銀行へ営業譲渡となった。大阪市内に在った支店は、現在では三菱UFJ銀行の支店になっているという。(序でに言えば、三和銀行は合併でUFJ銀行となり、更に合併で三菱UFJ銀行となっている。)
↓貴賓室と呼ばれている部屋だが、何か応接室と会議室を兼ねたような設えだった。
↓「本店」なので、頭取以下の最高幹部がここに集った場面も在ったのだろう。
こういうような「建物そのものが展示品」という風情の博物館だった。やや慌ただしく建物を見学したという側面も在ったが。なかなかに面白かった。
↓直ぐに「昔の銀行の建物?」と思い浮かぶような感じだ。
↓嘗ては大和田銀行という銀行の本店であった建物だ。1927(昭和2)年に竣工している。現在は敦賀市立博物館となっている。
↓こういう建物は中を確り見学したいので、博物館の入館券を求めて中に入った。ケースに入った展示物でもない、建物の写真撮影は可能ということだった。
↑方々で見たような設えだが、こういう感じが好い。
↓この時代の建物の、何か名状し難い独特な雰囲気に溢れていた。
大和田銀行は1892(明治25)年に、敦賀の有力な商人であった大和田荘七が個人経営の形式で設立した。支店網を拡げる等して積極的に活動を続けていて、県内の銀行としては福井銀行と並び称されていたそうだ。事業も拡大はしていたが、福井銀行には及ばず、次第に差が開いたという。やがて戦時下に「一県に銀行は一行」ということを目指すようになった際、合併の方式で福井銀行との話し合いが纏まらなかったようである。やがて1945(昭和20)年10月に三和銀行による吸収ということになり、大和田銀行の歴史は幕を閉じた。大和田銀行は53年間の経過だった。
大和田銀行の福井県内や石川県内の支店は福井銀行に営業譲渡となった。本店は三和銀行敦賀支店として暫く続いたが、やがて廃止に伴い、福井銀行へ営業譲渡となった。大阪市内に在った支店は、現在では三菱UFJ銀行の支店になっているという。(序でに言えば、三和銀行は合併でUFJ銀行となり、更に合併で三菱UFJ銀行となっている。)
↓貴賓室と呼ばれている部屋だが、何か応接室と会議室を兼ねたような設えだった。
↓「本店」なので、頭取以下の最高幹部がここに集った場面も在ったのだろう。
こういうような「建物そのものが展示品」という風情の博物館だった。やや慌ただしく建物を見学したという側面も在ったが。なかなかに面白かった。