前日に敦賀に着いた。そして昼過ぎ迄は敦賀を散策しようということにした。<人道の港 敦賀ムゼウム>や<敦賀市立博物館>等々、前日に観ていない場所を訪ねながら、もう少し街を歩きたかったのだ。
↓気比神宮の鳥居の辺りを通った。
↑独特な拡がり方を見せる雲と鳥居との組み合わさった様子が面白いと思い、暫し足を停めて見入った。
↓初詣で大いに賑わうのであろうが、少しだけ静かな年末の風情が好いと思った。
この気比神宮の大きな鳥居のようなモノは、時季、時間帯、天候が変われば変わった見え方をする筈で、そういう様々な様子をも眺める機会が設けられれば幸いである。
丸型ポスト…:川越商工会議所前(2023.12.25)
↓古風な建物の辺りには、古風な郵便ポストが似合うと思う。
↓川越商工会議所は旧い建物が現役らしいが、このポストも現役である。
↑丸型ポストの脇に、駅や有名な景観の辺りへの矢印が入った道標が据えられている。こういうのを見ると「街が“歩く場所”を規定されている」という感じがする。街は車輌で通過する場所ということではなく、寧ろ歩き廻る場所だと個人的には思うので、こういう案内には交換を抱く。
さり気無く据えられた丸型ポストが何となく似合うような場所というのは、通り掛って心地が好いかもしれない。そんなことを想いながら辺りを通り過ぎた。
↓川越商工会議所は旧い建物が現役らしいが、このポストも現役である。
↑丸型ポストの脇に、駅や有名な景観の辺りへの矢印が入った道標が据えられている。こういうのを見ると「街が“歩く場所”を規定されている」という感じがする。街は車輌で通過する場所ということではなく、寧ろ歩き廻る場所だと個人的には思うので、こういう案内には交換を抱く。
さり気無く据えられた丸型ポストが何となく似合うような場所というのは、通り掛って心地が好いかもしれない。そんなことを想いながら辺りを通り過ぎた。
昼に…(2024.01.08)
休業の月曜日に昼食を摂りに出掛けた。
↓こういうコンビが迎えてくれた。
↑低温の雪は粘り気が弱く、雪ダルマを造るには不向きだ。これは数日前に少し湿り気が多い感じの雪だった時、御店の方が造ってみたのだそうだ。ビール瓶を開けた時の王冠を巧く使っていて、一寸面白い雪ダルマだ。
↓営業中を示す幟に導かれて御店に入った。入口辺りの雪ダルマが面白いと話題にすれば、御店の方は「話題にして頂く方も無く、少し寂しかった」と喜んで頂いた。
↓少しばかり戸外を歩いただけでも、温かい飲物でも欲しくなる氷点下の気温だ。<赤霧島>を御湯割りにして頂いた。何か「芳香が立ち込めるハーブティー」という気分で御湯割りを愉しんだ。
↓カツサンドを頂く。何か「休業日の昼食」という感じで、少し定着して来たかもしれない。
↓薩摩揚を焼いたモノを頂いた。こういうモノを摘みながらお湯割りというのも非常に好い。
↓プリンが載ったパフェを御願いした。
↓このパフェも「休業日の御愉しみ」という感じになって来ている。
↓昼の一時、随分と寛いだ。こういう場所も有難い。
↓こういうコンビが迎えてくれた。
↑低温の雪は粘り気が弱く、雪ダルマを造るには不向きだ。これは数日前に少し湿り気が多い感じの雪だった時、御店の方が造ってみたのだそうだ。ビール瓶を開けた時の王冠を巧く使っていて、一寸面白い雪ダルマだ。
↓営業中を示す幟に導かれて御店に入った。入口辺りの雪ダルマが面白いと話題にすれば、御店の方は「話題にして頂く方も無く、少し寂しかった」と喜んで頂いた。
↓少しばかり戸外を歩いただけでも、温かい飲物でも欲しくなる氷点下の気温だ。<赤霧島>を御湯割りにして頂いた。何か「芳香が立ち込めるハーブティー」という気分で御湯割りを愉しんだ。
↓カツサンドを頂く。何か「休業日の昼食」という感じで、少し定着して来たかもしれない。
↓薩摩揚を焼いたモノを頂いた。こういうモノを摘みながらお湯割りというのも非常に好い。
↓プリンが載ったパフェを御願いした。
↓このパフェも「休業日の御愉しみ」という感じになって来ている。
↓昼の一時、随分と寛いだ。こういう場所も有難い。
<1日乗車券 エンジョイエコカード>…(2023.12.31)
堺筋本町駅にて…(2023.12.31)
