<9003>…:富山駅:富山の路面電車(2023.12.26)

路面電車の所謂「一日乗車券」を入手し、「とりあえず路面電車に乗ってみよう」と富山駅の乗場を目指した。富山駅の高架が完成した後、駅の北側の富山港線と南側の路線とが「高架下」で結ばれ、乗降場が出来たということである。ここに足を運べば、各運行系統の路面電車に出会える筈と観た。

↓着いてみれば、こういう車輌が停車中だった。
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↑渋い感じなのだが、連接の低床型という車輌である。

↓これは0600形の少し後、2009年に「環状線」の運行が実現した時に登場した9000形である。
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↑富山港線に登場した0600形が「ポートラム」という愛称を冠したのに対し、9000形は街の中心を巡るイメージで「セントラム」という愛称が冠せられた。2つの型は、外観の色以外は殆ど同じ仕様であるそうだ。

この車輛は黒い車体で、何か落ち着いた感じがして好かった。路面電車は、新旧様々な車輌が行き交っている感じが凄く面白い。
posted by Charlie at 19:17Comment(0)富山県

<7020>&<7017>…:電鉄富山駅/エスタ前・富山駅 間:富山の路面電車(2023.12.26)

遠くに立山連峰を望む辺りに併用軌道が敷設されて路面電車が行き交っているという富山の風情が好く、暫しそれを見入って写真を撮っていた。

↓左側の車輌が少し面白いと思った。長く走り続けている型の車輌だが、屋根の上に「広告スペース」を設けるような感じになっている。
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↑左奥の富山駅から出て道路に出ようとしているが、右は富山駅側へ進む電車で同じ型と見受けられる車輌だ。双方ともに信号停車で、多くの人達が歩いて道路を横断中だ。

↓双方の路面電車が概ね真直ぐ向き合うような位置関係になった。
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↓信号が変わって道路を横断する人達が見えなくなった。電車は各々に動き始める。
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こういうような様子が、富山を離れた直ぐ後から既に懐かしい感じになっている。大変に気に入った眺めだ。
posted by Charlie at 19:15Comment(0)富山県

大阪天満宮…(2023.12.30)

大阪では「天満」、「天満橋」、「天神橋筋」というように、大阪天満宮に関連が在るらしい地名の場所が多く見受けられる。大阪天満宮の素材感が大きいということが伺える。他方、考えてみると大阪天満宮に立寄ってみた経過が無かった。

天神橋筋六丁目駅周辺に滞在しようと大阪に入った際、大阪天満宮を訪ねることを思い付いた。天神橋筋六丁目駅のロッカーにモノを預けて身軽になり、好天に恵まれた街を歩き始めた。

「正解」としては、天神橋筋商店街を6丁目から1丁目迄、順にゆっくり進めば大阪天満宮の傍に至った。が、何となくJR天満駅の辺りに出る等して、少し変な方向に進んでしまった。

↓何か中途半端に廻り込んで、漸く「直ぐ近くらしい…」という辺りに至った。
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↓天神橋筋商店街を延々と進めば善かったのだと気付かされた。
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↓回り道でも何でも、目指してみた大阪天満宮に辿り着いたのは善かった。表大門を望んだ。
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↓門の辺りに周辺案内図のようなモノが在って、郵便ポストが据えられていた。
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↓境内案内図が、何かイラスト的で感じが好いと思った。
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↓初詣で夥しい数の人々がやって来るということで、それへの備えが整う中、歳末の好天という中で少し賑わうような様子だった。
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↑「御賽銭を遠くから投げないで下さい」と掲示が出ている。

↓社殿が金網で護られるというような様子になっていた。
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↓無事に大阪に着いて、大阪天満宮を訪ねられたことに感謝の意を表し、辺りを一回りした。
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神社そのものは、難波宮の北西を守護するとして650年に起こっている。<大将軍社>と呼ばれた。

901(延喜元)年、大宰府へ行くことになってしまった菅原道真が、この<大将軍社>に立寄って旅の安全を祈願したと伝わる。

やがて菅原道真に関連した天神信仰が拡がって行く。949(天暦3)年には、菅原道真が立寄ったと伝わる<大将軍社>の前に7本の松が生えて霊光を放っているという奇譚が囁かれ、都にも伝わる。それを聞いた村上天皇の勅命で<天満宮>が建立された。従前の<大将軍社>は摂社ということになり、この場所は<天満宮>を中心とする社になって行く。

永くこの<天満宮>は受継がれる。火災等で建物が損なわれることも在ったが、再建が繰り返されている。1724(享保9)年の火災で損なわれて再建された建物は、1837(天保8)年の大塩平八郎の乱に伴う火災で損なわれた。そして1843(天保14)年に建物が再建されているのだが、この建物は第2次大戦時の戦禍を免れて現在に受継がれているのだという。

