第一副港辺りの眺め…:稚内港(2024.04.18)

↓辺りを歩き廻り、稚内港の繋留濠である第一副港の辺りに至った。
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↑滑らかな海水面が、風や波で揺らぐような感であった。

↓繋留中の船がやや少な目であった。
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↓繋留濠の縁で静かに翼を休める海鳥の様子が好い。
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↑こういう具合に休んでいる海鳥だが、歩いて近くを通り掛ると、さり気なく飛び立つという鳥も多いと思う。

↓繋留濠を眺めながら歩くというのも、少し気に入っている。
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夕べに…(2024.04.18)

↓御近所の馴染んだ御店を訪ね、夕食を愉しむことにした。
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↓御通しを摘まんで、料理の登場を待つ。
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↓手前がハイボールで、奥が水だ。同じ柄や形で、大きさが違うグラスが揃ったのが面白い。
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↓帆立が出回り始めた。串焼きで、バターを少々という、こちらの御店の流儀で美味しく頂いた。
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↓鳥皮串焼きが好い。
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↓豚串を頂いた。
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↓トンハツも好い。
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↓馴染んだ御店で寛ぐ夕べというのも好い感じで有難い。
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朝に…(2024.04.18)

前々日昼の15℃超に驚くということが在った。そこから前日朝には11℃ということになった。

↓そういう経過の中で、「何やら寒い?」という程度に思いながら動き廻った朝だった。
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↓6℃という気温で、佇む身体に当たるのが感じられる程度の冷たい風だ。
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↓何か“前進”した季節が不意に“後退”でもしたような、少し妙な気もした朝だった。
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或いは、こういう程度の気温が「時季として普通」に近いのかもしれない。が、もう少し温かい方が過ごし易いというのは正直な想いだ。

アジアゾウ…:札幌・円山動物園(2024.04.13)

↓ゾウが居た!大きな動物なので、凄い存在感だ。
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↑「アジアゾウ」と呼ばれる種類だ。インド、インドネシアのスマトラ島やボルネオ島、カンボジア、スリランカ、タイ、中国、ネパール、バングラデシュ、マレーシア、ミャンマーと広く分布し、森林で暮らす動物なのだそうだ。

↓牝の成獣と幼獣で群れを作って暮らすのだそうだ。牡の成獣は離れて暮らすという。
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↑立寄った際、円山動物園ではこの牝の成獣と幼獣の群れが公開されていた。

「動物園の動物」とでも言えば、ゾウは思い浮かび易い。円山動物園では1953(昭和28)年からゾウを飼育していた。そして2007(平成19)年に長く愛されたゾウが「推定60歳」ということで死去してしまった。以来、ゾウは長く居なかったのだが、調査研究を重ねながら準備し、2019(平成30)年に4頭のゾウを新たに迎えた。

↓ゾウ達はミャンマーからやって来た。加えて、1頭の仔象が円山動物園で生れている。小さいゾウが、他のゾウ達の傍でチョコチョコと動くような感じで可愛らしかった。
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↓ミャンマーの施設で保護されていたゾウを譲り受けており、保護対象のゾウに記す☆のマークが見える。
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↓ゾウを眺めるのも愉しい。寒い時季等に過ごす屋内展示場も在るが、この時は戸外に在った。天候に恵まれ、少し温かかったので、ゾウ達も心地好さそうに見えた。
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ゾウ達が大切に育まれ、次世代へ生命が引き継がれるという大切な活動が成功することを祈るばかりである。

円山公園駅…:地下鉄東西線:札幌(2024.04.13)

札幌で朝から地下鉄を利用した。

すすきの駅からさっぽろ駅へ移動し、嵩張るモノを札幌駅のロッカーに預けた。(※札幌では、地下鉄が「さっぽろ駅」でJRが「札幌駅」である。)

さっぽろ駅から大通駅へ移動し、乗換えて円山公園駅に至った。

地下鉄各路線が交差する街の真中に在る大通駅から西へ進んだ円山公園駅は、評価の高い住宅地の傍でもあるが、様々あ施設が立地している場所に在る。
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↑多少、驚く程度に多くの場所への「←」が記された案内が掲出されていた。