気比神宮…(2023.12.27)
敦賀に着いて、宿を求めたのだったが、宿に入る前に是非とも気比神宮を訪ねてみたかった。
敦賀駅には観光案内の窓口も在り、辺りを歩き廻る際に使い易い地図も頂ける。ハッキリ言おう。自身にとっては、その種の紙の地図が最も使い易いのだ。その地図を参照して街を歩き、気比神宮に辿り着いた。
↓非常に大きな鳥居で、凄い存在感だ。
↑既に嵯峨天皇の時代である810(弘仁元)年には鳥居が設けられたと伝わる。そういう古い鳥居は災害等で損なわれた経過が在って、1645(正保2)年に礎石を現在位置に移して大きな鳥居を建てた。それが現在に伝わる鳥居であるのだという。扁額は有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)(1862-1913)の筆であるそうだ。
↓明治期以降に神社の格付けをしているが、「官幣大社」とは、「全ての神社の上に在り、社格のない特別な存在」とされた伊勢神宮を除いて、最上級の格付けである。
↑古くから「北陸道総鎮守」、「越前国一宮」とされて崇敬された神社だ。
『古事記』や『日本書紀』では仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の時期にこの気比神宮の場所い纏わる記述が在るのだという。こういうような時代に関しては「西暦XXX年」と言い悪い面も在るが、西暦200年よりも以前に神社が起こっているというような話しになる。要は、相当に古くから在る神社という訳だ。そして古代、中世、近世と神社の経過が在って、明治期以降の近代になる。更に現代に迄、神社は受継がれている。
↓大きな鳥居を潜った後、社殿の辺りに至った。
↓国内外からの来訪者が散見した境内ではあったが、人通りが途切れる間隙も在った。「茅の輪くぐり」の設えが在る社殿の美しい様子を眺めていた。
↓少し前に雪が降り積もった日は在ったのだろう。些か雪は残っていたが、気になる程でもなかった。
↑重要な港を要する敦賀は第2次大戦期の戦禍で色々と古い建物等が損なわれている経過も在るという。気比神宮の建物も戦後の再建が多いそうだ。
↓確り参拝した。左側が気比神宮の御朱印だ。
↓気比神宮に立寄ることが出来て善かった。こういう眺めが「忘れ難い眺め」に数えられるようになると思う。
敦賀駅には観光案内の窓口も在り、辺りを歩き廻る際に使い易い地図も頂ける。ハッキリ言おう。自身にとっては、その種の紙の地図が最も使い易いのだ。その地図を参照して街を歩き、気比神宮に辿り着いた。
↓非常に大きな鳥居で、凄い存在感だ。
↑既に嵯峨天皇の時代である810(弘仁元)年には鳥居が設けられたと伝わる。そういう古い鳥居は災害等で損なわれた経過が在って、1645(正保2)年に礎石を現在位置に移して大きな鳥居を建てた。それが現在に伝わる鳥居であるのだという。扁額は有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)(1862-1913)の筆であるそうだ。
↓明治期以降に神社の格付けをしているが、「官幣大社」とは、「全ての神社の上に在り、社格のない特別な存在」とされた伊勢神宮を除いて、最上級の格付けである。
↑古くから「北陸道総鎮守」、「越前国一宮」とされて崇敬された神社だ。
『古事記』や『日本書紀』では仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の時期にこの気比神宮の場所い纏わる記述が在るのだという。こういうような時代に関しては「西暦XXX年」と言い悪い面も在るが、西暦200年よりも以前に神社が起こっているというような話しになる。要は、相当に古くから在る神社という訳だ。そして古代、中世、近世と神社の経過が在って、明治期以降の近代になる。更に現代に迄、神社は受継がれている。
↓大きな鳥居を潜った後、社殿の辺りに至った。
↓国内外からの来訪者が散見した境内ではあったが、人通りが途切れる間隙も在った。「茅の輪くぐり」の設えが在る社殿の美しい様子を眺めていた。
↓少し前に雪が降り積もった日は在ったのだろう。些か雪は残っていたが、気になる程でもなかった。