↓右の頁が大阪天満宮の御朱印だ。確り頂いた。
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↓表大門を潜って出ようとすれば、真上にこういうような干支で方角を示すようなモノが飾られていることに気付いた。
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↑干支が美しいのだが、「酉」は鶏というよりも鳳凰のような姿で少し面白い。

↓そしてこういう<御神酒笑姿>(おみきえびす)という像も在る。
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↓境内に蛭子遷殿を擁することに因むモノで人気が在るようだ。
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↑2007年から<天満天神えびす祭>という催しも行われているようだ。戦後長く途絶えていた催事を復興したということであるという。

今般、大阪天満宮を訪ねてみて、大阪がより身近に感じられるようになった気もする。神社は一度訪ねて御終いではない。何度でも参拝に立寄る場所でもある。またゆっくりと訪ねてみたいものだ。
posted by Charlie at 18:53Comment(0)大阪府

芭蕉像…:気比神宮:敦賀(2023.12.27)

気比神宮を訪ねて参拝し、広い境内の一部を歩き廻った。

↓こんな像が在ることに気付いた。
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↑「誰?」と思ったが、何か「江戸時代辺りの文化人?」というような雰囲気だと感じられた。

↓「芭蕉像」とのことである。俳句の松尾芭蕉である。
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↑松尾芭蕉は1702年に登場したという『おくのほそ道』の紀行で敦賀にも立寄っている。その時の句が『おくのほそ道』に在るようだが、そこから択んだ「月清し 遊行の持てる 砂の上」という句が像の台座等に刻まれている。

「月清し 遊行の持てる 砂の上」とは、歴代の遊行上人が持ち込んだと伝わる砂の上に、清らかな月光が放たれている、月光で砂が美しいというような意味であるらしい。

気比神宮は、松尾芭蕉の時代には既に「気比明神」と知られる神社であった。ここでは、嘗て遊行上人が辺りの葦を刈って、土砂持ち込んでぬかるんだ地面を整えて参道を改修したと伝えられている。そうしたことから歴代の上人が白い砂を神前に運ぶ習わしが在ったのだそうだ。そうした故事を踏まえ、秋の日の夜に気比明神を訪れて観た、月光が彩った景色の美しさを詠っている訳だ。

『おくのほそ道』の紀行は江戸から始まって、東北地方の太平洋岸寄りを北上し、仙台周辺の松島から平泉に至り、山を越えて日本海側に出て、日本海岸を南下して北陸に至っている。その中で敦賀にも立寄っている。越前国から近江国に入り、美濃国へ抜ける。美濃国の大垣から発つという辺り迄が『おくのほそ道』に綴られているのだそうだ。

↓150日間で2400㎞程を歩いたそうだ。単純に計算すると「1日に16㎞」となるが、方々で数日間滞在しながらの旅なのでそういう計算になるというだけで、毎日歩き続けた訳でもない。「Aを発ってBを目指す」と明確に決めて動く場合は40㎞弱を歩くのが江戸時代の旅立ったようである。松尾芭蕉もそうしたのであろう。
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↑『おくのほそ道』の紀行は、なかなかの大旅行で、そして松尾芭蕉もそこを歩き抜いた訳で、何やら凄いと改めて思った。

自身、福井県内の敦賀から滋賀県内を通り抜けて京都に移動しているので、松尾芭蕉が辿った経路を半ば真似たような感じになった。自身の場合は。徒歩ではなく、列車に乗っているが…

こんな銅像を介して、思いも掛けず、少し知られた先人の事績に触れられた訳である。興味深いことだ。
posted by Charlie at 18:51Comment(0)福井県

<LAWSON>…(2024.01.11)

久し振りに朝の稚内を歩き廻った。

↓道草をして一息入れることにした。
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↓現在の時点で、このチェーン店の御店としては、「日本国内で最北に在る」御店ということになるらしい…(※稚内にはそういう例は幾つも在ると思うが…)
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↓これを利用した。
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↓記憶が確かなら、レジで精算してカップを頂き、マシンを使ってカップに珈琲を注ぐというのは、このチェーンで導入されたのが早かったような気がする。最初は店員さんが珈琲を準備するような方式だったと記憶している。
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↓何時の間にか、こういうような珈琲も「コンビニと言えば…」ということで連想するモノの1つになったかもしれない。
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この手頃な珈琲を啜りながら、足元が好くない、低温の街を歩き廻った朝だった。

朝に…(2024.01.11)

↓強く息を吸い込んだ時に、何か変な感じがする。ややキツい程度の低温の際に経験することだ。案の定、氷点下7℃台の気温だった。
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↓天は明るく、風は然程強くないので、少し辺りを歩き廻ってみようと思った朝だった。
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↓やや低温な様子が続いている…
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<ニューヨーク・キューバンズ>のキャップ…(2024.01.07)