↓北海道神宮や、その先の円山動物園の側の出口を目指した。通路の床面が面白い。
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↑円山動物園へ続く出口ということで、床タイルに動物のイラストを入れている。が…パンダやイルカは円山動物園には居ない。

↓地上への出口に至った。
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↓地下鉄で着いて方々へ向かう人達のために、駅出入口周辺にも案内板が掲出されている。
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こういう感じも少し好きだ。

北海道神宮…(2024.04.13)

↓非常に大きな門が据えられた神社である。
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↓大きく太い注連縄が飾られている。
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稚内から南下する列車の車中で出くわした“車内誌”に島義勇のことが紹介されていた。「没後150年」と偶々気付いた。4月13日朝には札幌に在ることになっていたので、北海道神宮の像を観に行こうと思い立った。

↓神社を興す契機を作った人物に纏わる話題に偶々出くわし、その人物が他界した「4月13日」という日付が同じ日に、銅像が在る札幌に在る。好き偶然がもたらされたことに、加えて前日の所用が無事に足り、夕刻からも愉しく過ごせたということで、北海道神宮に参拝して感謝の意を表した。、
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↓境内の建物の、一寸した造り込みが、観て面白いと思う。
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↓時には公園散策して、その足で参拝というのも好いかもしれない。
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島義勇判官銅像…:北海道神宮(2024.04.13)

↓少し昔の衣装に身を包んだような男性の像だ。北海道神宮の境内の手前、大きな門の横に在る。
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↑この像の人物は島義勇(しまよしたけ)(1822-1874)である。幕末期から明治初期に活躍した人物ということになる。

北海道神宮へ足を運んでこの銅像を観ようと思い立った契機は前日だった。

↓特急列車には「車内誌」と呼ばれるモノが在る。時々手にして読む。稚内・旭川間でこれを引っ張り出した。
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↓中にこういう記事が在って、大変に愉しく、興味深く拝読したのだった。
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↑以前から関心を寄せる史上の人物でもあり、記事で紹介されている、伝記的な情報が判る本の中には読んだ記憶が在るモノも見受けられた。

島義勇は佐賀の鍋島家中の士であった。優秀な人材で将来を嘱望され、色々な役目を務めた経過が在る。明治期に入ると「蝦夷開拓御用掛」となった。幕末期、現代風に言えば「他所の機関へ出向」というような感じで箱館奉行に従って仕事をしていた時期が在り、蝦夷地(北海道や樺太)への渡航も経験していて『入北記』という記録も著しているのだという。やがて<開拓使>が設けられると、島義勇は開拓判官という役に就くこととなり、北海道での仕事に携わるようになって行く。

<開拓使>はとりあえず箱館(現在の函館)で活動に着手したが、石狩地方の開けた場所に街を築き、そこを開拓使本府とするということになった。島義勇はその候補地に乗込むこととした。その候補地の石狩地方に入って、現在の札幌の辺りで「ここに街を築こう!」ということにしたのだ。

北海道の開拓を進めようという中、「開拓三神」(大国魂命=国土そのものの神霊、大己貴命=国造りの神、少彦名命=国造りの協力神)を祀る神社を興してから、開拓使本府を設置する街を建設するということになっていた。神祗官からその祀るべく開拓三神の御神体というモノを預かった島義勇は、それを大事に箱に入れて自ら背負い、そして箱館から「道なき道」という様子の陸路を踏み越えて札幌周辺の地域に至ったのだそうだ。

島義勇は現在の円山の辺りで、この地域であれば「五州第一の都」(「世界一の街」というような意味)が築けることであろうと観て、開拓三神を祀る神社を開いて、街を拓く仕事を本格化させようとするのである。

↓円山の辺りで「我らは“五州第一の都”を拓くのだ!開拓の神々よ!我らを見守って下され!」というような調子で神社を開いて仕事を本格化させることを宣言しているような様子の像だと思う。
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島義勇が背負って運んだ御神体を据えたという神社が起こった頃には<札幌神社>と呼ばれ、長くそういうことだったのだが、1964(昭和39)年に明治天皇も加えて祀ることになった時に<北海道神宮>と改名している。この際に、島義勇の像を設置することになって、翌年に像が登場したそうだ。