↑重要な港を要する敦賀は第2次大戦期の戦禍で色々と古い建物等が損なわれている経過も在るという。気比神宮の建物も戦後の再建が多いそうだ。
↓確り参拝した。左側が気比神宮の御朱印だ。
↓気比神宮に立寄ることが出来て善かった。こういう眺めが「忘れ難い眺め」に数えられるようになると思う。
朝に…(2024.01.09)
夕べに…(2024.01.06)
<船場センタービル>…(2023.12.31)
大阪では南北に延びる道を「筋」、東西に延びる道を「通」と呼び習わす。こういう区別が、存外に合理的で好いというように思う場合も多い。
その「筋」の代表的なモノである御堂筋で、南側の難波辺りを起点に北上し、本町に至った。
↓高速道路の高架の下に建物が在って、<船場センタービル>と称している。
↓大晦日なので、<船場センタービル>のテナントも閉まっている。が、それはそれとして、空間と光の醸し出す雰囲気は好い。
この辺りでは、地下鉄御堂筋線の本町駅が近いので、そこから地下鉄を利用して滞在中の宿に引揚げることが出来ると思った。が、一寸思った。御堂筋から東側の堺筋に進み、地下鉄の堺筋線を利用すると、特段に乗換えも無く、目指したい天神橋筋六丁目駅に至ることが叶うのである。
↓この辺りで東西を結ぶ道である中央大通に入って、東寄りを目指すこととした。
↓中央大通と並行するような高速道路の高架下には、相当に長い範囲で建物が建っている。何となく見ると「延々と続いている?」というようにも見える。
↓<船場センタービル>の「9」というような表示が在った。
↓少し進むと<船場センタービル>の「8」というような表示で「心斎橋筋」とも示されている。
<船場センタービル>は1970(昭和45)年にオープンしたという。辺りの東西を結ぶ道を拡幅して中央大通を整備しようとした際、移転をせねばならない様々な沿道の用地利用者の補償のため、従前利用していた面積が利用可能になることを目指し、高速道路の高架の下に10棟のビルを建てたというモノなのだ。「1号館」から「10号館」まで在り、写真は「9号館」や「8号館」ということになる。
↓進み続ける。「7」は「7号館」だ。「丼池筋」(どぶいけすじ)という表示も在る。
↓「6」は「6号館」だ。「三休橋筋」(さんきゅうばしすじ)という表示も在る。
↓「5」は「5号館」で「中橋筋」(なかばしすじ)となっている。
↓「4」は「4号館」で「藤中橋筋」(ふじなかばしすじ)となっているが、古くは難波橋筋(なにわばしすじ)と呼ばれた。街の変遷の中で難波橋が架け替えられて辺りに無くなり、新しい藤中橋が架かったことから藤中橋筋という呼び方が登場したのだという。
↓漸く地下鉄堺筋線の堺筋本町駅の出入口が見えた。
↓堺筋の辺りも、先程見ている御堂筋辺りと同じような設えが見受けられる。
結局、御堂筋から堺筋へ向けて中央大通を歩き、中央大通と交わる何本もの「筋」を見たということになった。他方、後から考えると御堂筋辺りの本町駅と堺筋本町駅とは地下鉄の中央線で結ばれて1駅間だった。それに乗車しても好かった訳だが、その時は「一寸だけ歩けば…」というようにしか考えなかったのだ。
<船場センタービル>について、御堂筋の辺りで中を通って地下鉄御堂筋線の駅に出入した、または館内の御店で食事を摂ったということは在った。が、高速道路の高架下に拡がる様子をゆっくり眺めるという機会は、設けられそうで設け悪いかもしれない。そういう意味で、何となく歩いて面白かった。出先では、こういうような「何となく面白い」を少しずつ重ねる程度の過ごし方をするのが好いのかもしれない。
その「筋」の代表的なモノである御堂筋で、南側の難波辺りを起点に北上し、本町に至った。
↓高速道路の高架の下に建物が在って、<船場センタービル>と称している。
↓大晦日なので、<船場センタービル>のテナントも閉まっている。が、それはそれとして、空間と光の醸し出す雰囲気は好い。
この辺りでは、地下鉄御堂筋線の本町駅が近いので、そこから地下鉄を利用して滞在中の宿に引揚げることが出来ると思った。が、一寸思った。御堂筋から東側の堺筋に進み、地下鉄の堺筋線を利用すると、特段に乗換えも無く、目指したい天神橋筋六丁目駅に至ることが叶うのである。
