一寸だけ戸外に出た。
↓こういう様子だった。
深々と雪が降り続けて驚く程に降り積もるというのとも違う。降雪や積雪が風に舞って、不規則に吹溜りが生じ、足元が悪い、進路を阻むという様相になる。そして視界も悪い。
今週はこういうような感じが連発である…
夕刻:大黒3丁目停留所周辺…(2024.01.24)
普段より少しだけ早めな時間帯にバスで移動しようということになり、バス停へ向かった。
歩き易い場所が殆ど無い。積雪が推し固まってガタガタになっているような車道の端を慎重に歩く他無かった。歩道は吹き溜まった雪で覆われている場合が殆どだった。朝からの「降雪+吹溜り」が日中に進行してしまっているという様相だった。
↓車道側を廻り込んでバス停辺りに至った。歩道の吹溜りが凄い。脚を踏み入れれば膝の辺り迄が雪に埋まりそうな深さの吹溜りになっていた。
↓些かの降雪、風に舞う雪という中、それでもバスは走っていた。
↓様々な交通機関が運休し、街を動き回る配達関係で「荒天により休止」の例も生じていた様子だが、それでも市内線のバスは動いていた。
やって来たバスに乗り、拙宅に近い辺りの停留所まで乗車しながら、このバスは有難いと思っていた。
歩き易い場所が殆ど無い。積雪が推し固まってガタガタになっているような車道の端を慎重に歩く他無かった。歩道は吹き溜まった雪で覆われている場合が殆どだった。朝からの「降雪+吹溜り」が日中に進行してしまっているという様相だった。
↓車道側を廻り込んでバス停辺りに至った。歩道の吹溜りが凄い。脚を踏み入れれば膝の辺り迄が雪に埋まりそうな深さの吹溜りになっていた。
↓些かの降雪、風に舞う雪という中、それでもバスは走っていた。
↓様々な交通機関が運休し、街を動き回る配達関係で「荒天により休止」の例も生じていた様子だが、それでも市内線のバスは動いていた。
やって来たバスに乗り、拙宅に近い辺りの停留所まで乗車しながら、このバスは有難いと思っていた。
朝に…(2024.01.24)
万博記念公園駅周辺…(2023.12.31)
一心寺 三千佛堂…(2024.01.01)
一心寺の境内から天王寺駅へ通じる道路へ向かおうとした。
↓通りから半ば見えるような様子に少し驚かされた。
外側で十二神将と千躰佛を並べた堂の中に弥陀三尊図を祀っているのだという。戦禍で損なわれた堂であったが、時を経て2002(平成14)年、通に面して参拝し易い形で改めて起こした堂であるということだ。
↓専用の蝋燭を求め、点火専用ライターを拝借して御参りした。専用蝋燭は慎重に見ずに浮かべるような形になっている。浮かべて点火する訳だ。愛用の、煙草を点けるライターでは火を点け悪い。
↑大阪で好い時間を過ごせていることに感謝の意を表した。
↓長い伝統を汲む古刹ということになるが、それ以上に多くの人達の信心の拠所であり、色々と文化活動が展開されているような様子が興味深い。
この一心寺、並びに三千佛堂については、大阪から引揚げて程無く「再訪を希望…」と頭の中に思い浮かぶようになった。
↓通りから半ば見えるような様子に少し驚かされた。
外側で十二神将と千躰佛を並べた堂の中に弥陀三尊図を祀っているのだという。戦禍で損なわれた堂であったが、時を経て2002(平成14)年、通に面して参拝し易い形で改めて起こした堂であるということだ。
↓専用の蝋燭を求め、点火専用ライターを拝借して御参りした。専用蝋燭は慎重に見ずに浮かべるような形になっている。浮かべて点火する訳だ。愛用の、煙草を点けるライターでは火を点け悪い。
↑大阪で好い時間を過ごせていることに感謝の意を表した。