島義勇は故郷の佐賀でも知られてはいる人物だが、或いは札幌での方が知名度が高いかもしれない。そんな噂も在るようだ。北海道の仕事に着手した後に東京へ召喚され、幾つかの仕事を手掛けるのだが、佐賀の士族反乱に関わることになる。当初、不平士族を宥めようと帰郷したのだが、語らう中で或る一党の領袖に担がれてしまい、島義勇は士族反乱に加わることとなる。事件の後始末に際して、刑死してしまうのだが、それが1874年4月13日であった。

島義勇の「没後150年」という日に、偶々札幌に在った。そこでこの島義勇の像を眺めに足を運んでしまったのだった。

旭川駅到着…(2024.04.15)

札幌での所用を済ませ、稚内へ引揚げる途次、旭川に立寄ることとしていた。自身の中では恒例化していることでもある。

↓列車の最後尾側に乗車し、そのまま到着した旭川駅で下車したが、西からの光線が強く射し込む状況だった。
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↓15時30分に札幌駅を発ち、16時55分に旭川駅に着く列車に乗った。概ね午後5時という様子である。
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↑左側が乗車していた特急列車の789系電車だ。右側の奥はキハ283系ディーゼルカーで、更に右にはH100形が見える。

実は約2ヶ月前、2月19日に同じ時間帯の列車で移動という経過が在った。2月の時には、「少し暗くなり始めている」という様子だったが、今般は「未だ

↓改札口へと通じる側へ歩を進めると、網走へ向かう特急列車が待機している。
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↓キハ283系ディーゼルカーである。3輌編成というように使用を改めて使用している。嘗ては長めな編成で釧路・札幌間で運行されていた車輌だ。
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↑この仕様のキハ283系ディーゼルカーには昨年12月に乗車した経過も在った。

↓旭川駅の東側の通路を通り抜けて戸外に出た。「午後5時過ぎ」が明るい様子になっている。
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旭川に関しては「多少勝手知った(つもりになっている)他所」という程度には馴染んでいるので、到着すると一寸“安堵感”も沸くようになっている。

札幌駅を発つ…(2024.04.15)

所用を済ませて札幌駅に到着した2月にも利用した午後3時半に出る旭川行の特急列車を待つには程好いと見受けられる時間帯だった。

所用で動き廻る間、身軽に動けるように荷物は札幌駅のロッカーに預けた。それを引き取って、旭川へ向かう特急列車を待つことにした。

<ライラック>という列車愛称の場合、原則的には6輌の列車だ。旭川へ向かう場合は1号車が先頭で、6号車が後尾となる。1号車は東改札口側、6号車は西改札口側ということになる。自由席は5号車と6号車だ。自由席を利用しようとしていた。

↓6号車が停まって出入し易い辺りで待っていた。午後3時15分を少し過ぎ、未だ20分になるかならないかであったと思うが、列車が現れる旨の注意喚起の放送が流れ、列車が姿を見せ始めた。
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↓札幌駅から西の方向に、出発前の特急列車が待機する場所が設けられている。大概はそちらの側、西寄りから列車が札幌駅へ進入して来る。
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↓この時点では列車愛称ではなく「回送」を先頭に表示している。
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↓列車は、やや減速して停車位置に進む。
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↓早速乗込んで、席を確保した。
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↓荷物は棚に上げた。今般、デニムのジャケットは荷物同様に抱えていた場面が多かったかもしれない。
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↓発車まで間が在ったので、一寸車輌を眺めてみた。
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↓乗客を迎える段になって、列車の後尾または先頭に列車愛称のマーク―今般は<ライラック>―が掲出される。こちらは列車の後尾側である。
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↓各編成に北海道内各地をイメージしたイラストが在る。この編成は「KAMIKAWA」で上川地方のイメージだ。羊の画が在る。上川地方の街、旭川から少し北側の士別が羊の飼育で知られている。
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↓発車の時刻、午後3時30分が近付く。着席して寛ぐ。
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何度となく乗車している札幌駅から旭川駅へ向かう特急列車だが、乗る都度に少し気持ちは弾む。