↓最近、少し着用機会が多目なキャップだ。ウール混紡の記事で、低温な時季には着用感が好い。やや温かいのだ。
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↓「N」と「Y」をデザインしたマークが在る。これは「New York」(ニューヨーク)だ。
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↑米国にはアフリカ系等の選手を中心とした「ニグロリーグ」と呼ばれるプロ野球リーグが在った。主にリーグが順調に運営されていた1920年から1948年頃のことを指し示す用語であるようだ。そうしたリーグに、キューバ移民の起業家が経営した<ニューヨーク・キューバンズ>が在った。このキャップは1944年頃のデザインを再現したモノであるそうだ。

↓一寸気に入ったデザインで着用感も好いので、大事に使いたい。
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街並み…:岩瀬:富山(2023.12.26)

↓「北陸銀行」と看板は上がっているが、何か不思議な感じがする。江戸時代や明治時代の商家のような外観だ。
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↑「北陸銀行」は富山に本店を構える地方銀行である。この建物も、奥を一寸覗けば普通に「銀行の支店」という様子だった。「北陸銀行」の前身の一つに「高岡銀行」が在り、その「高岡銀行」に収斂した幾つかの銀行の1つに「岩瀬銀行」が在る。建物の場所には、嘗てその「岩瀬銀行」が在ったようだ。

↓辺りには古くからの設えの建物が並ぶ。右は年季が入っているが、左は改築または新築の建物について、敢えて古くからの様式で設えた様子だ。
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↓製品を試飲するような機会は設けられなかったが、酒造会社も立地していた。
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↓色々な商品を販売する店舗であったが、何か古風な設えの建物だ。
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↓真前に車輌を停めている人が在って、建物の全景を取り悪かったが、「富山信用金庫」も古風な設えの建物になっていた。
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↑これでも中に入ってみれば、平日の日中は全国の信用金庫のカードで口座の資金を手数料無しで引き出せるという、普通のATMが在った。普通に利用してみた。何か、こういう建物の中でATMを利用すると少し不思議だが、内部は「普通な小規模な信用金庫の支店」という様子だった。

↓これは新聞販売店らしい。多分、普通な現代の建物なのだろうが、通に面した部分を「古い建物のような見掛けを意図して、板を貼って、戸を昔風に設えた」ということなのだと思う。
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幾つかの例を見たが、辺りでは「古くからの街並み」というものを凄く大切にしている様子が伺える。訪ねた先で、こういうような様子に触れるのも少し面白い。
posted by Charlie at 00:25Comment(0)富山県

森家…馬場家…:岩瀬:富山(2023.12.26)

富山の岩瀬は、北前船による交易で栄えた経過が在る地域だ。岩瀬は、古く「三津七湊」(さんしんしちそう)と呼ばれた各地の重要な港の1つに数えられていた。

北前船による交易は、積んで出た品物を寄港地で売り、寄港地で積んだ品物を次の寄港地で売るというような、「移動する百貨店」というような様子も在ったようだが、他方に主軸となる取引が在った。岩瀬等の北陸の船は、北陸の米を積み込んで、米を作っていなかった蝦夷地(現在の北海道等)へ持ち込んで売り、肥料として農業を支える鰊粕を仕入れるというようなことで大きな利益を上げていたそうだ。鰊粕は肥料として重要視され、北陸に戻ってから方々に高く売れたようだ。船が動く先々で、その積荷が高く売れれば、北陸から蝦夷地の往路でも、蝦夷地から北陸の復路でも取引が成立するのなら、そうした取引を運営する商人は莫大な利益を得られる訳である。

↓北前船による交易を手掛けていたという森家の店舗兼住宅の建物が岩瀬に伝わっている。
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↓有料だが中も見学可能だ。
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↓森家の関係者が着用したらしい半纏が飾られていた。
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↓伝えられている細々としたモノが展示されていた。
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↓更に馬場家が在る。こちらも有料だが中も見学可能だ。隣接していて、森家、馬場家の共通券というモノも在る。今般はその共通券を利用した。
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↓馬場家は、岩瀬で北前船の交易に携わっていた家では、最も大きな事業を手掛けていたという。
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↓馬場家の建物には大きな広間が設えられていた。
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↓蔵に往年の金庫が並べられていた様子が面白かった。
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↓重厚な設えが凄く興味深い。
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馬場家については、北前船が廃れて以降も汽船による海運業を手掛けていたという。更に、富山の近代化の中で、教育機関を興す際に大きな寄付を行った経過が伝えられ、地域の歴史を創るような大きな存在感を示した。

北前船で栄えたという地域の面影が伝わる場所を訪ねてみるというのも非常に興味深い。
posted by Charlie at 00:23Comment(0)富山県