↓この辺りで東西を結ぶ道である中央大通に入って、東寄りを目指すこととした。
↓中央大通と並行するような高速道路の高架下には、相当に長い範囲で建物が建っている。何となく見ると「延々と続いている?」というようにも見える。
↓<船場センタービル>の「9」というような表示が在った。
↓少し進むと<船場センタービル>の「8」というような表示で「心斎橋筋」とも示されている。
<船場センタービル>は1970(昭和45)年にオープンしたという。辺りの東西を結ぶ道を拡幅して中央大通を整備しようとした際、移転をせねばならない様々な沿道の用地利用者の補償のため、従前利用していた面積が利用可能になることを目指し、高速道路の高架の下に10棟のビルを建てたというモノなのだ。「1号館」から「10号館」まで在り、写真は「9号館」や「8号館」ということになる。
↓進み続ける。「7」は「7号館」だ。「丼池筋」(どぶいけすじ)という表示も在る。
↓「6」は「6号館」だ。「三休橋筋」(さんきゅうばしすじ)という表示も在る。
↓「5」は「5号館」で「中橋筋」(なかばしすじ)となっている。
↓「4」は「4号館」で「藤中橋筋」(ふじなかばしすじ)となっているが、古くは難波橋筋(なにわばしすじ)と呼ばれた。街の変遷の中で難波橋が架け替えられて辺りに無くなり、新しい藤中橋が架かったことから藤中橋筋という呼び方が登場したのだという。
↓漸く地下鉄堺筋線の堺筋本町駅の出入口が見えた。
↓堺筋の辺りも、先程見ている御堂筋辺りと同じような設えが見受けられる。
結局、御堂筋から堺筋へ向けて中央大通を歩き、中央大通と交わる何本もの「筋」を見たということになった。他方、後から考えると御堂筋辺りの本町駅と堺筋本町駅とは地下鉄の中央線で結ばれて1駅間だった。それに乗車しても好かった訳だが、その時は「一寸だけ歩けば…」というようにしか考えなかったのだ。
<船場センタービル>について、御堂筋の辺りで中を通って地下鉄御堂筋線の駅に出入した、または館内の御店で食事を摂ったということは在った。が、高速道路の高架下に拡がる様子をゆっくり眺めるという機会は、設けられそうで設け悪いかもしれない。そういう意味で、何となく歩いて面白かった。出先では、こういうような「何となく面白い」を少しずつ重ねる程度の過ごし方をするのが好いのかもしれない。
大正橋停留所…:大阪(2023.12.31)
大正駅の界隈を訪ねてみた。以前に立寄っているような御店を訪ねて昼食を摂るようなことを思い付いたのだったが、大晦日なので変則的な営業で開いていない感じだった。そこで駅の辺りで何となく一息入れていた。
↓バス停が在った。
↓幾つもの運行系統のバスが発着する大正駅傍には、運行系統別に停留所が設けられている。
大正区の鉄道駅については、JR大阪環状線の駅と、地下鉄の長堀鶴見緑地線の駅が在るばかりだ。従って古くから「区内はバスを利用」という様子で、「区内と少し先の交通結節点とをバスで結ぶ」ということでもある。そういう流れでバスの運行系統も多彩で、運行便数も多目だ。
↓鉄道高架を潜ってバスが近付く。
↓やって来たバスに乗って、なんば駅の辺りに出てみることにした。
この大阪市内のバスだが、特に何をするのでもなく後側から乗車し、下車時に均一運賃の210円を支払う。現金もICカード乗車券も使用可能だ。ICカード乗車券は乗車時と下車時の2回のタッチではなく、下車時に1階タッチだ。均一料金なので、寧ろ電子マネーで210円が単純に引き去られるというような様子だ。
大正橋停留所からなんば駅を目指すバスだが、<京セラドーム大阪>を望むような辺りから桜川駅辺りに至り、JR難波駅に通じる湊町を抜けて南海なんば駅を望むような辺りに到る経路を進んだ。
地下鉄で動き廻って、着いた駅から歩き廻るというようなことをするのが好きだが、時には街の路線バスも悪くはない。
↓バス停が在った。
↓幾つもの運行系統のバスが発着する大正駅傍には、運行系統別に停留所が設けられている。