↓長い伝統を汲む古刹ということになるが、それ以上に多くの人達の信心の拠所であり、色々と文化活動が展開されているような様子が興味深い。
この一心寺、並びに三千佛堂については、大阪から引揚げて程無く「再訪を希望…」と頭の中に思い浮かぶようになった。
一心寺…(2024.01.01)
動物園前駅の辺りに求めた宿で過ごす夕べに向け、駅のロッカーに似持ちを預けて動き廻ることとした。そして天王寺駅の界隈に至り、辺りを歩き廻った。
↓天王寺駅から、辺りの地名の由来になっているらしい四天王寺へ向かう道筋の途中、少し入った辺りに少し不思議な感じのモノが在る。
↓少し「前衛芸術?」という風ではあるが、これは寺の門に見受けられる金剛力士像である。画は“阿形”だ。
↓そしてこちらは“吽形”である。これは一心寺の門だ。
↓正月の門松が飾られていたが、一心寺は大勢の参拝者で賑わっていた。
一心寺は1185(文治元)年い法然上人が開いたと伝わる古刹である。法然上人は草庵を結んで「日想観」、夕陽を見ながら極楽浄土を観想するという「観無量寿経」に説かれる修法に勤しんだのだという。やがて草庵が一心寺になって行った。
所謂「大坂冬の陣」では、徳川家康の本陣が布かれたのはこの一心寺の辺りであったという。以降、江戸時代を通じて盛んな活動が続いた寺である。明治20年に「御骨佛」の造立を手掛け、以降は「御骨佛の寺」として広く信仰を集めた。
第2次大戦期の戦禍で、この寺の伽藍等は大きく損なわれてしまったが、戦後に再建が行われて現在に至っている。そういう中で、大胆なデザインの像を備えた門等が登場している。
↓酷く賑わう境内を歩き廻った。
↓幾つかの御堂で手を合わせた。
↓屋根の瓦の一部が、低い場所に飾られていて、少し興味深く眺めた。
↓何か凄く「有難い場所」に足を踏み入れたような気もした。
事前に知識が在ったのでもないが、法然上人が修法に励んだ草庵を起源とする古刹に出くわし、多くの人達の信心の拠所になっているという場所の初春の雰囲気の中で少し過ごすことが叶ったのは大変に幸いだった。
↓天王寺駅から、辺りの地名の由来になっているらしい四天王寺へ向かう道筋の途中、少し入った辺りに少し不思議な感じのモノが在る。
↓少し「前衛芸術?」という風ではあるが、これは寺の門に見受けられる金剛力士像である。画は“阿形”だ。
↓そしてこちらは“吽形”である。これは一心寺の門だ。
↓正月の門松が飾られていたが、一心寺は大勢の参拝者で賑わっていた。
一心寺は1185(文治元)年い法然上人が開いたと伝わる古刹である。法然上人は草庵を結んで「日想観」、夕陽を見ながら極楽浄土を観想するという「観無量寿経」に説かれる修法に勤しんだのだという。やがて草庵が一心寺になって行った。
所謂「大坂冬の陣」では、徳川家康の本陣が布かれたのはこの一心寺の辺りであったという。以降、江戸時代を通じて盛んな活動が続いた寺である。明治20年に「御骨佛」の造立を手掛け、以降は「御骨佛の寺」として広く信仰を集めた。
第2次大戦期の戦禍で、この寺の伽藍等は大きく損なわれてしまったが、戦後に再建が行われて現在に至っている。そういう中で、大胆なデザインの像を備えた門等が登場している。
↓酷く賑わう境内を歩き廻った。
↓幾つかの御堂で手を合わせた。
↓屋根の瓦の一部が、低い場所に飾られていて、少し興味深く眺めた。
↓何か凄く「有難い場所」に足を踏み入れたような気もした。
事前に知識が在ったのでもないが、法然上人が修法に励んだ草庵を起源とする古刹に出くわし、多くの人達の信心の拠所になっているという場所の初春の雰囲気の中で少し過ごすことが叶ったのは大変に幸いだった。