↓少し昔の衣装に身を包んだような男性の像だ。北海道神宮の境内の手前、大きな門の横に在る。

↑この像の人物は島義勇(しまよしたけ)(1822-1874)である。幕末期から明治初期に活躍した人物ということになる。
北海道神宮へ足を運んでこの銅像を観ようと思い立った契機は前日だった。
↓特急列車には「車内誌」と呼ばれるモノが在る。時々手にして読む。稚内・旭川間でこれを引っ張り出した。

↓中にこういう記事が在って、大変に愉しく、興味深く拝読したのだった。

↑以前から関心を寄せる史上の人物でもあり、記事で紹介されている、伝記的な情報が判る本の中には読んだ記憶が在るモノも見受けられた。
島義勇は佐賀の鍋島家中の士であった。優秀な人材で将来を嘱望され、色々な役目を務めた経過が在る。明治期に入ると「蝦夷開拓御用掛」となった。幕末期、現代風に言えば「他所の機関へ出向」というような感じで箱館奉行に従って仕事をしていた時期が在り、蝦夷地(北海道や樺太)への渡航も経験していて『入北記』という記録も著しているのだという。やがて<開拓使>が設けられると、島義勇は開拓判官という役に就くこととなり、北海道での仕事に携わるようになって行く。
<開拓使>はとりあえず箱館(現在の函館)で活動に着手したが、石狩地方の開けた場所に街を築き、そこを開拓使本府とするということになった。島義勇はその候補地に乗込むこととした。その候補地の石狩地方に入って、現在の札幌の辺りで「ここに街を築こう!」ということにしたのだ。
北海道の開拓を進めようという中、「開拓三神」(大国魂命=国土そのものの神霊、大己貴命=国造りの神、少彦名命=国造りの協力神)を祀る神社を興してから、開拓使本府を設置する街を建設するということになっていた。神祗官からその祀るべく開拓三神の御神体というモノを預かった島義勇は、それを大事に箱に入れて自ら背負い、そして箱館から「道なき道」という様子の陸路を踏み越えて札幌周辺の地域に至ったのだそうだ。
島義勇は現在の円山の辺りで、この地域であれば「五州第一の都」(「世界一の街」というような意味)が築けることであろうと観て、開拓三神を祀る神社を開いて、街を拓く仕事を本格化させようとするのである。
↓円山の辺りで「我らは“五州第一の都”を拓くのだ!開拓の神々よ!我らを見守って下され!」というような調子で神社を開いて仕事を本格化させることを宣言しているような様子の像だと思う。

島義勇が背負って運んだ御神体を据えたという神社が起こった頃には<札幌神社>と呼ばれ、長くそういうことだったのだが、1964(昭和39)年に明治天皇も加えて祀ることになった時に<北海道神宮>と改名している。この際に、島義勇の像を設置することになって、翌年に像が登場したそうだ。
島義勇は故郷の佐賀でも知られてはいる人物だが、或いは札幌での方が知名度が高いかもしれない。そんな噂も在るようだ。北海道の仕事に着手した後に東京へ召喚され、幾つかの仕事を手掛けるのだが、佐賀の士族反乱に関わることになる。当初、不平士族を宥めようと帰郷したのだが、語らう中で或る一党の領袖に担がれてしまい、島義勇は士族反乱に加わることとなる。事件の後始末に際して、刑死してしまうのだが、それが1874年4月13日であった。
島義勇の「没後150年」という日に、偶々札幌に在った。そこでこの島義勇の像を眺めに足を運んでしまったのだった。