大正区の鉄道駅については、JR大阪環状線の駅と、地下鉄の長堀鶴見緑地線の駅が在るばかりだ。従って古くから「区内はバスを利用」という様子で、「区内と少し先の交通結節点とをバスで結ぶ」ということでもある。そういう流れでバスの運行系統も多彩で、運行便数も多目だ。
↓鉄道高架を潜ってバスが近付く。
↓やって来たバスに乗って、なんば駅の辺りに出てみることにした。
この大阪市内のバスだが、特に何をするのでもなく後側から乗車し、下車時に均一運賃の210円を支払う。現金もICカード乗車券も使用可能だ。ICカード乗車券は乗車時と下車時の2回のタッチではなく、下車時に1階タッチだ。均一料金なので、寧ろ電子マネーで210円が単純に引き去られるというような様子だ。
大正橋停留所からなんば駅を目指すバスだが、<京セラドーム大阪>を望むような辺りから桜川駅辺りに至り、JR難波駅に通じる湊町を抜けて南海なんば駅を望むような辺りに到る経路を進んだ。
地下鉄で動き廻って、着いた駅から歩き廻るというようなことをするのが好きだが、時には街の路線バスも悪くはない。
地下鉄一日券…:京都(2023.12.29)
↓この券が在ると、京都の地下鉄の烏丸線と東西線に朝から夜迄、何回でも随意に乗降可能だ。「一日券」である。
↑今般、四条駅でこの券を求めて利用した。
京都の街では様々な行先に細かく行けるバスの人気が非常に高いように思う。地下鉄は「線の動き」で大雑把なのに対し、バスは「面の動き」で隅々に届き易いということだと思う。
自身は、京都ではバスに乗る場合も在るのだが、寧ろ「地下鉄の駅まで出て、後はゆっくり歩く」というようなことをして方々を訪ねてみる場合が相対的に多い。今般の京都では地下鉄には乗ったが、バスには乗車しなかった。そんな場合も在る。
京都に限らず、こういう「地下鉄一日券」というようなモノは好きだ。この種の券を手に、気儘に、気楽に動き回ることが叶うような街が好いと思う。
↑今般、四条駅でこの券を求めて利用した。
京都の街では様々な行先に細かく行けるバスの人気が非常に高いように思う。地下鉄は「線の動き」で大雑把なのに対し、バスは「面の動き」で隅々に届き易いということだと思う。
自身は、京都ではバスに乗る場合も在るのだが、寧ろ「地下鉄の駅まで出て、後はゆっくり歩く」というようなことをして方々を訪ねてみる場合が相対的に多い。今般の京都では地下鉄には乗ったが、バスには乗車しなかった。そんな場合も在る。
京都に限らず、こういう「地下鉄一日券」というようなモノは好きだ。この種の券を手に、気儘に、気楽に動き回ることが叶うような街が好いと思う。
こんばんは…:稚内市役所前(2024.01.09)
<ホテルロイヤルクラシック大阪>…(2023.12.31)
↓南海なんば駅に近い辺りで御堂筋に足を踏み入れると、酷く目立つ建物を眼に留めた。
↑大掛かりな和風の設えの上にビルが載っているような感じだ。
この辺りには1958年から2009年まで<新歌舞伎座>という劇場が在って知られていた。劇場が閉館して移転した後、用地と旧い建物がそのままになっていたが、2015年にそれが解体され、そして結婚式場とホテルなどの複合施設<ホテルロイヤルクラシック大阪>が建てられた。2019年に開業したそうだ。
↓建物の一部は、劇場の和風の意匠が継承されているとのことだ。
こういうような、古く在ったモノの意匠を取り込んで新たなモノを建てるというようなやり方は面白いと思った。今般は横断し悪い場所を歩いていて、反対側から「酷く目立つ建物?」とこの建物を観ていたのだった。
↑大掛かりな和風の設えの上にビルが載っているような感じだ。
この辺りには1958年から2009年まで<新歌舞伎座>という劇場が在って知られていた。劇場が閉館して移転した後、用地と旧い建物がそのままになっていたが、2015年にそれが解体され、そして結婚式場とホテルなどの複合施設<ホテルロイヤルクラシック大阪>が建てられた。2019年に開業したそうだ。
↓建物の一部は、劇場の和風の意匠が継承されているとのことだ。
こういうような、古く在ったモノの意匠を取り込んで新たなモノを建てるというようなやり方は面白いと思った。今般は横断し悪い場所を歩いていて、反対側から「酷く目立つ建物?」とこの建物を観ていたのだった。